2.遭遇


 午後六時過ぎ。


 この時間帯になっても、夏の夜は蒸し暑い。

 会社から一歩、外へ出た瞬間にむわっとした熱気が肌にまとわりついてきた。日中は暑く感じる社内でも、こうして外へ出てみるとまだ涼しい環境だったのだと気づかされる。空調設備があることの有り難さを噛み締めるいい機会になった。

 経理にとっての八月は、一年の中でも業務が落ち着いている時期として分類される。そのため、定時に帰れる日がほとんどだ。基本的に残業を減らすまたはなくすことをモットーとしているうちの会社だが、定時に帰れない日だって存在する。だから忙しくない今の内に羽を伸ばす社員は多いようだ。

 俺はといえば、特に羽を伸ばしたいほどの理由もないので、さっさと家に帰ろうとしている所だ。酒が飲めるならまた話は違ってくるのだろうが、そこは今更どうにもならないので考えないこととする。


 あとは恋人でもいれば、もっと色々と楽しいことがあるのかもしれないが。

 その点は……、少しだけ心に引っかかった。

 が、今は無視を決め込む。よし、帰ったらこないだの休みに買った新作ゲームをさっそくプレイしてみよう。その前に、晩飯と風呂を手早く済ませて――。


 「待ってくれ。逃げないで、話を聞いてくれ」

 「つ、ついてこないで下さいっ」


 何処からともなく聞こえてきた男女の声。その女性の声の方に聞き覚えがあり、俺は反射的に顔を上げた。

 

 宇佐見さんの声にとてもよく似ていたような……。


 心の中に浮かんだ疑問符は、両目が男女の姿を捉えた瞬間に感嘆符 へと形を変えた。

 前方に、宇佐見さんがいた。すぐ傍には男性の姿がある。俺の知らない人物だ。遠目で二人の表情はよく見えないが、宇佐見さんが逃げ回るように動いていることから何か彼女にとって不都合な出来事が起こっているのだと推測出来る。


 ひょっとして、あの男性が宇佐見さんの元カレ、なのだろうか。


 「お話することなんか、何もありませんっ」

 「僕にはある。菜穂、少しでいいから話を聞いて」

 「お断りします!」


 やっぱり、そうらしい。

 と、俺が思っている内に、宇佐見さんはつきまとう男性の一瞬の隙をついて、駆け出した。停電の時にも思ったけど、本当に足が速いな。

 って、感心している場合か。

 多分だが、元カレさんも宇佐見さんの後を追うように走っていく。


 このままでは見失う。

 どうするかと、考えるより先に足が動いた。気がつけば、俺も走って二人を追いかけていた。元カレさん(多分)はあまり足が速くないようで、何度か追いついてしまいそうになった。街中で突然始まった追いかけっこの様子を、すれ違う人たちが何ごとかと振り返って見つめていた。俺だって、何が起こっているのかよく分かりません。

 だから今は何も考えずに、走るのみ。




 元カレさん(多分)と俺は、俊足の宇佐見さんを何とか見失わずに済んだ。彼女は足は速いが、持久力はあまりないらしい。

 ずいぶんもの間走り続けて、さすがに息が上がっている。俺は自動販売機の陰に隠れるように立って、呼吸を整えた。全身から汗が噴き出てくる。暑くて、喉が渇いてたまらない。

 少し離れた位置で、宇佐見さんと元カレさん(多分)も同じように肩で息をしている。今、俺たちがいるのは住宅街。こんな時間だから閑散としていて、出歩いている人もいなく静かだ。


 「ついてこないでって、言ってるじゃないですかっ」

 「そんなこと言われたって、菜穂が逃げるから……」

 小さな公園の入り口辺りに二人は立っている。昼間は子供たちの賑やかな声が聞こえるであろうその公園にも、俺たちの他には誰の姿もない。


 「……待てって。なぁ、僕たち、もう一度やり直せないかな」


 黙って再び駆け出そうとした宇佐見さんの手を、男の手がつかむ。もう逃がすまいと力強くその手を引っ張りながら、強引に話を切り出した。目の前で繰り広げられるどこぞのテレビドラマのような展開に、俺はまるで撮影隊を見かけた野次馬のように物陰からその光景を見ていた。


 「菜穂が嫌がる所は出来る限り直すから。他の女の子と付き合っても、やっぱり僕はずっと、菜穂のことが忘れられなくて」


 「嫌です。お断りします。だから手を、もう離して下さいっ!」

 身をよじったり踏ん張ったりと宇佐見さんは必死に抵抗するが、元カレさん(多分)の腕力の方が圧倒的に勝って、一向に逃れることが出来ない。彼女がもがく間にも男の方は復縁を迫る言葉をつらつらと並べ立てて、元カノの気を惹こうとしている。どんな甘言を使った所で、嫌がる宇佐見さんには何一つ届いていないと思うのだが。


 「菜穂! 僕はまだ君のことが好きなんだ。だから僕の元へ戻って来てくれ。君のその臆病な性格のことだ、どうせまだ誰のものにもなっていないんだろう?」


 「ひっ……」

 極めつけの一言に、宇佐見さんが動きを止めて小さく引きつった声を上げた。男の俺でも不快に思う台詞だ。女性の宇佐見さんにはどれだけ重く陰鬱とした響きに思えたことだろう。


 「ね? そうだ、これから一緒に夕飯を食べに行かないか。最近、美味しいお店を見つけたんだ。きっと菜穂の口にも合うと思う。ごちそうするよ」

 優しい声音といい言っていることといい、まるで小さい子に声をかける変質者のようだ。


 「い、行きませんっ! いい加減にして下さいっ」

 再び宇佐見さんが激しく抵抗をし始める。元カレさん(多分)に引っ張られて、じりじりと俺が隠れている自動販売機の方へと近づいてくる。


 街灯に照らされた宇佐見さんの目に、光るものを見つけた俺は――。


 「あの! 喧嘩は、やめた方がいいと思いますよ?!」


 矢も楯もたまらずに、二人の前へ躍り出る。突然の乱入者に驚き、二人ともが丸く見開かれた瞳を俺に向けてくる。だが元カレさん(多分)は、それでもなお宇佐見さんの腕を強くつかんだままだった。彼女の華奢な手首に、赤い痕がついてしまっている様を俺は想像する。


 「……あ、秋崎さ……っ?」

 当惑気味に呟く宇佐見さんの両目からぽろぽろと涙がこぼれ、白い頬の上を流れていく。


 宇佐見さん、助け船を出されてほっとする気持ちは分かりますが、今泣かれるとちょっと色々とややこしい展開になるのではないかと……。


 「誰だよ、あんた。菜穂の知り合い?」

 正面から見ると、男は俺や宇佐見さんよりも年上のようだった。天満さんと同じくらいだろうか。背は俺よりは低いものの、妙にスタイルがいい。おまけに顔もなかなかのイケメンである。それなりの社交性を持ち合わせていれば、たくさんの女性から声をかけられそうな人だ。

 けれど、いくら優男の仮面をかぶっていようが、俺はもうこの人のことを全くの善人だとは思えない。人は、有事の時には本性を現すものだ。

 彼の声と視線には、氷のような冷ややかさが込められていた。


 まあ、そんなもんでひるみはしませんが。


 「同じ会社に勤めている者です。駅へ向かっている途中で、宇佐見さんがあなたに絡まれている所を見かけて、心配になったのでついて来てしまいました」


 ここは下手にまわっておいた方がいいだろうと判断し、敬語で理由を説明する。と、相手は「ああ、そうなんだ」と大きくうなずいた。顔には笑みを浮かべ意外にも話が分かりそうな素振りを見せているが、よく見たら目は笑っていない。

 「でも、僕は別に彼女に絡んでいた訳じゃないんだよ。この子――菜穂は僕の元カノでね、久し振りに姿を見かけたからちょっと立ち話をしていただけなんだ。そうしたら、彼女が急に走り出すものだから」

 

 「せっかく言い繕っている所、申し訳ないんですけど、宇佐見さんのせいにしないでもらえますか。お二人のやり取りは全部、見ていました。ストーカーみたいなことした点は俺も悪いですが、嫌がる人の腕を無理やり引っ張るのは、どうかと」


 「…………」

 「とりあえず、腕を離してあげて下さい。きっと宇佐見さんも痛いと思うので」


 男に睨みつけられながら、なるべく刺激しないよう穏やかな口調で頼んでみる。 すると、相手はちらりと宇佐見さんの方を窺ってから、彼女の腕を解放した。痛みがあるのか、宇佐見さんはたった今までつかまれていた自分の腕を抱くようにして唇を噛みしめた。


 「君は、何か誤解をしているようだけれど、僕は別に彼女を痛めつけようと思った訳じゃないんだ」

 「ええ。それは分かりました。けど、無理強いは良くないのでは?」


 「っ、ああ! 無理やり引っ張ったりして悪かったよ! それは認めるさ。でも、それは君には関係のないことだろう」

 敵意の滲む視線が俺に向けられる。俺は黙ってその目を見つめ返す。傍から見ればまさに一触即発という光景に思えるだろうが、相手の方はともかくこちらは至って冷静だ。暴力で解決する気など、端からない。

 

 男との睨み合いは三十秒ほど続いた。その間、俺は頭の中で色々と策を巡らす。

 話し合いで解決するのが一番いいに決まっているが、万が一にでも彼が手を出してきた場合どうするか。大方、全ての攻撃をかわすか受け流すかして、相手の隙をついて宇佐見さんを連れて逃げるしか方法はないだろう。先ほど見た限りでは、俺と宇佐見さんの方が足は速そうだし逃げ切れるはず。


 「ただの会社の同僚なくせに、プライベートにまで口をはさむ義理はないはずだろう?」


 「それは……」

 痛い所をつかれた。

 が、誰だってあんな犯罪一歩手前な光景を見かけたら口をはさみたくもなるんじゃないだろうか。お巡りさんが通りかかったら真っ先に声をかけられるレベルだったぞ。


 そんな感じの反論を口にしようとした時。


 「違います……!」

 珍しく、宇佐見さんがきっぱりとした口調で言った。

 彼女が口を出すことを予期していなかったのか、男が驚いたように宇佐見さんを見下ろす。いや、驚いたのは俺も同じだったが、こちらは大して態度には出なかっただろう。


 「なっ……。違うって、何が、だよ?」


 「この人は――秋崎さんは、ただの会社の同僚ではありません! いいい今、私と……お付き合いしている人ですっ!」


 「……はっ!?」と、声を上げたのは元カレさんではなく俺の方だった。今度は思い切り態度に出てしまったが、それを後悔する余裕も今はない。


 突然、何を言い出すんですか宇佐見さん!

 あれですか、新手の告白方法ですか? っていうか宇佐見さん、俺のこと好きだったんですか?!


 と、混乱したのも一瞬のこと。

 すぐに、これは宇佐見さんの作戦なのだと気がついた。確かに、彼氏ならば彼女が自分の知らない男に絡まれている場面に出くわしたら、迷わず口を出すだろう。好きな人を守りたいと思うのは、男として当然のことだ。その点だけは、今の俺にも充分当てはまる。


 ここは宇佐見さんの一言に便乗させてもらおう。俺よ、今だけ演者になれ。


 「じ、実はそうなんです。元カレさんの前ではちょっと言いにくかったので慎みましたが、俺たち付き合ってるんです」

 駄目だ。演技だと、ただ台本を読んでいるだけなのだと分かっていても、どうしてもニヤついてしまいそうになる。俺は役者には向いていないと、今はっきりと自覚した。

 元カレさんにはバレバレかもしれないと思い、ちらりと顔色を窺う。


 彼は目を丸くし、明らかに驚いていた。どうやら俺たちの言葉を信じたらしい。これなら最後まで貫き通せるかもしれない。


 「……そんな話、聞いていない。だって、あの人はそんなこと……」


 途中で言葉を切り、はっとした表情をする。何か言ってはまずいことをうっかり言ってしまったような、そんな反応だ。


 「あの人、というのは……?」

 「母のこと、ですよね?」

 宇佐見さんが、いつものためらいがちな声で元カレさんに確認する。相手が黙り込んだ所を見ると、彼女の問いは的を射ていたようだ。


 「……この間、街でばったり会ってね。もう菜穂とは付き合っていないのに未だに親し気に話しかけてきてくれたのが嬉しくて、色々と立ち話をしたんだよ。それで、何気なく菜穂の今の勤め先を聞いてみたら、あっさりと教えてくれたものだから……」


 宇佐見さんが大きく息を吐き出す。母親の軽率な行動に呆れているのか、それとも諦めから出たものなのか。彼女の母親は、娘と違って積極的で人懐こい女性のようだと短い会話からでも察することが出来た。


 「それで、宇佐見さんと話がしたくて会社の近くで待っていた、ということですか?」

 「ああ。まあ……話がしたかったというか、純粋に菜穂に会いたくなったというか。どっちなのかは自分でもよく分からない。でも、菜穂の顔を見たらなんだか無性に懐かしくなって。ふと、あの頃みたいに戻れるんじゃないかって思ってしまって」


 元カレさんは、細められた瞳を宇佐見さんへ向けた。彼女から目をそらされると、少し悲しそうに眉尻を下げる。


 「気がつくと、嫌がる菜穂に必死ですがりついてしまっていた。困らせるだけだと分かっていたのに。……悪かったよ、菜穂」

 ぶんぶんと、宇佐見さんが首を横に振る。いつの間にか、涙は止まったようだった。彼女に泣かれると落ち着かない俺はほっとする。どうやら暴力沙汰にはならずことは丸く収まりそうだしな。


 「実は、僕にも愛しい女性ひとがいるんだ。けれど最近、ちょっと上手くいっていなくてね。昨日も喧嘩したまま別れてしまって……、だから尚更すがってしまったというか。僕もやけになっていたのかもしれない」


 「あなたが悪かったと思っているなら、謝ればいいじゃないですか」


 おっと。関係ないことだというのに、つい口に出してしまった。

 男の目が再び俺に向けられるが、そこにはもう冷ややかな光はたたえられていなかった。それをいいことに、口が勝手に動き出す。


 「事情も知らない俺が言うのもなんですが、喧嘩って片方が勇気を出して謝れば大抵は相手も理解を示してくれるものだと思うんです。あなたはその彼女さんのことを本気で好きで、まだ愛しているんでしょう? なら、すぐにでも会いに行って謝るべきです。本気で謝罪したいなら、文章じゃなくて相手と直接向かい合った方が気持ちが伝わると思います」


 おせっかいな言葉を並べ立てている最中、心配そうに俺を見上げている宇佐見さんに気がつく。


 何処か自信なさげな所は、初めて会った時から変わりませんね。あなたは。

 でも、そういう所もひっくるめて、俺は宇佐見さんが好きだ。


 宇佐見さんを安心させたくて、一瞬だけ表情を緩ませてから言葉を継ぐ。


 「一生懸命に謝れば、彼女さんもきっと許してくれますよ。今、宇佐見さんがあなたのことを許したみたいに。ですよね?」

 「へっ……? あ、はいっ。私はもう、怒っていませ……ん? いえ、違いますね。私は怒ってた訳じゃなくって、困っていた……というか、怖がっていたというか……?」


 急に話を振られるとは予期していなかったのか、宇佐見さんが一人で混乱し始める。こんな時に不謹慎だが、俺はこらえきれずに笑ってしまった。ついさっきまでは緊迫した様子だったのに、もういつもの宇佐見さんだ。いつも通り過ぎるからこそ、見ているこっちは力が抜ける。いい意味で、だけど。


 「……はは。菜穂は相変わらずだな。変わっていなくてなんだか安心した」


 元カレさんも俺と同じようなことを思ったらしく、苦笑いを浮かべている。この人も、きっと根は穏やかな人なのだろう。今は少し、恋人と喧嘩して寂しかっただけで。


 「本当に、さっきはすまなかった、菜穂。やり直したいって言ったことは、……僕が頼むまでもなく忘れてくれるよな。君にももう、大切な人がいるようだし」


 「は、はいっ」


 うなずいた宇佐見さんの顔が赤く火照って見えたのは、周りの明かりの仕業か何かだろうか。


 「それから君—―そういえば、お互いに名乗っていなかったな」

 さっきまで険悪なムードが漂っていたんだから、無理もない。初対面で口論になった相手へわざわざ名乗る奴なんていない。


 「僕は波多野という。君の助言は有り難く頂くよ。さっそく今から彼女へ謝りに行こうと思う」

 俺が自分の名字を伝えると、波多野と名乗るその人は整った顔に優し気な笑みを浮かべてそう言った。笑うとさらにイケメンさが際立って、少し腹の立つくらいだ。日本人にしては高く通った鼻筋が、うらやましい。


 「ええ、それがいいかと。仲直り、出来るといいですね」

 「どうかな。とにかく、誠心誠意、頭を下げるよ」

 そろそろ行くよ、と呟き波多野さんはもう一度、宇佐見さんに向き直った。


 「菜穂。幸せにな」

 宇佐見さんの返答を待たずに、波多野さんは去って行く。その背中が路地の向こうへ見えなくなるまで、俺と宇佐見さんは何も言わずそこに突っ立っていた。

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