ここから始まる、八月。
1.元カレ
三日。月曜日。昼。
ポチャリ、と水面に小石を投げ込んだような音が手元から聞こえた。俺が持っている箸の先から、ラーメンの麺がスープへと落下した音だ。
「……今、何て言った?」
スープがシャツに飛び散っていないか確認するより先に、俺は問いかけていた。
「二度も同じこと言わせないで下さいよ、面倒くさいなぁ。だから俺、宇佐見さんを狙うのはやめたって、そう言ったんですよ」
得田は言葉通り、面倒くさそうに返答した。言い終わるや否や、箸でご飯をつまみ口に運ぶ。ちなみに今日の得田の昼飯は、珍しく弁当である。二番目の妹さんの手作りだそうだ。
「なんでだよ。お前、あんなにしつこく宇佐見さんにつきまとってたのに」
「人をストーカーみたいに言わないでもらえます? ……だって、いくら気をひこうとしても全く効果がないんですよ。色々と試行錯誤しているにもかかわらず、未だろくに目も合わせてもらえないし」
「気をひくっていうか……、お前のはただの〝かまってアピール〟だった気がするがな。その辺の、人懐っこい犬やら猫やらと同じ程度の」
「……前から思ってたんですけど、先輩って絶対、俺のこと嫌いでしょう?」
「は? お前のことなんて、何とも思ってねぇけど。じゃあ聞くが、逆に俺がお前を好いていたらどうなんだよ」
「え、めちゃくちゃ引きます。今食べたものをここで全部吐き出せるくらいに」
汚い話を食事中にするな。何気なくたずねたことを、俺は後悔する。
話が逸れたが、得田が宇佐見さんのことを諦めるという内容自体は、意外なものだった。約二か月にもわたってあんなにしつこくアピールしていたというのに、意外とあっさり手を引くもんだな。
いっそのこと、想いを伝えて見事に玉砕してから……という方法もあるが、こいつの場合は宇佐見さんのことを本気で好きだった訳ではないのだろう。単に外見に好感を抱いて、あわよくば付き合えるかもしれないといういわゆるワンチャンを想定して行動していただけなのだ。それでよく二か月近くも一人の女性につきまとっていられたもんだ。きっと得田にはストーカーの素質がある。警備員さん、ここにストーカーの卵がいます。用心して下さい。
「まあ、宇佐見さんを攻略するにはハードルが高そうですし。早めに諦めといた方がいいかなって」
「お前さ、一人の女性を口説き落とすことを新作ゲームをクリアするみたいに言うのやめた方がいいぞ」
「今や一般的な表現だと思いますけどねー。つか、先輩ってちょっと古臭くて時代について行けてないとこ、ありますよね」
「生憎、流行にはのらない主義なんでな」
若いかそうでないかで言えば、俺だって充分に若者の域に入ると思うのだが、ファッションや食生活へむやみやたらに流行を取り入れたいとはどうしても思えない。全く興味を持てないという訳でもないのだが、自分の意識や行動を変えてまで流行というやつにのりたいとは思わない。こういう所が、得田には古臭く見えるのだろう。
別に、得田にどう思われようが知ったことではない。
だが、宇佐見さんにはどう思われているのか、それはちょっと気になる。いや、正しくはちょっと所ではない、かなり気になる。
宇佐見さんのアドレスを電話帳へ登録してから、三週間が経過した。が、やはりあれから進展と呼べるほどの出来事は特に起きていない。彼女とメールのやり取りをしたのも、あの一度きりだ。俺としては文面でもいいからもっと宇佐見さんと会話をしたいのだが、用もないのに自分からメールを送る気にはなれなかった。そんなやり取りは、恋人同士がするものだ。友人と呼べるほどの関係へも至っていない俺たちが行うにはハード過ぎる行為だろう。
〝俺たち〟とは言ったが、今の時点では完全に俺の片想いだ。多分、宇佐見さんからは〝ただ同じ会社に勤めている人〟としか認識されていないのだろう。改めてそう考えると、ちょっと悲しくなってきた。
ちなみに、俺が酔って寝てしまい宇佐見さんのお母さんに車で送ってもらうという醜態をさらした先月の十日。その後日談としては、月曜日の朝にちゃんと菓子折りを持って家を出、先に出社していた宇佐見さんに謝った。彼女のお母さんにも直接謝りたいくらいだったが、宇佐見さんに謝った時点でめちゃくちゃ気を遣わせてしまったので、とりあえず菓子折りを渡して「お母さんにも、よろしくお伝え下さい」と言うだけに留めておいた。菓子を差し出した時の宇佐見さんは戸惑っていたけれど、ちゃんと受け取ってもらえて安心した。
『……あの。俺、申し訳なくなるくらい自分でもよく覚えてないんですけど、車の中で騒いだりおかしなことを言ったりしてませんでしたか……?』
『い、いえ、特には……。とても静かに眠っていらしたかと……』
あ、でも。と、宇佐見さんは口元へ握り拳を当てながら思い出したように呟く。それから、微かに笑みを過らせて続けた。
『時々、何か寝言をおっしゃってて……、その様子がなんだかとても、面白かった……というか、可愛かった……というか』
当時の宇佐見さんとのやり取りを思い出し、俺はため息をついた。
酔って寝ている人間が寝言を呟いているのを見て、面白いと思うのはまだ理解出来る。寝言を言っているのが男だろうが女だろうが構わず、滑稽に見えることもあるだろう。
が、可愛いとは一体どういうことか。
そう思った相手が女性ならばまだ分かる。同じ女性から見ても可愛らしいと感じる女性はいるはずだ。けれど今回の場合は違う。宇佐見さんが可愛いと感じた相手は男性であり、俺なのだから。俺の何処に可愛らしい要素があるというのだろう。目つきは鋭いわ、無駄に体格がいいわ――もちろん、自画自賛している訳ではないが――、ちょっと顔をしかめただけで周りから怖がられることもあるというのに。こんな俺に、一般的に考えられる可愛らしさなど皆無ではないのか。
なんか、酔った一件で少しだけ親密度が上がったと思ったら、すぐにそうではないと気づかされたような。
俺はますます、宇佐見さんという女性のことが分からなくなった。
「という訳で先輩、俺というライバルもいなくなったことだし、これで晴れて宇佐見さんに接近出来ますよね。いっそのこと、すぐにでも告っちゃえば?」
「そんなに焦る必要もないだろ。今お前が言った通り、他にライバルもいないんだし」
「……いや、そうなんですけどねぇ……」
含みのある言い方だ。何かあると踏んだ俺は、黙って真正面から睨みつけることで得田の口を割らせた。この目つきの悪さも、たまには役立ててやらないとな。
「宇佐見さんのことが気になっている男は先輩しかいないと思うんですけど、宇佐見さんの方はどうなんでしょうかね」
「宇佐見さんの方、って……」
「俺の勘違いかもしれませんけど、最近の宇佐見さん、どうも気になってる人がいそうなんですよね」
珍しく神妙な面持ちで発せられた得田の言葉に、俺は目を丸くする。
そんなの俺は知らないぞ。これまで周りに気づかれないようこっそり宇佐見さんの観察を続けてきたが、そんな、好きな人がいそうな素振りなんて今まで一度も見たことがない。
いや、それとも単に俺が見落としただけなのか。人間観察を趣味としているのは確かだが、別にちゃんとした人類学や心理学を学んだ訳ではない。それにいくら観察力があっても、四六時中、宇佐見さんのことばかりを眺めている訳でもない。本音を言えば、いくらでも眺めていられる自信はあるのだが、それを本人に言ったらドン引かれること間違いなしなので、口が裂けても言えまい。
俺が見落としたにしても、疑問点は残る。
何故、得田はそのことに気づけたのか。こいつはお世辞にも他人を観察する能力が高いとは言えない。というか、基本的に空気の読めない行動ばかりしているので、ほぼ皆無と言い切ってしまってもいいだろう。そんな得田でも気づけたことに、俺が気づけなかったとはどうしても思えない。
「ていうのは、眞鍋さんから聞いた話から推測したことなんですけど」
「眞鍋さん?」
これはまた、意外な名前が出てきたものだ。
「ほら、宇佐見さんって毎日のように眞鍋さんと昼飯一緒に食べてるじゃないですか。だから俺、何か宇佐見さんの話が聞けるかもって思って時々、眞鍋さんと交流するようにしてたんですよ」
「お前、そんなことまでしてたのか……」
全く知らなかった。得田は一応、恋のライバルなのだからそれなりに警戒していたつもりだったのだが……。相手が得田だったから、心の何処かで気を抜いていたのかもしれない。
「でも最近では眞鍋さんと普通に仲良くなって、社内で見かけた時には決まって立ち話してますよ。で、一週間くらい前かな? その時の会話の中で、ちろっと宇佐見さんの話が出て。なんか、元カレがどうとか」
塩ラーメンをすすりながら話を聞いていた俺は、〝元カレ〟という単語が出た途端、盛大にむせた。み、水。
待機させておいたコップの水を一気に飲み干すと、得田が「大丈夫ですかぁ?」と笑いながら聞いてくる。本気で心配していないことは、一目瞭然である。
「けほっ。……平気だ、続けろ」
「眞鍋さんによると、宇佐見さんの元カレの話は最近よく耳にするようになってきたみたいで。まあ、内容はほとんど中身のないようなものらしいんですけど、元カレの話をする時の宇佐見さんの表情がなんか……こう、とにかくいつもより暗くなるんですって。だから、もしかしたらまだその元カレに未練があるんじゃないかって、俺と眞鍋さんは見てるんですけど」
「未練、ねぇ……」
当然、宇佐見さんの元カレについて聞くのは、これが初めてだった。
そりゃあ普段、彼女とは会話らしい会話も交わす機会が少ないのだから。私生活や過去など、踏み込んだ話なんて何一つ知らない。俺が宇佐見さんについて知っている事柄は、課の俺以外の社員でも知っているものばかりだ。
すなわち、俺しか知らないことなんて、何もない。
宇佐見さんへの想いに気がついてから一か月近くにもなるというのに、未だに俺は、彼女のことを深く理解出来ていないままだ。手元にあるのは、彼女の態度や仕草を観察して得たわずかな情報だけ。
知りたいという気持ちは、確かにあるはずなのに。まだ心の何処かで尻込みしている自分がいる。
もし仮に、宇佐見さんへ想いを伝えられたとして、そしてそれが万が一実ったとして、その後はどうなるのだろう。相手のことを知りたいような、知りたくないような。こんな中途半端な気持ちを抱えたまま、俺はどんな顔をして宇佐見さんと向き合えばいいのか。
いや、もし得田の言うように宇佐見さんが元カレにまだ未練があるとしたら、俺にはきっとつけ入る隙なんてないのだろう。
名前も知らないその彼は、俺よりも宇佐見さんのことをよく知っているはずだ。好きな本とか、苦手な食べ物とか、そんなありふれた情報もたくさん持っているのだろう。俺が見たことのない宇佐見さんの表情も、その誰かさんはいくつも目にしたことがあって、そして、その一つ一つを魅力的だと思ったに違いない。自分が好きになった人なのだから、当たり前だ。
「先輩? おーい。ラーメン、もう伸び切っちゃってますよー?」
「……もういいや。なんか急に食欲なくなってきた」
「食いもん残すなんて、ばちあたりな」
「だったらお前が全部食ってくれんのか?」
「他人の残飯を食うのは、衛生的にちょっと……。まあ、可愛い女の子が残したものなら、考えますけど」
「……得田。俺はお前のことが今、ものすごくうらやましい」
力なくテーブルに両手をついて、俺は立ち上がる。「は?」という声を漏らして、得田が俺を怪訝そうに見上げている気配がする。こいつの阿呆な所も、考えようによっては長所にだってなるのだろう。
「そんな風に純粋に夢を見ていられることに、もっと感謝しながら生きろ」
「夢……? って、はぁ? 意味分かんねぇ」
そのまま、食器が載ったトレイを持って席を立つ。背後から不満そうに俺を呼ぶ得田の声が聞こえていたが、もうかまってやる気にもなれなかった。
食堂を出て、真正面に位置する売店の前で立ち止まる。用もないはずなのに。
まだ梅雨入り前だった六月のある日。眞鍋さんと宇佐見さんがここで楽しげに商品を見ていた光景を思い出した。宇佐見さんに何の感情も抱いていなかったあの日の俺は、それでも、彼女に初めて名字を読んでもらえた時は、何故か嬉しくなって。
自覚はなかったけれど、もしかしたらあの時既に、俺は宇佐見さんに心惹かれていたのかもしれないな。
だから何なんだって話だが。
「あの時もらった菓子も、すっかり見かけなくなったな」
流行りはいつか、廃れる。時代は移ろいゆく。
そして、夢はいつか覚めるものだ。最初から、そう決まっている。
いつまでも夢ばかりを見てもいられない。
きっとこの片想いも、そう遠くない未来に跡形もなくなるのだろう。
「何やってんだろ、俺」
深々とため息をついて、階段へ向かって歩き出す。
不確かじゃない情報にさえ、こんなに動揺させられるなんて。
宇佐見さん。あなたのせいですよ。
……なんて、理不尽極まりないことを俺は心の中で呟いた。
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