2.5―Side U.― その2


 約五分後。


 「秋崎くん、大丈夫?」

 「……んー」

 「何寝てんすか、先輩。せっかく課長のおごりなんだから、たくさん飲み食いしないと損でしょうが」

 「ええ……。得田くん……、どんだけ俺に散財させる気なのさ……」


 テーブルに突っ伏して居眠りを始めてしまった秋崎さんへ、皆さんが口々に声をかける。得田さんに至っては、しつこいくらいに体を揺さぶっている。可哀想なので、そんなに揺さぶらないであげて欲しい。


 そこまでされても、秋崎さんが身を起こす気配はない。

 やっぱり、体調が悪いのかな。それとも、ただ単に眠たいだけ……?


 「つか、飲みに来て眠くなるってどういうことですか。酔っぱらってる訳でもあるまいし……」

 「金曜日だから、疲れが溜まってたのかな?」


 「……あっ」

 呆れる得田さんと、気遣う佐々川さん。

 二人に続いて小さく声を上げたのは、天満さんだった。手にはグラスを持っている。彼には珍しく、表情が険しい。

 「もしかしてと思ったけど……これ、秋崎くんが飲んでたの、普通のウーロン茶じゃないみたい。お酒入りだよ」

 「え? だって、先輩が頼んだのは普通のウーロン茶で、……あ」


 得田さんが小さく呟いた「あ」が、とても不穏なものに聞こえた。私は、なんだか嫌な予感がして。


 「飲みもの配る時、先輩と宇佐見さんのを間違えたのかも……」


 「注文した時から間違えてたっていう可能性もあるかもよ。――大介くん、ちょっといい?」

 佐々川さんが小上がり席から身を乗り出して、カウンターの方へ声をかける。返答する声に次いですぐに男性の店員さんが来てくれた。


 「あのさ、さっき俺らが頼んだ飲みものなんだけど、もしかしたら間違えて頼んだかもしれなくて……。ちょっと、伝票を確認してもらえる?」

 「ああ、はい、いいっすよ」

 佐々川さんとは顔馴染みらしい店員さんは快く了承してくれて、一旦、場から離れた。程なくして、手に小さな紙きれを持って戻って来た。

 

 「飲みもの、でしたっけ? ええっと……、ハイボール二つにマンゴーサワーと生ビール、あとウーロン茶とウーロンハイで承ってますけど、……なんか間違ってました?」

 「ああぁ……、やっぱり俺が配る時に間違ったんだ……」


 得田さんが絶望的な声を上げる。けれど、一緒に飲みものを配った私にも非はある訳で。


 やってしまった、という思いから、急激に喉が渇いてきた。


 ウーロンハイもとい、ウーロン茶を一口飲みたい気分になって、ふと自分のグラスに目をやる。次に、秋崎さんが使っているグラスを見る。


 心の中に、素朴な疑問が浮かんできて、私は恐る恐る口を開いた。


 「あの……。ウーロン茶とウーロンハイって、同じグラス……なんですね」

 「……あれっ、そういえば、同じっすね」


 「……、あ」

 今度は店員さんが不穏な呟きを漏らした。机上にある二つのグラスを見比べていた顔が、みるみる内に焦りの色を濃くしていく。それは誰の目にも明らかな変わり様で。


 「大介くん……」

 「あー……、いやぁ、そのー」


 「何? うちの人、また何かやりました?」

 私たちの様子がおかしいことに気がついたのか、佐々川さんから〝大介くん〟と呼ばれている店員さんの奥さんらしき女の人がやって来た。「また」という部分がちょっと気になったけど、急な奥さんの登場にバツが悪そうに目を背ける店員さんの反応の方がよほど気になる。


 「あ。アンタまたウーロン茶とウーロンハイを同じグラスに入れたでしょ! 一方はお茶でもう一方はお酒なんだから、ちゃんと別々のグラスに入れなきゃ分かんなくなるって前にも言ったのに!」

 「いや、だって、注文が被ることなんてめったにねぇじゃん。今回はたまたま……」

 「え? もしかして、飲みもの間違って渡っちゃいました? やだ、私もてっきり両方お茶だと思って……、ごめんなさい!」


 深々と頭を下げて謝罪した後、女性は隣りに立つ旦那さんを一睨みし「アンタも謝りなさいよ」と肘でつついた。申し訳なさそうに目を伏せ、旦那さんも「すんませんでした」と頭を下げる。店の者が二人も謝罪に当たっている光景に、他のお客さんたちの多くがこちらを注目し始めた。


 「二人とも、もう大丈夫だから頭を上げてよ。ほらほら、お客さんの注文は絶えないんだから、持ち場に戻って」


 佐々川さんが苦笑しながら二人へ声をかける。周りの目が気になるからそうしたんだろうけど、声には二人への気遣いのようなものも感じられた。まだ申し訳なさそうに二・三度頭を下げながら、店員さんたちはカウンターへ戻って行った。


 「――で、秋崎くんは、酔っぱらって寝ちゃったと……」


 ぐったりと机に突っ伏している秋崎さんを一瞥して、佐々川さんが嘆息する。


 秋崎さんのグラスは、ほとんど空に近いまでに中身が減っていた。でも、ウーロンハイ一杯でこんなに酔っぱらっちゃうなんて……。


 「先輩、酒には超がつくほど弱いですからねー。そういう点でも、面白みのない男ってことですよ」

 「そうかな。僕はむしろ、面白いと思ったけど。ほら昔、秋崎くんが成人してお酒飲めるようになってから宮路さんに〝成人祝いだ〟って言われて飲みに連れて行ってもらったでしょ。僕はあの時の光景が未だに忘れられないよ」

 「あー! あれはちょっと、見物でしたよね。先輩ったら、お姉さんと、当時付き合ってた彼女さんへの愚痴を途方もなく話し続けて。めちゃくちゃ愚痴ってましたよね、まるで人が変わったみたいに」

 「あれには皆びっくりしたよね。そしてそれ以来、秋崎くんにはお酒を勧めないようにしたんだよね。本人も自分から飲もうとしないから、二度とああいうことはないかなって安心してたんだけど……」

 

 私を含めた一同の視線が、秋崎さんに向く。こんなに注目されても、全く起きる気配が感じられない。


 「まあ……、寝ちゃっただけで害はないからいいんだけど……」

 「起こした所で電車に乗って帰れるか、ですけどね。得田くん、確か秋崎くんと同じ最寄り駅だったよね」

 「……え、嫌ですよ! 家まで送っていくなんて! 女の子ならともかく、先輩なんかを送り届けるなんてっ」


 「心が狭いなぁ。そんなんだから、君はいつまでも女の子にモテないんじゃないの?」

 にっこりと微笑んで、天満さんが言う。表情に気を取られてしまったけれど、今、なかなかに厳しいことを言っていたような……。


 視界の隅に、両手で顔を覆っている得田さんの姿がちらりと映った。


 「そうなると、かなりお金はかかっちゃうけどタクシーで帰らせるしかないか……」


 唸りながら思案する佐々川さん。秋崎さんのお家がどの辺りにあるのかは知らないけれど、佐々川さんの口振りからここからは遠く離れているのだと察しがついた。

 自分から望んで酔った訳でもないのに。なんだか秋崎さんが可哀想だ。


 何か他に方法はないのかな。


 考えて、考えて、私の頭に浮かんだのは、先ほどの母からのメールだった。


 「あ、あのっ。私、帰りは母に車で迎えに来てもらうんですけど……、その時に、秋崎さんも一緒に乗って行って家まで送る……っていうのは、どうでしょう、か……」


 それなら秋崎さんが無駄遣いをすることもない。ドライブ好きな母ならば、どんな遠距離だって許してくれると思うし。


 「でも、秋崎くん結構遠いよ? ガソリンだってタダじゃないんだし、お母さんの了承も取らないと」

 「じゃ、じゃあ今、電話をして聞いてみます。えっと、お手洗いは何処に……」

 スマホを持って立ち上がると、佐々川さんも腰を上げてお手洗いの場所を教えてくれた。転職先の皆さんは、本当に親切な方たちばかりで助かる。


 私以外には誰もいない静かなお手洗いの中で、母に電話をかける。三回目の呼び出し音で出てくれた。丁度、晩ご飯を食べ終わった所だという。事情を説明して確認を取ると、母は快く了承してくれた。そして、洗い物は妹に任せてすぐに迎えに行くからと告げると、一方的に電話は切られた。

 妙に楽しげな声だったけど、大丈夫かな……。


 席へ戻って、母からOKが出たことを皆さんに伝えた。

 そういえば、秋崎さんの家の住所までは聞いていなかったなと思う。聞いてもいいことなのかと躊躇いを覚えたけれど、得田さんがため息混じりに秋崎さんの家の住所や連絡先が記されたデータを私のスマホへ送ってくれた。仕方なさそうなのに、それでいて何故か嬉しそうな得田さんの様子が気になった。


 それから四十分くらいが経って、再び私のスマホがメールを受信した。『近くまで来たよ』という母からの文面を見て、皆さんに声をかける。


 「近くって、どの辺りまで来られたんだろう? この辺のみち入り組んでるからなぁ」

 「ええっと……、『大きな通りにある生命保険会社の前にいる』って、書いてあります」

 「ああ。そこなら割と近いね。店を左に出て、突き当りを右に行くでしょ、そのまま少し歩いたら大通りに出るから。保険会社の建物なら、ここから行ったら右手にあると思うよ。大きな看板を掲げてるから、すぐに分かると思う」


 左へ行って右……、と佐々川さんの言葉を反復する。複雑でもないから迷うこともなさそうだけど、どうしても不安がつきまとう。


 「宇佐見ちゃん、そんなに心配しなくても大丈夫だよ。道のりは覚えたから、僕も一緒に行ってあげる」

 私の不安が伝わってしまったのか、天満さんが気遣うように声をかけてくれた。

 「で、でも……」

 「こんな状態じゃ、秋崎くん絶対に千鳥足になっちゃうだろうから。万が一彼が転びそうになった時、宇佐見ちゃんに支え切れるとは思えないし。というか、女の子に酔っぱらいを担がせるのはその……、危ないでしょ?」


 「天満さんっ! 先輩をどうぞ、よろしくお願いしますっ! 宇佐見さんには指一本、触れさせないで下さい」

 「分かった分かった。――秋崎くーん、悪いけどそろそろ起きてもらうよ」


 天満さんが呼びかけながら根気強く揺さぶると、眠そうに唸りながら秋崎さんがゆっくり身を起こした。やっぱり少し顔が赤い。さっき私が見たのは気のせいじゃなくて、お酒が身体にまわってきていたからだったのだろう。


 「あれ……、俺、寝ちゃってました……? 今、何時すか?」

 「まだ八時半だよ。でも君はもう帰って寝た方がいい。宇佐見さんのお母さんが車で送ってくれるって言うから、とりあえず車の所まで行こうか。秋崎くん、立てそう?」


 「……宇佐見さん……??」


 天満さんが説明するけれど、秋崎さんはいまいち状況が呑み込めていないようだ。寝ぼけた声で名字を呼ばれて、私は反射的に返事をしてしまいそうになる。


 秋崎さんは、少しふらふらしながらもなんとか立ち上がった。


 「天満さん、俺が言うのもなんかすっげぇ癪なんですけど、先輩のことよろしくお願いします」

 「人にものを頼んでいるっていうのに、ずいぶんとした仏頂面だね」

 「だって! 先輩はともかく、宇佐見さんまで帰っちゃうんでしょう?! まだ一軒目なのに!」


 「え、二軒目も俺におごらせる気なの……?」

 「……図々しい」

 ぼそっと、沖さんが呟いた。誰も反応しないってことは、私にしか聞こえていなかったみたい。


 「二軒目行くなら僕も付き合うよ。ただし、その際は割り勘でね。――さて、あまり宇佐見ちゃんのお母さんを待たせるといけないし、行こうか」


 「は、はいっ」


 秋崎さんを引きずってでも店を出て行きそうな天満さんを、私はあわてて追いかけた。




 「……天満さん、俺は何処に向かって歩いてるんですか……」

 「だから、宇佐見ちゃんの車が停まってるとこだって」


 半分寝ている秋崎さんに肩を貸しながら歩く天満さん。二人の半歩後ろを、私は遅れないようについて行く。背丈が高くて足も長い天満さんは、歩くのが早い。足の短い私はついて行くのがやっとだ。


 夜風は、昼間のものよりも涼しくて心地が良かった。何気なく空を見上げると、よく晴れていて星が出ていた。周りのお店や民家の明かりで周りが充分見渡せるほど、通りは明るい。もっと街灯も何もない場所で空を見上げたら、きっと綺麗な星空が拝めるだろう。


 「なんか、ごめんね」


 佐々川さんが教えてくれた通りに、私たちは突き当りを右へ曲がる。

 飲み屋街からは離れて民家の密集している道を歩きながら、天満さんが言う。一瞬、私に言っているのだと気づくのが遅れた。


 「……え? 何が、ですか?」

 「いや、せっかく宇佐見ちゃんが経理課に来てくれて一か月経ったのを祝う場だったのに、何もお祝いらしいことは出来てない上にこんなに早く帰らせることになっちゃって。料理も、お腹いっぱい食べられなかったでしょ?」

 「そ、そんなこと、ないです。ちゃんと食べましたよ?」

 「嘘。課長のおごりだからって遠慮して、ほとんど手をつけてなかったじゃない? 宇佐見ちゃんはちょっと僕たちに気を遣い過ぎだよ」


 「…………」


 言葉に詰まる。その通りだから、何も言い返せなくて。


 やっぱり、おかしいくらいに周りに気を遣ってしまう例の癖は治りきっていないのだろう。秋崎さんのアドバイスを受けてから、私なりに少しは改善出来ている気でいたのだけれど。

 甘く見過ぎていたのかな。


 「もっと僕たちのことを信頼して欲しいんだけどなぁ。遠慮深いのは悪いことじゃないけど、度が過ぎるのも考えものだよ」

 「……すみません」

 「いや、別に責めてる訳じゃないんだ。謝らなくていいよ」


 「はい、すみませ……」

 咄嗟にまた謝りかけて、口元を手で押さえる。そんな私を横目で見て、天満さんが可笑しそうに笑った。私は恥ずかしくなって唇を噛む。


 「うちの会社に来て一か月だけど、どう? 仕事には慣れてきた?」

 「どう、ですかね……。まだ、ちょっと自信ないです……」

 「そっか。まあ、ゆっくり慣れていけばいいよ。秋崎くんも傍で見ていてくれてるし、何かあったら頼ってあげてね」

 「…………」


 人を頼る、というのは意外と難しい。まず、いつどのタイミングで声をかけていいのか、私にはよく分からない。相手の邪魔になってしまうんじゃないかと考えて、ついつい声をかけるのを後回しにしてしまう。


 そうすることで、手遅れになる場合だってあるのに。


 私はそれを知っているのに、誰かに何かをたずねる時でさえ未だに少し躊躇ってしまう。


 また一つ、自分の改善すべき点を思い出してしまった。


 ちょっぴり憂うつになると共に、天満さんの言葉に嬉しくなっている自分がいた。


 傍で見ていてくれている。

 その短い一言で、なんだか救われたような気持ちになった。


 そっか。私は一人きりじゃないんだ。私のことを見ていてくれる人がいて、助けてくれる人がいるんだ。

 そう思うと、とても心強くて、胸の辺りが温かくなった。


 「もちろん、僕たちのことも頼ってね。まあ、得田くんは……あんまりおすすめしないけど。……なんて、冗談」


 「……ふふ。経理課の皆さんって、本当に仲良しですよね」

 「そうかなぁ。悪くはないと思うけど。……あ、あの車?」


 話している内に、私たちは大きな通りに出ていた。天満さんが立ち止まり、右前方を見て呟く。同じ方向へ視線を向けると、白い軽ワゴン車が停まっていた。母の愛車だ。


 「あっ、はい。母の車です」

 「良かった。すぐ見つけられて。秋崎くん、宇佐見ちゃんのお母さんだよ」


 「……ぅんん? 俺はもう、結構ですよ……」

 寝ぼけているのか、秋崎さんが訳の分からないことを言っている。思わず天満さんと顔を見合わせ笑っていると、車から母が降りてきてくれた。


 「菜穂の会社の方ですよね。いつも菜穂がお世話になってます」


 お世話になっているのは事実なのに、母からこういうことを言われると、いつも気恥ずかしくなるのはどうしてだろう。


 「こちらこそ、菜穂さんにはいつもサポートしてもらって助かってます。僕は天満といいます。この、酔ってほとんど意識ないのが秋崎です」

 「ああ! この方が秋崎さんね。いつも助けてくれるんだって、菜穂から話を聞いてますよ」


 「お、お母さん……! そんな話はいいからっ」


 何かと助けてもらっているのも事実なのに、それを母に話したことを本人に聞かれるのはやっぱり恥ずかしい。……もっとも、半分夢の中にいる秋崎さんには聞こえていないみたいだけれど。


 私が制止すると、母は「はいはい」と言って後部座席のドアを開けた。


 「じゃあ、秋崎さんにはこっちに乗ってもらいましょうか」

 「恐れ入ります。秋崎くん、乗っていいって」

 「ん……」


 閉じられていた秋崎さんの目が、うっすらと開かれる。天満さんの言葉は認識しているのか、すんなりと、何の疑問も持たない様子で車に乗り込んだ。


 「お手数おかけしますが、秋崎のことよろしくお願いします」

 「分かりました。住所は菜穂が聞いてるのよね」

 「う、うん」


 どうもーと天満さんに会釈をして、先に母が運転席へ乗り込む。


 「宇佐見ちゃん、また月曜日にね」

 「はい! お、お疲れ様ですっ」


 にこやかに手を振る天満さんに見送られ、車は発進した。


 「――天満さんっていう方、とても礼儀正しい人ねぇ。しかも、かなりのハンサムさん」


 運転しながら、母が上機嫌に言った。かっこいい男の人には、目がない性質なのだ。でも、父よりかっこいい人には会ったことがないと前に言っていた。親の惚気のろけ話を聞く時は、子供の側としては嬉しいような苦々しいような、複雑な心境になる。


 「でも、お父さんほどではないんでしょ?」

 「そりゃあ、もちろんね。お父さんを上回るハンサムさんは、この世に存在しません」

 「そんなにかっこいい、かな……?」

 「あら。菜穂ったら、実の父親のことかっこいいと思わないの?」

 「そんなことない、けど」


 でも、私の思う〝かっこいい〟とは、また別のもののような気がする。


 助手席で目をつむって少し考えてみたけれど、具体的な人物像は少しも思い浮かばなかった。


 「後ろの酔っぱらいさんも、なかなかにイケてると思うけどね。どちらかというと、天満さんよりも可愛らしい感じかしら」


 ルームミラーにちらりと目をやって、母が笑いながら言う。

 多分、聞いてないとはいえ、本人を目の前にして他人と比較するなんて失礼だ。抗議しようとした時。


 「菜穂が意識するのも、分かる気がするわぁ」

 「……、……へ?」


 思ってもみなかった母の一言に、私は足元に向けていた目を瞬いた。

 母の横顔に視線を移しながら、言葉の意味を考える。


 私が意識、している……? 秋崎さんを?


 「意識……なんて、してない……と思う」


 「気がついていないだけよ。菜穂はそういうのに鈍感なとこがあるからね。その点、私はちゃんと知ってるわよ。あなたが家庭内で男の人の話を持ち出す時は、大抵、その人に気がある時だって。まだ学生だった時も、波多野はたのさんの時だってそうだったわ」


 波多野さん――以前、お付き合いしていた人の名前を出されて、目を伏せる。

 あの人の話はしないでって、前にあれほど言ったのに。忘れかけていた出来事が頭の中によみがえりそうになり、きつく目を閉じる。


 「……ああ、ごめんね。わざと言った訳じゃないの。過去のことを思い出したら、つい……」

 「ううん、大丈夫」


 母は私の心情の変化に気がついて、すぐに謝ってくれた。私の返答に安心したような笑みを見せると、話題を戻す。


 「菜穂は無意識みたいだけど、会社の話――特に秋崎さんに関連のある話をする時は、いつもとちょっとだけ表情が変わるのよ」

 「変わるって、……どんな風に?」

 「なんていうのかな。こう、やわらかい顔をしてるっていうか……」

 

 自分自身のことなのに、全く心当たりがない。確かに、秋崎さんのことは家族にも話したことがあるけれど、ほんの些細な事柄だ。同じ会社の同じ課にいるとはいえ、一日の中で彼と会話を交わすことはあまりないのだから、話題にあげたことも二、三回程度しかなかったと思う。そんな、短くて内容もほとんどないような話をしただけで、母は私の微妙な気持ちの変化に気がついたというのか。


 なんだか、私は自分の母親のことを空恐ろしく思えてきてしまった。


 「お母さんって、時々……怖いこと言うよね。誰もいない所を見て、あそこにおじいさんが座ってるって言ったり……」

 「それは、たまたま死んだ人がってだけ。とってもレアなケースよ」


 娘自ら把握しきれていない気持ちにまで察しがついている時点で、常人ではないような。親子といえども他人なのだから、相手の思っていることなんて分からなくて当然だと思うんだけど。


 「ま、これでも一応、あなたの母親ですからね。母親なら誰しも、娘の一番の理解者でありたいと思うものよ。莉子りこも菜穂も、私の宝物なんだから」


 「…………」


 親から面と向かって〝宝物〟だなんて言われると、こそばゆい。

 でも、嬉しくない訳がなかった。私は窓の外を眺めるふりをしながら、こっそり笑みを零す。今まで大切に育ててくれた両親への感謝が胸の内を占めた。なんだか、結婚して親元を離れる時の心境みたいだ。


 「で、本当の所、どうなの?」

 「へ。な、何が?」

 「秋崎さんよ。前に、とても親切で優しい人って言ってたじゃないの。タイプなの? 気になってるの?」

 「た、タイプとか、私……よく分かんないし……。いい人、だけど」


 「もう。菜穂はもう少し積極的に動かないと――おっと」

 車道側の信号が、黄色に変わる。私の恋愛事情を詮索するのに夢中になっていた母は、一瞬だけ気づくのが遅れた。ちょっと急なブレーキに、身体が前のめりになる。


 と、後部座席の方から、ドサッという音が聞こえた。


 車内で聞くことなどないような、不自然な音に、驚いた私と母は同時に後ろを振り返った。


 さっきまで座っていたはずの秋崎さんが、座席に横になっていた。

 急ブレーキの反動で、倒れたみたいだった。肩とか頭とか、何処かぶつけたりしてはいないだろうかと心配になる。


 「だ、大丈夫ですかっ、秋崎さん」

 「んー……、もう食べられないですよ……」


 秋崎さんはこの状態でもまだ眠っていて、しかもまた訳の分からないことを呟いている。


 こんな寝言を言う人、本当にいるんだ……。

 おかしくなって、私は母と顔を見合わせて笑い声を上げた。


 さっき、母が秋崎さんのことを「可愛らしい感じ」と言っていたけれど、そうかもしれないと思った。

 会社では見られないような秋崎さんの姿を目の当たりにして、私は何故だか嬉しい気持ちになった。


 時折、むにゃむにゃと寝言を言いながら、何も知らない秋崎さんは自宅に着くまでの間、穏やかな寝息を立てていたのでした。

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