2.5―Side U.― その1



 「ほんと、先輩って面白みのない男ですよねー」

 賑やかな店内。一際楽しげな声が、私の真正面から聞こえる。


 足元から微かに伝わってきた振動に気がついた私は、すぐ傍に置いてあったスマートフォンを手に取った。『帰りは何時くらいになりそう?』という母からのメールに、『分からないけど、それほど遅くはならないと思う』と返信する。


 ディスプレイの時計が、午後七時三十四分を表示していた。


 同じ職場の皆さんとこのお店へ来てから、そろそろ一時間が経つという事実に驚いた。今夜は一段と、時間の流れが早く感じる。会社にいると、妙に一日が長く感じられて、もどかしい気持ちになったりするのに。そう思ってしまう理由はきっと、私がまだ新しい職場に馴染みきれていないせいなのだろう。


 小さい時から人見知りだった、と前に母が言っていたのを思い出す。


 母は、お酒が入るとよく昔のことをしゃべりたがる。父と結婚する前の話とか、学生時代の思い出とか。中でも圧倒的に、私や妹の小さかった頃の話を持ち出すことが多い。明るい内容が大半を占めるけれど、時には育児で苦労したことや大変だったことも聞かせてくれる。聞いている側としては、小さい時のこととはいえ迷惑をかけてしまって申し訳なく思えてくるが、不思議と話している母の方はどんな苦労話でもいつも楽しそうに語る。だから、母の思い出話を聞く時は、私もいつも楽しい。口数の少ない妹も父も、言葉や表情には出さないけれど、多分私と同じ気持ちでいてくれているんだろう。


 今過ごしているこの時間は、そんな風に家族と他愛なく過ごす空間と、雰囲気が何処となく似ている。

 仕事をしている時よりも、皆さん気兼ねなくおしゃべりを楽しんでいて。私は、そんな皆さんを見ていることがほとんどで会話には参加していない。けれど、不思議と寂しいとか、一人ぼっちで取り残されているな、なんてことは思わなかった。


 どうしてだろう。前の職場ではいつだって、誰かと一緒にいる時だって一人きりに思えて仕方なかったのに。


 「二十二年の人生で未だ一人しか彼女を持った経験のない、お前には言われたくねぇ」

 「ちょっ! 女性の前でなんてことを! それに、二十二年と六か月、ですよっ!」

 「お前、さっき俺に向かって〝みみっちい〟って言ってたが、その言葉をそっくりそのまま返してやる。あと〝子供っぽい〟もついでにな」

 「生憎、返品は承っておりませんので、結構です。その二つはそのまま先輩が死ぬ間際まで大事に持っていればいいんですよ!」

 「それは無理だ。俺は、無人島に何か一つ持っていくなら夏目漱石の本って決めてるからな。その際はどっちもお前に残してってやる。何なら速達で送りつけてやろう」

 「その時は受け取り拒否しますよ。そうすれば自動的に処分されるはずっ」

 「封筒や箱が処分されても、中身の言葉どもはじきにお前の所へ帰ってくると思うがな。元の持ち主のお前の所へ」

 「いやいや。は、先輩が恋しくなって先輩のいる無人島まで飛んでいくに違いありませんよ。一人っきりの無人島で、せいぜい自分自身に向き合って暮らしていけばいいんじゃないですかー」


 「二人とも、言い争ってないで少しは料理食べなよ。せっかく揚げたてのから揚げなのに、冷めちゃうでしょ」


 ……言い争い。なのでしょうか、これは。


 とても独特な会話なので、聞いている分には面白い。けれども、今しゃべっている秋崎さんと得田さんは仲が悪いようには見えない。お互いにけなしている割には、職場でもよくつるんでいるし。高校時代の先輩と後輩みたいだから、気心の知れた間柄なのだろう。私にはそういう相手は妹くらいしかいないから、ちょっとだけうらやましい。


 二人の会話に割って入ったのは、天満さん。この人もさっきから楽しそうに秋崎さんと得田さんの会話を聞いていた一人だ。今も穏やかな笑みを浮かべながら、二人の掛け合いをなだめた。


 「……から揚げ、嫌いか」


 低い声で短く私にたずねてきたのは、沖さん。彼も最初から飲み会に参加しているけれど、とても口数の少ない人で、多分何かを話した回数は私よりも少ないと思う。私もおしゃべりな方ではないけれど、沖さんは珍しいくらいに物静かな人だ。


 「い、いえっ。好きですよ……?」

 どうしてそんなことをたずねられたのか分からなくて、当惑気味に答える。


 すると、隣りに座る沖さんは、私が使っている箸と取り皿を音もなく両手に持った。あまりにも自然な動作に、なすすべもなくただ目を瞬く。

 沖さんは、料理の盛りつけられた大皿から箸で器用にから揚げを二つ取ると、取り皿にのせて渡してくれた。から揚げのお皿は私からは少し遠い位置に置いてあるので、私の腕が届かないんじゃないかと気を遣ってくれたみたいだ。


 「あっ……、ありがとうございます……!」

 「他にも、何か手の届かないものがあれば、取る」

 「そ、そこまでして頂かなくても、大丈夫です。届かないの、慣れてますし……」

 「…………」

 軽い冗談のつもりで言ったはずが、沖さんは尚も気遣わし気な視線を私に向けてくる。まともに話したこともほとんどないから詳しいことは何も知らないのだけれど、この人が悪い人ではないのは何となく分かる。今の行動を見て、親切な人なのだろうという察しもついた。


 「優しいね。今日の沖は、宇佐見ちゃんをよく気遣ってあげてて偉いよね」

 「……何が言いたい、天満」

 「ううん。別に何も? ただ、沖の意外な一面が見れて良かったなって、思っただけだよ」


 頬杖をついて、天満さんがにっこり微笑みながら沖さんに声をかける。眼鏡の向こう側の、優しく細められている瞳。その奥に、何か別の感情が潜んでいるように見えた。

 私の勘違い、だと思うけど。

 でも、沖さんも天満さんの一言に何かを感じ取ったみたいで。

 ちょっと鋭い眼差しを天満さんに向けるも、彼はのらりとそれをかわして向かいの席の課長さん――佐々川さんと世間話を始めてしまった。

 一瞬だけ交わされた今のやり取りは、何だったのだろう。

 この二人も、別に仲が悪い訳ではないと思うんだけど。どちらかと言えば、天満さんの方は沖さんと仲良くしたそうに見えるのに。

 

 水滴のついたグラスを手に取り、中身を一口飲む。氷が溶けてきたせいか、味が薄く感じられた。店内は空調が利いていて外よりは幾分か涼しい。だけどお客さんの体温と厨房の熱気で、それなりに室温は高そうだ。冷たいお酒やドリンクを飲んでいても、男性陣は皆さん暑そうにしている。


 一か月前、今勤めている会社に私が初めて出社した日も、こんな真夏日だった。

 まだ六月なのに季節外れの暑さで、長袖を着て家を出たことを後悔したっけ。私は平均体温も低くてあまり汗をかかない体質だから、夏場でも空調がよく利いている室内に半袖でいると寒くなって体調を崩してしまう。だから、行き慣れていない所へ行く時には、なるべく長袖を着たり上着を持ったりして出かけるようにしている。

 でも、あの日はさすがに半袖シャツにするべきだったなと、今では思う。秋崎さんが気を利かせて「暑くはないのか」と聞いてくれたから、早い段階で上着を脱ぐことが出来た。あれがなかったら、きっと私は上着を脱ぐタイミングを失ったままお昼休みになるまでやり過ごしていただろう。

 自覚してはいるけれど、私は周囲に対しておかしなくらいに気を遣ってしまう。過度に周りを意識してしまって、疲れてしまうこともある。これは、学生だった時から変わらない私の性格だ。

 いいことではないと、分かっていた。だから高校生の時に変えようと努力した。けれど、この性分はいつまで経っても直らなかった。あまりにも疲れている時には、近くでおしゃべりをしている人たちが皆、私の悪い所をこっそり言い合っているように見えた。そんなはずないと分かっていても、どうしても考えずにはいられない時があった。当時の私は本当に疲れていたのだろうと思う。


 その困った性格も、今は、ほんのちょっとだけ良い方向へ改善出来ているような気がする。


 失敗から目を背けて逃げ出した私に声をかけてくれた人がいたから。その人のおかげで変えることが出来た。ミスへの不安はまだ拭いきれないけれど、とにかく焦らず、落ち着いて目の前の仕事をこなせるようにしようと自分に言い聞かせて、毎朝会社へ通っている。少し前までは、通勤する間も憂うつに感じられたのに、そんな朝も段々と減ってきた。


 秋崎さんのおかげです。


 沖さんに取ってもらったから揚げを一つ頬張りながら、心の中で思う。何気なく、斜め向かいの席に座る本人の様子をちらりと窺ってみる。


 視線が合った。

 自分から進んで他人とは目を合わせないようにしているのに、この人とは不思議とよく目が合う。反射的に、いつもそうするようにすぐ目をそらそうとするけれど、何故かそらせなかった。


 秋崎さんの目が驚きで丸く見開かれていたこと。その頬がうっすらと赤みを帯びていたこと。


 この二つの理由から、私は相手をじっと見つめてしまった。


 「えっ、な……何すか……?」

 「い、いえっ! 何でもありません、ごめんなさいっ」


 「二人とも、どうかした?」

 天満さんと話していた佐々川さんが、不思議そうにこちらを見る。

 「何でもありません」と答えた声が、タイミング良く秋崎さんの声と重なった。それでまたお互いに顔を見合わせるけれど、今度は秋崎さんの方が先に視線をそらした。彼の隣りで、得田さんが唸っている。なんだかとても悔しそうだけど、どうしたのだろう。


 気になると言えば、秋崎さんの顔が妙に赤らんでいたこと。これも不思議だった。酔っているのかな、とも思ったが、彼が頼んだのはソフトドリンクでお酒ではなかったはず。暑がりなのだろうか。もしかして、熱中症……?

 悪い方へ考え過ぎてしまう自分が、嫌になる。

 熱中症なのだとしたら、食欲なんて湧かないはず。今の所は普通に食事をしているみたいだし、心配はいらなそうだ。

 そもそも、私がそこまで気にかけなくても、異変があるのなら周りの人がすぐに気がついて指摘してくれるはずで。


 きっと、私の見間違いだったのだろう。

 結論づけて、二つ目のから揚げを口に運ぶ。


 「先輩? ちょっとー、何ぼーっとしてるんすかっ」


 不満そうな声で言いながら、得田さんが秋崎さんの腕をぱしぱしと軽く叩いた。

 「……は? あ、悪い。聞いてなかった」

 「ちゃんと話を聞かない男って、女の子から嫌われますよ」

 「つまんねぇ話を長々と続けるお前よりはましだと思うがな」

 つっかかる得田さんを、秋崎さんが面倒くさそうにあしらう。態度が何処となく気だるそうだなと思っていたら、大きな欠伸を零した。週末ということもあって、疲れているのかもしれない。


 今月に入ってから、経理課の皆さんは六月よりも忙しそうにしている。私自身の仕事量はあまり増えていない気もするけれど、周りの皆さんの様子は明らかに先月よりも忙しないと思う。夜半も会社に残って作業しないといけないまでの忙しさではないみたいだけれど。眞鍋さんから聞いた話では、これからがもっと大変な時期なのだという。

 以前の職場とは全く違う環境で、経理のお仕事で使う用語を聞いても難し過ぎて私にはさっぱり分からない。でも、これから少しずつ覚えていきたい。そうすれば何か役に立てることがあるかもしれないし、自分に任された仕事をもっとスムーズにこなせるかもしれない。


 課の皆さんには充分、助けられている。特に、秋崎さんには。だから少しでも恩返しがしたい。


 まずはもうちょっと、職場の雰囲気に慣れて、社内の見取り図を完璧に頭に入れることからかな。自分の出来ることからやっていこう。私には珍しく前向きにそう思えた。


 さっきも食べたはずの玉子焼きが、なんだか一段と美味しく感じられた。

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