3.暗闇
午後三時をまわった頃。
この時間になると、無性に甘いものが食べたくなってくる。
例えばキャラメル。そして、カカオ成分の低いチョコレート。控えめな甘味ではなくて、より甘みの強い系統のものを身体が欲する。疲れた時には甘いものが食べたくなるとはよく言うが、あれは迷信……というかただの脳の錯覚みたいなものでむしろ逆効果になる場合もあると、最近テレビで知った。甘いものが好きな人は、認知症やアルツハイマーになりやすいという、あまり知りたくないことまで強制的に学ばされた。昔から、糖分は摂りすぎないように気をつけてきたが、つい余計に甘いものに手が伸びるんだよな。
外から聞こえてきた、バラバラッ、という音に俺はちらりと右手にある窓の方へ目を向ける。
天気予報の通り、時間が経過するほどに雨風が強くなってきている。
強風で、雨が窓ガラスに叩きつけられ、時折さっきのように音を立てるのだ。傘に雨が当たる音よりも痛々しい。吹きつける風もゴウゴウと低い音を立てていて、これからさらなる嵐がやってくるのではないかと予期させる。
ほんと、電車の運行が止まらないといいんだが……。
「……あ、の。秋崎さん、すみません」
「はい?」
帰宅時のことを案じながらあくびを噛み殺していると、宇佐見さんのためらいがちな声に呼ばれた。
作業のことで、何か分からないことがあった時にはこんな風に声をかけて聞いてくれるのだ。ミスをしたり、疑問があったりした時にすら上司や先輩の指示を仰がず、自己解決してしまう人間もいると聞くので、ちゃんとたずねてくれるだけ有り難いと思う。
ちなみに、彼女に今してもらっているのは、総務課から借りて使っているマニュアルの内容を、パソコン上にコピーペーストするという作業である。
ただマニュアルをそっくりそのまま写すだけなら、コピー機を使えば一分で済む。けれど、作りたいのはあくまで経理課の事務作業についてのマニュアルだ。総務課とは内容が少しだけ異なる部分もあるので、大方の文章はコピペしてもらいつつ、メモ用紙に新たに加えて欲しい内容をざっくりと書いて渡して、「ここに書いたことを、このままの文でもいいんで簡単に付け加えておいてくれませんか」と、概ねそんな流れで昨日、宇佐見さんに頼んだ。
宇佐見さんは、文字を打ち込んだりと簡単なパソコンの操作は出来るらしい。キーボードを打つ指がやっぱり少したどたどしいものの、職員からお呼びがかからず手の空いている時は、積極的にパソコンに向かってくれている。ほんと、仕事熱心で助かる。
「どうしました?」
何か、俺の書いたメモの中に分からないことでもあったのだろうか。
よく経理の仕事で使う、小難しい言葉はほとんど書かなかったはずだけど。
「あの、ええっと……」
……?
なんだか、妙にそわそわしているのは何故だろう。
もしかして、俺の書いた字が汚すぎて読めなかったとか……?で、これはなんて書いてあるのかと聞きたいが、気遣いの出来る宇佐見さんはそうたずねることで俺を不快な気持ちにさせてしまうんじゃないかと思い込み、こうして躊躇している、とか。
確かに、俺の書く文字はお世辞にも綺麗とは言えない。高校生の時に付き合っていた彼女からは「可愛い字だね」なんて言われていたが、見方を変えればそれは〝子供っぽい字だね〟という意味なのではないか。姉貴からも以前に一度、「きったない字ね」と罵られた覚えがある。あ、思い出してついイラっとしてしまったが、今の顔に出てないといいな。
宇佐見さんはパソコン作業に慣れているみたいだし、何か言われるなら俺の書いた文章についての可能性が高いだろう。
大丈夫ですよ。字が汚くて読めなかったのなら、はっきりとそう言って下さい。よく姉から心ない言葉をかけられているので、めったなことでは傷つきませんから。安心して指摘して下さい。
俺の心の準備はもう整っている。って、大げさな。
「ひ、ひらがなの〝うぉ〟って、どう打ったらいいんでしょうか……?」
「……へ?」
パソコンの操作についての問いですか!?
散々、己の字の汚さについて考えを巡らせていた俺は、あまりにも単純な問いに思わず間抜けな声を出してしまった。
「……多分、〝uxo〟って打ち込めば、大丈夫かと」
「u、xo――あっ、ほんとですね。ちゃんと〝うぉ〟になりましたっ」
言われた通りに字を打ち込み、宇佐見さんが明るい声を出す。いや、その程度のことで喜んじゃうんですか。というか、「パソコンの操作なら、前の職場でやっていたので」と言っていたから、てっきりキーボード入力には慣れているものだと思っていたんだが。
宇佐見さんにおずおずとお礼を言われ、それに「いえいえ」と返しながら苦笑いを顔に浮かべる。
字の汚さを指摘されずに済んだのは良かったが、予想だにしない問いかけだったからちょっと力が抜けてしまった。今後もローマ字の打ち方を聞かれるかもしれないので、事前にあれこれ詮索するのはやめておこう。
けど、それなら何故、宇佐見さんはあんなに落ち着きがない態度をしていたのだろう。
気になって彼女の方をまた横目で確認するが、宇佐見さんは俺に声をかける以前と変わらない真剣な表情でパソコンに向かっているだけだった。
ところで、〝うぉ〟が含まれる単語か文章なんて、マニュアルや俺の書いたメモにあっただろうか?思い当たる箇所が一つもないのだが。
まさか、本文に一度も登場しない文字の打ち方がふと気になって、でもどう打ち込めばいいのかどうしても思い出せず、気になって作業に集中出来ないので仕方なく、俺に声をかけた。……なんてことは、さすがにないだろう。「分からないことがあったら、何でも聞いて下さいね」とは言ったけども。いやいや、いくら気になったとはいえ、作業に全く関係のないことをたずねるような真似はしないだろう。何をするにも慎重な宇佐見さんのことだし。
きっと、俺が記憶していないだけで、コピペする文章の中に〝うぉ〟は存在していたのだろう。
そうに違いないと結論づけて、俺は自分の業務に戻る。
約三分後。
「あの。すみません、秋崎さん」
「……はい」
またもや控えめにお呼びがかかる。今度は何ですか。
「あのっ、〝わぁ〟というのは、どう打ったらいいんでしょうか……?」
「〝waxa〟で出ますよ」
さっそくパソコンに打ち込み、感心するようにうなずいている姿を見て、確信する。
絶対に、宇佐見さんは個人的に気になったからというだけの理由で、打ち方をたずねてきている。〝わぁ〟なんて、そうそう使わないぞ。小説でも書くならともかく、仕事ではまず使わないはずだ。というより〝わぁ〟から始まる単語自体、存在しないしな。
この際だから〝x〟を使った打ち方でも教えておこうか。
「基本的に、仮名の小さい文字を打ちたい時には、xを使うんですよ。小さい〝ぃ〟なら〝xi〟だし、〝ぅ〟なら〝xu〟ですね。……ちなみに、小さい〝っ〟の打ち方は、知ってますよね……?」
「あっ、はい! それは分かります」
首を傾げられたら、どうしようかと思った。
宇佐見さんは、パソコンの傍らに置いてあったメモ帳を開き、何事かを書き込み始めた。こちらからはメモ帳の中まで見えないが、多分、たった今俺から聞いたことをメモしているのだろう。……メモを取るまでに重要なことでもない気がするんだが。まあ、それで覚えてくれるならいくらでもメモして頂こう。
ついでに、他に疑問点や質問はないかどうかたずねる。宇佐見さんは「大丈夫です。……今の所は」と答えた。付け足された自信なさげな一言は、この人の人柄を表しているようである。
「また、何かあったら声かけて下さい」
「は、はいっ。……ありがとう、ございます」
……お。宇佐見さん今、ちょっとだけ笑わなかったか?
視線は俺から完全に外されていたが、蛍光灯の明かりを映し込んでいる宇佐見さんの黒い瞳が、わずかに細められた気がした。本人は既に作業に戻るべくデスクに向かっているが、一瞬のことに気を取られた俺はまたもや数秒、彼女の方を見つめてしまった。我に返るとすぐに、何ごともなかったかのように装って自分のデスクへ向き直る。
勘違い、かな。
でも、仕事に関係のないことまで気軽にたずねてくるということは、それだけ、新しい環境にも慣れてきてくれている、ということだろう。
このまま本来の慎重さを失わず、下手に注目を集めるようなミスをしなければ、宇佐見さんは眞鍋さん以外の社員――俺たち経理課の人間にも心を開いてくれるかもしれない。得田には別段、開いてやる必要もないだろうが。
課にいる得田以外の人たちは、新人の宇佐見さんにも普段と変わらない態度で接している。が、やっぱり宇佐見さんが必要以上に気を遣ったりうろたえたりすると、誰もが困ったような苦笑を浮かべる。彼女の態度に難癖をつけたりするような冷たい心の持ち主が誰一人としていないのは、救いである。たとえ彼女が何かミスをしても、皆は笑って許すだろう。無論、俺もだ。
この現代社会、心の折れやすい若者がすぐに会社を辞めるケースが増えてきているという。故に、上司たちは新入社員に何かと気を遣うのだ。
口では「最近の若い奴らは、甲斐性がない」と言いつつも、せっかく獲得した社員に辞められては困るので、叱りたくても我慢し注意するに留めるらしい。俺が入社した時もあまり怒られた記憶はないが、周囲の上司たちの新卒社員への振る舞いが、当時よりもさらにやわらかくなったように思える。本当は叱りたいだろうに、こらえて苦笑いで済ましている上司を見かける度、管理職も大変だなと思わず同情してしまう。
自分もいつか、あんな風になるのだろうか。現状よりも忙しく、そしてさらに気を遣う立場なんて、考えただけで憂うつだ。片頭痛がひどくなる気しかしない。
おとずれてもいない将来に気を落とすのはやめよう。
切りのいい部分まで作業を終わらせた俺は、両腕を上げて大きく伸びをする。同時にあくびまで出そうになるが、それはなんとかこらえる。この時期は仕事量が少ないので、気を抜くとつい眠くなってくる。去年の同時期に、居眠りをこいて机に頭をぶつけた得田のことを思い出した。俺も、ああならないようにしなければ。
「宇佐見さん、ちょっといいかな」
「は、はいっ!」
課長に呼ばれた宇佐見さんが、元気よく返事をし、立ち上がる。
上司にあたる相手だからか、宇佐見さんは課長に声をかけられると見るからに緊張する。いつも以上に声と身体に力が込められるのだ。
けれど、得田よりかは課長のことを信頼しているようだ。
佐々川課長の人となりのせいだろうか。だとしたら、彼女は総務課に行くことにならなくて良かったかもしれない。総務課長は、こう言っては何だが結構、はっきりとものを言うタイプの人だからな。得田にもう少し常識と大人らしさと背丈を加えたのが、そのまま管理職になったイメージか。とにかく、宇佐見さんにはあまり向いていないタイプの人だろう。
課長は、いつもの人当たりのいい笑顔で宇佐見さんに何やら仕事を頼んでいる。
聞こえてきた感じでは、書類のコピーを頼んでいるようだ。「たくさん枚数があるけど、お願いね」と言われ、宇佐見さんが二つ返事で答える声がする。
渡された書類の束を持って、さっそく彼女はコピー機へと向かう。
また小走りだ。そんなに急がなくたっていいのに。
コピー機は、俺の背後にある四つのデスクの、さらに奥に設置されている。一応は課に一つずつ設置されているが、一つくらいなくても業務に滞りは発生しないんじゃなかろうか。逆に、電気代を節約出来ていいと思うのだが。
席から目の届く範囲まで宇佐見さんの姿を見送り終えて、デスクに向き直る。
しかしまあ、今日やる分の仕事は大方、片付けてしまったから特にやることもないなぁ。
時刻を確認すると、三時半を少し過ぎた所だった。定時まであと二時間はある。
それまでの間に、天候がさらに悪くならないといいのだが。いつだったか、台風が都心を直撃して帰宅するのはおろか、外に出るのでさえ危険な時があったが、あれに比べたら大した嵐でもないだろう。あの時はもっと、ガラスが割れるんじゃないかと心配になるくらいに窓が揺れていたものだ。
ちなみに、その時も姉貴に「迎えに来て欲しい」と電話をしてみたが、当然のように断られた。そうなると予想していたから、「絶対に、嫌よ」と姉貴が言いかけている途中で通話を切った。それきり彼女からの連絡もなかったので、結局は会社に泊まった。そんなこともあろうかと、事前に色々と荷物を持って出社したので、特に苦でもなかった。
今日くらいの雨風ならば、全身びしょ濡れにはなっても電車が動いていればなんとか帰れるだろう。もはや、嵐が収まってくれるかもしれないなんて淡い期待を抱くのも馬鹿馬鹿しくなった。せめて今くらいの天候をキープしていて欲しいものだ。
視界の隅に、向かいのデスクにいる沖さんが映る。
彼もまた、何処か退屈そうに窓の外を眺めているようだった。……正確には退屈そうに見えた、だけにすぎなく、沖さん自身はいつもの無表情のままである。
沖さんも、今日の仕事を片付けてしまって、やることがないのだろうか。無口だし、いつも何を考えているのか分からないけれど、仕事は的確にこなし終わらせるのも早い。そのため、コミュニケーションの取りにくい相手にも関わらず、課の連中からは一目置かれているのだ。
じっと見ていると、沖さんと目が合う。今日はやけに他人と目が合う日だな。
前髪の向こう側の瞳が、すっと細められる。まるで「何か用か」とたずねられているように感じた。
「あっ、すいません、何でもな—―」
苦笑いで場を乗り切ろうとしている時だった。
窓の外が、一瞬、昼間の太陽の明るさを取り戻したように、光った。
直後。ドォンッ!!いや、ピシャァッ!!という感じだろうか。
擬音として表現するのは難しいような、すさまじい轟音が社内中に響き渡った。同時に、下から突き上げられるような振動も一緒に感じた。
驚いて、思わず首をすくめた俺の視界へ次に飛び込んできたのは、白い紙。
何枚もの用紙が、ひらひらと宙を舞い、落下していく。
傍らでは、頼みごとを終えて戻ってきた所であったろう宇佐見さんが、今まさに床へ前のめりに倒れ込もうとしている真っ最中であった。
なびく、宇佐見さんの髪。舞い落ちる用紙たち。
その何もかもが、俺の目にはスローモーションのように、妙にゆっくりとした速度で見えていた。が、そんなものは一瞬の出来事で、瞬きを一度した直後には、全てが元の速度に戻っていた。
ドサッという、何かがぶつかり合う音と共に、宇佐見さんは転んで床に手をついた。彼女の周りでは、まだ何枚かの紙が宙を舞っていた。大半はすぐに落下したようで、床は既に紙まみれになっている。
「びっくりしたぁ……」
「なっ、なんだよ今の音……」
いつの間にか蛍光灯の消えたフロアで、多くの人たちがそんなことを口々に呟いている。誰もが不安そうな様子で周囲の者と顔を見合わせていた。
俺自身も、何が起こったのか把握出来ずにいた。
だが、不思議と身体は自然に動いて、気がつくと宇佐見さんの元へ向かい声をかけていた。
「大丈夫ですか……?!」
宇佐見さんは床に座り込んだ格好のまま、呆然としていた。俺や周りの人と同様に、何が起きたのか分かっていないのだろう。完全に
「宇佐見さん」
しゃがみ込んで、目の前で手を振ってみる。すると、そこでやっと我に返って、驚きで丸く見開かれた瞳をこちらへ向けた。
薄暗い中、図らずも視線がぶつかるが、さすがに喜ぶ気も起こらない。
「え? えっ、あの、い……今のっ、何ですか……?」
「俺にも分かりません。でも多分――」
「あれー……、パソコンがなんか動かなくなった。変だな、何でっ?!」
雷だと思います。と続けようとした時、得田の焦った声が耳に飛び込んできた。
宇佐見さんが声の方を振り返る。そこには調子がおかしくなったらしいパソコンの前であわてている得田がいる。予測不能の事態に陥った際に瞬時に状況を判断しようとする努力が、どうも彼には足りていない。さっきの光と音、それに社内の電気が消えていることで、大方予想はつきそうなものだが。
「あ……」
小さく漏らされた声。
いつの間にか、宇佐見さんの意識は自身の足元へと向けられていた。
彼女が見つめる先には、配線カバーがあった。昼休みに得田が発見した、劣化して破損しかけているあのカバーだ。
一部はがれかかっていたものが、とうとう真っ二つに割れてその片方が宇佐見さんのすぐ近くに転がっていた。彼女が転んだ原因は、これか。いや、半分は落雷の音や光にびっくりしたせいもあるのかもしれないが。
次に、宇佐見さんは自らの周りに散らばった用紙たちに目をやった。素振りから見て、たった今この惨状に気がついたらしかった。
「ああ……、拾うの手伝いますよ。これ、全部で何枚くらいありました?」
散らかった紙を片付けるようにかき集めながらたずねる。
充電された電力で動いているパソコンのディスプレイの光源、それと窓から入ってくる外の微々たる光でかろうじて周囲の状況は認識出来た。紙に書かれている文字は読みにくいまでも、どの辺りに落ちているのかは分かる。原本とコピーしたものを合わせて相当な枚数がありそうだが、とりあえず今は手当たり次第に拾っておいて、後で細かい枚数や並び順を確認すればいいか。どうせ、それほど時間もかからず電力は戻るはずだ。
「おい、発電機はどうなってるんだ」
「まだ切り替わっていないみたいだな」
「誰か行って、様子を見てこい」
他の部署の上司に命令された数名が、ばたばたとあわただしく駆けて行く。
うちの会社には、自家発電がある。万が一、災害などで停電が起こった時にのみ使われる最終手段だ。ただ、自動で自家発電に切り替わる訳ではないため、誰かが発電機の操作を手動で行わなくてはいけない。
未だ明かりがつかないということは、切り替えの操作に手こずっているか、そもそもまだ誰も発電機へ辿り着いてさえいないかのどちらかだろう。
発電機を触ったことのある人間は、この社内の中にどれだけいるのか。
若い連中を行かせた所で、操作のやり方が分からなくて結局は経験のある人間が場に来てくれるのを待つしかなさそうだな。俺も、弄ったことはおろか、発電機そのものを拝んだことすら、一度あったかどうかなのだ。あれって、発電機自体に操作の仕方が書かれているシールとか貼ってあるものなのだろうか。
とにかく、電気の復旧の方は、他の社員に任せよう。俺が行った所で、何の役にも立たないことは目に見えている。
「……宇佐見さん?」
頭の中ではあれこれ考えつつも、俺は黙々と紙を拾っているのだが、隣りにいる宇佐見さんの様子がおかしい。いつもの彼女ならば、あわてふためいて落ちた紙を拾い集めそうなものだが、今は何故かうつむいて座り込んだまま微動だにしない。
ひょっとして、転んだ拍子に何処か痛めたのだろうか。
いや、それにしては痛がる素振りも何もない。どうしたんだろう。
「……ごめっ、なさ……」
紙を拾うのを中断して、宇佐見さんの顔を覗き込んだりまた目の前で手を振ったりしていると、消え入りそうな小さな声で彼女が何か呟いた。
「え? 今なんて――」
よく聞こえずに聞き返したのだが。
急に勢い良く立ち上がったかと思うと、宇佐見さんはそのまま走って課から出て行ってしまった。
え、なんで?どうしてこのタイミング?
というか、何が起こったんだ。なんで宇佐見さん、あんな逃げるように走って行ったんだろうか。え。俺、何かしましたか?ばらまかれた紙を拾っていただけなんですが?
自分の行動を思い出して精査してみても、特に彼女に逃げられるような理由は見つからない。
っていうか宇佐見さん、足速いな。まるで小動物のように素早い動きだった。おかげで止める間もなかったぞ。まあ、急な行動すぎて、俺も声をかける余裕すらなかったんだが。
「秋崎くん、宇佐見ちゃん……どうかしたの? なんだか逃げるように走って行っちゃったけど」
一部始終を見ていたらしい天満さんが近寄ってきて、声をかけてくれる。
視線は、宇佐見さんが去って行った廊下の方を向いていて、表情が何処か心配そうだ。たずねてから、お願いしないでも自ら紙拾いを手伝ってくれる所が、実に紳士らしい。こういうさり気ない気配りが、女性たちを惹きつける魅力の一つでもあるのかもしれない。
「さ、さあ……。俺にもよく、……というか全く理由が分かりません」
「トイレ……、な訳ないか。結構、勢いよく転んでたから、怪我してないか心配なんだけど。まあ、あんなに走れるんだから、捻挫はしてないみたいだね」
「はぁ……」
少なくとも、膝頭をすりむいたりはしていそうな転び方だった。あまり上手い受け身ではなかったと思う。宇佐見さんはどう見ても体育会系じゃないし、当然と言えば当然なんだろうが。
それにいくら無傷でも、こんな暗闇の中を疾走したら危ないんじゃなかろうか。初出勤の時に一通り社内を案内したけれど、まだ何階にどの課が入っているのかすら見取り図を見ないとよく分からないみたいだし。さすがに三階にある課とその並び、そしてトイレと給湯室の場所は覚えたみたいだが。他の階にある部署へ書類などを届けてもらう時とか、すごく不安そうな顔するんだよな。本人が。
「……秋崎くん。宇佐見ちゃんが気になるなら、追いかけてあげてくれないかな。僕も気になってるし」
「天満さん、俺が宇佐見さんのこと気にしてるって、よく分かりますね。もしかして、他人の心中が読めるんですか。すごいですね」
「こんな時まで冗談を言ってられる君ほど、すごくはないよ。だって、なんだか浮かない顔してるからさ。周りが暗いからそう見えるだけかと思ったんだけど、合ってたみたいだね」
……なんだろう。今、ものすごく敗北感のようなものを感じている。
頭が痛い時でさえ、その苦痛が表情に現れにくいというのに。一人の人間のことを、ほんの少し案じただけでそれが顔に出るだなんて。いつもの俺らしくもない。
こんな非常事態だから、そりゃあ、さすがに少しは混乱もしている。
けれど、それ以上に宇佐見さんの突飛な行動を真に受けて動揺しているのは確かだ。今でも一体、何が起こったのか分からずにモヤモヤしている。停電の原因は落雷だと、明確に判明しているから割とすんなり受け入れられたが、何の説明もなしにいきなり姿を消されたのでは、当然、その行動を納得する訳にもいかない。
なんか、宇佐見さんに対して、ちょっとだけ苛々してきた。
自分がぶちまけたものを拾おうともせず、その上、断りもなく場を立ち去るだなんて。勝手すぎやしないか。
「――すいません、天満さん。これ、紙拾うの任せてもいいですか。拾ったやつは、俺のデスクの上にでも適当に置いといてくれていいんで」
徐々に込み上げてきた怒りの感情に便乗して、天満さんにそう声をかける。
急なお願いにも関わらず、彼はすぐに了承してくれた。微笑すら顔に浮かべていて、まるで俺の行動を予想していたかのようだ。
「了解。うん、僕が行くよりも君に行ってもらった方がいいからね。宇佐見ちゃん、社内では眞鍋さんの次に秋崎くんに心を開いてるっぽいから」
「ええ……。なんでよりにもよって俺に? あり得ませんよ、そんなの」
「いやいや、間違いないって。なんたって、俺は他人の心の中が読めちゃうんだからね」
にっこり微笑みながら、俺の言った冗談を冗談で返してくる天満さん。あなたもかなり冷静沈着だと思いますよ。
改めて、天満さんという人のすごさを肌身に感じながらも、俺は立ち上がる。
「僕が言うのもなんだか変だけど、宇佐見ちゃんのこと、頼んだよ」
廊下へと駆け出す直前、拾い集めた紙の束をトントンと床でそろえながら、天満さんがいつもの穏やかな声で俺へ言った。
無言でうなずく。
彼女のことなら、俺はもうとっくに頼まれている。
そうだ。教育係として、俺は宇佐見さんのことを課長に頼まれているのだ。
でも多分、ただ仕事を教えることだけが、俺の役割ではない。手助けをするのはもちろん、新しい環境に身を置いて戸惑っている彼女が早く
廊下に出て、ひとまず立ち止まり周りの様子を窺う。
蛍光灯の明かりがない廊下は、普段よりも大分、薄暗い。
こんな暗がりの中、宇佐見さんは何処へ行ったのだろう。目を伏せ、口元へ手を当てて考える。
電力が遮断されているから、無論、エレベーターは使えない。さっき上司からの命で課を飛び出していった連中は、階段を使う外なかっただろう。これがこないだのような猛暑日だったら、今よりもっと悲惨な目に遭っていたに違いない。
もちろん、宇佐見さんは階段の存在を知っている。社内を案内する時にも使ったし、今朝も一緒に上ってきた。
だから移動しようと思えば、上の階にも下の階にも行けるのだが、行き慣れていないフロアへわざわざ移動するだろうか。宇佐見さんの気持ちになって考えてみる。逃げ出した理由がいまいち分からないから推測でしかないが、今の彼女はきっと誰にも会いたくなくて、一人になりたい心境なのではないだろうか。
そういう時、俺なら真っ先にトイレが頭に浮かぶ。
エレベーターの向かい側にある女子トイレの前に立ち、さてどうしようかと唸る。言うまでもないが俺は男だ。非常事態には違いないけど、さすがに中へ入る訳にはいかないだろう。
入り口から声をかけてみようか。
実行すべきか思い悩んでいると、丁度、中から人が出てきた。名前は憶えていないが確か、人事課に努めている人だったと思う。
「あの、すいません。今さっき、女子トイレに誰か駆け込んで行きませんでしたか? 小柄な女の人とか」
「え? 誰か入ってくる音も気配もしなかったけど……。今だって、個室は全部開いてるし、中には誰もいないと思うわよ」
確認するように、女性はちらりとトイレ内へ視線を移し、答えた。
個室の中にいたとしても、誰かが入ってくれば駆け足ではなくとも気がつくはずだ。ため息混じりに俺は「そうですか……」と返す。
「ねえ、さっき何かあった? なんだかすごい音がしたようだったけど……」
お礼を言って立ち去ろうとするより早く、女性にたずねられる。
「ああ。多分、会社の近くに雷が落ちたんだと思います。おかげで今、社内は何処もかしこも停電してますよ」
「えっ、嘘……! 大変っ」
俺の説明に驚いた彼女は、それ以上何か言うでもなく足早に自分の持ち場へと戻って行った。結局、お礼は言いそびれてしまったが、まあ仕方ない。不審に思われなかっただけ、良しとしよう。
にしても、トイレにいないとなると、このフロアに宇佐見さんがいるという見立てすら怪しく思えてくるな。
あと立ち入れる場所と言えば、給湯室くらいだが――。
考えながら給湯室の前を横切りかけた俺は、動きを止める。
廊下よりもさらに濃い闇に閉ざされた室内から、微かに人の声のようなものがするのだ。本当に微かにしか聞こえないが、それは誰かがすすり泣く音声のように思える。
入り口近くの壁に身を隠しながら、俺はそっと中を覗く。
三畳ほどの狭い室内。壁に沿うようにして、縦に簡素なシンクが設置されている。その向かい側の壁際、奥の隅っこの方にうずくまる小さな人影を見つけた。
こんな所にいたのか……。
給湯室には窓もないので、電気がないとまるでそこだけ夜のように暗い。社内では当然のように誰もが節電を心掛けるように刷り込まれているため、敢えて明かりをつけずに利用する者もいる。廊下の電灯が灯っていれば、室内の明かりをつけなくとも大体の作業は出来る。
……しかし、これから俺はどうするべきなのだろうか。
暗いのに加えて膝を抱えるようにして座っているから、表情は全く窺い知れない。が、泣いているのは間違いない。
こういう時は、本人が落ち着くまでそっとしておくのが一番だろう。
けど、天満さんが言っていたように、彼女が怪我をしていないかどうか確かめる必要がある。うちの会社には医務室なんて大それたものはないが、休養室に行けば救急箱くらい置いてあるはずだ。軽い傷なら処置は施せる。
きっと、本人はこんな自分を誰にも見られたくないはずだけど。
今は怪我の有無を確かめる方が重要だ。こんなことになるなら、彼女が転んだ直後にあらかじめ聞いておくべきだった。本日二回目の、後悔先に立たずである。
「……あのー」
「ひぇぁ……っ!」
ボリュームを絞って声をかけたつもりだったが、暗闇の隅っこからは素っ頓狂な声が上がった。だから、叫ばれるとこっちもびっくりしますって。
「あっ、すみません宇佐見さん。俺です、秋崎です」
ここは低姿勢で挑もう。
名乗りながら、俺は壁から離れて給湯室の入口へ躍り出る。
暗くてよく分からないけれど、隅っこの塊と化した宇佐見さんが微かに顔を上げてくれたような気がした。
「驚かせるつもりはなくて。えっと、急に飛び出して行っちゃったから、どうしたのかなーなんて思ったので」
「ご、ごめんなさい……!」
「ああ、いや、謝らないで下さい。俺が個人的に気になって追いかけてきただけなので」
先ほど込み上げてきた怒りの感情は、暗がりで一人うずくまって泣いている宇佐見さんの姿を目にした途端、すっかり消え失せてしまった。というかたった今、謝ってもらったから非難する必要も理由も、なくなった。別に、本気で叱ろうと思っていた訳でもないけど。
俺自身と宇佐見さん、双方への言い訳も作ったことだし、手っ取り早く本題に移ろう。
「さっき転んでぶつけたとこ、大丈夫ですか? 何処か痛めてません?」
怖がらせないようにと、俺は屈み込みながらたずねた。
数秒間、暗闇からの返答はなかった。が、塊が何やら一段と忙しなく動いている。その仕草は、あわてて両方の目元を拭っているようだった。
「……、膝の辺りが、ちょっとだけヒリヒリします……」
こんな時にでも、宇佐見さんは正直だ。この人、絶対に嘘をつくのは苦手だろうな。つかないに越したことはないが。
「傷にはなってませんか?」
「わ、分かりません……。暗くて、よく見えないので……」
せめて廊下に出てきてくれればなんとか見えそうだが。
無理やり暗がりから引っ張り出すのも可哀想なので、彼女の方から自然に出てきてくれるのを待とう。
泣いてる所に話しかけてしまったから、何一つ答えてもくれないかと思ったんだが、こうして会話してみるといつもの宇佐見さんだ。ひどい怪我もしていないみたいなので、ひとまずほっとして俺はその場に腰を下ろす。
今日は雨なのに、給湯室付近の床はあまり汚れていなかった。
「……あの。答えたくないなら答えなくていいんですけど、さっき……なんで急に飛び出して行っちゃったんですか?」
「…………」
暗闇が黙り込む。
時折、鼻をすする音は聞こえるが、返答らしいものはない。
「あ、俺に原因があったなら、すみません」
ないとは思うが、一応、謝ってみた。
「い、いえ、違いますっ。秋崎さんは、何も悪くない、です」
続けて、今にも消え入りそうな声で「悪いのは、私なので……」と言うのが聞こえた。悪いことをしていたようには思えなかったが、何をそんなに気にしているのだろうか。
気になるけど、俺がたずねてもいいことなのかいまいち判別がつかない。話の続きを促すか否か迷っていると、意外にもすぐ相手から反応があった。
「課長さんからコピーを頼まれた大切な書類を床にぶちまけてしまいましたし、床の……あの何か白いものも壊してしまいました。停電になったのも、今日ずっとお天気が悪いのも、いつまで経っても地球温暖化が良くならないのも、全部、全部……私が悪いんですっ」
「なっ、何もそこまで卑屈にならなくても……。あ、ちなみに床の白いやつ、あれは俗に配線カバーと呼ばれるものです」
今の今まで泣いていた人が、ここまですらすらとしゃべるとは驚きだ。
というか、宇佐見さんがこんなに長くしゃべるのを見たのは、初めてだ。大抵は言葉の序盤でつっかえたり、尻すぼみに会話が終了したりとぎこちないのだが。俺が気がつかない内に、彼女も少しは進歩していたのかもしれない。
と思ったのも束の間。宇佐見さんは上げていた顔を自分のひざ元にうずめて、さっきよりも縮こまってしまった。
しゃくり上げる声だけが給湯室に響く。
これ以上の進展なんて、あるのだろうか。
俺は一体、どうすればいいんだ。泣いている人の対処なんて、今までにしたことがあっただろうか。いや、ない。経験もなしにどう立ち向かえというのだ。誰か、マニュアルに何かいい方法を書いてくれてないだろうか。新入社員への接し方に困った時に読むマニュアルを至急、誰か作ってくれ。俺、熟読しますから。
天満さんはどうして、宇佐見さんが眞鍋さんの次に俺へ心を開いている……なんてそんな絶対にあり得ないようなことを言ったのだろう。
つかこの場合、どう考えても俺より天満さんの方が適任な気がするんだが。
俺よりも長く社会人をやっているのだから、それだけ経験も豊富だろうし、後輩をなぐさめるくらいのことも一度は経験してそうだ。俺なんかより愛想もいいし親切だし。今からでも天満さんを呼んできた方がいいだろうか。
宇佐見ちゃんのこと、頼んだよ――。
課から出てくる直前、天満さんに言われたことを思い出す。
確かに俺、彼女の教育係を任されている身だけどさ。少なからずその自覚もあるけどさ。でも、やっぱりこういう、泣いている女性を立ち直らせるなんて役目、向いてないと思うんだよな。誰にでも気兼ねなく接する眞鍋さんなら、きっと上手くやるんだろうけど……。
ああもう。誰でもいいから俺より人相良くてそれなりに女性への接し方を心得ている人、ここを通りかかってくれねぇかな。
「……私って、昔から、本当にドジで……何をするのにも、とにかく時間がかかってしまうん、です」
心が音を上げそうになった時。
意外にも、宇佐見さんの方から話しかけてきた。
「前の職場に入社した時……、同僚の方たちは、皆、すぐにたくさんのお仕事を覚えていって、でも私は……いつまで経っても、頼りないままで。……始めたのは皆と一緒なはずなのに、あっという間に、おいて行かれてしまって」
……なんか、急に身の上話みたいなのが始まったぞ。
戸惑うと同時に、話の序盤をちゃっかりと頭の片隅にメモしている自分が、嫌になってくる。
まあ、ここは何も言わずに、黙って耳を傾けておこう。
話を聞いてあげることで、宇佐見さんの気持ちがすっきりするならば、それが愚痴だろうが何だろうが俺は聞き手に徹するまでだ。さすがに、俺自身への悪口は勘弁だがな。姉には言われ慣れているが、他人にそれをされてはちょっと傷つく。
「周りの方たちは、そんな私を励まして元気づけてくれました。……でも、有り難いなって思う反面、心の何処かでは、その人たちのかけてくれる言葉すら、否定する自分がいたんです。『あなたはよく頑張ってるよ』なんて言われて、表面上は感謝しながら『そんなこと、本当は思ってないくせに』って思っちゃって、相手の言葉を信じることも出来なくて……。こんな自分が、どうしようもなく、大嫌いで……っ」
「…………」
「……だからっ、新しい職場では、もっと頑張ろうって思ったんです。なるべく早くお仕事を覚えて、素早くこなせるようになろうって。……でも、この間言ったみたいに、私……容量悪くてドジだから、なかなか思うように出来なくって。このままじゃ、また何かミスしちゃうって毎日、
仕事を頼まれた時に、宇佐見さんがあんなに急ぐ訳がよく分かった。
前の職場で、周りの人たちにおいて行かれまいとして身についてしまった、癖なのだ。それも、良い方のではなく、悪い方の。
何でもかんでも小走りで対応していることに、彼女自身、気がついていないのかもしれない。無意識に急がなければという気持ちが働いて、焦ってしまっているのだ。人は予定外のことが起きて焦ってしまうと、周りが見えなくなってしまう。目の前の大まかな事柄にしか目が向かず、細かいことは見落としがちだ。宇佐見さんが時々、小さなミスを犯すのは、こういった理由が関係しているのだろう。
じゃあ、さっきの〝逃げ出す〟といった行動は、何だったのか。
ちゃんとした答えは未だ明かされてないけれど、多分、一種の『自分の心を守るために起こした行動』だったのではないだろうか。
何か失敗をしてしまうのではと、常日頃から不安を抱いていた宇佐見さんの心は、さっきの、転んで紙をばらまくという些細な失敗にも耐え難いほどの衝撃を受け、悲鳴を上げたのだ。よくよく考えてみれば大したミスでもないし、紙を拾って謝れば済む話だ。だが毎日、漠然とした不安で満たされていた彼女は、予想外のことにパニックを起こしてしまい、どうしたらいいのか分からなくなってしまった。
そして、気がついた時には逃げ出して、今に至る。
という想像を、俺は勝手にしていた。理由は何にせよ、逃げてしまったという事実は変えられない。
いつだって、既に起こってしまった事柄を前にしては、動機や理由というものは大した意味を成さない。何故あんなことをしてしまったのかといつまでも悶々と考え続けるよりかは、これからどうするべきか……と今後のことについて思いを巡らせる方がより有意義で現実的だ。どんなに後悔しても、過去の失敗をなかったことになんて出来ないのだから。
「……すみません、こんな話、しても意味ないのに……。壊しちゃった、えっと……配線カバー? は、後でちゃんと弁償しますので……っ」
「宇佐見さんって、頑張り屋さんなんですね」
「……、へ……?」
「だって、そうじゃないですか。前の職場では、周りの人たちに追いつこうと精いっぱいやってたみたいですし、今だってミスしないようにって気をつけて、どんな仕事も早く終わらせようと一生懸命にやってくれてますよね。それは何故、そうしようって思うんですか」
「な、なっ何故……です、か?」
突然の問いかけに、宇佐見さんは顔を上げてこちらの方を向いた。動揺してるなぁ。まあ、さっき俺が感じた動揺を、発端となった彼女にも少し味わってもらおう。
再び、暗闇に沈黙が訪れる。
俺は辛抱強く、何か言葉が返ってくるのを待った。
宇佐見さんが口を開くまで、たっぷり三分はかかったと思う。
「……私が、周りの人よりも劣っている、から……?」
「どうしてそう思うんです? 誰かに言われたことがあるんですか」
「よ、幼稚園の時に、先生から『菜穂ちゃんはおっとりしてるね』って、言われたことはあります、けど……」
まさかここで幼稚園児だった頃の話が出てくるとは。落雷と同じくらい、予想外ですよ。
あと、〝おっとりしてる〟というのは〝劣っている〟とは違います。世間一般的に、〝ゆったりと落ち着いている様〟を表す言葉です。どちらかと言えば、褒め言葉でしょう。
こんな時にでも、心の中で突っ込みを入れる余裕がある俺は、危機感というやつが足りないのだろうか。
まあ、今はそれでもいい。パソコンのデータの心配やらは、課に戻ってから存分にすることになるだろうし。
この対話に時間を割く意味は、充分にあるはずだ。
「よく思い出してみて下さい。誰かに直接、劣ってるなんて言われたことが本当にあったのか。思い当たる節がないなら、案外、自分がそう思い込んでいるだけかもしれませんし」
「自分が……思い込んでいる……」
「俺から言わせてもらうなら、宇佐見さんは毎日よく頑張ってると思いますよ。人見知りなのに、経理の職員の世間話にもちゃんと付き合ってくれるし」
「……えっ、あれ……私、人見知りだってこと、お話ししましたっけ……?」
「え? ……あ、すいません。てっきりそうなんだと、俺は捉えてました」
「い、いえ! 事実ですから……」
危なかった。下手をしたら、俺の趣味が人間観察だと露見してしまう所だった。
そうやすやすと、他人に、家族にだってこの趣味をばらしてたまるものか。もし姉貴に知られた日には、家庭内での俺の地位が暴落することになる。幼い頃に受けたような下僕同然の扱いなど、二度とごめんである。
今回は、誰が見ても分かるような宇佐見さんの人見知りぶりのおかげで、助かった。
「……それに、無理に急ごうとする必要なんてないですよ。世の中には、動作のきびきびした人もいれば、ゆっくりしている人もいて当然なんですから。宇佐見さんは、宇佐見さんなりのスピードで生きればいいんです。……って、ちょっと表現が大げさすぎましたかね」
「…………」
「ああ、あと配線カバーのことですけど、あれは宇佐見さんがつまずく前から、既に壊れていたんです」
「え、そ、そうなんですか……?」
「昼休みに、俺と得田が床にしゃがみ込んでたでしょう。あれは、壊れかけたカバーを見てたんです。だから、完全に壊れたカバーを見てもなんとも思いませんでしたよ。もちろん、弁償なんて必要ないですからね」
むしろ、カバーをちゃんと買い換えるいい口実が出来たと思っておこう。
ひょっとしたら、カバーが壊れかかっていることを宇佐見さんにも伝えていたら、あの事故は防げたのだろうか。今さらだけど、宇佐見さんが転んだ理由は何だったのか気になった。
たずねてみると、「あれは……、大きな音にびっくりして、足がもつれちゃって……」という答えが返ってきた。声の調子が、何処か恥ずかしそうに聞こえたのは、気のせいか。
「……本当に、色々とごめんなさい……。ご迷惑をおかけして……」
「迷惑だなんて思ってませんから、気にしないで下さい。あの音には、俺もびっくりしましたし。まさか雷が落ちるなんて」
「雷……。あっ、停電って……そのせいだったんですね」
気がついてなかったんですか。何が原因で停電したと思っていたんだろう。
「ちゃんと確認はしてませんが、多分。でも、うちの会社には発電機があるんで、もうじき電気がつくと思いますよ」
にしても、発電機はまだ機能していないのだろうか。
停電になってから十五分は経つが、未だ電力が戻った気配は感じられない。廊下の明かりは常につけっぱなしだから、電力が回復すれば元通り点灯するはずなのだが相変わらず薄暗いままである。
暗闇には目がすっかり慣れて、うっすらとだが宇佐見さんの顔も見えるようになった。
細かい表情までは分からないが、しゃくり上げる声と鼻をすする音が聞こえなくなったということは、少しは落ち着いてくれたようだ。
「ちなみに、宇佐見さんはうちに来る前、どんなお仕事をしてたんですか?」
電気がつくのを待つ間、俺は雑談を試みてみることにした。
まあ、深い意味はないけれど、観察対象として少しは興味もある。パソコンの基本操作が出来るということは、以前の仕事もデスクワークだったのだろうか。
「……と、図書館に、勤務してました。お仕事の内容は……、事務作業とか、本を棚に並べる作業とか……、ですかね」
図書館勤務だったとは。
「へぇ。いいですね、図書館員。実は俺、こう見えて本はよく読むので、うらやましいです。本屋とか図書館とか、一度は勤めてみたいなって思ってました」
「そっ、そうなんですか……! 本、お好きなんですね」
「好きですね。でかい書店で、周りを本棚に囲まれてる時なんか楽しいです。ああいうとこって、一日中いられるんすよね」
「そうですよね。私も、時間を忘れてつい長居しちゃいます……。それで、気がつくと夕方になってたり」
本の話題になった途端、宇佐見さんの声が明るくなった。
弾んだ声に、もしかしたら笑みさえ浮かべていたかもしれない。そうだとしたら、停電の真っ只中であることが非常に残念だ。
これは相当な本好きと見た。書店で時間を忘れて夢中になってしまう……なんて、心から本が好きじゃないとなかなか出来ない芸当だろう。今の大型書店は、雑貨や小物を置いていたり、中には食品まで扱い始めた所もあるらしいから、一概に本ばかりを眺めているとも限らないが。
図書館に勤めるくらいだから、彼女の趣味の一つが読書なのは間違いない。よく読む作家さんは誰で、どんな作風が好きなのだろう。
共通の話題を見つけると、より深く掘り下げたくなる。
まずは、よく読むジャンルからたずねてみようか。
口を開きかけた直後、何の前触れもなく自分の右側が明るくなった。廊下の明かりがついたのだ。
……俺はどうも、タイミングというものに恵まれない。
せっかく、宇佐見さんが初めて気ままに話してくれそうだったのに。
さっきまでは、早く電気がつかないものかとあれほど思っていたのだが、いざついてしまえば、もう少しだけ長く停電していても良かったのにとさえ思えるから、不思議だ。
「やっとつきましたね」
「は、はい。良かったです」
「宇佐見さん。まずは廊下に出て、怪我してないかどうかだけ確認してもらえませんか。傷になってたら、治療しないといけないし」
「あっ、はい……!」
「待った。そうやって焦らなくても大丈夫ですよ。今度からは、仕事をする時にももう少し肩の力を抜いてみて下さい。失敗したらなんて不安に思う必要もないですから、もっと気楽に構えて仕事して下さい。要は、慣れですよ」
あわてて立ち上がり、そのまま今にも駆け出しそうな宇佐見さんを制止し、俺はそんな風にアドバイスをしてみた。
少しは自分の先輩にあたる、課長や天満さんたちの受け売りも含まれている。
気がつかない内に、俺もアドバイスされる側よりする側になりつつあるんだと思えば、ほんの少しだけ感慨深いものがあった。
「……わ、分かりました。焦らないように、ですね。気をつけてやってみます」
「はい」
俺がうなずくと、宇佐見さんは今度はゆっくりと、明るさを取り戻した廊下に歩み出た。ぱっちりとした彼女の目が、明かりの眩しさに微かに細められる。
ズボンの裾をたくし上げて、右足を確認し始める宇佐見さんから俺は目をそらす。多分、今の彼女に気にする余裕はないだろうが、一応は異性の素足なのだし、見ないでおくに越したことはない。今のご時世、どんな些細なことがセクハラとして認定されても、おかしくはないからな。男性に手厳しい世の中になったものだと、常々感じる。
「足の具合、どうですか」
「ちょっとだけ、赤くなってましたが、傷にはなってませんでした」
それは良かった、と言いながら立ち上がる。あんなに派手に転んでいたのに、すり傷一つないなんて彼女はツイている。
無傷であったこと、取り乱していたがなんとか落ち着いてくれたことに俺は心から安堵した。泣いている人を励ました経験がなくても、やれば意外と出来るもんだな。かと言って、こんな経験、二度とごめんだが。
「電気も復活したみたいですし、課に戻りましょうか。天満さんや、他の皆も心配してるでしょうし」
「……はい。戻って、皆さんにもちゃんと謝らないと、ですね」
「言っときますが、全員に謝る必要はないですからね。課長と、あと天満さんには紙を拾うのを手伝ってもらったので、お礼を言わないと」
言葉の後半を呟きながら、歩き出す。少し遅れて、宇佐見さんがついてくる。
この感じ。前にも同じようなことがあった気が……。
ああ、そうか。宇佐見さんと初めて会った時も、こんな風に俺が先を歩いて課に案内したんだっけ。たった六日前のことなのに、もう懐かしくなりつつあるのは何故だろうか。俺、もう年なのかな。まだ二十歳前半なんだけどな。
そういえば以前、同じ課の先輩に「秋崎は達観してるなぁ」と言われたことがある。後日、詳しい意味を辞書で調べてみると、〝達観〟とは、〝悟っている〟ことと同義であり、主に冷静で大人びていて物事を客観視する人に使われる言葉らしい。褒め言葉のようだが、自分では達観しているのかよく分からないし、なんだか年相応とはかけ離れた雰囲気を感じ、老けてると言われているようにも思えて複雑になった。二十三にもなれば、誰しも同じように言われるものなのだろうか。得田は一生、言われることもなさそうだが。
今年の誕生日は、こんな複雑な心境で迎えることにならなければいいな。ただでさえ年々、誕生日を祝われるのが嬉しくない年齢になっていくのだから、せめて二十代後半までは純粋に喜んでおきたいものだ。
「……秋崎さん」
経理課に近い入り口から中へ入ろうとした時、後ろから控えめに名前を呼ばれ立ち止まる。「はい?」と、疑問形で答えながら宇佐見さんの方へ振り向く。
「さ、さっきは……そのっ、は、励ましてくれて……ありがとう、ございました……!」
お礼の言葉を言いながら、宇佐見さんは俺に向かってぴょこんと小さく頭を下げた。
これも、形だけの感謝だろうか。
いや、違う。そうとは思えない。
だって、上げられた彼女の顔がこんなにも穏やかに微笑んでいるのだから。いつも眞鍋さんと談笑している時にしか見せないような表情を、今は俺にも向けてくれている。もしもこれが上辺だけのものだったら悲しすぎるが、俺自身はそうとは捉えなかった。
「はい」と答える口元が自然とほころんで、温かい気持ちになる。
これこそが、彼女の態度に嘘偽りなどないという、何よりの証拠になる気がした。
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