2.視線

 

 昼休みが終わる二十分前。



 「あー。これはもう、変えないと駄目っすかねぇ」


 昼食を済ませて、トイレから経理課へ戻ってくると、得田の声が聞こえてきた。何やら床に這いつくばるような格好をしている。俺は、前を見ていなかったふりをして思い切りその背中に蹴りを入れようかどうか迷った末に、さすがに何もされていないのにそんな仕打ちをするのもどうかと思い、普通に得田に近づいて声をかけることにした。


 「何やってんだ?」

 「あ、あっきー先ぱ」

 「いい加減その呼び方やめろ」

 「じゃあ、先輩」

 「お前は他人の名字も正しく言えないのか」

 「失礼な。先輩が露骨に嫌そうな顔をするのを見るため、つまりはわざとに決まってるじゃないですかー」


 こいつ、やっぱり蹴り飛ばすか。


 「冗談! 冗談ですって! 俺はただ、これを見てただけですよ」


 へらへらと笑いながら手を振る様は、とても冗談を言っているようには見えない。絶対に、わざと言っている。


 眉間にしわを寄せつつも、俺は得田の背後から彼が指し示す箇所を覗き込んだ。


 そこには、白くて丸みを帯びた半筒状の物体があった。いわゆる、配線カバーというやつだ。経理課で使っているプリンターや一部のパソコンの配線をひとまとめにし、歩く際に引っかかったり邪魔になったりしないよう上からカバーを取り付けたものである。


 その配線カバーが、横真っ二つに割れていた。

 少し前から、本来ならば床についていなければいけない部分がはがれかけ、わずかに浮いた状態になっていたのだが、放置されていたのだ。そこを誰かが踏むかつまずくかでもしたのだろう、今ではもう中の配線が見えそうな状態にまでなってしまっている。


 「よし。潔く弁償しろ」

 「いや、何で俺が壊したと決めつけてんですか。違いますって。俺がさっき、昼飯食べて戻って来た時にはもう、こんな風になってたんですよっ」


 得田の言葉と表情には偽りがなかった。望んでもいない腐れ縁のせいで、こいつとはそれなりに付き合いも長いから嘘をついていればすぐに分かる。というか単純に、思っていることが全部顔に出るような分かりやすい性質の男だから、何かな考えでも巡らせている時には初対面の人間にも一目でわかってしまうだろう。浮気をしても、隠し通せず破局するタイプといえよう。


 配線カバーは、プラスチック製だ。俺がこの会社に来た時から既にあったもので、長らく使われていたのだろうと推察する。自然と劣化していった結果か。


 「こういうのって、経費で落ちますよね? 百均とか行けば、売ってるかな」

 「一応は、会社の備品だからな。多分、落ちるだろ。とりあえず、佐々川課長が戻ってきたら話してみるか」

 「にしても、カバーの中ってこんな風になってるんですね。俺、今まで思いっきり踏んでたけど、万が一中の線を傷つけたらって考えると、踏む気なくします」

 「つーことは、このカバーが壊れたのは、やっぱりお前のせいも少しはあるってことだな」

 「え? 先輩、ここ通る時に律義に避けてるんすか?」

 「避けるだろ、普通。踏むためにあるものじゃないんだし」


 へぇぇーと、大げさに感心している得田へ、呆れからすがめた眼差しを向ける。


 足元くらい確認して歩けよ。室内で起こる最も多い事故は、何かにつまずいて転倒するってやつなんだぞ。まあ、高齢者に多い事故だが、だからと言って若者も油断できない。特に配線カバーは、床から出っ張っている上によく滑る素材で出来ている。踏み外しなどしたら、確実にこけるだろう。

 破損したカバーは、床からはがれて簡単にペラペラとめくれるようになっているので、今は危険度マックスだ。下手したら、中の配線まで傷つけかねない。


 課長が戻ってきたら、忘れない内にこのことを伝えておこう。


 「あっ、宇佐見さん」


 出入り口付近を見て、得田が嬉しそうな声を出す。

 同じ方へ視線を移すと、丁度、課に戻ってきた所の宇佐見さんの姿がある。


 ……何故か目が合った。これまで、まともに合ったことがなかったというのに、どうしてこのタイミングで合ったのだろう。


 が、当然……と自分で思うのも哀しいが、すぐにそらされた。


 いや、目が合ったくらいでそんなにおろおろされても困るんだが。毎日のように見かけるので、半ばこの反応にも慣れつつあるけどな。


 「どうしました?! 先輩に睨まれたんですかっ、それは怖かったですよねっ」


 おい。一人で都合良く解釈して、歩み寄ってんじゃねぇ。


 つか、一番に距離を置かれているお前が言うな。今だって、急に近づかれて宇佐見さん怯えてんだろうが。俺も人のことは言えないが、接する回数が少ないのに妙に馴れ馴れしくしてくるお前よりはまともな接し方をしているし、少しずつ打ち解けてきている、はずだ。……多分。


 「え、えっ? いやあの、ち、違……います、よ?」


 「得田。お前ちょっと、面貸せ」

 出した声が、自分でも剣呑だと分かるもので、吐いた台詞も思わず鋭いものになってしまった。これでは、不良が通りがかりの人間にちょっかいを出す光景と何ら変わらないではないか。

 後悔先に立たずだ。だが、後輩の的外れで迷惑以外の何でもない行いには、うんざりである。我慢の限界だ。


 「ななっ、なんですか先輩! 暴力反対ですよっ」


 得田の首根っこを軽くつかんだまま、俺は廊下へと移動する。まだ何もしてないだろうが。そして、俺だって暴力には断固、反対である。これからするのは、ただの後輩への指導だ。


 「お前な、宇佐見さんへの態度、もうちょっとどうにか出来ないのか」

 午後の職務開始まであまり時間もないし、ここは単刀直入に言ってやろう。


 「へ? どうにかって、何が?」

 「だから、宇佐見さんにだけやたら愛想良くしたり、馴れ馴れしくするのをやめろって言ってんだよ。お前は彼女の好感を得ようと思ってやってるんだろうが、それ、全くの逆効果だからな」

 ほんと、律義に教えてやるのも癪に障るんだが。こいつのせいで困っている人がいるのだから、仕方がない。俺はあくまで高校の、そして人生の先輩としての役割を担ったまでだ。


 「何で、逆効果だって分かるんですか? ……っていうか先輩、もしかして先輩も宇佐見さんのこと狙ってるんじゃ。あ、だから俺の作戦を妨害しようと……?!」


 ちげーよ。馬鹿が。やっぱり、こいつの耳は、いや、脳までもが節穴らしい。

 どうしてすぐに、そんなドラマみたいなストーリーに自分の状況を当てはめたがるんだ。お前は〝夢見る乙女〟か。


 次から次に湧いて出る突っ込みの言葉どもを飲み込み、冷静に説得を試みる。


 もう、いくら諭した所で結果は見えているような気もするが。


 「そうじゃない。俺はただ、宇佐見さんがお前のそのおかしな態度で困っているのを見ているから――」

 「なるほど。俺を悪者扱いして、自分を良く見せようっていう算段ですね! その手には乗りませんよっ!」


 駄目だ。前々から思ってはいたが、本当にこいつは阿呆だ。しかも、暴走すると言葉が何一つまともに通じないという特徴を持っている。何より性質の悪いタイプの阿呆である。


 どうりで、いつまでも彼女が出来ない訳だ。


 そして、これからも出来ることはないのかもしれない。そう思うと、少しだけ得田のことが憐れに思えてくるから不思議だ。

 だが、言葉の通じない相手にそれでも力づくで何かを伝えようと努力を重ねてやるほど、俺も根気強くないんだな。


 「……うん、お前の彼女が欲しいという熱意は、よく分かった。だがな、当の本人にはその気持ちが伝わってない所か、逆に怖がられてるんだぞ。相手に迷惑をかけてるだけなんだよ」


 「え? 怖がられてるのは先輩でしょ? 何で、俺が宇佐見さんに怖がられるんです?先輩に比べて、人相も愛想もいいのに」


 「うぐっ……。と、とにかくだ! 宇佐見さんに好かれたいんだったら、彼女のことをよく観察しろ。そして何度も言うようだが、お前の今までの態度は本当に、逆効果だからな。今後はもっと普通に接しろ」

 「恋敵の忠告なんて、誰が聞き入れるんですか」

 「だから違うって言ってんだろ……」


 話が通じない相手としゃべるのが、こんなにも疲れるものだとは。改めて痛感しながら、頭を抱えたい衝動を俺は必死にこらえる。

 ため息をつき「とにかく、助言はしたからな」と、強引に話を終わらせて課に戻ることにした。恋の力で盲目になっている今の得田と話していては、こっちの精神力と体力が奪われていくだけだ。


 というか、得田を説得した所で、俺への利益は一つもないんだよな。


 午後の職務を前にただ疲れただけではないか。深いため息をつきながら、俺は自分のデスクに戻った。


 椅子に座る直前、何気なく視界の隅に宇佐見さんが入り込む。


 その表情がいつにも増して暗く、思わず彼女の方をじっと見てしまった。

 まるで何かを憂うかのように目を伏せ、頭を垂れている。宇佐見さんの纏う空気そのものが、今日の空みたいにどんよりと曇っているように思えた。


 「ど、どうかしました……?」

 「……ひぇっ……!? え、あっ、秋崎さん」


 急に素っ頓狂な声を上げられては、さすがの俺も、そして周りの人たちも驚きますよ。落ち着いて下さい。


 宇佐見さんは、俺が席に戻ってきていたことにすら気がついていなかったらしい。考えごとをするのはいいが、熱中しすぎて周りが見えなくなっては危ないのではなかろうか。いつか置き引きとかの被害に遭いそうだ。


 彼女の将来を案じている場合ではない。


 「何処か具合でも悪いんですか? なんか、思いつめたような顔してましたけど」


 「し、してませんよ? そんな顔っ」

 いや、してたんだってば。俺がそんなしょうもない嘘をつく訳がない。


 でも本人に否定されては、これ以上の追及ははばかられる。何か、他人へは言えないような悩みごとでもあるのかもしれない。部外者である俺が、不用意に口を出さない方がいいな。あまりしつこいと、得田のようになってしまう。


 「そうですか。じゃあ、俺の勘違いですね。すいません、気にしないで下さい」


 「い、いえ……」


 苦笑いで誤魔化し、デスクへと向き直る。


 本当は体調が悪いのに無理してなんともないように装った、とかいう話じゃないといいんだが。


 パソコンを弄りながら、俺は横目でそっと宇佐見さんの様子を窺う。

 何処か痛くても、それが顔に出にくい人もいるからな。ちなみに俺もその部類だ。昔から、虫歯になっても中耳炎になっても、表情に苦痛が現れ出ないせいで、言葉で痛みを訴えても「本当に痛いのか?」と、周りの大人からは疑われることが多かった。実際にはものすごく痛いのだが、自分自身を鏡で確認してみてもわずかに顔をしかめている程度。おかげで、成長してからは片頭痛に襲われて痛みを感じる度、周りからは〝今、この人はものすごく機嫌が悪いのだろうから、近づかないでおこう〟という目で見られる羽目になってしまった。頭が痛い時は、いつも以上に社内の女性たちから警戒されている気がする。ただの考えすぎであって欲しいが。


 もしかしたら同じように、宇佐見さんも今すごく体調が悪いのに我慢しているのかもしれない。ただでさえ遠慮深い人なのだから、例え激しい頭痛に襲われたとしても、途中で帰ると迷惑がかかるとかなんとか思って無理して仕事を続けるようなことは、平気でしそうである。ん、これこそ考えすぎだろうか。

 一応、もう一度ちゃんと聞いておいた方がいいかもしれない。でも万が一、的外れな問いだったら恥ずかしいしな。


 たずねるか否か。


 迷っていると、微かに携帯電話のバイブレーションの音が聞こえた。

 俺のではない。隣りのデスクの方から聞こえた。足元の開けた空間に置いてあるカバンへ、宇佐見さんが屈んで手を伸ばす気配がする。確か、彼女はスマートフォンユーザーなはずだ。ここ数日で、一度だけ使用している所を見かけた。


 「……ふふっ」


 とても小さい笑い声。これもすぐ隣りから聞こえた。

 気づかれないよう、慎重に、なるべく首を傾けずに再び宇佐見さんの方へ視線を向ける。


 彼女は、スマホの画面に何か文字を打ち込んでいる最中らしかった。

 長めの髪から覗く横顔には、穏やかな笑みが浮かんでいた。わずかに細められた目が、優しい眼差しを液晶画面に送っている。


 ……宇佐見さんって、こんな表情かおもするのか。


 文字を打つ指がたどたどしいけれど、なんだかとても嬉しそうだ。


 そんな彼女を見て、素直に、可愛いなと思っている自分がいる。


 得田がこの人に好かれたいと思う気持ちも、分からないでもない。こんなに可愛らしい容姿をしていれば、大抵の男の目には留まるだろう。


 そもそも、宇佐見さんに彼氏がいないなんていう保証は何処にもない。むしろ、いた方が納得してしまうような。若いけど、旦那さんがいる可能性だってある。得田はその辺の事情もよく知らずにちょっかいを出しているのだろうが。初出勤で課長から紹介をされた時には、あれほど堂々と「彼氏はいるのか?」とたずねていたのに、結局その答えすら得られていないらしい。〝いない〟と聞けば嬉々として報告してくるだろうし、〝いる〟と言われれば肩を落として落ち込む姿を見かけるはずだ。今の所、そのどちらも起きていない。

 あの、上司にもずけずけとものを言う得田が、ターゲットにした女性に接触することすらまともに出来ていないということは、それだけ宇佐見さんのガードが堅いのか。

 まあ……、話しかけたくらいでうろたえられてしまうんだから、やりにくさを感じても無理もないだろう。


 スマホの操作を終え、元通りカバンにしまい込む宇佐見さんを横目で眺めていると、反対側の視界の隅で何か黒いものが揺れているのに気づく。目に留まったそれは、俺の向かいにあった。


 というか、いた。


 「……何してるんすか、沖さん」


 俺の正面のデスクから、沖さんがこちらを見ていた。久し振りに目が合う。

 首でも痛いのか、時折、右へ左へ頭を揺らしている。さっき視界に入ったのは、沖さんの頭髪だったようだ。


 「…………」

 目が合った直後、沖さんは前髪の奥の瞳をすっと俺からそらした。


 沖さんのこういう態度も今に始まったことではないが、相変わらず何を考えているのか分からないミステリアスな人だ。


 「あ、秋崎くん。そういえば課長、戻って来てるよ。さっき得田くんと話してた件、伝えなくていいの?」


 斜め向かいのデスクから、天満さんが声をかけてくれる。


 「え? あれ、いつの間に……」

 確かに、佐々川課長は課に戻ってきていた。教えてもらうまで気がつかなかった。いつから戻っていたのだろう。


 多分、隣りのデスクを横目で見ながら半ばどうでもいいことを考えていた時か。

 毎日のように一緒に昼飯を食っているせいで、少しずつ思考が得田に似てきているのだろうか。嫌だ、そんなの。四六時中、女のことを考えているようなあいつと同じ脳にだけはなりたくない。


 天満さんにお礼を言って、俺は席を立つ。課長のデスクへ向かいながら腕時計に目をやると、午後の職務開始およそ三分前だった。


 明日から、一人で昼食を摂る回数を増やすか。得田には悪いが。

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