梅雨入りの遅い、六月。 後編
1.傘
十六日、火曜日。朝。
ぱらぱらと、傘の上で弾ける雨音が小気味よく耳に届く。
時折、何の前触れもなしに吹く突風に傘をあおられながら、俺は普段通り家を出、電車を降り会社への道を歩いていた。十日の晩のテレビで気象予報士が言っていた通り、翌日は雨が降り俺たちが住んでいる地域も梅雨入りした。一週間前まではあれだけ暑かったのに、雨が降り出した途端、嘘のように涼しくなった。半袖で歩いていたら肌寒いくらいだ。だから今日は上着を着てきた。
街を歩く誰もが、皆それぞれ傘を差している。色も柄も一つ一つ違っていて、こういうさり気ない所にも個性というものは現れ出るものだと教えてくれる。
ちなみに俺の傘は、ビニール傘。何の個性も、面白みもない。
と、思わないで欲しい。これにはちゃんとした理由がある。
天気の中で雨が最も好きな俺にとっては、雨粒の見える透明な造りの傘がベストなのだ。夜なんか、雨粒に街の灯りが反射して、なかなか綺麗なんだよな。この話をして心からの共感を示してくれた人間は、まだ一人もいない。もしかしたら、これからも出会うことはないのかもしれない。
雨の良さを分かってくれる人が現れたら、あからさまに喜んでしまいそうだ。その人が女性だったら、うっかり結婚してしまうかもな。
自分でも大げさすぎるなと感じ、自嘲気味に鼻を鳴らす。
雨が好きなのは本当だが、強風が吹き荒れる嵐の日は無論、好きではない。そういう日は、まず出勤する所から憂うつである。帰る時までそんな天気が続いていたら、もういっそ会社に泊まってしまいたいくらいだ。
今朝の予報では、これから大荒れになるらしい。強風に加え、所によっては雷雲が発達するということだ。
風にあおられながらも今は原形を保っているこの傘とも、帰りはおさらばすることになるのだろうか。コンビニで数百円で買える代物とはいえ、無駄な出費はしたくない。予報が外れてこれ以上、天候が荒れないことを願う。せめて、俺が帰宅するまでの間に収まるか、俺が家に着いてから荒れて欲しいものだ。
曇天の下をしばらく歩いていると、何気なく、前方を行く人影が目に留まった。
その人物が差している傘に、見覚えがあった。橙と紺、そしてベージュを基調としたアーガイル柄。服ならともかく、傘にアーガイル柄とは珍しいような。
アレ、つい最近、どっかで見たような気がするんだよな……。
記憶を巡らせてみる。確か、見たのは社内だ。連日の雨天で、社員は毎朝、傘を手に職場へやってくる。持ってきた傘は、会社の出入り口に設置されている傘立てに置くのが基本だが、何処かの誰かが置き傘をしたものをそのままにしているせいもあって、すぐに入れる場所がなくなってしまう。何年も前から放置されている傘の持ち主は、きっと既に退職しているのだろう。何本も放置されているが、持ち主は全部同じだったりしないよな。
俺が出社する頃にはいつも満杯状態の傘立て。が、幸いなことに、うちの会社には部署ごとにも傘立てがある。十本も入れればきつきつになるような小さい傘立てだが、ないよりはましだ。というか、なくなったら困る。
確か、経理の傘立てにもあんな柄の傘が置いてあったのを見かけたような。
見たのは先週の終わり、梅雨入りして間もない頃だったと思う。課の人間と挨拶を交わして、自分の傘をしまう時に目に入って珍しい柄だと思ったのだ。
ということは、前を歩いているあの人は、経理の人間か。
そして背の高さを鑑みれば、おのずと誰なのか分かってくる。あんなに小柄な人物、最近まで経理にはいなかった。
最近まではな。
「……宇佐見さん?」
早足で数歩進んだだけで、相手との距離はすぐに縮まってしまう。
俺に声をかけられた人物は足を止め、こちらを振り返った。
……そんな、暗闇の中で背後に気配を感じた時のように恐る恐る振り向かなくてもいいじゃないですか。
「あっ……、秋崎さん。お、おはようございます」
「おはようございます」
宇佐見さんから進んで挨拶をしてくるとは、珍しい。
彼女が来てから明日で一週間が経つが、未だに目を合わせてもらえないままだ。
けれど、どうやらそれは俺に限ったことではないらしく、誰を前にしても宇佐見さんの態度はほとんど変わらない。相変わらず控えめにひっそりと、だが慎重に仕事をこなしている。今の所、目立ったミスもしていない。
唯一、眞鍋さんと接する時だけは明るい表情を見せるようになってきた。毎日、昼食を共にし楽しそうに談笑している様を、俺も時々見かけることがある。
一方で、宇佐見さんが最も警戒心をむき出しにして接するのが、得田である。
あの馬鹿は、何か用がある度に嬉々とした声で宇佐見さんを呼び、やたらと愛想のいい笑顔を浮かべて仕事を頼み、終わった際にはそれ本気で有り難いと思ってるのかと疑問に感じるくらいに大げさな素振りで礼を言う、という行為を繰り返し行っている。あからさま過ぎて、見ているこっちはもはや、突っ込む気も起こらない。だからと言って、それが逆効果だと教えてやる義理もないが。
この、得田の面倒くさい態度のせいで、宇佐見さんは彼からお呼びがかかる度にビクッと肩を震わせてしまうほど、得田のことを苦手になってしまった。俺としては「ざまあみろ」だが、得田に呼ばれて困ったように眉尻を下げながらも小走りで対応しに行く宇佐見さんの小さな背中を見送る時は、彼女に心の底から同情する。 一刻も早く得田に態度を改めさせたいが、俺が何か言った所であいつが素直に聞き入れるとは思えない。自分が〝いい〟と思ったことは、とことん実行する。それがあいつの信条なのだ。本人が逆効果だと気がつくまで、放っておくしかない。
こうなったら、いっそとことん嫌われてしまえと、俺は密かに思っている。いや別に、得田に何か恨みがある訳でもないんだけどな。
「あの……、よく、私だって分かりましたね。傘、差してるのに」
「傘立てにその傘と同じものが置いてあったのを見たので、もしかしたらと思って」
「そ、そうなんですか。そう言われれば、そうですよね」
そうそう言いすぎですよ。俺は〝イエスマン〟という映画のタイトルを思い出す。
勤務日だったここ四日間で確信したのだが、宇佐見さんは他人と会話をするのが極端に苦手だ。一応、会話自体は成り立つものの、相手と目を合わせないのはもちろん、返事がいつも何処か自信なさげで聞く側には微かに不安を抱かせる。そして、やたらと「すみません」と謝罪の言葉を口にする。まあ、こういう人は日本人に多くそこら中にいるけど、どうしてそこまで遠慮する必要があるのかと見ていて不思議に思う時がある。宇佐見さんの場合は特に、そう思わされる場面が多い。
控えめなのは悪いことではないが、もう少し自分の言動に自信を持てないものか。とは思うものの、俺は決して口には出さない。
おせっかいを焼いてまで他人を気にかけるほど、俺はお人好しではない。
……そう思ってはいるんだが、つい口出ししたくなるんだよな。そんなに急いでやらなくてもいいですよ、とか。宇佐見さん、何か頼まれた時は常に小走りで移動する癖があるみたいだし。その内、転んで怪我でもするんじゃなかろうか。
おっと。挨拶を交わしたまま、お互い、直立不動のままだ。
俺は先に進むよう宇佐美さんへ手で促し、歩き出す。
「その傘、変わったデザインですね。傘にアーガイル柄なんて」
「……へ、変、ですかね……?」
「いやいや! 変とかそういうんじゃなくて、ただ単純に珍しいと思って。何処の店に売ってたんですか?」
たずねた途端、宇佐美さんは何故かおろおろし始めた。聞いちゃまずいことだったのだろうかと心配になる。「それ、何処の店で買ったの?」なんてこと、日常会話の中ではよくある流れではないか。
無理して答えることはないと、声をかけるべきだろうか。
迷っていると、彼女がおもむろに口を開いた。
「えっと……。この傘は、妹が誕生日のプレゼントにってくれたものなんです。だから、どのお店に売っていたのかは、ちょっと分からなくて……」
「そうだったんですか。優しい妹さんですね。こんなにおしゃれな傘を選ぶなんて、センスがいいし」
当たり障りのない言葉を返しながら、俺は頭の片隅に〝宇佐美さんには妹がいる〟という情報をメモする。職場の人間や友人が面白い言動を取った時や、その人しか知り得ない家庭内での話を聞いた時など興味深い事柄は、こうしてなるべく覚えておくようにしている。どんな情報が何処で役に立つか分からないしな。
そうするのは、あくまで純粋な好奇心からだ。別に、相手にとって不利益な情報を得て貶めたいとか、そんなあくどい目的がある訳でもない。人間観察を半ば趣味のようにするほど、他人に興味があるから、……と誰かに理由を説明するのならこんな風な言い分になるだろう。
最も、誰かに説明しなくてはいけないような展開なんて、そうそう起こらないだろう。というか、こんな趣味があるなんぞ、誰にも知られたくねぇ。
「持っている傘の中では、一番、気に入ってます。可愛いから……」
最後に小さく付け足された言葉も、頭の中で無意識にメモを取っていた。
女性ならば誰だって可愛いものが好きだろう。分かり切っていることなのに、何でいちいち覚えようとしてるんだろう。何だか最近、メモ魔になってきているような気がする。癖だと言ってしまえばそれまでだが。なるべく、余白は空けておくべきだろう。
にしても、そんなに大事な傘なのに、大丈夫だろうか。
今朝見た天気予報の内容を、俺はもう一度思い出す。今ですら傘があおられて時々のけぞってしまうような風が吹いているのに。これ以上の強風が吹いたら、宇佐見さんの傘はひとたまりもないのではなかろうか。というか、宇佐見さん自体が風で飛ばされてしまうんじゃないだろうか。って、ああ、また随分と大げさなことを考えてしまっている。
けれど、思わずそう考えてしまうほどに彼女は小柄なのだ。おそらく、今まで俺が出会った大人の中でも一番に小さい。近所に住む小学生だって、宇佐見さんよりも上背がある。しかもその子は女子だ。まあ、その子は体育会系だから同学年の他の女子よりも発育がいいだけなのかもしれないが。
ともかく、妹さんからもらった大切な傘が折れてしまわないかどうかが気にかかる。ショックで明日、何かミスをされても困るしな。まあ所詮は事務仕事だから、そんな大惨事にはならないだろうが。
……ん、そういえば。
会話が途切れた合間に、ふと、頭の中に疑問が湧き起こり、俺は歩きながら問いかける。
「宇佐見さんって、いつも通勤はどうしてるんですか?」
うちの会社の職員は、ほとんどの者が電車通勤だ。近くに駐車場がないため、そうするしかないのである。わざわざ遠くの住宅街から車で来て駐車料金をかけるよりも、電車の方が使い勝手がいい。社長クラスともなれば、話は別だろうが。
電車通勤の場合、会社か駅へ向かっている途中に馴染みの社員と偶然、顔を合わせることがある。社内でしか見かけたことのない人と外でばったりと出くわすと、なかなか新鮮な気持ちになるのは、俺だけだろうか。
宇佐見さんと通勤途中にこうして会うのは、今朝が初めてだった。
彼女は毎朝、俺より先に出社している。大体、俺が会社に着くのが遅いというせいもあるだろう。忙しくない今の時期なんかは、たまに出社時間ギリギリだったりする。梅雨時期って、朝から頭が痛くなったり不調な日が多い気がするんだよな。
言い訳はさておき。今朝も俺はいつもと変わらない時刻に起き、電車に乗って今に至る。
出社時間としては充分に余裕があるが、宇佐見さんがこの時間に会社に着いていないなんて、初めてではないだろうか。と、ちょっとした物珍しさを感じたのだ。
「会社には、電車で通ってるんですか?」
「えっと……。朝は、いつも車で母に近くまで送ってもらってます。帰りは、迎えに来てもらったり、電車で帰ったり、です」
「お母さんは、この近くで働いてるんですか?」
「い、いえ。母は専業主婦です。でも、車の運転が好きみたいで……。電車で行くからいいって言っても、私が家を出る時にはもう、車を用意して待ち構えてて。だから無視する訳にもいかなくて……」
「……た、大変なんですね。けど、運転が好きなら何処にでも連れてってくれるから、いいじゃないですか。うちなんて車が一台しかないから、面倒ですよ。姉が唯一、免許を持ってるんですけど、用事が出来た時に送ってくれって言っても、絶対に首を縦には振ってくれないんで、結局はバスか電車を使うしかなくて。一体、何のための車と免許なんだか」
「そう、なんですか。秋崎さん、お姉さんがいるんですね」
ピックアップするの、そこですか。
今のはもっとこう、姉貴の理不尽さについて共感したり、呆れたりする場面ではないのか。
車の話うんぬんよりも、宇佐見さんは俺に姉がいるという事実の方に興味を持ったようだ。というより、半ば愚痴っぽくなってしまった俺の話に、どう相槌を打ったらいいのか分からなかったのかもしれない。
そして今や俺の方が、どう返答すべきかよく分からない。
姉貴への愚痴ならばきっと延々と語れるだろうが、それを聞かされる宇佐見さんがあまりにも可哀想なので今はやめておこう。
「いますけど、別にいいものでもないですよ。お姉さん思いの妹さんがいる宇佐見さんが、うらやましいです」
これは本音だ。性格はともかく、年上の姉を持つ身としては、年下の弟妹がいる生活に少し憧れのようなものを抱いてきた。自分にも弟か妹がいれば、誕生日に贈り物をし合ったりして可愛がったかもしれない。まだ姉貴の手下のように扱われていた時分には、よくそんなことを思ったものだ。
少しだけ遅れて隣りを歩いている宇佐見さんが、黙り込む。どう言葉を返したらいいか、思案している様子だ。
俺の言葉を真に受けて妹さんの自慢をしてこない辺り、やっぱり彼女には謙虚さを感じる。ただ単に、お世辞と思っているだけかもしれないが。
「……でも、やっぱり私は、お姉さんがいる秋崎さんがうらやましいです。だって、私なんて―――」
話している最中に、また突風が吹く。
大きく傘をあおられた宇佐見さんが、小さな悲鳴を上げた。咄嗟に傘の柄をつかむ手に力を込めて飛ばされまいと踏ん張る。アーガイル柄の傘は、一瞬だけ裏返りはしたものの風が収まる前には無事に元の形に戻った。折れなくて良かったと、何故か安堵している自分がいる。
「大丈夫ですか?」
「あっ、はい。ちょっと、びっくりしました」
突風に吹かれた感想はどうでもいい。
「帰りは、近くまで迎えに来てもらった方が安心かもしれませんね。今日は、これから雨も風も強まるみたいですから」
「そう、ですね。後で、母にメールしてみます」
大事な傘の命運がかかっていることだし、それがいいだろう。
嵐のせいで、帰りの電車に遅延が出ないとも限らないしな。いくら電車が停まろうが、姉貴にメールをした所で絶対に迎えになど来てはくれないだろうから、ドライブ好きなお母さんを持つ宇佐見さんが、やっぱりうらやましい。
俺には、これ以上の荒天になって電車が停まったりしないよう、帰る瞬間までずっと祈り続ける以外、手段がない。
運転免許を取って、中古車でも買うか。
会社に着き、傘を閉じるのにもたついている宇佐見さんを眺めながら、俺は本気でそんなことを考えていた。予算は足りるのだろうかと、勝手に計算をし始める己の頭に、ちょっとだけイラっとした。
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