4.姉と弟

 

 午後九時半すぎ。



 「ふーん。それで、その新入社員の子がアンタにこのチョコをくれたって訳」


 風呂上がりには、やっぱりコーヒー牛乳だよな。


 自宅の居間で、スマートフォンの画面を眺めながら、傍らに置いてあるマグカップの中身を飲み干す。普通、風呂上がりにはビールだろ、という全国のおじさんたちからの突っ込みが聞こえてきそうだが。ビールの苦みよりもコーヒー牛乳の甘みの方が、俺にとってはよっぽど魅力的なんだ。


 さして興味もなさそうな口調で言い、食卓の上に置かれたチョコレート菓子の小さな袋を指でつまみ眺めているのは、姉の秋崎瑠衣るいだ。俺より三つ年上で、すらりと背が高く切れ長の目を持つ女性である。

 学生時代によく友達を家に遊びに連れてくると、姉貴の姿を見かける度に「お前の姉ちゃんって、美人だよなー」と、こぞってうらやましがられたものだ。


 が、彼らはこの瑠衣という女のことを全く知らないから、そんな褒め言葉を言えるのだろう。確かに、ルックスだけはテレビに出ているその辺のタレントにも負けず劣らずだ。が、問題は中身、性格にあった。


 小さな頃から、瑠衣は傲慢な少女だった。

 言うなれば、女王様タイプというやつだ。周りの大人たちは皆、自分の言うことを聞くものだと信じ込み、思い通りにいかないと悟れば泣きわめく。それはもう手のかかる子供であった。


 ついには、弟である俺を下僕のように扱い、足蹴にする始末。


 幼かった俺は、最初こそ泣く泣く従っていたが、物心つくと彼女に対する反抗心が湧き、指図されても拒否する回数が増えた。そんな俺が気に食わず、瑠衣はさらにひどい仕打ちを与えてくることもあったが、成長するにつれて、いつまでも自分の思い通りに物事が働く訳ではないと学習したのか、中学に上がる頃には人が変わったように大人しくなった。


 ……大人しく、とは言ったが、それはあくまで当事者の俺から見て、である。

 例の女王様気質も、大方は収まったものの、まだ時々その片鱗を覗かせる。特に、男性に対して。


 女性の友人・知人らには、極めて親切で明るい印象を与える彼女。だから同性からはとても好かれていて、交友関係も広い。が、異性に対しても同じだろうと侮るなかれ。姉貴は男相手だと、性格が一変するのだ。

 俗にいう、S気質。最初は至って普通に接するが、それが本当の彼女だと勘違いしてはいけない。その内、徐々に本性を現し、うっかり交際に発展などしようものなら、必ず尻に敷かれる羽目になる。故に、姉貴が家に男の人を連れてくる度に、俺はその人の精神状態が心配で仕方なくなるのだ。

 М気質の男性となら、ひょっとすれば上手くいくのかもしれないが、姉貴にビシバシしごかれているその誰かさんの姿なんて、同じ男としてあまり見たい光景ではない。たとえ本人が喜んでいたとしても、それはそれで直視したくない。


 だが、根は真面目なおかげか、姉貴は若くしてとある大手企業の部長にまで上り詰めた。今では何人もの部下を従え、持ち前の女王様気質は職場で発揮されているようだ。これで結婚でもすれば、おふくろにとっては、めでたしめでたしだろう。


 「これ、一個もらっていい?前から美味しそうだなと思ってたのよねー」

 「一個だけだからな。つーか、食べたかったんなら自分で買えばいいだろ。金なら、たんまり稼いでるんだし」

 「だって、食べてみて口に合わなかったら嫌じゃん? 私、あんまり甘いの好きじゃないし」


 姉貴は大の酒好きだ。酒豪と言ってもいいくらいに、毎日酒を飲む。酒癖が悪くないのは、せめてもの救いだ。彼女が本気で酔う姿は、あまり見たことがない。それだけ酒には強い体質ということだ。


 ちなみに、俺は酒にはめっぽう弱い。そもそも酒のあの独特な味や苦みはあまり好きではないし、350㎖を飲み干さない内に酔いが回ってしまう。入社して約一年後、成人を迎えた頃は、飲み会で上司らに付き合って飲むのが大変だった。今では職場の人たちも俺の体質を理解してくれているから、酔っぱらうこともあまりなくなった。酒に強い点は、姉貴がうらやましい。


 「う、甘っ……。私これ、駄目だわ。やっぱ買わなくて正解」


 顔をしかめて言うと、瑠衣は口直しと言わんばかりに飲みかけの発泡酒を喉に流し込んだ。よくもまあ、上手そうに飲むものだと、タオルで頭を拭きながら俺は思う。


 「にしても、アンタが女の子に仕事を教える係なんて……。いくら事務作業とはいえ、大丈夫かしら」


 大方の事情を聞いた姉貴が、ノートパソコンの画面に目を向けながら肩をすくめる。宇佐見さんからもらった菓子を食卓の上に置いておいたら、興味を持った姉貴が菓子のことについてたずねてきて、成り行きで今日の出来事を話さなくてはいけなくなったのだ。なんとなく、学校であったことを晩ご飯の時に親に話していた小学生の時分を思い出した。同時に、横暴だった頃の姉貴から受けたひどい仕打ちの数々も頭を過りかけ、ため息をつく。


 「俺にも分かんねぇ。他人に何か教えるのって、あまりやったことないし。けど、得田にやらせるよりは安心だろ」

 「得田って、あの得田? アンタの後輩の? ああ……、そりゃあ、あの子に任せるには不安要素が多すぎるわね」


 得田の名前を出した途端、瑠衣が目をすがめ納得するようにうんうんとうなずく。高校生の時、一度だけ得田を家に連れてきたことがあるのだが、運悪く……というかタイミング悪く姉貴もその場に居合わせた。そして案の定、得田は姉貴に一方的に好感を抱き、一緒に苦手科目の勉強をするという当初の目的まで忘れて、姉貴を質問攻めに遭わせる始末である。俺と姉貴とで協同し、なんとか小一時間程度で面倒な事態は収束したのだが、散々な目に遭った姉貴はすっかり得田を要注意人物とみなし、今後は絶対に家には連れてくるなと俺に強い口調で言い聞かせた。

 それ以来、得田にはこの家の敷居はまたがせていない。最初の来訪からしばらくは、また連れて行けと口うるさくせがまれたものだ。あれは本当に、いちいちあしらうのも面倒くさくなるほどしつこかった。


 その得田よりはましだと、姉貴に思われていることに俺は内心ほっとする。


 「っていうか、アンタのいる経理課って、そもそもなんで今まで事務員いなかった訳? そしてなんで今更、新しい子を雇ったの?」

 「それ、俺も気になって聞いてみたんだけど、両方まともな回答は得られなかったんだよな。まあ多分、問い詰めた所で大した理由でもないんだろうけどさ。俺は与えられた職務を全うするまでだし」

 「何、格好つけてんのよ。どうせ上司から押しつけられただけのくせにさ。たまには上に逆らうとかしてみなさいよね。……ああ、小心者のアンタには無理な話かしらねぇ」


 嫌味たらしい台詞を、意地の悪いにやにや笑いと共に並べ立てられては、さすがに腹も立つ。


 ……が、ここで反論しては負けだ。


 取っ組み合いならば、男の俺の方が力もあるから有利だろうが、口喧嘩なら圧倒的に姉貴の方が強い。何処で覚えたのかと目を見張るような語彙力を用いて、彼女は器用に相手をなじるのが大の得意なのだ。それはもう口の悪さにかけては天下一品、と言ったら多分、容赦のない拳や蹴りが飛んでくるだろう。

 とにもかくにも、俺は姉貴とだけは言い争いをしないと中学か高校の頃に固く胸に誓っている。まともにやり合えば、例え勝てたとしても俺のメンタルはずたずたに切り裂かれることだろう。これは経験に基づく、至って信憑性の高い推測だ。


 文句の一つも言ってやりたい気持ちをぐっとこらえ、俺はテレビのリモコンに手を伸ばし、赤色の電源ボタンを押す。点いたテレビ画面には、不倫をして報道陣に追いかけられている有名俳優を捉えた映像が流れ始めた。九時からやっている報道番組のようだ。


 「ま、やるからにはきちんと教育してあげなさいよね。その新人さんを」


 弟が何も言い返してこないのが面白くないらしい。ふん、と鼻を鳴らした後で瑠衣は聞くからに不機嫌な声で話を結んだ。


 言われなくても、そうするさ。


 仕事内容を教えるのはもちろん、宇佐見さんとはもう少しコミュニケーションを取った方がいい気がする。いくら他人と接するのが苦手なんだとしても、職場の人間から声をかけられる度に身構える癖はどうにか直せないものか。やっぱり怖がられてしまっているんじゃないかと、ちょっとだけ不安になるんだよな。俺が。


 まあ、まだ一日目なのに、すぐその場に慣れろというのも無理な話だろう。


 今は様子を見ながら、少しずつ教えることも増やしていこう。


 彼女のようなタイプは多分、最初から自分の領域に無条件で他人を招き入れることはしない。打ち解けるまでには時間を要するタイプで、だからこそ、強引に近づいてくる相手には案外あっさりと心を開いたりする。眞鍋さんがいい例だ。彼女と毎日接すれば、宇佐見さんの心も解きほぐされるかもしれない。


 不要な手出しも口出しもせず、しばらく見守るに限るか。


 思案しながら眺めていたテレビ画面が、やがて天気予報へと変わる。

 明日の天気は雨だ。気象予報士が言うには、本格的に梅雨入りするらしい。気温も今日より二、三度低い予報で、すごしやすい日になりそうだ。続けて表示された週間予報には、青い傘や灰色の雲のマークがずらりと並んでいる。

 やっとこの時季らしい天気になってきたな。あの季節外れの暑さが和らぐのなら、梅雨であろうと歓迎してやろう。


 「まあ。沖縄、明日は大荒れですって。兄さん、大丈夫かしら」


 今まで黙々と食器洗いをしていたおふくろがテレビに目をやり、布巾で手を拭きながら心配そうに呟く。


 母の兄、すなわち俺の伯父は只今、遠く離れた沖縄に出張中らしい。


 あの人なら、俺と違って姉貴の罵詈雑言にも耐えられるくらい強靭なメンタルを持っているし、急な嵐にもへこたれないだろう。月曜には、けろっとした顔でお土産を渡しに来るに違いない。何か甘い物なら嬉しいのだが。〝紅芋タルト〟とか。


 天気予報が終わり、スポーツコーナーが始まる。


 さて。そろそろ髪を乾かして、自室に引っ込むか。また姉貴に絡まれるのも面倒だしな。


 スマートフォンをスリープ状態にしてテーブルに置き、俺は立ち上がる。


 もう少し起きているつもりだが、頭の中では既に翌日のことを考え始めていた。 明日は今日よりも少しだけ早めに家を出よう。結局、教育係としての仕事を優先させてしまい、時間が足りずに本来の仕事をいくつか残したままにしてきてしまったのだ。幸い、残業をしてまでやらなければいけない量ではなかったので、定時で帰宅することが出来た。頑張れば、職務開始時間よりも前に終わらせられるだろう。

 基本的なことは今日中に宇佐見さんへ教えられたが、あの自信のなさが気にかかる。分からないことがあればすぐに聞くようにと伝えたものの、俺の目の届く範囲にいる時は、なるべく動向をチェックしておきたい。


 これはあくまで、仕事を教える立場としての責任感からきたものであり、他意はない。


 けど、得田が妙な行動をしないように当分の間は見張っておいてやろう。こちらには少しだけ、宇佐見さんを案じる俺自身の情も含まれている。まあ、菓子をもらった恩返しのようなもので、容易いことだ。あの女好き野郎につきまとわれて、せっかく入社した新しい職場をやめることになっては可哀そうだし。って、さすがにそれは気にしすぎか。


 何にせよ、俺はやるべきことをするまでだ。


 洗面所の鏡の前に立ち、俺は家族共同で使っているマイナスイオンドライヤーのスイッチを入れた。

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