2.教育係
「今日から事務補助として配属されることになった、
「はいっ。はい、課長!」
まるで、小学校で転入生を紹介する時のような、実に簡単で何の捻りもない言葉。
もっと何か気の利いたやり方はなかったのだろうかと疑問に感じたものの、上司を前にしてそんな態度はおくびにも出さず俺は黙って成り行きを見守っていた。
短い紹介が一段落着いた所で、場違いとも言えるような威勢のいい声と共に手を上げたのは、後輩の
「うん? 得田くん、何か質問?」
「宇佐見さんは今、彼氏はいますかー?」
「へっ!? え、ええっと」
「宇佐見さん、答えなくていいからね。得田くん……、そういうプライベートなことをこんな公の場で聞かないの」
「えー、だってとても重要な情報じゃないですかー」
「それは君にとってだけでしょうが」
「初対面の女の子にいきなり彼氏がいるかどうか聞く男って、第一に嫌われるよ」
和やかな笑みを浮かべて茶々を入れたのは、
「天満さんが質問したら、女の子はきっと何でも答えてくれるんでしょうね。いいなー、顔が良いってやっぱり得だなー」
「そんなことないって。男は見た目より、中身だよ。ねえ、
「……」
にこやかな笑みと共に、かけている眼鏡の位置を直しながら、天満さんが隣りのデスクに話を振る。
俺より四つ年上の沖さんは、口下手らしく必要な時にしか言葉を発しない。俺は彼と目が合ったことすらあまりないのだが、いつかの酒の席で聞いた話では、昔から無口で引っ込み思案な性格というだけで別に他人へ敵意を向けている訳ではないらしい。そんな沖さんを天満さんは何故か気に入っているみたいで、相手からの反応は無くとも積極的に声をかけている姿が毎日のように見られる。
この時も沖さんは、長い前髪の奥に隠れた目をパソコンのディスプレイ画面に向けたまま、黙り込んでいた。
「はいはい。そういう話はこの辺にしておいて。他に質問がなければこれで紹介は――」
「課長。俺からも一つ質問、いいですか?」
意を決して挙手した所へ、得田の含み笑いが聞こえてくる。
「あっきー先輩、俺を真似て宇佐見さんの趣味をたずねる気ですね?」
「お前と一緒にするな。というか、その呼び方はやめろって、何回言えば分かるんだ」
「猿みたいで恥ずかしいんですか?」
「普通に、ちゃんと、名字で呼べと言っている」
「いいんじゃない? あっきーってあだ名、呼びやすそうだし。あ、僕もこれからそう呼んでもいい?」
「天満さんまで……。勘弁して下さい」
「あー、はいはい。で、質問って言うのは?」
俺たちのやり取りを、困ったように苦笑しながらなだめ、課長が改めて俺にたずねてくる。課長が時間を気にするのも当たり前だ。もう就業時間はとっくに始まっているのだから。
無駄な会話で残業になどなったりしたら、元も子もない。
手短に聞こう。
「俺、今日この日に新しい人が来ることをたった今まで知らされてなかったんですけど」
「えっ? あれ、言ってなかったけ? 俺、ちゃんと皆に話したよね?」
「ええ、確かに聞きましたよ。……そういえばその日、秋崎くんは有休取ってなかったっけ? ほら、片頭痛がひどいとかで」
天満さんが普段通り、にこやかに課長の問いかけにうなずく。続けて、思い出したように発せられた言葉に、今度は課長が納得したようにうなずいた。
「ああ! そうだった、そうだった。話をした時に一人いなかったことを忘れてて、もう全員に話した気になっちゃってたんだなぁ。いやぁ秋崎くん、ごめんごめん」
「は、はぁ……」
忘れられていたという事実は、多少なりともショックだったが、ひとまずこれで疑問は解消された。
俺は上げていた手を、力なく下げる。
これが仕事に関する重要な内容だったとしたら、それを知らされていない俺は一人でとんでもないミスをしでかしていただろう。考えたくもない。
というか、課長が話すのを忘れていたにしても、他の職員もその場に居合わせたのだから、誰かが代わりに俺へ伝えてくれてもいいじゃないか。あの得田からでさえ、新入りの話は聞いた覚えがないのだが。女性が入ると知ったら尚のこと、嬉々として話してきそうなものだが。
新入りの性別までは把握していなかった、ということも考えられるが、あいつなら真っ先に女性か否か課長に白状させるだろう。得田の女性への執着心は、もはや呆れを通り越して思わず感心してしまう域にまで達している。いや決して、褒めている訳ではないが。
「まあ、そういうことなんで、改めてみんなよろしく頼むね。じゃ、ひとまず通常業務に戻って下さい」
課長が話すのをやめた途端、マウスのクリック音と指でキーボードをたたく音が聞こえ始め、ほぼ全員の視線はパソコンへ向けられる。業務の時とその他の時の切り替えが早いのは、何処の部署も変わらないが、何故かうちは群を抜いて早いとよく他の課の人間から言われる。意識の切り替えのコンテストなんてものがあったら、うちの経理課は優勝出来るかもしれない。
周りに
今日もいつもと変わらない作業、すなわちパソコンとのにらめっこの幕開けだ。
「あー、秋崎くん。ちょっと、こっちに来てくれる?」
「……?」
話が終わったと思ったら、課長の方はまだ話し足りないようだ。
丁度いい。俺も、もう一つどうしても聞きたいことがあった所だ。
「課長、なんすか?」
席を立ち、真っ直ぐに課長のデスクへ向かう。椅子に腰かけた課長の脇には、所在なさげに立ち尽くしている宇佐見さんの姿もあった。
「急で悪いんだけど、君に頼みたいことがあってね」
「頼み、ですか」
「うん。今日からしばらくの間、宇佐見さんに事務の仕事を教えてあげてくれないかな」
「えっ。俺が、ですか?! いや、だってそういうのは
眞鍋さんは、うちの会社のれっきとした事務員だ。十年近く勤めている古株の女性で、性格は朗らかで接しやすいし、どんな事務仕事もそつなくこなす。本来は人事課の事務として雇われたのだが、隣りの総務課で事務として働いていた女性社員が先月になって寿退社してしまったため、現在は総務の事務仕事も併せてこなしているらしい。
経理課には俺が入社した時から事務員はいなかった。あまりにも忙しくて、雑務にまで手が回らない時には退社してしまった総務課の社員に時々、手伝いに来てもらっていた。
……そもそも、総務課に新しい事務員が来るまでの間は、眞鍋さんが掛け持ちでそれぞれの課の事務作業を担う、という話だったはずだ。彼女自身も快諾し、前よりも給料が多くもらえるとむしろ喜んでいたのだが。
何故、今になって、しかも
これが課長に聞きたかったことだ。
しかし、俺がたずねる前に課長が声を潜めた上で真相を話してくれた。
「いやぁねぇ……。眞鍋さん、どうも最近、身体の調子が悪いみたいでさ。人事課長に聞いた話では、どの部分にかは分からないけど腫瘍が見つかったらしくて。それが悪性かどうかの結果はまだ出てないらしいんだけど、もう本人はすっかりガンだって決めつけて落ち込んじゃっててさ……。元々は本人も、仕事を掛け持ちする気で張り切ってたんだけど、ほらもう年齢も年齢だし、やっぱり無理をさせるのは良くないんじゃないかって」
四十代半ばの佐々川課長は、まるで自分のことを案じるようにため息をついた。
彼よりも五歳年上の職員の具合が芳しくないと聞いて、自らの近い将来に重ね合わせてしまっているようだ。下げられた両肩には、何処となく哀愁が漂っている。
「そうだったんですか……。それは確かに、心配ですね」
眞鍋さんに同情したのは確かだが、それでもまだ疑問は残る。
「で、それならどうして総務課じゃなくて、経理課に新人さんを雇ったんですか?」
「なんとなく、らしいよ」
「……へ?」
なんだその大雑把な雇用理由は。
いや、待て。早合点するのは良くない。まだ課長の言葉には続きがあるはずだ。
「総務でも今、新しい事務員を募集してるのは知ってるよね。で、募集を出す段階で、そもそもなんで経理には事務員を雇わないんだって話になって。長年、いないのが当たり前みたいになってたけど、この機会だから経理も一人雇ったらどうかって。ほら、うちの会社、新しい事業を始めてから利益も増えてるしさ」
「……いや、それならそれで今働いてる職員の給料を上げる方がいいんじゃ」
これは一社員としての本音だ。新人を一人増やされるより、新事業で得た利益分を俺たち一般社員に配分してくれる方が正直、有り難い。
まあ、別に今の給料体制に不満がある訳でもないんだが。その方が平等だろう。
「もう決まったことだしさ。それに、繁忙期には余分に一人いてくれるだけでも助かるし」
「はぁ。……で、どうして俺が教育係に選ばれたんですか」
事務補助の仕事は、言ってしまえば雑務なのでそれほど難しいことをする訳でもない。特に、新卒で雇われた新人はほとんどの者が事務作業をさせられた経験があるはずだ。俺もその一人だから、事務の仕事内容の大方は頭の中に入っている。
得田も同じはずだが、……あいつに教育係を任せるのは正直、不安でしかない。
ああ見えて、意外にも仕事はきっちりとこなすタイプだが、他人に物事を教える役割までもが務まるとは思えない。相手が女性ならば、尚更だ。場合によっては、セクハラで訴えられそうである。
なんだか、返答を受ける前に理由が分かってしまった気がする。
「さっきも言ったように、眞鍋さんにはこれ以上の負担をかけたくない。それに、宇佐見さんは経理の職員なんだから、うちの人間が仕事を教えてあげないとね。幸い今は比較的、仕事も落ち着いている時期だ。秋崎くんは宇佐見さんと歳も近いし、事務の仕事をよく知ってるから適任かなと思って。まあ、俺の一存だけどさ、お願い出来ないかな?」
経理課は六人で業務にあたっている。その中で一番の若人と言えば、得田だ。だが、課長から見ても彼に教育係は不適と思えたらしい。賢明な判断だ。
そして俺は、上司の頼みを断るなどというそんな恐れ多いことを平気で出来る人間ではない。というか、断る理由も特にない。これが繁忙期であったなら、大いに悩んだことだろうが。
「分かりました。俺で良ければ、出来る限りのことはやります。でも、教え方に自信はないんで、一応マニュアルに
「あー……。どうだったかなぁ。なんせここ何年も事務は雇ってなかったから、ファイル自体残ってるかどうか……」
マニュアルの所在自体が分からないんじゃ、探すだけ無駄な気がするな。
「なら、総務のマニュアルを借りた方が早いですね。俺、ちょっと行って借りてきます」
「頼んだよ、秋崎くん。宇佐見さん、もう少しだけ待っててね」
既に歩き出した俺の背後で、課長が宇佐見さんへ気遣うように声をかけるのが聞こえた。きっと、彼女は未だ落ち着かない様子で返答していることだろう。
只今、事務員が不在中の総務課に行って、適当な人に声をかけ、俺はマニュアルが書かれた紙が綴られているファイルを借りた。すんなりと貸してもらえて良かった。
ファイルの中身を流し読みしながら経理課へ戻ってくると、前方に立つ小さな人影が視界の隅に映る。
宇佐見さんだ。
課長のそばを離れ、俺の後を追うようについて来た所で、待っててくれたようだ。
ええっと。まずは名乗っておくべきか。
怖がらせないように、なるべくやわらかい口調で言おう。
「あ。俺、秋崎っていいます。宇佐見さん、でしたよね。今日からよろしくお願いします」
「はっ、はい! よろしくお願い゛っ!っ……」
噛んだ。それも、かなり勢い良く。
本人も相当、痛かったのだろう。手で口元を押さえ、目尻には薄く涙の膜が張っているのが見えた。
憐みの気持ちより先に、可笑しさが込み上げてきて、俺は吹き出しそうになるのを必死にこらえるため、口元を手で押さえる。なんか、俺まで舌を噛んだ人間のように見えてこないか。
「だ、大丈夫っすか……?」
「……は、はい。なんとか……っ」
もごもごと、消え入りそうな声で宇佐見さんが返答する。まだ痛そうな顔をしているが、本当に大丈夫だろうか。
「焦る必要とか全くないんで、仕事のやり方もゆっくり覚えていってくれれば、問題ないですから。肩の力を抜いていきましょう」
数秒間、様子を見守ってから控えめに声をかける。
「すみません……。よろしくお願いします」
溜まった息を大きく吐き出した後、さっきよりかは少しだけ落ち着いた様子で彼女は俺に軽く頭を下げた。「こちらこそ」とうなずき、俺は手に持っていたファイルを再び開いた。
事務の仕事内容は、どの部署でも大方は同じだ。総務から借りたマニュアルだが、ここに書かれている通りのことをやっておけば間違いはない。
唯一、パソコンを使った作業だけは経理と総務ではやり方などが異なるが、その辺を教えるのは最後の方でいいだろう。比較的、職員から頼まれる頻度が特に高い作業から順番に教えていくことにしよう。
とりあえず、アレからいっておくか。
「まずは一緒に、社内を一周してみましょうか。大手の企業のように複雑に入り組んでいる訳でもないので迷うことはないと思いますが――」
と、そこまで言いかけて、俺はエレベーターの中で宇佐見さんに対してどうしても突っ込みたかったことがあったのを思い出す。改善させるならば、今がチャンスではないか。
「……その前に。あの、宇佐見さん」
「えっ? あ、はい?」
「暑くは、ないんですか?」
相変わらず、彼女は上着を着たままなのだ。
社内は一応、夏場は冷房が効いているが、それも申し訳程度だ。クールビズのおかげで半袖で過ごせるからいいものの、真夏になるとそれも気休めにしかならない。周囲にビル群があることが幸いし日陰の多い社内であっても、外の気温が三十度を超える日なんかは、今すぐ水風呂に飛び込みたいという欲求に駆られるほどに、暑い。
今日は、半袖で過ごしていて丁度いいと思える程度で済んでいる。
だが、どういう訳か長袖を着用している宇佐見さんは、絶対に暑いはずだ。熱中症で気分を悪くされても困る。
「五月からは、うちの社内でもクールビズが取り入れられているので、半袖や七分袖で出勤していいんです。宇佐見さんも、暑かったら上着を脱いでもいいんですよ」
「……そういえば、もう始まってるんですもんね。じゃあ、今の内に脱いでおきます」
彼女の口振りから察するに、クールビズのことは知っているようだ。
ただ、開始の時期を把握していなかったらしい。明日からは、ぜひ半袖か七分袖で出勤することを勧めたい。
きっちりと留められていたボタンを外し、宇佐見さんが上着を脱ぎ始める。
……おい待て。中に着ているシャツまで長袖じゃないか。
てっきり、シャツくらいは半袖を着ているものだと、勝手に思っていたのだが。
これじゃ暑いに決まっている。というか、よく汗をかかないな。俺は出勤途中、半袖でも汗だくだったというのに。
男女の体内における温度調節機能には、何か差があるのだろうか。
汗が出にくくなる秘訣があるのならぜひとも教えて欲しかったが、宇佐見さんのためらいがちな声で俺の意識は現実に引き戻された。
「あの、上着……何処に置いておけばいいですか?」
社内には一応、職員が自由に使っていいロッカーが部署ごとに設置されている。
正社員の間では既に自分専用のロッカーの場所が、暗黙の了解で決められている。というか、入社した時にたまたま空いていた所を適当に使い、そのまま今に至るといった実に単純な経緯でしかないのだが。
尚、入れ替わることの多い事務職員は、空いていればロッカーを使う人もいるが、最初から荷物などは自分のデスクに置いたり引き出しの中にしまったりと、敢えてロッカーを使用しない人もいるようだ。長く勤めている眞鍋さんは、後者に当てはまる。ロッカーは使わず、デスクの一番下の少し深めに作られた引き出しの中にカバンを入れ、上着は椅子の背もたれにかけている。
以前、何気なく理由を尋ねてみたら、「ただロッカーまで行って、出し入れするのが面倒なだけ」という返答を受けた。
そういえば宇佐見さん、カバンはどうしたのだろう。俺が総務にマニュアルを借りに行く直前までは手に持っていたと記憶している。
「持ってきたカバンはどうしました? ロッカーに入れました?」
「い、いえ。課長さんが、そこの空いている机を自由に使っていいと言ってくれたので、置かせてもらいました」
宇佐見さんが指し示したのは、しばらく誰も使っていないデスクだった。丁度、俺のデスクのすぐ隣りの位置にある。そこの机上の片隅に、まるで遠慮するかのようにひっそりとカバンが置かれていた。
「じゃあ、とりあえず今は上着もそこに置いときましょう」
「はい」
しわになってはいけないと考えたのか、宇佐見さんは上着を荷物と一緒に置くのではなく、椅子の背もたれにかけた。
昼休み中にでも、ロッカーの存在を教えてあげることにしよう。
「では、社内一周の旅に出ましょうか。あ、これ、会社の見取り図です。一応、持ってて下さい」
あらかじめファイルから抜き取っておいた見取り図を、宇佐見さんに手渡す。アドベンチャーゲームで言う、地図といった重要なアイテムだ。ただ、ゲームとは違って現実世界では地図は複製可能である。
これは後でコピーを取らせてもらおう。その時、宇佐見さんにコピー機の使い方を教えれば一石二鳥だ。
「一階から順に案内しますので、俺の後について来て下さい」
「は、はいっ」
何やら彼女の声に気合が入ったように思える。
また力を入れすぎて、空回りしなければいいんだけど……。
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