人間観察が趣味の俺が、中途採用された女性社員を観察してみたら。

梅雨入りの遅い、六月。 前編

1.出会い

 十日、水曜日。朝。



「暑い……。まだ六月だぞ、どうなってんだこの国は」

 蒸し風呂のような満員電車を降りて、お次は季節外れの炎天下かよ。

 汗でシャツが肌に貼りついて気持ち悪い。あまりの暑さに、うっかり自分の素性すら忘れてしまいそうだ。


 俺の名前は、秋崎伴也あきざきともや。男。歳は二十三。平々凡々とした、会社員だ。担当業務は経理。趣味は読書とゲーム、他人を観察すること。後者は、あまり普通の趣味とは言い難いかもしれないが、紛れもない事実なのだから仕方がない。

 容姿は、極めて普通。が、目つきが鋭くてさらに背丈が高いせいで、やたらと周りに怖がられることが多い。例え、何もしていなくても、だ。

 あと、初対面の相手には何故か決まって喧嘩が強そうだと言われる。まあ実際、強い方だとは思うけど。


 ……と、何で俺は一人心の中で自己紹介なんかしてんだっけ。暑さのせいで、とうとう頭がおかしくなってきているのか。


 六月の上旬も終わるというのに、梅雨入りはまだしていない。代わりにこのはた迷惑な猛暑が、ここ数日は猛威を振るっている。梅雨が明けてからようやく暑くなってくるのが、この国の夏ではないのか。

 異常気象も大概にして欲しいもんだ。

 その内、こういう気候が当たり前になっていくのかもしれない。勘弁して欲しいなと、俺はまだ会社に到着してもいないというのにネクタイを緩める。


 なるべく日陰を選びながら歩いて行くと、間もなくして自分の勤めているオフィスビルが見えてくる。駅から徒歩約十分。周囲にそびえ立つ高層ビルの、半分にも満たない高さの建物で、日中でも直射日光が当たらないエリアの方が多い。夏は涼しくて快適だが、冬の冷え込む時期になると社内では毎年、風邪が大流行する。つまりは、良すぎることも悪すぎることもない立地だ。


 俺は建物に入ると、メインフロア……と一応は呼んでいるが決して広くはない場所を突っ切り、そのままエレベーターがある方へと向かった。受付は存在するが、出勤時に社員の情報を手持ちのパスで読み取って、とかいうそんなハイテクなシステムはうちの会社には備わっていない。

 受付の社員には顔も覚えられているため、挨拶をするだけで中に入れるという訳だ。今後、セキュリティの甘さという大きな欠点が嫌でも目立ってくるだろう。


 三階のボタンを押し、エレベーターが現在停まっている階を確認する。

 ……最上階か。ただ黙って待つのはあまり好きじゃないが、もう既に汗だくになっているというのに階段なんて使いたくはない。


 嫌にゆっくりと点滅していく階数表示を見上げながら、数秒間、暇な時間を持て余す。


 「……失礼ですが、どちら様でしょうか?」

 と、俺の背後、受付の辺りからそんな台詞が聞こえてきた。


 確か、受付担当の女性社員は必要以上の会話はしないような、とても無口な性分をしていたはずだ。そんな人が自分から声をかける相手ということは、この会社の人間でも、よく顔を出す取引先の人間でもないのだろう。


 ついに、うちの会社にも不審人物が現れたのかもしれない。


 不謹慎にも妙な好奇心を抱き、俺は受付に目を向ける。


 すぐに、別に一大事でも何でもないと確信した。


 そこに立っていたのは女性、しかもかなり小柄な人物だったからだ。ちゃんと身なりの整った、何処にでもいるOLといった雰囲気の人だ。

 が、やはりうちの会社の人間でもなければ、俺の知っている限り取引先の人間でもないようだった。どうやら、この建物に入ったのも初めてか不慣れのようで、受付を素通りしかけた所を社員が声をかけた、という状況のようだ。


 「あ、あの、怪しい者ではなくて……。ええっと」

 彼女は、何やらあたふたとしながらドラマなんかでよく耳にするようなことを言い始めた。


 そんな台詞、現実世界で聞いたのは生まれて初めてだぞ。


 傍から見れば言葉とは裏腹に怪しさが充満しているようだが、受付の人は何かに気がついたらしく「もしかして」と再び口を開く。

 「今日から出社なさる、新入社員の方でしょうか」

 「は、はい……! そうです!」

 「では一応、確認のため身分証をご提示いただいてもよろしいでしょうか」


 「運転免許証で、大丈夫ですよね……?」

 自信なさげに言いながら、女性は持っていたカバンから免許証らしきものを取り出し、社員に手渡した。数秒の沈黙の後、免許証はすぐに持ち主へと返された。


 「確認いたしました。……様、ですね。三階で担当者がお待ちですので、あちらのエレベーターをお使い下さい」

 「あ……ありがとうございます。失礼しました!」


 受付の人が名前を言ったようだったが、エレベーターの到着を知らせる音が重なり、それに気を取られたせいで上手く聞き取れなかった。


 ガゴンという音と共に、丁度いいタイミングで降りてきたエレベーターの扉が開いた。俺は迷わず乗り込み、慣れた動作で三階のボタンを押す。


 と、パタパタと軽やかな足音が近づいてくるのが聞こえた。

 さっきの女性が、案内された通りにエレベーターを使うべく足早にこちらへ向かって来ている所だった。ほとんど条件反射で、俺は〝開〟のボタンを長押しする。程なくして乗り込んできた女性は、申し訳なさそうに軽く頭を下げた。


 「す、すみません」

 「いえ。何階っすか」


 会話はほぼ全て耳にしていたため、彼女の目的の階は分かっているがとりあえずたずねておく。


 小さな声で「三階を」と返答を受けてから、俺は〝閉〟のボタンを押した。

 降りてきた時と同じ音を立てながら、エレベーターの扉が閉まる。


 ……他人と密室の中で二人きり、という状況は、いつだって気まずさが漂う。


 けれど、日頃から他人を観察することがもはや癖のようになっている俺は、つい横目で相手の様子を窺ってしまう。

 見た所、歳は俺と同年代くらいだろう。いや、俺よりもいくつか年下か。背はこの国の女性の平均身長よりも、かなり低い。多分、百五十センチ代の半ばと見た。肩の近くまで伸びた艶のあるまっすぐな髪は染められておらず、上側の部分だけが髪留めで軽く結われていて、実に女性らしい。


 が、……暑くはないのだろうか。


 彼女が身につけているのは、黒いスーツ。長袖・長ズボンだ。

 今日の最高気温は、二十五度をゆうに超える予報だったはずだ。天気は晴れ。街を歩く誰もが、涼しそうな恰好をしているに違いない。現に俺だって、ズボンは丈が長いものを履いているが、上半身は半袖シャツ姿だ。おっと、ネクタイを緩めたままだったのを忘れていたな。


 タイを締め直しながら、今度は相手の顔色を窺ってみる。


 やはり暑そうだ。薄く化粧を施してはいるが、その頬は明らかに上気していて、表情も強張っている。汗こそかいてはいないものの、なんだか呼吸が荒い。せめて上着を脱いだらどうなんだろう。五月から、企業の間でクールビズという制度が実施されていることを、この人は知らないのだろうか。ちなみに、この会社でも取り入れられている制度だが、うちでは男性陣は皆ネクタイを身に着ける決まりになっているらしい。理由は知らんが、あってもなくても暑いことに変わりはない。


 というかこの人、あの炎天下をこの恰好でよくここまで来たな。


 関心か呆れかよく分からない気持ちを抱いていると、あっという間に三階へと到着した。ポーンという小気味の良い音と共に扉が開く。

 俺と、名前も知らない彼女は、ほぼ同時にエレベーターを降りた。


 そういえば、彼女はどこの部署に向かっているのだろう。


 三階には、総務課、経理課、人事課がひとまとめにして入っている。見た所、中途採用された人みたいだから、行くなら人事課だろうか。とりあえず、俺の勤めている経理課には、用はなさそうだ。


 「あっ……、あの」


 人事課とは反対の方向にある経理課へ歩き出そうとした時、躊躇いがちに声をかけられた。再確認する必要もないが、相手はたった今一緒にエレベーターに乗ってきた女性だ。


 さっき、受付で止められた時と同様に、何故かおろおろとうろたえている。


 他人と接するのが苦手なんだろうか?


 「はい?」

 「私、今日この会社に来たのはまだ二回目で、何処に何の課があるのか分からなくて……」


 受付の人との会話を聞いた限りでは、この階で担当者が待っているはずだ。


 人事課ならば、彼女の背後の方向へ数歩進めば辿り着ける。

 というか、俺に聞かなくてもそれぞれの課の頭上には、大きなプレートに大きな文字で「総務課」などと書かれているのだが。


 見れば、彼女の視線は、ほとんど地面に向けられている。もしかしたら、慣れない場所で周囲に気を配る余裕がないのかもしれない。


 やたら目力があって図体がデカいせいで、初対面の女性からは必ずと言っていいほどに距離を置かれるこの俺に、よく話しかけられたなと思わず彼女を称賛しかけたが、下の方しか見ていないということは、すなわち俺の顔もろくに認識していないということだろう。


 いや、まあ外見だけで怖がられるよりは、よっぽどいいか。


 「どちらの課に行きたいんですか?」


 「えっと……。経理課、です」


 んん……?


 何かの間違いじゃないか?と、己の耳を疑う。

 新人が入るなんて、俺は聞いていないぞ。というかそもそも、経理の手は足りている。なのにわざわざ新人を雇うはずがない。


 ……が。思い当たる節がない、訳ではなかった。


 「ああ……。案内しますよ、ついて来て下さい」

 「あ、ありがとうございます……!」


 わずかに脱力しながら答え、踵を返して歩き出す。


 すぐ背後に例の軽やかな足音を聞きながら、これから面倒なことになりそうだと予感し、俺は誰にも気がつかれないようこっそりとため息をついた。

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