終着

橘 春

終着

「おやすみ」

 そう言って、光は机に突っ伏した。その声の調子、表情、自然な仕草は、まるでここが家で、今は夜で、そろそろ寝ないと明日起きられないから、と床につくようだった。ピンク色の出席カードを見れば、殴り書きで『人文学科 山崎光』とある。彼女の暴力的なとめはねはらいが、私の心を軽くさせた。

 あいつはおれのことなんかどうでもいいし、大丈夫だよ。

 昨夜、私は光の彼氏と同じ毛布に包まった。

 略奪とか、そういう非常識なことがしたかったわけではない。光の彼氏の苗字も知らなかったし、はじめて聞いた声はざらついていて、少し耳障りだった。

 山崎光は、大学に入学してからできたはじめての友達だ。入学式の翌日の説明会のとき隣に座っていて、私から声をかけた。友達を作らないと、という気持ちが大きかったから、合う合わないを考えずに踏み込んだ。神経質な私と、大雑把な光。どちらかといえば合わないことの方が多いけれど、なんとなく二人で行動している。たぶん、私は光が好きだ。

 梶本幸樹の存在は、幸せそうな顔をして話す光の惚気話で知っていた。聞き流しているふりをして、学科、サークル、顔、下の名前、好きなもの、嫌いなものを覚えていたから、距離を縮めるのに時間はそうかからなかった。

 何か、具体的なきっかけがあったわけではない。私は光が好きなのだろうし、このまま好きでいたいと思っている。理由が無いわけではないけれど、いくつか思いつくそれはどれも曖昧で、ぼやけていて、本当に私がずっと前からそう思っていたのかすら怪しくて、あてにならない。

 んん、と、光が目を覚ましかけた。二回ほど名前を呼んでみたけれど、はっきりとした反応はない。

 スマホの画面をつけると、九時三十一分の文字が浮かぶ。この授業は九時十分からだから、あと一時間十分もある。急に授業が嫌になって、姿勢が変わり横顔が見えるようになった光の頬を見つめていた。息抜きのようなものである。光の肌は、白くてすべすべしている。透明感があり、血色感のある頬はいちごのかき氷を連想させる。おいしそう、と思ったとき、急に胸が苦しくなった。

 きりきりと左の胸の奥を締め付けるそれは、おそらく罪悪感だろう。昨夜、すべてが終わったあと、私はずっと願っていた。罪の意識に苛まれたい、と思っていた。それの正体はなんだっていい。ただ、そうであると決めつけることが、私にとって一番楽だった。

 心を落ち着かせようと、もう一度彼女の出席カードに目を向ける。グーで殴られたあとのようなとめはねはらいを見て、私も同じ気持ちになる。痛い。まだ、その上が欲しい。

 昨日のことを言ってしまえば、と妄想する。殴られるかもしれないけれど、おそらく嫌われてしまうだろう。私の言動すべての源が光である以上、それだけは避けなければならない。暴力は愛だ。行為のあと、眠そうな目を擦る幸樹にこう語った。

 暴力は愛だ。ほら、大抵の人って、手をグーにして殴るじゃん。じゃんけんするみたいに。グーにした手の中って、大体温かいじゃん。それって、愛がこもっているからなんだよ。私たちは殴ることで愛を渡し、殴られることで渡されるわけ。こういうの、光から聞いたことある? ……あ、ないの? そっか。ごめんね、忘れていいよ。

 この男に踏み潰された自尊心を取り戻すように光の名前を出した。私の方が私の方がって、幼稚園児が争うみたいだった。特にこれといった反応を見せない幸樹にまた苛立ち、光を呼ぶように光の話をした。

「……好きなんだね、あいつが」

 幸樹はやけに含みを持たせたような言い方をして、私の目を見た。頷く代わりに目を見つめ返す。口を開けば止まらなくなりそうだった。光の名前を呼ぶのも許せないけれど、光を『あいつ』と呼ぶのはもっと許せない。唇を噛みしめる。見つめあう二人。幸樹は「残念だけど」と切り出した。

「これ、無意味だと思うよ。あいつはおれのことなんかどうでもいい」

 その声に怒りや悲しみの色はなく、諦めという言葉が似合うと思った。どういう意味かと私が尋ねる前に、幸樹は続けて話し出す。

「あいつの気を引きたいんでしょ? おれと手を重ねて。おれと横になって。きみがあいつに嫌われたいのか、意地悪してでも自分の方を見てほしいだけなのか、そこは分からないけれど、どちらにせよ無意味だよ。あいつはきみを見ないし、嫌いにならないし、一生今のままだよ」

 ため息を吐く幸樹が、少し羨ましかった。私とは違って、ちゃんと辿り着けるところまで辿り着いて、その上で『二人』の関係を考えられている。友達と恋人の立ち位置の差を感じたとき、私は先ほどまで熱を持っていたシーツがもう冷えていることに気付いた。

 雑にかけられていた毛布を整えてからかけ直し、私は幸樹に近づいた。諦めたような声で話しながら、諦めきれていないのだろう。そういうところは少しだけ気が合うかもしれない、と思った。幸樹もまた、私の二の腕に触れそうなほど近づいてきて、もう一度夜を始めた。

 幸樹は何度も光を呼んだ。私も何度も光を呼んだ。可能な限り目を瞑って、おそらくは互いに幻を見ていただろう。シーツが冷たい。光、私、こういうことをしたかったわけじゃないって、信じてくれる?

 何枚被っても冷たいままのからだを幸樹が引き寄せる。「でも」と幸樹が耳元で囁いた。

「おれと手を組めば、あいつはおれたちを見てくれるかもしれない」

 一瞬、何の話か分からなかった。ただ砂嵐のようにざらざらとした声がざらざらと外耳道を流れてゆく。気持ち悪さに酔ったような気になって、うまく頭が回らないままその提案に頷いた。

「わかった」

 幸樹を信用したわけではなかった。これは協力関係という平和的な名のもと、ただ互いに利用し合うだけでそこに情なんてない。なんとなく目を伏せただけだったのだが、幸樹はそれを不安と受け取ったのか「大丈夫だよ」と私の頭を撫でた。どうでもいいんだから、とわざわざ付け加える幸樹が少し鬱陶しくなって、彼の手を払うように寝返りを打てば、幸樹はそれ以上何も言わなかった。


 講義が終わり、二限が空きコマである私たちは食堂へ向かうことにした。まだ完全に目が覚めていないのか、光の瞼は重そうだ。話しかけても生返事で、けれども私は光のこういうところも好きなのであった。

 この大学には食堂が二つある。私たちが向かう第一食堂は、第二食堂よりもこじんまりとしていて、まさしく学生食堂という言葉がよく似合う雰囲気だ。一人暮らしの学生にも良心的な値段のものが多く、私たちは大抵第一食堂を選ぶ。

 今日のこの時間に第一食堂へ行くことは、梶本幸樹との約束だった。はじめは苗字で呼び合おう、会って二回目の人たちに漂う緊張感みたいなものを出そう、また二日後に会ったときになんて呼んだらいい、という話をしよう。幸樹の計画は綿密だった。一限前に、劇の台本のような指示が事細かにメールで送られてきたが、スクロールバーの短さを見て億劫になり途中で読むのをやめた。

 『覚えきれないからアドリブでいい?』と聞けば、『七割は覚えて』と返ってきた。何度も放り出しそうになりながらも、私は光が惚気るときの恍惚とした表情を思い出し、なんとか台本を覚えきった。

「あ、梶本くんだ」

 食堂に入ってすぐ、私は光より先に幸樹に手を振った。腕の関節の曲げ方から小指の先を伸ばすところまでを意識してしまい、自然さが損なわれてしまった。が、光の視線の先は私ではなく梶本幸樹だった。

「ほんとだ、幸樹だ」

 知り合いなの? と聞かれるだろうと思っていたけれど、その予想は外れた。光は幸樹を手招き、同じテーブルに座るよう言った。

『あいつがおれたちに興味を示さなくても、計画通り進めよう。おれは吉野さんと呼ぶから、吉野さんは梶本くんって呼んで。あいつはよくわからないことを言うかもしれないけど、勢いで昨日のことを言うのは駄目だよ。もっと、ちゃんと時間をかけて、もっとあいつの心を揺さぶってから言いたいから。』

 台本のようなメールはそのように終わっていた。梶本幸樹からのメールは、一単語ごとに錘のような思いが乗せられているようで、目で追ってから脳で処理するまでに時間がかかった。特に最後の一文は気持ちが悪くて、対抗心が燃えた。私の方がもっと上手に光を好きでいられる、と思った。そのとき、はじめて性別が邪魔であると感じた。

 白い長方形の四人席に、私の隣に光、光の前に梶本幸樹という並び方で座る。共通の話題は見つからず、先ほどから光は私にばかり話しかけ、幸樹は相槌を打つのみ、という構図が完成しつつある。

 それでも梶本幸樹という男の口角は勝ち誇ったように上がり、その目じりの皺は私を見下しているように思えて仕方なかった。光は気まぐれでこの男を手招いてみただけで、話したくてどうしようもないくらい好きではない、好きではない、という言葉で頭を埋め尽くす。台本にはなかったけれど、名前を呼んで目をじっと見つめる。見つめ返され『私たちの世界』という名の世界が出来上がる。それはタイミング悪く咳きこんだ幸樹によって壊された。

 幸樹とは当たり障りのない会話を交わした。天候や気温の話を続けた。何も面白くないけれど、そういう指示だったから、ずっと笑っていた。


「何やってんだよ」

 放課後、突然私は幸樹に呼び出された。大学の最寄り駅から十分ほど歩いた場所にあるカラオケボックスの中で、宣伝のために流れる愛とか恋を歌ったJ-POPをBGMに、私は幸樹から殴られていた。痛さも気持ちよさも愛も感じられず、殴るのが下手な人だと思った。

「あいつと見つめ合いやがって」

 よく見ると、幸樹の頬には涙が垂れていた。汚くて拭いたくなかったけれど、そうしないと自分に落ちてくるかもしれないと思い、人差し指を犠牲にした。幸樹は少し驚いた表情になり、殴る手を止めた。

 暴力は愛だ、と光が教えてくれたその日から、それは私の人生の標語になった。私たちは殴ることで愛を渡し、殴られることで渡されるわけだ。だから、私は幸樹を殴り返すようなことはしようとも思わなかった。

 私を殴っていたその手の原動力は、私への嫉妬なのだろう。少しばかり幸樹が惨めに見えてきて、私の口角は自然と上がった。

「何が可笑しいんだよ」

「ううん、なんにも」

 幸樹の握りしめる右手が力みだす。それに気づいて、よせばいいのに私の口は幸樹を煽り立てる。勢いよく振り下ろされる右手。暴力は愛だ暴力は愛だ暴力は愛だ。ぼうりょくはあいだ、となめらかに口の形を変える光を想像してみても、目の前の人間は光からぞんざいに扱われているらしい幸樹であり、光ではない。欲しいものが手に入らずに駄々をこねる子どものようになれたら、どれほど楽だろうかと思った。

 出血したり痣ができたりした頬に、幸樹が絆創膏を貼ってくれた。柄物の、小さな絆創膏だった。傷ははみ出し、いったいどこを守っているのかもよく分からない。幸樹は不器用なのだろう、絆創膏は必ずどこかがクシャクシャになっている。

 それを無言で貼られている間、私は何度も幸樹を挑発するかのように光の話をした。幸樹は私に憐みのような目を向け、黙ってそれを聞いていた。

 梶本幸樹という人間の二面性は少し面白くもあった。優しくておとなしい梶本幸樹と、短気で脈絡がなくて攻撃的で暴力的な梶本幸樹。後者は私の前のみで、前者は私以外の人の前に現れた。憐みの目と私を殴る右手。私にはそのギャップやオンオフの切り替えは、声を出して笑ってしまうほどに愉快なものであった。

 なんとなく、私は幸樹の左手を握った。手の甲の皮膚の穴という穴が大きく広がる。緊張なのか嫌悪なのか、最後まで分からないままだった。どちらだとしても、それ以上熱くも冷たくもならない温度に私は安心していた。

 それを、幸樹にも与えたいと思ったのだ。

「大丈夫だよ」

「……」

 幸樹は黙ったまま、コットンに染み込ませた消毒液を右手で私の頬に当てる。ぴりぴりと電気のような痛みが走る。どうしてこういう痛みは苦手なのだろう。

 逃げられないように、抑え込むように、握っていた手に力を込める。

「次はちゃんと、うまくいくよ」

 ありふれた言葉だが、気持ちを込めたはずだった。しかし、幸樹の表情は少しも変わらなかった。

 しばらく偶然を装って幸樹と出会い、少し会話するという日々が続いた。苗字呼びから名前呼びになり、自分の知らない間に距離が縮まっているはずなのに、それでも光は無関心だった。顔色を窺って話を進めていると、どうしてもじれったくて焦ってしまうときもあった。そういうときは、やはり放課後になると幸樹に呼び出され、怒りをぶつけられた。その大抵がカラオケボックスで行われていたせいで、私は少しだけ音楽が苦手になった。たぶん、幸樹の殴り方がいつまで経っても下手なままだったからだ。


 人間の本音は顔の左半分にあらわれるというけれど、光の顔は左右のどちらをとっても同じだった。

『彼氏』という存在についてや、『ときめいたこと』を話すときは幸せそうに微笑む光だが、『彼氏』が『梶本幸樹』に変わった途端に彼女の表情筋は力を失う。あいつはおれなんかどうでもいい、興味ないんだ、と言っていた幸樹の言葉の意味を、ようやく理解した。それは私とだって同じで、私自身には何の興味もないのだろうと感じることが多かった。

 どうして今まで気付けなかったのだろう。

 私の心変わりにいち早く気付いたのは、私のことを何も知らないはずの梶本幸樹だった。消毒液と絆創膏の補充のため、二人で薬局へ出かけた帰り道のこと。幸樹は突然足を止め、私の前髪に触れた。

「……なに」

 ケープで固めていた前髪を崩されてしまうかもしれないことが嫌で、ぶっきらぼうに聞いた。前髪でなくとも、その汚い手で触らないでほしかった。

「……あいつのこと」

 あいつ、という代名詞が光を指しているということに、私はやはり苛立ちを覚えた。そういうスイッチが入ってしまったのかは知らないが、薬局へ行ったって除菌シートで手を拭いたって、幸樹の口も息も舌も手も耳も皮膚も何もかもは汚いままだ。きれいにはならない。そんな当たり前のことに幸樹は気付いておらず、それが余計に私を腹立たせた。

 幸樹は続ける。

「あいつのこと、どう思う」

 それが今までとは違った熱を帯びた質問であることに、なんとなくだが私は勘付いていた。

 前までの私なら、きっと当然のように「好きだ」と答えていただろう。笑うとき、目を細めて歯を見せる光が好きだった。カフェインとコカインを言い間違えて大笑いしたときの、あの世界一楽しそうな光が好きだった。彼氏が駅まで送ってくれたの、と嬉しそうに照れ笑いする光が好きだった。たぶん、純粋に好きだった。

 私は幸樹の目を見て答えた。

「愛してる」

 それが友愛や恋のようにきれいなものではないということを、幸樹はさも理解しているかのように頷く。自分のことを他人に分かったつもりになられるのはあまり好きではないけれど、今は不思議と何も思わない。私自身がいちばん、痛いほど分かっているから。

 これは、執着なのだ。

「光に、こっちを向いてほしい。振り返ってほしい。触れられなくていい。私を見てほしい」

 てのひらに熱が籠る。ふっと力を抜けばその熱は空気に溶けだしたのか、辺りの気温が少し上がったような気がした。

 幸樹は私の言葉を聞いて、薄笑いを浮かべる。馬鹿にされているのだろうと思った瞬間、私の右手は幸樹の頬をぶっていた。光のこと、好きだ、愛してるって言いたいけれど、彼女のことは殴れない。暴力は愛だから、光への感情は愛ではない。

「無理だよ」

 それは穏やかな口調だった。赤い頬が痛々しくて目を逸らした私の顔を掴み、自分と目を合わせて、諭すように幸樹は言う。

「無意味だよ。あいつはきみを見ないし、おれと目を合わせないし、嫌いにならないし、一生今のままだよ」

 幸樹の声は相変わらずざらついていて気持ち悪い。いつの日か聞いた、まったく同じことを幸樹は言った。傷を舐めあって、しょうもない日々を過ごして。苦手になった音楽、足しげく通った薬局。幸樹に殴られるたび、これは光のためだと言い聞かせていた。その全部が無駄になってしまったような気がした。

「それでもおれは、光が好きだ」

 幸樹はそう言い切って、満足げな表情を見せる。行為中以外で幸樹が光の名前を口にしたのは、これがはじめてだった。

 私も、と言いかけて、やめる。心のどこかに違和感があった。その何かに気づかないまま、光のことを好きだと言うのは違うと思ったからだ。今まで幸樹を浅はかな人間だと見下していたけれど、その気持ちがよりいっそう強くなった。その反面で、劣等感も芽生えた。

 私の方が光の好きなところを言えるし、私の方が光を分かっている。けれども、どうしたって幸樹には及ばないだろうということも分かっている。光がどちらを選ぶかではなく、幸樹は既に選ばれているのだ。私はその土俵にすら上っていなかった。はじめから、はじまっていなかったのだ。

 私の前にぶらりと力なく立っていた幸樹がポケットから携帯を取り出し、人さし指で画面をタップしている。それを黙って見ていると、突然、私の顔の前にずい、と携帯が突き出された。


『本当に削除しますか?


                はい/いいえ』


 電話帳の連絡先を削除する画面だった。選択されているのは、私の名前だ。幸樹の人さし指は、ためらうことなくそれを押した。計画のことも私の頬の傷のことも、すべて何事もなかったかのように終わらせるんだな、と思った。積み重ねられている空の絆創膏の箱が、私の念を込めて幸樹を刺すように見つめている。それに気付かない梶本幸樹という人間は、最後まで最低な奴だった。


 週明けの月曜一限目、どすんと黒いリュックをおろし、光は私の隣の席に座った。あー眠い、とぼやく彼女はいつも通りで、たぶんこれから先もこのいつも通りが続くのだろうと思う。

「髪、まとめてるの珍しいね」

 普段の光は肩より少し長い髪をおろしている。たまに寝癖があって、そういうところに惹かれていたのはいつからだろう。触れられる距離で、触れられない。隣にいるのに、私を見ない。私を見て、と思ったとき、私はあることに気付いた。

 私は光に触れたいわけじゃない。

「うん。このあと、幸樹とパスタ食べに行くから、邪魔かなって」

 ただ私を、こっちを見てほしいだけなんだ、と、あまりにも簡単な欲望が心の底からあふれ出た。そのせいで、反応が少し遅れてしまった。

「……いいじゃん」

 光に抱いていた気持ちは友愛や恋というには汚くて、執着というには幼い、雨上がりに泥だんごを作りたがる子どものようなわがままだったのだ。もっと仲良くなりたい、友達以上しんゆうになりたい、という気持ちを勘違いしていただけなのだろう。

 似合ってる、と伝えれば、光は歯を見せて笑った。講義で使う資料プリントとルーズリーフを机の左端に置き、リュックから取り出したタオルケットを机の上に置いた。

「じゃあ、おやすみ」

 そう言って、光は机に突っ伏した。その声の調子、表情、自然な仕草は、まるでここが家で、今は夜で、そろそろ寝ないと明日起きられないから、と床につくようだった。

 そんな光を横目に、私は携帯の電話帳を開いた。本当に削除しますか、という確認に億劫さを覚えながら、梶本幸樹の連絡先を消した。世界に他人が一人増えたけれど、心は軽くなったような気がした。

 すやすやと眠っている光が、うーん、と小さく唸って姿勢を変えた。おくれ毛が揺れて、あの感覚を思い出す。私は無意識に音も鳴らないくらいやさしく、やさしく光の頬を叩いた。全身の穴という穴から汗がぶわっと噴き出す。

 私なら、きみを愛せる。

 根拠なんてどこにもないけれど、何故かそう思った。静かな寝息をたてて眠っている光は、何の夢を見ているのか幸せそうに笑っている。

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