Ton.17 誰かを傷つけて生き残ることに、躊躇いを感じてはいけませんか

「アドニス病院っていったら十二街区でも重篤患者が大勢いる、王都でも有数の病院だ。そんなとこにこんなやばい薬持ってってどうするんだ? まともに売らせてなんてくれないだろ」

「あそこは満足に動けないために、病室一つ一つに訪問販売することができる」

「……それで?」


 なんとなく男が言い出すことを予測しながら、リュシアンは先に促した。


「重篤患者は、半ば神頼みのような気持ちで試しに薬を買うだろう。自分のことを諦めてるやつには、気が向いたら使うよう言って試供品として置いておく。どうせ放っておいても先の短い命、たとえ効果がなくてもそれはそれでしょうがないって思って使ってくれたりする。この薬は少量使う分には気分を安定させるし、神経に作用するから痛みとかも麻痺させる。患者はそれを薬が効いていると勘違いして、また買ってくれることもある」


 話を聞いていたティアの顔が徐々に蒼白になっていく。

 当たり前の事実を淡々と口にしたのはリュシアンだった。


「そんな風にその薬を定期的に購入して服用していたら患者は死ぬな」

「ああ。けど、相手はいつ死んじまってもおかしくないやつらだ。いきなり亡くなったとしても周囲も、本人も仕方ねぇと思うだろ」

「な――」


 ティアは絶句した後、震える声で聞いた。


「……死んじゃうなら、何をしてもいいと?」


 男は毛ほどの罪悪感もないような声で言い放った。


「どうせ放っておいても死んじまうやつらなんだ。何やっても助かりもしねぇ。そんなら、財産ばっか残ってても意味ねぇだろ」

「あなたには良心ってものがないんですか!」


 悲痛なティアの叫びに答えたのはリュシアンだった。


「ねぇよ。あったら、んな商売に手を出す奴がいるか馬鹿たれ」

「こっちは一時的とはいえ楽になるもんをやってる。感謝はされども、恨まれる覚えはねぇな」


 それを聞いたティアはありとあらゆる感情を押し殺すように、ぐっと拳を握りしめる。そのまま、ずかずかと雑な足取りでリュシアンたちの方に近づいてくる。


「おい? 動くなって言っただろうが」


 忠告するが、ティアは無視した。それどころか、リュシアンのそばまでやってきた彼女はリュシアンの手を引っ張ると男の耳からナイフを取り外した。

 ナイフが引き抜かれる感触と痛みに、男がくぐもった声を上げる。

 くるり、とティアはリュシアンに向き直った。予備動作なしに、リュシアンの頰めがけて自らの白い手を飛ばす。

 とっさのことで対応が遅れたリュシアンはそのままティアに頰を叩かれた。

 ぱん、と軽快な音が響く。

 リュシアンは自身の頰を押さえるでもなく、うっとうしそうにぼやく。


「……ってぇな」


 冷静な顔のティアを見返す。


「なんでここで俺が殴られなきゃなんないんだよ。そこの度し難いクズならわかるが」

「この人の耳にナイフ突き刺しといてそういうこと言いますか?」


 そう言うとティアは倒れた男の耳に手をかざした。男の耳が柔らかな光に包まれ、みるみる傷が塞がっていく。

 どうやら、ティアもエルスと同じで法術士だったらしい――が。


「あなたも、どうしてそんなことが、そんな風に言えるんですか。死んじゃうならなんでもいいだなんて、そんなことを、どうして平気で言えるんですか」


 ただどうしようもないやるせなさと無力さと悲しみに明け暮れるようにティアがうなだれる。


「そんな……、ことをどうして……」


 彼女の翡翠色の瞳から水晶のように透明な雫がじわりと滲む。


「な、なんなんだよ。さっきからてめぇは!」


 戸惑いを隠せないように男が叫ぶ。まるで生まれて初めて見る異形の生物を前にしたように、男はひどく動揺していた。

 ティアがなぜ泣いているのか、男にはわからないのだろう。おそらく、男にとってティアは一生わからないタイプの人種だ。

 なんとなくリュシアンは白けた気分でいた。

 上半身だけを起き上がらせた男が、傷がふさがった耳を抑えながらティアを見上げている。

 リュシアンはティアに見えない角度でナイフを持ち直した。一呼吸で男の上半身を再び石畳に叩きつけると、男の心臓あたりに軽く切っ先を突き刺す。


「そろそろ黙れよ。心臓を刺し貫かれたくなければな」

「ぐ、あ……っ」


 男がもだえ苦しむように体を痙攣させた。


「さっき俺は尋問の時間と言ったはずだ。道徳の授業に変更した覚えはねぇぞ」

「リュシアンさん!」


 ティアの声は懇願に近かった。


「ティア、オマエもコイツの命を心配するんなら、これ以上、俺の仕事の邪魔をするな。これ以上何かするってんなら本当にコイツの命はないと思え」

「……っ」

「お節介なお前に教えておいてやるが、コイツらの処刑許可は降りている。生殺与奪の権を握ってんのは俺だってこと忘れんな」


 ただの脅しではないことを察したのだろう。ティアはきゅっと唇を引き締めると、一歩リュシアンたちから離れた。


「さて、質問の続きだ。オマエたちはこの薬どうやって手に入れている。製造してるのか、それとも誰かから取引で手に入れてるのか、どっちだ」

「……取引で手に入れている」

「じゃあ、そいつらの名前でもなんでも知ってること洗いざらい吐け。なんでこんなものを作って流通させてるのかとかな」

「し、知らねぇ!」


 必死の形相で叫ぶ男へ、リュシアンは事務的な口調で無慈悲な問いを投げかけた。


「楽に死ぬのと苦しみながら死ぬのとどっちがいい?」

「本当に知らねぇんだ! あいつらはフラメントと名乗ってて、いつも向こうの指定場所に行って物をやり取りするだけだ。詳しいことは何一つとして知らねぇ!」


 リュシアンは相手の言葉を検分するような間を置いた。


「なら、次の取引場所と取引日時は?」


 口惜しげな顔をしていた男が口を割るまでしばしの時間を要した。


「……今夜、十九時半。アドニス病院の駐車場で。病院の搬入口付近で待ち合わせる予定だ」


 その答えに満足したリュシアンは、ふっと雰囲気を和らげた。男の胸のあたりからナイフを引き抜く。途中、痛みからか、男が苦痛にも似た渋面を作る。


「教えてくれて、ありがとな」


 リュシアンの表情は、ひどく優しげなものだった。まるで親しい友に別れを告げる時のように。

 しかし、セリフとは裏腹に振り上げられたナイフが沈みかけた太陽の光を反射してぎらりと凶悪に光る。ナイフは夕日を浴びて、まるで血のような色をしていた。

 男の顔面が蒼白になる。


「な……っ、ま、待て! 話が違う!」

「リュシアンさん!」


 見かねたらしいティアが叫びながら駆けだす。だが遅い。

 一片の慈悲もなく、だが表情だけは聖人のような慈悲をたたえて、リュシアンはナイフを振り下ろした。


「じゃあな」


 ざくっ、という鈍い音がやたらはっきりと響いた。

 リュシアンはナイフからぱっと手を離すと立ち上がった。


「……ったく」


 だらしない、とでもいうように、溜息を吐く。


「この程度で気絶とか、根性無さすぎんだろ」


 振り下ろしたナイフは男の顔の横にある石畳の継ぎ目に突き刺さっていた。

 ナイフの横にある男は口から泡を吹いて失禁していた。目は白目をむいている。

 視界の端に見えるティアが、ほう、と大きく安堵したように肩から息を吐くのがわかった。


「別に俺だって無益な殺生はしねぇよ。オマエ人のこと快楽殺人者とかそういうのと勘違いしてね?」

「……そうは思ってませんけど、でも、リュシアンさんは必要だと判断したら、迷わず相手の命を奪うでしょう? 例えば自分の身を守る時とか」

「当たり前だ。自分の身を守るのに、なぜ相手の命を奪うことをためらう必要がある?」


 至極当然のように聞き返せば、返ってきたのはどこか悲しげな問いかけだった。


「……誰かを傷つけて生き残ることに、躊躇いを感じてはいけませんか」

「いけない、とは言わないが――俺に言わせりゃ、それで殺されてくれるやつは、よっぽど頭おかしい」

「おかしいですかね」

「自暴自棄になってるとか、どん底に叩き落とされてるとか、殺されてやることで丸く収まるー、みたいな感じのこと言われたってんなら、精神状態まともじゃねぇだろろうから話は違ってくるかもしんねぇけど」

「……そうではない場合は」

「どっか壊れてるんじゃねぇの?」


 ティアは何も言わなかった。くるくると表情が変わる少女にしては珍しい人形のような無表情からも、何も読み取れない。

 リュシアンは無条件の愛や、私欲や私心のない献身がこの世界に存在しないとは思っていない。

 だが、それが出来るのは正常な人間ではないと思っている。

 アルフィナのように自分が他人に献身していると勘違いしているか、もしくは処置のしようがない狂人であるか。概ねこの二パターンだろう。

 前者はまだ勘違いに気づけば正常に戻れる可能性があるかもしれない。

 だが、後者は本人が極めて理性的で人格的に非の打ち所がないケースが多く、常人と一線を画す異質さが一線を画しすぎているために、異質なものとして周囲からも認識されていないのでは、とリュシアンは思っている。

 中にはその異質さを崇拝する者さえいるため、当人の持つ異質さは異端として排除されるどころか神輿に担ぎ上げられる始末。

 異質さに生理的な嫌悪感を抱いて忌避する人間はまともだろう。

 異質さを崇拝する人間も、よほどまともだと言える。

 本当に危ないのは、異質に触れて、異質を身近に感じて、異質の傍で当たり前のように呼吸して平気でいられる人間だ。

 それは既に心を狂人に犯されているか、本人が実は狂人と同じ異質さを持っているかのどちらかだと思っていて、つまるところ手遅れというやつだ。


「まあいい。それよりも、本題だ」

「本題?」


 リュシアンはすらりと剣を腰から抜き放つと、ティアの喉元に突きつけた。

 ティアは身じろぎ一つするどころか、怯えもしなかった。


「オマエは何者だ?」


 ひたりと抜身の剣を少女の喉に当て、リュシアンは問いかけた。

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