Ton.12 無知と無垢は、罰と罪と鏡合わせ
翌日――というより、寝入ってから何時間か経過した頃。
太陽はすでに高い位置にあった。時刻は正午に近い。窓から入ってくる陽光は部屋を明るく照らしていた。
窓から外を見れば、一仕事を終えた人々がゆったりとした足取りで石畳を歩いているのが見えた。パン屋の煙突から立ち上る煙も、忙しい時を超えたのか、今は薄い白色をしている。
ティアはベッドの中でまだ寝ていた。くぅ……、と寝息を立てて眠る姿は、少女というより小動物めいて見える。
が、リュシアンも仕事がある以上、彼女をいつまでも寝かせておくわけにはいかない。ベッドに片膝をついて、その華奢な肩を揺さぶる。
「おい、ティア?」
「ん……」
ごしごしと目をこすりながらティアが体を起こす。彼女はリュシアンをぼーっと見つめ、緩慢な動作で頭を下げてきた。
「おはよーございますー」
「おう」
手を上げて軽く挨拶する。
するとティアは、こくりとうなずいた後、もぞもぞと再び毛布の中に潜り込んだ。
「おいこら待てオマエ」
寝ぼけるのも体外にしろ。そう思いながらリュシアンはティアが今にもかぶろうとしている毛布を引っ張った。
「もう少しで昼になるんだぞ。いい加減起きやがれ」
そう言って、べりっとティアから毛布を引っぺがすも、ティアは起きるのを拒むように枕を抱きしめたまま、ベッドの上で丸まっている。まるで子供だ。
はぁ、と嘆息してからリュシアンはティアの腕から枕を奪う。
「へあ?」
腕の中の感触がなくなって驚いたのか、ふっと瞳を開くティア。
「リュシアンさん……?」
寝起きの焦点の定まらない瞳でこちらを見つめてくる。
黄金色をした金糸のように美しく長い髪の毛はぼさぼさ。丈の短めな乗馬服のような赤い服はしわしわ。せっかくの美少女が台無しだ。見た目だけは逸材なのにもったいない。
「オマエはちったぁ女子力向上させて少し乙女になりやがれ」
そう文句を言うと、ティアもようやく目が覚めてきたらしい。瞼を重たそうに何度か瞬きさせる。
「あれ……ここ……、あ、そうだ……私王都にいるんだった」
「ったく、まだ寝ぼけてんのかよ」
呆れたようにぼやいてから、リュシアンの中に悪知恵が働く。
彼は、からかうように彼女の顎に手をかけた。極上の甘い声で囁く。
「なんなら、俺が目を覚まさせてやろうか?」
「え……?」
近づいてくるリュシアンの顔をティアはぼけっと見つめている。
吐息を重ねるように徐々に顔を近づけていく。
唇と唇が重なり合う手前。リュシアンは薄らと閉じかけていた目をふと開いた。至近距離にあるティアの顔を見て、思わず半眼になる。
ティアはじぃっと丸い瞳でリュシアンを凝視していた。年頃の娘だというのに、嫌がる素振りも恥じらいの一つも見当たらない。
どうやら、これからリュシアンがしようとしていることを理解していないらしい。まるっきりわかっていない顔で黙って待っている。興ざめだ。
「……おもっきし見てんじゃねーぞ」
「え、何するつもりなのかなぁって思って」
のほほんと能天気なことを言うティア。
リュシアンは可哀想なものを見るような目でティアを見た。
「……オマエは脳内に花畑でも咲かせてるのか?」
「頭の中にお花畑はありませんけど」
「比喩を理解しろ。ったく、天然だとは思っていたが、お前は一般的な知識を一体どこに置き忘れてきた? 見た目、十六か十七ぐらいだよな? 仮にも思春期真っ盛りならその辺の知識はあってしかるべきだよな。それとも枯れてるようなエルスのヤツと一緒にいると、そういう知識と感覚は片っ端からどぶに捨てられてくのか?」
「はい?」
いかにも何もわかっていません、という顔つきでティアは小首を傾げている。無垢は美徳だが無知は罪だ。はっきり言って、挑発されているとしか思えない。
「よし、オマエ近いうちに覚悟しとけよ」
「え? それってどういう意味……」
リュシアンは美麗な顔立ちにうっとりとするほど冷たい笑みを乗せた。
「うん、清純とか真っ白っていいな。
リュシアンが口走った瞬間、怖気でも走ったのか、びょっ、とティアが肩を跳ね上がらせた。彼女からは想像もつかないような素早さで、後ろに手をついてさかさかさかとベッドの奥に後ずさりする。
「え、え、え? んん?」
しかし、ティアは自分がなぜそのような回避行動をとったのかわからなかったらしい。困惑と混乱を混ぜ合わせたような顔で考え込んでいる。本能で危険を察知したというところか。鈍感なくせして勘の鋭いやつ。
「で、俺は今日も仕事だが、オマエはどうすんだ」
仕事、という言葉に反応してティアの顔色が暗く沈んでいく。
「……今日も誰かを殺すの?」
「んなわけあるか。毎日毎日、んな人殺ししなきゃなんねぇほどこの国はまだ崩壊してねぇよ」
それを聞いたティアがほっとしたように胸をなでおろすのがわかった。
「……昨日、働かせてもらったところで、しばらくの間、働かせてもらえないかって相談しに行こうと思ってます。このままじゃ、エガス・ベレニスに戻るにしてもお金が足りないし」
「わかった。なら、ここの部屋の鍵だけ渡しておく」
ぽいっと鍵を投げて渡す。
ティアが、両手でキャッチした鍵を戸惑うようにしげしげと見つめている。
「一応、こっちも職務の都合上、オマエを放っておくわけにはいかないんだ。処刑現場見られた以上、お前はしばらく要監視対象だ。だから、ホーラの館で寝泊まりしてもらう。いいな」
ティアは沈黙したまま、こくりとうなずいた。
「……もっとも、オマエがその鍵をなくそうが、命令に反して勝手にどっか行こうが、そこまで俺が制限するつもりはねぇけどな」
好きにしろ。遠回しにそう言ってやる。
ティアは鍵をぎゅっと握り締めるとポケットに押し込んだ。
それから、落ち込んでいるようにも見えなくない足取りで、彼女はゆっくりと部屋から出て行くのだった。
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