Ton.09 月明かりの夜、血の香りに導かれて少女は騎士と三度邂逅する

 夜は闇に包まれていた。

 町を照らすガス灯のおかげであまり暗さは感じずに済んだ。見上げると、夜空にはちらちらと星が瞬いていた。空気の澄んだ空に雲の影はない。


 ホーラの館から外に出たリュシアンは適当な路地に入ると、ベルトに手を伸ばした。緻密な装飾が施された人差し指ほどの銀色の棒を取り出す。


「アコースティック・エフェクト、起動」


 銀色の棒の先に、網目模様のような球形の光が灯る。

 静まり返った暗闇の中、リュシアンの聴覚では聞こえないはずの音が聞こえてくるのを感じた。

 衣擦れの音。薪が音を立てて燃える音。扉を開け閉めする音。人の息遣い。ありとあらゆる種類の音がリュシアンの耳に届けられると同時、光の粒子となって可視化される。

 リュシアンは目的の音を見つけると、銀の棒をベルトに戻した。更に暗い奥の路地へ進んでいく。

 そうして暗い夜の町を走り抜け、何度も角を曲がった先。大きめの通りと通りの間を結ぶ細道。そこが終着駅だった。


「ヴィルヘルム・ヘーゲルだな?」


 細道の途中、壁に手を当てて立っていた男がはっと顔を上げた。

 男の顔は逆光でもよくわかるほど青ざめていた。まるで捕食される寸前の草食動物のようにがたがたと震わせながら、男がリュシアンを見やる。


「お、お前は……?」


 その問いかけに。


「聖火騎士だ」


 リュシアンは一呼吸で間合いを詰めるとやや短めの細身の剣を抜刀してヴィルヘルムに斬りかかった。





 鉄が腐ったような血の匂いが、湿り気を帯びた空気にしみ込んでいた。

 心臓に剣を突き立てられた男がリュシアンの足元に転がっている。それは、先ほどまで生きていたヴィルヘルムだった。当然、絶命している。

 暗い夜道。煉瓦が敷き詰められた通りの上に、黒い液体が滑るように広がっていた。黒い液体――血は、男を中心に広がり、じわじわと辺りを侵食するような血だまりと化している。

 傍で人が死んでいるという異常事態にも関わらず、リュシアンは平然としていた。彼は脇の死体を毛ほども気にせずに腰の鞄を探り、目的のものがないことに気付くと舌打ちした。


「やべ、携帯用の酒突っ込むの忘れてた」


 そう言ってから、リュシアンは深々と心臓に突き刺さった剣を彼は引き抜いた。

 心臓を貫いた傷口から、派手に血が噴き出ることはなかった。既に血液の凝固が始まっているらしい。


「ったく、アルフィナの奴、確定対象を取り逃がすなんて、たるんでんじゃねえのか?」


 ぶちぶち言いながら、刃についた血を男の衣服でふき取る。慈愛の笑みがよく似合う美貌には冷笑が浮かんでいた。

 確定対象とは聖火騎士によって処刑されることが決定した犯罪者のことだ。概ね、そういった相手は凶悪な殺人犯であるケースが多い。


 と。


 その時だった。

 闇夜の中にかすかな違和感を覚えたリュシアンは、勢いよく振り返った。

 その瞳が愕然と見開かれる。


 立っていたのは金髪の少女だった。

 月明かりに照らされて光り輝く金色の髪。幼さの残る美しい顔立ち。そこに存在しているのか曖昧な、ひどく淡く儚げな気配は天使かなにかのように神秘的だった。実際、リュシアンは彼女のことを妖精か何かと見間違えそうになった。

 しかし、彼女は妖精でもなければ、幽霊でもない。なぜなら――


「……ティア」


 そこに立っていたのは、ティア・ロートレックだった。





 しくじった。


 最初にリュシアンの胸を横切ったのは、そんな感想だった。何も知らない民間人に罪人を処刑した現場を見られるというのは、聖火騎士としては最大級の失態だ。

 ティアは夢の中にいるようなふわふわとした足取りで死んだ男の傍にしゃがみこむと、そっと男に手を伸ばした。

 頬に触れた途端、ティアの指先がびくりと痙攣した。


「この人……なんで、死ん……で?」


 その場にへたり込んだティアの唇から、弱々しい声が落ちる。

 指は小刻みに震えていたが、彼女は手を引っ込めるようなことはしなかった。それどころか、指先を男の見開いた目の近くまで運び、震える指で瞼を閉ざす。

 うつむいたまま、ティアがぽつりとつぶやく。


「……あなたが、殺したんですか」

「……」


 質問に答えず、リュシアンはティアの後ろに立った。音もなく剣の柄を握り締め、ティアの無防備な首に狙いを定める。

 だが、リュシアンが動く直前でティアはくるっと振り返ってきた。翡翠色の瞳に怯えはなく、はっきりとした意志が宿っている。

 そのことを場違いにも意外に思い、次の瞬間。


 ――闇夜を切り裂くような白い手がリュシアンの頬めがけて閃いた。


 いきなり飛んできた平手打ちをリュシアンは反射的に避けた。目標を外れたティアの手がリュシアンの顔の脇を通り過ぎる。

 その細い手首をリュシアンは握りつぶすようにつかんだ。ティアの顔が痛みで歪む。その隙に、彼は固めてあった拳を彼女の腹部へと躊躇なく埋め込んだ。


「……っ!」


 声にならない苦悶の悲鳴と共に、ティアが瞳を見開く。


「アコースティック・エフェクト」


 小声で唱える。銀色の棒に蓄積されていた音の衝撃が、少女の身体を内部から軽く揺さぶる。

 意志を失った少女は、ぐったりと力の抜けた身体をリュシアンの方に預けてきた。


「……ったく、どうしてくれんだよ、コイツは」


 ティアの細い身体を抱きかかえながら、心底厄介なことになったとリュシアンは苦々しくうめいた。

 ほどなくして、石畳をブーツで叩く音が聞こえてくる。

 特徴的な足音ではないが、アコースティック・エフェクトを起動しているリュシアンには、誰が近づいてきているかわかる。アルフィナだ。

 気だるげに文句を吐き捨てる。


「ったく、アルフィナ。こうなったのはオマエのせいだかんな」

「リュシアン? 一体何の話よ。って――」


 曲がり角から現れたアルフィナが文句を言うように眉を持ち上げる。が、

 リュシアンの腕の中にいるティアを見るなり理由を察したらしい。暗がりでもわかるほど、アルフィナの顔から見る見ると血の気が引いていく。


「その子がどうしてここにいるのよ」

「知るか。それより、処刑現場、見られた」

「な――」


 今にも叫びだしかねない様子で、アルフィナが絶句する。

 だが、彼女は言葉を飲み込むようにゆっくりと口を閉ざしただけだった。代わり口から吐き出されたのは、疲労のにじむ深いため息。


「あなたらしくない不手際ね」

「返す言葉もねえな」


 あっさり言ってから、リュシアンは妖精のように見える金髪の少女を横に抱きかかえた。


「……アルフィナ。ここの後始末頼んだ」

「あなたは?」

「俺はコイツと話をしてみる」

「どうにかできるの?」

「さてな。都合の悪い現実から目を逸らしたい系のタイプだったら、適当な嘘に騙されてくれるかもしんねぇけど、そうじゃなかったら……まあ、そん時はそん時だろ」

「頼りない返事ね」

「どうせ、コイツがエルスと真面目に関わっているんなら、そのうち込み入った話もすることになるだろうと思ってたし、ちょうどいい」


 何かを企むようなあくどい笑顔を見せるリュシアン。

 アルフィナは盛大に頭を抱えて見せた。


「……お願いだから、騒ぎが大きくなるようなことだけはしないでちょうだいね」

「さぁて、そいつは保証できねぇな」


 そう言ってリュシアンはにやりと不敵に笑った。

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