嘘吐きの唄
前野とうみん
嘘吐きの唄
「嘘吐き――」
戸口から入ってきた、枯れた小麦色のくすんだ金髪の女に、グレイスは驚愕した。間もなく、顔面を殴られる。むせ返る不快な鉄の臭いが鼻孔を突く。混じって、女からはどこか懐かしい香りがした。乱れた女の髪の間からは深緑の瞳が覗いている。息は荒い。肩で呼吸をする女のことをグレイスは知っている。
グレイスの脳裏を過ったのは、自分に未だこれほどまでに温かい血が流れていたことへの驚きと、女が自分を見つけたことへの安堵と納得だった。
昔から白かった腕はより色味を失い、骨が浮き出て見えるほどに細かった。グレイスは女の訪れた理由を痛いほど知っていた。なるべくしてなる因果の果てが、自らにようやく訪れたことを悟って、自身ですらも根源を理解できない喜びにグレイスは頬を綻ばせた。女にはその表情が許せない。
「ようやく、見つけたわ」
「あなたは……」
うるさい。金髪の女――かつて一国の姫であった女性――ソフィーナは乱暴に吐き捨てて、グレイスを足の裏で蹴り倒す。がひゅ、と濁った音と共に、グレイスの肺から空気が吐き出される。周辺の椅子やら花瓶やら写真立てやらが激しく倒れた。高音も低音も入り混じった乱暴な音。脳を引っかかれるような感じがして、ソフィーナは顔をしかめた。
ソフィーナが見下ろすグレイスの顔は、記憶の中の姿よりもやつれて見えた。まだ2年しか経っていないのに、10歳は老け込んだようだ。だが、グレイスの顔には恐怖や、ソフィーナを非難する一切の色はない。そのことが無性に腹立たしく、怒りのままにグレイスの腹を踏みつける。
か細いうめき声。グレイスのもの。ソフィーナはみじめな、痛みに喘ぐグレイスを見下ろしていた。彼女はこんなに輝きのない存在だったか。そこにかつての、ソフィーナの尊敬する存在だったグレイスの面影は微塵も感じられなかった。
歯噛みし、言う。確認するように。目の前の女とのケリをつける為に。
「グレイス、これは復讐だ。全てを話してもらう。あの頃のように」
「ええ……お待ちしておりました……姫様。お話はたくさん用意してあります」
グレイスが笑い、口の端から滴る血はまるで、ぱっくりと割れた傷口だ。ソフィーナそれが正に、女の傷口であることを悟っていた。
ソフィーナは生まれてから国が亡ぶまでの15年の間を、城の最奥に建てられた石造りの塔の中で過ごした。ソフィーナの母親によって、外界からの情報は完全に遮断されていた。ソフィーナ自身、そのことについては疑問に思ったことがなかった。それが母親の愛なのだと彼女は理解していたし、彼女もまた母親のことを愛していたからだ。
ソフィーナは女王譲りの美しい金髪を持っていた。ほのかにウェーブがかかった長髪。柔らかな白い肌に輝く産毛。エメラルド色の、生命力を感じさせる大きな瞳。整った顔立ちは少女を大人びて見せ、あるいは快活な元気さを表した。
裁縫、読み書き、テーブルマナー、エトセトラ。一国の姫として必要な要素の全てをソフィーナは塔の中で習った。ただ致命的に、外の世界の知識だけを教えてもらうことだけが叶わなかった。ソフィーナは、その燻った好奇心が満足することがないということに絶望していた。
塔の、唯一の小窓から見える、小麦畑と、海と、空。それがソフィーナの知る外の世界の全てだった。
「本日より姫様のお世話係を勤めさせていただくことになります。グレイス・エーデルです」
小窓の外を見つめて暮らすソフィーナの元にグレイスが現れたのは、14歳の夏の頃だった。
グレイスは30代後半の女性だった。こげ茶色の髪をアップにまとめ、メイド服は隅々までぱりっと乱れがない。肌は少し日に焼けて健康そうで、切れ長の瞳は隙が無い。精悍な顔立ち――それでも表情は柔和で、ソフィーナはそれを気に入った。なにより、他の召使いや教師と言えばみんな頑固な老人ばかりだったから、ソフィーナにはグレイスが特別な女性に見えたのだった。
「ねえ、空と海がなんで同じ色なのか、知っているかしら」
社交の教師が聞けば憤慨するだろうか、名乗ることもせず、子供の無邪気さで開口一番にソフィーナは問いかけた。これはソフィーナが新たな世話係を迎えた時に毎度する質問で、その度にはぐらかされていたのだ。
ソフィーナの問いにグレイスは少し驚いたような顔をして、一瞬悩んでから微笑んだ。
「ある昔話があります」
グレイスは目を伏せ、何かを思い返すように語る。それはとても幸せそうで、
「むかしむかし、地上にはある二人の女神様がいました。女神様はとても仲の良いお友達。ですがある日突然、一人の女神様は母親である大神さまに彼方遠いところ、今でいう空へと嫁ぐように言われてしまったのです。天空に嫁いでしまってからというもの、二人は会うことができなくなってしまいました。二人はずっと涙を流し続け、それはやがて海と空へと変わっていきました。空と海が同じ青なのは、それらが涙で満たされているからなのです。時折降る雨は、空に嫁いだ神様の涙がこぼれ落ちているからなのでした」
ソフィーナはきょとんとして、信じられないといった顔でグレイスの顔を見つめる。グレイスはその表情を自分に対する疑念として受け取ったので「昔話では、こう伝えられて――」と、ソフィーナを納得させるための言葉を紡ぐが、それは胸に飛びついてきたソフィーナによって妨げられた。
「あなた最高よ! わたし、ソフィーナ。今日からよろしく、グレイス!」
喜びのままにソフィーナはそう言った。曰く、「知る必要がない」とか、曰く、「もっと大切なことがある」とか、今までソフィーナに返ってきたのは、そんな答だけだった。自分の話を聞いて、それに応えようとしてくれる存在こそが、ソフィーナの求めたものだったのだ。グレイスは呆気にとられたような表情をしたかと思うと、また最初の柔和な表情へと戻り、ソフィーナの質問に次から次へと答えたのだった。
それからソフィーナは、グレイスからたくさんのお話を聞いた。森に住む妖精や、想像もできないような美しい花。たまに聞こえる大きな音は、大きな、とても愛らしい動物の足音で、時折彼方に見える煙は、魔法でみんなを楽しませるサーカス団の近づいてくる証拠だと。
グレイスの話す外の世界は素敵にきらきらしていて、ソフィーナはいつか、広い世界を見に行きましょうと言った。グレイスは必ず一緒に行こうと答えた。それだけで、ソフィーナはその晩に寝付けないほどだった。
ソフィーナの楽しみは、グレイスから聞かされる世界のお話だけだった。グレイスのお話はどれも素敵で、ワクワクして、そしてそのどれもが――
「
ソフィーナはグレイスを見下ろしていた。腹を踏みつけられて、グレイスの口からは喘鳴が洩れる。かつて談笑した二人の面影はない。刺々しく荒れたソフィーナと、諦念すら滲むグレイス。あの頃にはもう戻れない。二人の間には深い断絶が横たわっていた。
「あなたの言っていた美しいものなんて、この世界のどこにもありはしない。あったのは戦争だけ」
「そう――そうでしたね。私は嘘を吐き続けた」
乱れた二人の女の呼気の音しか、そこには存在していなかった。ソフィーナが乱入してから、他の物の時間は止まっている。見つめ合う。輝きを失った瞳が互いを映す。荒廃しきった二人の間に、血の匂いが立ち込める。
「国を、わたしのことを無茶苦茶にしたのはあなた。わたしのお母さまを殺した。近づく煙は戦の狼煙だった。迫っていたのは暴力だった。お母さまが亡くなってからは一瞬だったわ。どこかの誰かが城に火を放って、わたしは訳も分からないままに逃がされて――」
「まさか、生き残っていらっしゃるとは思いませんでした」
ソフィーナがグレイスの顔面を蹴り上げる。鼻血が弧を描いて壁に飛び散った。どうやってソフィーナが生き残ったかの、これが答えだった。グレイスはソフィーナの蹴りに、気色の悪い笑いを漏らす。ソフィーナには目の前にいる女が本当にグレイスなのか信じられないほどだったが、鼻が曲がってもなお美しい顔立ちは紛れもなく、かつて信じた女に他ならなかった。
「わたしが聞きたいのはただ、あなたがどうしてお母さまを殺したのかって、どうしてわたしに嘘をついたのかって、それだけよ」
その言葉に、グレイスはソフィーナを見上げ、視線を床に落とした。見れば、ソフィーナがグレイスを蹴り飛ばした時に散乱した写真立てが転がっている。映っているのはグレイスと、その娘と夫と思われる一家。
グレイスに表情はない。喪失感――それは何よりも雄弁に理由を語っている。
「復讐、ですよ。私の夫は戦争でいなくなった。だから、娘だけが私に残されたたった一つの宝だったんです。……けれど、女王に殺されてしまった」
「なに」
「おつかいに行った私の娘は、女王の行列を横切って首を刎ねられたんですよ。たったそれだけで、10歳にもならない女の子が」
「お母さまが、そんなことを――」
「塔に居た姫様は知らなくて当然です。あれは女王の愛そのものですから。女王の愛を受けたのは姫様だけです。その愛は決して民に向けられることはない。私が姫様のお世話係になったのはそのためです。私、はじめは姫様を殺そうとしたんですよ?」
「――」
ソフィーナの瞳が驚きに震え、耐えるように下唇を噛む。グレイスはその様子に気にかけることもなく続ける。
「女王への復讐でした。姫様は、女王が愛した唯一の宝物でしたから。私から全てを奪った彼女の、一番大切なものを奪うつもりでいたんです」
なら、なぜ。叫ぶソフィーナの声は震えている。なぜ、わたしにあんな話をしたのか。なぜ嘘をついたのか。ソフィーナは暗く、ひどく冷たい悲しみの針が胸に突き刺さるのを感じていた。グレイスはソフィーナに頷いて、
「はじめは取り入るため。でも、私が姫様を殺せるはずがなかったんです。姫様の嬉しそうな瞳は、ケイトと同じだった」
ケイト。初めて告げられた名前がグレイスの娘の名前であることを、ソフィーナは直感していた。
「あなたに話したのは全部、私がケイトにしてあげたお話。あるいは、してあげたかった。こんな世界、こんな理不尽なんて、子供は知らなくていい。救いがないのならせめて、
だが、それは失敗だった。グレイスを見下ろすソフィーナの姿がその証左だ。
「やがて気づいたわ、これが、私の大切な思い出を復讐に利用しているだけだって。私はケイトとの思い出を汚していたの。でも――もう、遅かった」
「だから逃げたの。ぜんぶから。わたしをどこにも連れて行かないで、あなたと同じ苦しみだけを残して。わたしは――わたしはっ、あなたもお母さまも愛していたのに!」
グレイスが、ソフィーナの言葉をひどく緩慢に首肯する。その仕草に、ソフィーナの内にあった怒りが爆発した。グレイスの衣服を乱暴につかみ、視線が合うまで身体を乱暴に引き上げる。そのまま壁へと叩きつけ、音を立てて煮えたぎる想いを暴力と共にぶつける。
「なんで――なんでそう自分勝手なの! わたしにはもう何も残っていない! たとえ嘘でもいい――あなたのお話だけがわたしの……!!! なんでわたしを殺さなかった! なんでわたしを、素敵な世界から追い出した! こんなことなら……こんなことなら、あなたに殺された方がよかった!!! 何も知りたくなんてなかった!!!」
グレイスが抵抗することはなかった。それが当然で――まるで、それが自らの責任なのだとでも言うように。ソフィーナの怒りがグレイスをすり抜けるようで、気に入らない。想いが募るほどに暴力は激しさを増す。
ソフィーナの拳が腫れ上がる度、グレイスの身体が揺れた。駄々をこねる子供のように繰り出された脚がグレイスの腹に突き刺さり、膝から崩れ落ちる。ソフィーナはグレイスを組み倒し、馬乗りになって顔を殴り続けた。互いの血がどろどろに混じり、写真立ては真っ赤に塗れていく。ソフィーナが気に入ったグレイスの精悍な顔立ちが、分からなくなればいい。ソフィーナは自分から何もかもを奪った女を、怒りのままに打ち付ける。だが、殴るほどにソフィーナに溢れるのは涙だった。
慟哭――ソフィーナの目の前には血だまりに浮かぶ、かつて尊敬した相手がいる。そのどれもがお話だ。どれもが嘘だ。これ以上の底はないと思っていた。グレイスを殺せば、ソフィーナの人生に重く立ちふさがる靄は晴れるものだと。
しかし。グレイスから命が零れるほどに、視界が真っ暗になるように感じた。靄すら見えない。世界から光が喪われていく。
「あぁ――」
グレイスが、肩で息をするソフィーナにふらふらと右手を掲げた。ゆるやかに、グレイスの手はソフィーナの頬に触れ、
「姫様――本当に、あなたは……」
そこから先は、聞き取れなかった。聞きたくなかったのかも知れなかった。右手が力を失って落ちる。びちゃん。見れば、右手の方までグレイスの命は吐き出されていて、ソフィーナは自分が、血の池の上に座っているのだと気づいた。
ソフィーナにはもう、何も見えはしない。聞こえもしない。本当に何もなくなってしまった世界に、彼女の居場所はどこにもなかった。これが自らの犯した罪の責任なのか。問おうが、答えてくれる人は誰もいない。
ソフィーナは目を閉じて、想像する。かつて夢見た楽園を。自分が斃した女と目指した、あまりに素敵で美しい世界を。
ああ、なんて酷い
嘘吐きの唄 前野とうみん @Nakid_Runner
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