虫
尾八原ジュージ
第1話
清水信弘はその夜遅く自宅に戻った。頭の中に綿がいっぱい詰まったような気分だった。
「おかえりー」
3LDKのマンションのキッチンには、妻の理恵がパジャマ姿で立っていた。小さな手鍋で何か煮ているらしい。
「ただいま」
「遅かったね。愛実、とっくに寝てるよ」
そう言って彼女は、キッチンの隣の六畳間を指さした。部屋の中は明かりが消えている。
妻の持つ手鍋の中では、細かく切られた野菜が煮えていた。生後十か月になる娘の離乳食を作っていたらしい。
「ねぇ、なんか臭くない?」
信弘が近づくと、理恵は眉をしかめた。
「やっぱり臭うか?」
「何? なんかあった?」
「ちょっと仕事先で、えらい目にあった」
信弘はアパートやマンションの管理会社に勤めている。その日、あるアパートの住人から苦情があった。隣の部屋が臭いというのである。
『ホント、尋常でなく臭いんですけど……なんか壁もジクジクしてて』
信弘はそのアパートに向かった。単身者用の築二十年近い安物件だった。
たまたま着古したスーツを着ていたことを、彼は少し喜んだ。嫌な予感がしていた。
苦情を入れた住人もまた、不安そうな顔をしていた。
「何度かチャイム押してみたんですけど、出ないんですよね……」
そう言って、隣の部屋の前に立つ。確かに何とも言いようのない、ひどい臭いが辺りに漂っていた。
住人は一人暮らしの老人のはずだった。念のため信弘もチャイムを押し、声をかけてみたが返事がない。連絡先に電話をかけても、応答はなかった。
合鍵を取り出した。深く一呼吸して、彼は鍵を回した。
ドアは抵抗なく開いた。信弘の側に立っていた住人が「ひえっ」というような声を上げた。
開いたドアの隙間から、蛆虫がポロポロとこぼれ出していた。
ドアを閉めて警察を呼ぶと、二人はアパートの外に出た。たとえ数分の間でも、その場にいるのには耐えられなかった。
住人は部屋の隅に置かれたベッドの上で亡くなっていた。死後何日も経過しており、遺体の状態は見られたものではなかった。隣人の部屋の壁にジクジクと沁みていたのは、遺体から出る液だったのである。
事情聴取を終えて、一旦信弘は会社に戻った。事務の女の子が、彼を見て小さく悲鳴を上げた。
「清水さん、肩に虫がついてますぅ」
案の定、蛆虫だった。彼は恥ずかしいような大声を上げて、それを払い落とした。
泣きたくなるような一日だった。
「そういうわけで、服捨てていいよな?」
「しょうがないね。それ、もういい加減くたびれてたし。とにかくお風呂入ったら?」
話を聞いた理恵は顔をしかめながら、ゴミ袋を手渡してきた。信弘はそれに、着ていたものをすべて詰めた。
念入りにシャワーを浴びて出てくると、理恵はすでに寝たらしく、キッチンの明かりが消えていた。
すでに夜の零時を回っていた。が、眠れそうな気分ではなかった。
一杯飲んで寝よう。信弘はそう決めた。
隣の部屋で眠る妻子を起こさないよう、彼は洗面所の明かりを頼りにグラスを取り出した。冷凍庫を開けると、製氷皿からなるべく音を立てないように氷を取り出し、グラスに入れてウイスキーを注いだ。
その時、ブーンという音が聞こえた。彼の携帯電話が震動していた。
非通知からの着信になっている。こんな夜中にかけてくる人間に、心当たりはなかった。
気味が悪い、と思っている間に、着信は止んだ。
信弘は携帯を手に取ると、少しの間ぼんやりとそれを眺めていた。やがてグラスの中で氷が動く微かな音がし、彼は我に返った。
「さっさと飲んで寝るか……」
独り言を呟きながら、グラスを口に運んだ。
口の中に異物を感じた。
彼はとっさに酒を吐き出した。流し台の電気を点け、グラスの中身を見る。
米粒のような白いものが、ぷかぷかといくつも浮いていた。
開いた玄関からこぼれ出した、スーツの肩にくっついていた、白い虫が重なった。
信弘は叫び声を上げた。
「どうしたの!?」
隣室から、娘を抱いた理恵が出てきた。赤ん坊は腕の中でフニャフニャと泣いている。起こしてしまったらしい。
「もー、せっかく寝てたのに……ほんと、どうしちゃったの?」
不機嫌そうな声の彼女は、信弘の顔色を見ると、途端に心配そうな顔つきに変わった。
「む、虫が、虫が……」
小さな声で呟きながら、彼はシンクに置かれたグラスを指さした。
「虫?」
理恵はそのグラスを覗き込むと、「ああー!」と声を上げた。
「何やってんのー! これ氷じゃないよ!」
そう言われて、信弘も恐る恐るグラスの中を見た。
琥珀色の液体の中に、白いものが浮いている。
「これ、愛実のお粥じゃん! せっかくまとめて冷凍しといたのにー」
ウイスキーの中の白いものは、米粒だったのである。
ほぼ一食分の離乳食を無駄にしてしまった信弘は、次の週末、家族一食分の調理を担当することになった。
虫 尾八原ジュージ @zi-yon
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます