龍巫女の詩

アウレア

龍巫女の詩

 未だ大地を力ある約定が覆い、天の神々と地底の女王が世を乱していた頃。今はもう誰も知らない頃。北限山脈から打ち付ける冷たい息吹が、大地に飢えと眠りをもたらす頃の話。

 

 その夜は一際暗かった。星も月もなく、悪夢と眠りだけがあった。北限山脈の麓に栄える都の誰もが、夢の中で朝を待っていた。

 山脈の中腹に小さな宮殿があった。人のものではない。人の王が住む宮殿は更に下、都からほど近いところにあった。この宮殿は、龍の宮殿であった。地底の職人たちがこの世の物とは思えぬ巨大な黒曜石から切り出し、信じられぬほど大きく透明な硝子を窓と嵌め込み、色硝子の薔薇窓と金銀の細工とで飾った。宮殿の周囲に魔法で灯された篝火によって、その威容は闇夜に照らし出されていた。

 この龍の宮殿のみが、夜に音を聞かせていた。美しい楽の音。竪琴と、詞も定かでなく口ずさむ旋律。龍は楽の名手でもあった。人の姿をとり、中庭で器用に奏でるのだ。そうやって眠れぬ夜を慰めるのである。

 ――満月の夜は言うまでもなく、月が雲に隠れ星々の輝く夜も、薄雲に浮かぶ朧月夜も、あるいは今日の様に厚い雲が空を覆う闇夜も、美しいものだ。雲が風に靡き、空の様が変わり行くことも昔から変わらず美しい。

 龍は中庭の東屋で空を見上げて竪琴を鳴らしていたが、長年生きて変わらぬ夜に嘆息した。

 そうしているうちに、ふと雲が切れて、月明かりが差した。宮殿を照らす篝火が消え、月影が一層暗がりを強め、中庭の花々は照らされて咲き狂った。そして先程まで龍だけしかいなかった東屋に、今ひとつ影が増えた。

「今夜はもう来ぬのかと思ったぞ、公主殿」

「やあ、アルトゥーラン。相変わらず素晴らしい腕前だ。私の国に来て、私のためにその竪琴を奏でてくれはしないか?」

「貴方も諦めない御方だ。わらわはこの国を捨てはしないといつも言うのに。少なくとも、今はまだ」

 この月影とともに降り立った影こそ、老いも死もなき地底の女王。全ての美と芸術の保護者。そして陽の当たらぬ全てを統べる夜天の公主。神々の中でも陽神と並んで最も偉大な神であった。この神はこうして、地上に降り立っては美しき者や芸術に長ける者を、自らが支配する地底の国へと招いているのだった。

「相変わらずだね、アルトゥーラン。まあ、いいさ。友よ、君と私の間には時間はいくらでもある。君の気が変わるまで待つとしよう。全く、何故人の国にこだわる? 美しさを至高とするなら私の下に来るべきだろう?」

「この国が、人が、妾をまだ必要とするならば、妾はここにあらねばならない。それが妾の償いなのだ。公主殿、たとえ貴方の国へ赴き、真に老いと死とから逃れようとも、心が美しくあらねば真に美しいとは言えぬ。古き約定を捨て、永遠の地へ逃げ去るを美しいと、他に、自らに、誇れようか? 美しさを失っては死と同じこと。そうではないか、公主殿」

「美しく生きる、か。だがその生き方が君を、今ではもう古臭く黴が生えた、誰も得をしない約定に縛っている。巫女を、選んだそうではないか? 多少とうが立っているとは言え、美しい娘だ。君が狂龍であった頃ならいざ知らず、なぜ今巫女を選ぶ? 君に美を捧げる巫女いけにえはもはや必要なかろうに」

 かつて狂いし龍――アルトゥーランが北の小国に降り立った時、美しき娘と引き換えに国を守護した。その国は今では大陸北部に覇を唱える大国となり、龍はますます美しくなった。多くの巫女たちの犠牲の上に。

「約定は簡単には違えられぬ。今は巫女たちに不自由なく、密かに人の地へ戻してもおる。妾が取り決めた約定ぞ? 妾が違えることができようか」

「それは言い訳さ、アルトゥーラン。美しく生きることを求めながら、未だ自らの美しさへの醜い執着を捨てきれない。他を圧倒する美をもっても、心に美しさを求めようとも、その心が醜く自らに欲をもたらす。他の誰より美しくなってなお、より美しくならねば気がすまない。だから君は、自らがより美しくなるための手段を、手元に置いておきたいのだろう? 約定も、君が取り決めたということも、言い訳。君の弱さにすぎない、アルトゥーラン。そうだろう?」

 龍は答えに詰まった。この神に全てを見透かされていた。

「そうかも知れぬ。しかし、公主殿。その醜さがなくては美しくはあれない。欲とは醜くも美しい。少なくともそうありたいものだ。……妾の弱さは妾がよく知っている。貴方の国へ行けば、そうした苦しみとも無縁でいられるだろうことも。しかしそれではその弱さを克服できぬ。やはり貴方の国へは行けないな」

「やれやれ。まあ、いいさ。さて、そろそろ日も登る頃だ。私は戻るよ。次は巫女の顔でも拝みに来るとしよう」

 神は肩をすくめると、夜闇と月影に消えていった。雲が月を隠し、篝火が灯った。

「公主殿、貴方は悪い方だ。いつもこうやって人に弱さを突きつける」

 そしてまた、龍は竪琴を鳴らす。一頻り思索にふけって、夜を明かした。



 北限山脈の麓を都とし、大陸北部に覇を唱える龍国。十年に一度、最も美しい娘が龍へ捧げられ、選ばれた巫女は、捧げられたが最後、誰も見ることがなかった。龍巫女は人柱なのだ。そうやって千年近くもの間、龍国は栄えてきた。であるから今年も、それは変わらない。千年の伝統はただ粛々と執り行われる。巫女の嘆きをよそに。



「なぜこのわたくしが死なねばならないのです! お父様! この国には、私よりも美しく、あるいは私と同じ程に美しい者など大勢いましょう。何故なにゆえ。なにも私のような行き遅れを捧げる必要など無いでしょう。男を選り好みしすぎたことは反省しております。しかしどうにかならぬのですか! かの龍に、嫁ぎたくなどありませぬ!」

 女が嘆いていた。美しい女だ。だが今や、日も恥じらう輝かしいかんばせは、暗雲にかげり、蒼穹を封じた瞳からは、天に穴が空いたかのような雨が降っていた。そして口を開けばいかずちが乱れ舞う。女は嵐であった。

 女は龍巫女に選ばれたのであった。これまでにも多くの男がこの美女をものにしようと、婚姻を申し入れ、そして女は断ってきた。どの男も学も弁も、武すらも自分に及ばぬ。それではとても自分には釣り合わぬ、と。だが、相手が龍ではもはや断ることなどできない。宮廷伯の娘は国一の美女であること、噂は龍の下にまで届いていたのである。

「ああ、イシュファ。無力な父を許せとは言わない。だが、もはやどうにもならぬ」

 女――イシュファの嵐はますます激しさを増し、父も母も誰も寄せ付けぬほどであった。

 イシュファはここから逃げ出すことを思った。だがどうして人の身で龍の翼から逃れられよう。逃げられるはずがない。

 イシュファの外へ向ける激しい嵐は、内なる心を貫く波濤へと変わり、その身の不幸を嘆いた。


 イシュファは白に飾られた。白薔薇のヴェールが涙に濡れる顔を隠し、無垢なるドレスの重みが、逃げる力を失わせた。

 イシュファは人の王の宮殿で屋根の取り払われた馬車に乗せられた。馬車といっても、馬はいない。イシュファが乗れば自ら動き出す魔法の馬車だ。

 王の宮殿の裏手から龍の住まう宮殿へと馬車は向かう。先程までは王宮で儀式が行われ、少なくない人々が、この日ばかりは解放される王宮に、最も美しいという巫女を見るために集まった。だが、開放された王宮の裏門からついてくる者はいない。この先は恐ろしき龍の宮殿。人が住む地ではないのだ。

 イシュファは馬車が山道を行く中で、夜天の星々の煌きを、そしてその煌きを大きな影が遮り行くを見た。龍が住処に戻ったのである。虫の音は静まり返り、野鳥は我先にと逃げ出した。龍が引き連れた雲が、月と星々を覆い隠した。

 宮殿が徐々に近づくに連れ、はっきりとイシュファにも見えてくる。それは地上とは違う、魔性の芸術であった。宮殿は消えることのない魔法の篝火に照らされ、黒光りする黒曜石の扉や左右に伸びる柱廊には優美な龍の彫刻が、正面の上部の薔薇窓には鮮やかな色硝子が嵌め込まれていた。贅を尽くしたその威容は、まさに人ならざる者が住むに相応しい。

 扉がゆっくりと開かれると、馬車は中へと進んだ。入った先の天井は高く、奥行きも広かった。篝火に照らされた外とは違い中は真っ暗だ。しかし、龍がいることはわかった。

 暗闇に金色の瞳が浮かんでいた。龍は見えずとも、そこにあるだけで人に恐怖を喚起した。そして月明かりが差し込んで龍の姿が明らかになると、人はその美に圧倒された。

 ――美しい。

 天窓から月光が差し込んでいた。イシュファが入った広間の奥に、美しき者が佇んでいる。黄金の龍鱗は月光を受けて微かに光り、頭部には白金のたてがみと、淡く輝く白い角が一本伸びていた。

 龍は、四本の足を揃え、翼を広げて優雅にイシュファの馬車を待ち受けていた。神の使いかと見紛うほどであった。

 イシュファはただその美しさに我を忘れた。死への恐怖も忘れ、ただ龍に魅入った。この世にこれほどまでに美しいものが存在したのだ。それは一目惚れにも似た、今までイシュファが感じたことのない衝撃だった。

「よくぞ参った、美しき娘。もっと側に、近う寄れ。その馬車は送り返してやらねばならぬでな」

 龍は女の声で言った。笛の音を思わせる透き通った声だ。だが、不思議と体の芯まで響く重厚さもある。イシュファはその美しい声に酔いしれ、未だ呆然としていた。

「やれやれ。仕方のないやつじゃ」

 龍の前足が伸び、イシュファを掴んだ。その力加減は妙技とも言うほどで、イシュファは掴まれてもまるで痛みを感じなかった。龍が足元にイシュファを下ろすと、馬車は自ら下がり、そして扉が閉じられた。

「して娘、名をなんという?」

 イシュファはそこではっとして、正気にかえり答えた。

「私はイシュファ。アルダール・アル・ハイマンが長女、イシュファ・アルドゥイエ・アル・ハイマン。それが私の名です。金色こんじきの君」

「イシュファ、良い名だ。ハイマン伯の美姫の名、妾の下まで届いておったぞ、イシュファ」

「美姫などとは。御身を前にしては人の美しさなど、どれほどの価値がありましょうや」

 イシュファはどうやらこの龍が、自分を殺す気はないらしいと感じた。もしも殺す気ならばとうに死んでいるであろう。名を聞く意味がどこにある?

「イシュファ、過ぎた謙遜は美徳とは言えぬな。そなたは美しい。それを誇れ。才持つものがそれを誇らぬとき、持たぬものはどうすれば良い? 一層惨めとなるだけだ。持つものにはそれに相応しい振る舞いというものがある。自らを誇れ、イシュファ」

 イシュファは自らを恥じた。そして同時にこの龍が力や美しさだけでなく、深い知性までも備えていると知った。

「私が間違っておりましたわ、美しき方」

「うむ」

 龍は満足気に頷き、笑みを浮かべた。

「さて、イシュファよ。そなたは巫女。この妾が国を守護するための人柱。もはや自由にこの宮殿から出ることも叶わぬ。そなたと妾は長い付き合いになるだろうな。よって、妾の名を呼ぶことを許す。妾はアルトゥーラン。アルトゥーラン・オーランセプティア。齢千を数える龍なり」

「アルトゥーラン、様」

 イシュファは反芻するように呟いた。

「固いな、イシュファ。ここには妾しかおらぬ。もっと楽にしてよいのだぞ? まあ、すぐにというのも無理な話であるか。よい、食事としよう」

 そういうとアルトゥーランの体が一層輝いた。全身が黄金の光へと変わると、驚くべき変化が起こる。あまりにも巨大であった龍が、人の形へと変じたのだ。額からは変わらず白い角が生え、切れ長な目は知性を湛え、そして足首までもある長い金髪は錦糸のごとく、どこから取り出したか、濡羽色をした天鵞絨びろうどのドレスで玉肌ぎょっきを隠していた。人に転変してなお、アルトゥーランは美しかった。

「さて、ついてまいれ。今宵はそなたのために腕をふるったのだぞ」

 アルトゥーランが奥へと進むのを、イシュファが慌てて後に続いた。



 アルトゥーランの用意した料理の数々は非常に豪勢であった。イシュファは宮廷伯の娘として様々な国の料理を食してきたが、そのいずれにも勝る。また机上に並べられてから時間も経っていたはずだが調理したばかりのように温かかった。

「これは雪月花のジュレ、これは燈蜜草と時津茸のマリネ、これは……」

 アルトゥーランが料理を説明するが、使われている食材のどれもが入手できる季節を限られており、しかも滅多に手に入らない物だった。

「これほどの美味、味わったこともありませぬ。一体どのようにしてこれらの品々を? いずれもこの時期では採れぬ物ばかりでございませんか」

「無論、妾が手ずから調理したのだ。食材は劣化を防ぐ魔法を使えば保存に困らんのでな。温かいのも同じ魔法だ。料理はかつて手慰みに極めた。なかなか良い暇つぶしであったが、永い生は退屈だ。一つの道を極めてまだ時は余りある」

 アルトゥーランは事もなげに言ったが、料理を極めたことが誇張ではないことが、これらの品々から容易に知れた。

 イシュファはその後も料理が供される度舌鼓をうち、アルトゥーランは料理を説明しながら食事をしつつ、イシュファの様子を楽しげに見るのだった。

 食事を終えるとイシュファは部屋に案内された。家具も衣類も雑貨も、必要な物は全て揃えられており、ドレスや装飾品など、どう考えても宮殿から出ることのない生活では不要な物もあった。特に装飾品など一部の物は素材の希少性はもちろん、その細工も細緻にして流麗、人の世にはない美しさを持っていた。

「必要な物は全て揃えてある。もし不足の物があれば言うが良い。衣服の類は大きさは違わず、常に清潔が保たれる魔法をかけてある」

 イシュファは部屋を確認すると確かに必要な物は全てあった。だが同時にあることに思い当たった。

「一人では服を着ることができませぬ。どのようにいたしましょうや?」

 いつも侍女が服を選び、そしてイシュファを着替えさせていたのだ。そもそもドレスなどは一人で着ることができない物もある。

「やれやれ、仕方のないやつだ」

 ――聞け、ニニシナの衣ども。汝、その身は汚れるあたわず、丈のたがうを能わず、仮初めなりしその意思以て、自ら主を着飾らん。

「これでそなたも一人で着れるであろう。服を選ぶことくらいは自分でなんとかせよ。他に何か、足りぬ物があるか?」

 アルトゥーランが使ったのは、魔術ではなく、人の世に絶えて久しい魔法であった。世界にはまた一つ約定が紡がれた。

 イシュファには初め、それが魔法とわからなかった。言葉に宿る力を感じ得なかったのだ。しかしアルトゥーランに言われ、それが音に聞く魔法というものであったことに気付いた。

「いいえ、アルトゥーラン様。何もございませんわ」

「そうか。また足りぬときはなんでも言うが良い。もう今日も遅いな。そなたも疲れたであろう? そろそろ休むこととしよう。私の部屋は隣だ。何かあったら呼ぶのだぞ?」

「わかりましたわ、アルトゥーラン様。このような格別の配慮、感謝いたします。おやすみなさいませ」

「やれやれ、明日にはもう少し砕けてくれると良いのだがな。今はまだ喋り方が固いのだ」

 アルトゥーランは呆れたように肩をすくめた。しかしイシュファもアルトゥーランに対する緊張というものを完全になくせた訳ではない。あるいは何が怒りに触れて、殺されるとも知れないのだ。

「ではゆっくりと眠るが良い、イシュファ。また朝に。明日には宮殿内を案内するとしよう」

 そう言ってアルトゥーランは去った。イシュファは緊張の糸が切れたか、急に疲れを感じ、そのまま沈むようなベッドで眠った。


 アルトゥーランが扉を閉めてすぐ、イシュファの微かな寝息と嗚咽が聞こえる。龍にとって扉一枚の隔たりなど、無いものと同じであった。

「……無理もあるまい。突然妾の下に連れてこられたのだからな」

 ――これは妾の都合。妾の弱さの犠牲。公主殿の言う通り。

 アルトゥーランは自らの部屋から竪琴を持ち出すと、中庭でまた、奏でるのだった。それはあるいは、かつて巫女たちが歌い好んだ曲だったかもしれない。もうアルトゥーラン自身も覚えていないが。


 それから幾回か陽が生まれ、そして死した。イシュファの固さも多少は取れたという頃か。

 アルトゥーランは数日に一度外へ出向き、食物を採ってきた。それ以外の時間はイシュファに付いて、イシュファが本を読むのを話しかけるでもなく見ているか、あるいはその日の菓子か料理を作っているのだった。そして夜になると中庭に出て、そこで竪琴を鳴らすのだ。

 ずっと人の姿で過ごしていることについてイシュファは不思議に思ったが、聞けば龍の姿でいるよりも楽であるらしい。そのようなものか、とイシュファも納得した。

 さてそのイシュファはといえば、日がな一日、宮殿地下にあった書庫で本を読むか、あるいはアルトゥーランと話をして過ごし、夜は遠く琴の音とともに眠りに落ちる日々だった。

 龍巫女として捧げられたが、宮殿から出られない以外には不便なこともなく、食べられることもなく、むしろ家にいた頃よりも過ごしやすいかも知れないとまで思うほどだ。家にいた頃は出たくもない社交界に顔を出し、茶会に出席しとやらねばならないことが多かった。だが、今この宮殿で必要なことはアルトゥーランが全て魔法で行っている。イシュファは趣味の読書をしているだけでよかった。

 更に書庫は地下十階にも及ぶ巨大なもので貴重な魔術書までも無数にあり、イシュファは驚きを覚えるとともに、これならしばらく退屈しなさそうだと思った。


 ある日、あまりにも広い書庫を探索していると、イシュファは書名のない本を見つけた。一冊だけではなく、本棚を一つ全て埋め尽くすほどある。中を開いてみると誰かの日記であった。全く紙の劣化は見られなかったが、しかし日付は三百二十年前。少し昔の言葉で書かれている。

 読んでみるとどうも当時の龍巫女の日記のようだ。イシュファは座ることも忘れて、読みふけった。

「ここにいたか、イシュファ。夕食の時間だぞ」

 アルトゥーランが調理を終え、書庫に呼びに来てようやく、イシュファは時の流れに気付いた。

「あの、これは」

「ん、ああ、懐かしいな。……月のような女であった。そうだ、そなたにも書いてもらわねばな。妾はそなたら巫女には日記をつけてもらうようにしているのだ。できれば毎日つけてもらいたい。確か、ここら辺から……ああ、これだ」

 そう言ってアルトゥーランは本棚の下段から一冊を取り出した。イシュファが見ると中は白紙であった。

「如何なる者も地上において時と忘却からは逃れられぬ。そして人の生は短く、妾はあまりにも永い。全てを覚えておけずとも残しておきたいのだ。妾の罪、妾の業を。……いや、今は話すことではないな。時が来れば話すこともあろう」

 アルトゥーランはここではない遠いどこかを見て言った。イシュファはアルトゥーランの心奥に砂城を垣間見たが、しかし触れることはできなかった。

「さあ、イシュファ、食事にするとしよう。日記は難しく考えず、その日にあったことでも書いておいてくれれば良い。なんなら妾に対する恨み辛みでも良いのだ。それを咎めたりせぬよ」

 アルトゥーランはイシュファに背を向け階段を登っていった。イシュファは白紙の日記帳と、本棚から一つ日記を取り出して後を追った。



 イシュファが捧げられてまた幾日か経った。イシュファも随分と打ち解け、今では宮殿から出られない自分の代わりにアルトゥーランに物をねだることもあるほどだ。ここには本は多いが、それ以外の娯楽があまりにも少なかった。

 イシュファは本の他に、絵画や装飾品といった美しい物を求め、また、二人で遊ぶための娯楽品を求めた。

 イシュファは知識と強さ、そして美しいものを好んだ。二人で遊ぶことができる娯楽品の類は、美しく知に富んだアルトゥーランを観るのに最適であったし、読書をしている間、すぐ側でアルトゥーランに観察されるのは、面映いという気持ちもあった。

 それで今日は、イシュファとアルトゥーランは戦盤の対局をしていた。これもアルトゥーランに取り寄せてもらったものだ。戦場を模した盤上遊戯で、イシュファは数ある遊戯でこれを特に好んでいた。並み居る男たちを抑えつけて大会で優勝したこともある。

 であるから戦盤は、イシュファに一日の長があると見え、アルトゥーランはその日、何度もイシュファと対局するが、ついぞ勝利することはできなかった。アルトゥーランはイシュファほどではないが、存外負けず嫌いだった。

「全く、そなたは強いな! この戦盤なるもの、奥が深い。この妾がこうも負け続けとは」

「いいえ、アルトゥーラン様。アルトゥーラン様こそ、今日が初めてとは思えませんわ。先程なんて一手間違えれば私が負けていました」

 イシュファの正直な感想だった。アルトゥーランはわずか一日で驚くほどに戦盤の戦術と定石を修得し、対局中何度か空恐ろしく感じたほどだ。

「この戦盤には龍の駒が足りないな。龍の駒があればより面白いであろうに」

 アルトゥーランが冗談めかして言うと

「では龍を倒す勇士の駒も必要でございますね」

 イシュファもつられて言い微笑んだ。だがアルトゥーランは少しの間押し黙って

「イシュファ……そなたも勇士の駒が欲しいか?」

 それでイシュファも自らの失言を悟った。

「いいえ、アルトゥーラン様。そんなつもりでは……」

「いや、よい。わかっているとも。ただの冗談だと。それに、そなたに勇士の駒は似合わぬ。守られる姫が、こんなにも強いのだからな」

 アルトゥーランはイシュファの手を取って、騎士か貴公子のように軽く膝をついてその甲に口付けた。

「さて、妾は夕食でも作るとしよう。良いか、イシュファ。明日は妾が勝つぞ?」

 アルトゥーランは手の甲から口を離し、上目遣いで微笑んでそう言うと、厨房へと去っていった。イシュファは一時驚いて放心していたが、気を持ち直すと、しばらく手の甲を見つめ、それから書庫から持ち出した本を読み始めるのだった。



 その夜は満月だった。虫の音は収まり、風は弱く、雲は動かない。夜の全てが眠っていた。

 アルトゥーランが中庭の東屋で竪琴を鳴らしていると、夜の影から杖をついた白い女が現れた。

「やあ、アルトゥーラン」

「公主殿。そろそろ来る頃かと思っていたぞ」

 夜天の公主がアルトゥーランの下を訪れるのは、イシュファが宮殿に来て以来、初めてのことであった。

「此度の巫女は、随分と君に懐いているみたいだね。他の巫女には、もう幾分畏れられていたというのに」

「イシュファは不思議な娘だ。妾に確かな畏れを抱いても、それは恐怖というよりも尊敬に近いように感じる。妾に物をねだる巫女など久しくいなかったぞ?」

 アルトゥーランは笑って言う。

「君も楽しそうで何よりだよ、アルトゥーラン。此度の巫女は、良い働きをしているようだ。罪に悩む君も美しいが、黄金に影は似合わないからね」

「公主殿も、妾の悩みの種なのだがね」

「では私と会わず、醜く狂ったままのほうが良かったかい?」

「そうではないが……」

 アルトゥーランは手慰みに琴を鳴らした。

「……だが、妾も思うことがある。もし妾があの時に、と」

「そうであれば、この国に美しい龍はおらず、白美の国は今も人攫いと冬を恐れる貧しい国だっただろうね」

 神はそういって立ち上がるとイシュファの部屋がある方へ目を向けた。

「公主殿。貴方はここでは畏れが強すぎる。妾の巫女とは会わせられぬ」

 そういってアルトゥーランも立ち上がった。神々は、その地の人の影響を強く受けるものなのだ。

「珍しいね、アルトゥーラン。だが、些か過保護ではないかな? この私の行く手を遮ろうとは」

 神たる夜天の公主はほんの少し、怒気を込めて言う。大気は震え、木々はざわめいた。だがアルトゥーランは動じずに言い返した。

「公主殿、妾も、イシュファのことは気に入っているのだ。貴方は美しいものと来たらすぐ地底へ連れて行くのだから、我がぎょくは隠しておかねばならぬ」

 二人はそうしてしばらく無言で向かい合っていたが、不意に神が怒気を抑えた。

「まあ、いいさ。人を守る龍などと珍しいものを見られた。アルトゥーラン、ここでは駄目だと言うなら、地底へ連れてきたまえよ。君も久しく訪れていないだろう?」

「貴方の前に連れ出すこと自体が不安にも感じるが……。まあ、イシュファも外に出るとなれば嬉しかろうし、そうするとしよう」

 公主はその答えに頷くと夜闇に消えた。


 その夜、イシュファは何か恐ろしいものを感じて目を覚ました。あるいは悪夢かとも思ったが、違う。目を覚ましても変わらず恐怖を感じているのだ。部屋には恐ろしいものはなにもない。自分が訳もわからず恐怖していることに、イシュファは恐怖した。幸い動けなくなるほどの恐怖ではないが、扉を開けた先に恐怖の原因がいることを思うと、アルトゥーランがいるはずの隣室へ行くこともできなかった。

 ふと、恐れが消えた。イシュファが隣室へ行くために扉を開けると、廊下の先からアルトゥーランが歩いてくるのが見えた。

「アルトゥーラン様!」

「おや、イシュファ。どうしたのだ?」

「あの、何か恐ろしいものがいた気がするのですが」

 アルトゥーランはその一言でなぜイシュファが起きたか察した。

「怖い思いをさせたな、イシュファ。だが、もうあの方はおらぬ」

 アルトゥーランはそっとイシュファを抱き寄せると、安心させるようにイシュファの長い髪を梳き撫でた。

「あの、アルトゥーラン様……、今日はアルトゥーラン様の部屋で寝ても良いですか?」

「ふ、そなたは存外、怖がりなのだな。もちろんいいとも」


 アルトゥーランの部屋には豪奢な天蓋付きのベッドの他には小さな机と椅子が窓際に一脚ずつ、机の上に水差しと、それから壁に立て掛けて竪琴が置かれているのみで、他と比べて幾分侘しい印象であった。

 アルトゥーランは銀の水差しから取り出した盃に水を注ぐと、手持ち無沙汰に佇むイシュファに差し出した。

 仄かに柑橘の香りがした。

「ありがとうございます。アルトゥーラン様」

「どこか、座るといい。少しは落ち着いたか? イシュファ」

 イシュファはベッドに腰掛け水をまた一口含んだ。

「はい、だいぶ」

 もう一口飲んで、空になった盃を差し出した。アルトゥーランはそれに水を注ぐと、飲み干して机に置いた。

「イシュファ。今日はそのベッドを使うがよい。妾もここにおる」

「私一人でなんて。アルトゥーラン様はどこでお眠りになるのです?」

「妾のことは気にするな。龍は眠らぬものなのだ。そら、イシュファ。もうベッドに入れ。ゆっくり眠るといい」

 イシュファは促されるままにベッドに入ったが、ふと疑問に思って

「アルトゥーラン様、では何故部屋にベッドを?」

 眠らないなら、必要ないはずですのに。

「普段なら、それがわからぬ小娘でもあるまいに。イシュファ、妾が夜に奏でるのは楽の音には限らぬという事よ」

 イシュファは意味を理解して紅玉のように赤面し、掛け布団を手繰って顔を半分隠した。

「ふ、意外と初心なのだな、イシュファ。案ずるな。気の弱ったところにつけ込むのは、妾の好みではない。今は眠れ、イシュファ」

 アルトゥーランはほんの少し魔法を込めた。イシュファは眠りに落ちた。

 夜が更け行く中に静かな楽の音が鳴っていた。



 その翌朝、中庭に大鷲が手紙を携え降り立った。アルトゥーランは手紙を読むと懐古と寂寥とを感じ、目を細めた。

「すまぬ、イシュファ。急用ができた。今日は戻らぬかもしれぬが、大丈夫か?」

 アルトゥーランは食堂へと戻り、朝食をとるイシュファに尋ねた。もしイシュファが引き止めるなら、アルトゥーランは宮殿に残るつもりであった。

「そんなに心配なさらずとも、もう大丈夫ですわ、アルトゥーラン様」

 昨日の今日であるから、アルトゥーランは心配だった。夜天の公主が、自らがいない時を狙いはしないかと。手紙を届けた鷲は、夜天の公主の御使いであるから尚更である。

 とは言え手紙に書かれていることは、できることなら無視したくなかった。今を逃せば、二度と会うことはないだろう。

 それで結局、アルトゥーランは行くことに決めた。

「すまぬな、イシュファ。少し寂しい思いをさせる。明日には戻れるはずだ。宮殿の中のものは自由に使って良いぞ」

「ありがとうございます。アルトゥーラン様」

 イシュファはアルトゥーランを安心させるように微笑んだ。

 アルトゥーランの心配は、それで完全に拭える訳ではなかったが、しかし目的地は遠いところであったから、一度行くと決めたなら、なるべく早く出る必要があった。

 アルトゥーランは心配を胸に納めて、宮殿から出ると龍へと変じた。黄金の鱗が、陽の光を反射して燦めいている。柱廊からそれを眺めていたイシュファは、相変わらずお美しい、と少し見惚れていた。

「行ってらっしゃいませ、アルトゥーラン様」

 イシュファは宮殿に一人残ることになったが、地上に逃げるなどとは考えるべくもないことであった。

 

 アルトゥーランは南へと飛翔した。その速さは太陽よりも速く、しかし目的地に着いた頃には、太陽は中天に差し掛かっていた。大陸最南端に位置する港町だ。

 アルトゥーランは調和の魔法を使った。町の外に静かに降り、そして人に変じて堂々と、街の門を通る。額からは相変わらず角が伸びていたが、門衛に咎められることもない。ともすれば気圧されるほど整った美貌も、誰も気にはしない。アルトゥーランは、魔法が完全に機能していることに満足した。

 港町は、潮の匂いがした。大通りからはいくつもの船と、広い海が見える。活気ある喧騒に紛れて、刻むように潮騒が鳴っていた。アルトゥーランはそれを聞きながら、住宅街へと歩く。向かう先は、一際立派な庭と門扉を備えた大きな邸宅である。

 アルトゥーランはここに住んでいるはずの人物を訪ねてきたのだった。門を潜って、アルトゥーランは魔法を解いた。この家の者には自分が誰かは理解してもらう必要がある。

 アルトゥーランは扉の呼鈴を鳴らすのを逡巡した。何もせず戻るほうが良いのではないか。今更会ってどうすればよい。

 だが、その様に迷ったのは一瞬で、意を決して扉につけられた呼鈴を鳴らした。中からはすぐ足音が聞こえて、扉がゆっくりと開かれる。出てきたのは、扉の取っ手にようやく手が届くかどうかというくらいの、少女だった。目元と髪が、似ているな、とアルトゥーランは感じた。

「はい、どちら様……わあ、お祖母ちゃん! お祖母ちゃん! あの人が来たよ! すごい、本当にきれい!」

 少女は取ってから手を離して、奥へと走っていった。アルトゥーランが呼び止める暇もない。

 扉が閉じる音がして、慌ただしく足音は遠ざかって、それから叱るような声がする。完全に無視された形ではあったが、アルトゥーランはこうした人の世の旋律が嫌いではなかった。

「すみません、お客様……」

 扉を開いた侍女が、アルトゥーランを見て声を失った。奥から少女の声と足音、今度は諫める声も聞こえる。

「突然の来訪を詫びよう。ハスハ殿は御在宅かな?」

「あ、ど、どうぞ。こちらへ」

 アルトゥーランは緊張しながら案内する侍女に付いて、屋敷に入った。

 二階の日当たりの良い部屋に彼女――ハスハはいた。記憶にあった黒檀の髪はすっかり白くなっており、随分と老いていた。直接会うのは三十年か、四十年ぶりだろうか。

 ハスハはベッドに体を起こして先ほどの少女の相手をしている。もう立てないほど体が弱っているのだ。それを感じさせない優しい笑みで、ベッドの端に座る孫と話していた。

「大奥様、あの、お客様をお連れしました」

「ああ、ありがとう、もう下がっていいわよ」

「はい、失礼します」

 侍女が部屋から出て、しばらく部屋の中には沈黙が漂った。先ほどまでしきりに祖母に話しかけていた少女も黙って祖母とアルトゥーランの二人を見ている。

 アルトゥーランとハスハはしばらく見つめ合っていたが、やがてどちらからともなく笑った。

「本当に、お美しい。お久しぶりですね、アルトゥーラン様。私の思い出のまま、いいえ、ますますお美しくなられました。私は老いて……羨ましいですわ。アルトゥーラン様」

 ハスハはそう言ったが、全く羨ましく思っていないことは、声から明らかであった。あるいは憐憫すら感じさせた。

「そなたは老いても変わらぬな。妾もそなたが羨ましい。美しく老いた、そなたが」

 老いは心を蝕む。人を醜くする。アルトゥーランは老いを恐れていた。そして同時にこの目の前の彼女が、美しいままに老いたことに感動し、そして安堵した。

 アルトゥーランはそっとベッドに近づき、端に座った。少女の隣だ。先程まで元気だったこの少女は、今では借りてきた猫のように大人しくしている。祖母と、祖母の大事なお客様の会話を邪魔したくなかったのだろう。とてもいい子だ。アルトゥーランは少女の黒髪をそっと撫でた。少女は目を閉じてされるがままだ。

「いい子だ。そなたの孫か」

「ええ」

「名は?」

「ファーラーン。ファラ、挨拶なさい。この人が、アルトゥーラン様よ」

 少女が立ち上がって姿勢を正したので、アルトゥーランは撫でるのをやめた。

「ファ、ファーラーン・セトマです。ファラって呼ばれています。あ、あのさっきはごめんなさい!」

 ファーラーンは裾を持ち上げて頭を少し下げた。

「ああ、気にしていないとも。それよりもハスハが妾のことをどう言っていたかのほうが、よほど気になるというものだ。あの頃の妾は世事に疎かった。迷惑もかけたものだ」

「ええとね、お祖母ちゃんはね、ものすごく綺麗で怖かったとか、ちっとも変わらないとか、あと宮殿を出て、ある日突然大金と一緒に街に置いてきぼりにされたとか、絡まれていたところを助けてくれたとか、商売が怪しい時に援助してくれたとか、えーと、それから」

 ファーラーンは思いつく限りで慌てて話しているようだった。ハスハは様々なことを語って聞かせたようだ。

「ファラ、恥ずかしいからそれ以上はダメよ」

「ええ? まだあの時はかっこよかっただとか、少しは見直したみたいな話はしてないよ?」

「だからね、ファラ。そういう話をされるのが恥ずかしいのよ。昔の自分について話されるだけでも恥ずかしいのに。それに、恩人の前では少しは私に格好つけさせて?」

 アルトゥーランとしてはファーラーンが話す内容は興味深かったが、本人の前で聞くのは難しそうだと諦めることにした。

「ほう、恩人か。妾はそなたには随分と恐れられていたし、反発されていたから、もっと悪い言い方をされていると思ったのだが」

「それなら今までこんなに援助してもらっていません。それに私を無理やり十年も手篭めにしていたのですから、恐れられるのは当たり前でしょう。しかもあんな怖い龍が、いきなり私を放り出すのだから、もう訳がわからなかったわ」

「手篭めとは語弊があるだろう。妾は何も手を出していなかったではないか。それにそなただって、妾の巫女などせず、外に出たかったであろう?」

 ハスハはかつて龍巫女だったが、アルトゥーランは今のイシュファほど積極的に関わらず、日記帳と食事を与えてあとは時折会話する程度だった。むしろ今のイシュファの状況のほうがよほどありえないことなのだ。イシュファが来るまであの宮殿には本しかなく、しかも読書で気を紛らわせようにもいつ自分を殺すともしれない、龍がすぐ側で見ているのだ。普通は全く安心できない。意見するなどもってのほかだ。

「それでもとても急で、困りました。それに私を十年も監禁していたんですから、手篭めと言っても……」

「ねえねえ、お祖母ちゃん、てごめにするってなに?」

 ふとファーラーンに聞かれて、ハスハとアルトゥーランはしばし顔を見合わせた。

「ファラ、今は説明しにくいから、外で待ってなさい」

「ええ?」

「ファラ、いい子にして外に行ったら、後で良い物をあげよう」

 ファーラーンは不満そうだったが、アルトゥーランがそう言うと渋々と言った様子で外に出ていった。

「可愛い子だな」

「ファラはあげないわよ。貴方には絶対に」

「連れて行ったりしないさ。今は、イシュファがいる」

「イシュファ……。今の、龍巫女?」

「ああ」

 ハスハも今代の龍巫女の話は気になるようで、アルトゥーランはイシュファのことを色々と話した。最近は遠慮がなくなって、アルトゥーランを恐れてもいないことや、新しい娯楽品をねだられた話をした時は、随分と驚かれた。

「そう、いい子なのね。貴方を慕っているみたい」

「ああ。妾にはもったいない。噂ではもう少し高慢だと聞いていたのだが」

 何より、ハスハはそのイシュファという龍巫女のことを笑って話すアルトゥーランが、信じられなかった。

 ――とても、いい出会いをしたみたいですね。アルトゥーラン様。

 ハスハはアルトゥーランと数年に一度は手紙をやり取りしていたが、アルトゥーランがこんなに楽しげに龍巫女のことを書いていたことは一度もなかった。いつもどこか龍巫女を遠ざけて、一歩引いたところから観察しているのがアルトゥーランの常なのである。あるいは乞われて夜に侍ることもあったようではあったが。

「ああ、すっかり話し込んでしまったな」

 窓の外はもう赤みがかっていた。

「今日はこちらに泊まっていくのかしら?」

「いや、帰るとしよう。イシュファが待っているのだ」

 アルトゥーランは本当に今代の龍巫女を大切にしているのだ、とハスハは感心した。

「イシュファが羨ましいですわ。こんなに大切にされて」

 私の時は大分放って置かれましたのに。なんて言外にアルトゥーランを責める。

「妾は巫女たちは等しく大切に思っているぞ。あまり、伝わらなかったかもしれないが」

 ハスハもこの龍が、巫女たちを大切に思っていることくらいは知っていた。ただ、自分の時には関わり方が不器用だっただけだ。だが、それにしても今代のイシュファという巫女は殊更大切にされている。もしやアルトゥーランは気付いていないのだろうか。自分のしていることに。

「残念ね。これからがきっと面白いのに。ようやくアルトゥーラン様を執着させる人が現れて」

「おい、誤解するでない。妾は――」

 ハスハはアルトゥーランの言い訳など聞いてなかった。ハスハのためにアルトゥーランが早く帰ってきたことなんてなかったのだ。それが今では。

 惜しむらくは残された時間がもう幾許もないということだった。それはアルトゥーランが来たことからも察せられる。きっとあと、ほんの数日。ハスハもよくそれがわかっていた。

 いつのまにかアルトゥーランは言い訳もやめて、こちらをじっと見ていた。

「ハスハ」

「なに?」

「そなたの人生は幸せであったか? 妾が振り回してしまった。本当は、もっと――」

「私、苦しいことも辛いこともいっぱいありました。ずっと読書して、美味しい料理を食べるしかない時も。悲しい別れもありました」

 ハスハはアルトゥーランの言葉を遮った。

「けれど、私、幸せでしたわ、アルトゥーラン様。アルトゥーラン様は私の思い出の君。私は十分、楽しみました。孫もできて、幸せでしたわ」

「ハスハ……」

 アルトゥーランはハスハの手を握った。皺の寄った手。昔とは違う。老い。アルトゥーランが最も恐れるもの。

「さ、もうお行きください。大切な巫女が待っているのでしょう?」

「ああ、そうだな。さらばだ、ハスハ。我が巫女」

 アルトゥーランは老いを見送ることしかできない。誰もが老いて死に逝くのだ。神でもなければ。

 アルトゥーランは部屋を出た。侍女に腕をふるって作った菓子を預けた。ファーラーンにと。そして庭に出て浮かび上がり、魔法をかけると空で龍へと変じた。北へ帰るために。

「さようなら、アルトゥーラン様」



 アルトゥーランが北へ一路飛んでいた。考えるのはイシュファのこと。そして老いのことだ。

 イシュファ。今までの巫女とは違う、自らを恐れない稀有な存在。アルトゥーランにとって巫女とは自らを恐れる存在だ。これまでの巫女は少なからず恐れがあった。だが、イシュファはどうだろうか。イシュファはアルトゥーランを恐れず慕っている。それがアルトゥーランにとっては新鮮で、そして好ましくて、どこか、イシュファの願いは何でも叶えてやりたいと思っているのだ。だが、巫女の願いを叶えることはこれまでもしてきた。それは自らの贖罪、いや自己満足のためだったはずだ。

 アルトゥーランはイシュファとこれまでの巫女とで扱いを変えたつもりはなかった。しかし、たしかに特別視している自分もいることに気付いた。その感情が何なのか、しばし考えるが、答えはない。

 この感情に名前を付ける必要があるだろうか。そう思って、アルトゥーランはイシュファについて考えるのをやめた。幸い、考える時間だけはいくらでもある。

 次にアルトゥーランが考えたのは老い逝くハスハのこと。

 老い。アルトゥーランが最も恐れるもの。アルトゥーランは老いとは醜いと考えていた。若き日に、どれほどの美貌を誇っていても人は老い、美を失う。そしてかつての美しさへの妄執と、今の若く美しいものたちへの妬みが生まれる。本来は称賛されるべき美にさえも。

 だが、ハスハは違った。人は美しく老いることもできるのだ。アルトゥーランは、自らが人であったとして、ハスハのように心美しく老いただろうかと考えた。いや、無理であろう。この恐れをどうにかせぬ限りは。

 そのように考えていると、そこへ黒い大鷲が近づいた。尋常ではない。アルトゥーランは今、来る時と同じ、太陽よりも速く飛んでいるのだ。それに並んで飛ぶこの大鷲は、夜天の公主の御使いであった。

「やあ、アルトゥーラン。考え事かい?」

 大鷲は、夜天の公主の声で喋った。魔法が大鷲を媒介に、声を届かせているのだ。

「ああ、公主殿。今は老いと美しさについて考えていた」

「老い、か。私には無縁の言葉だね。老いは人をいつも狂わせる。耄碌、痴呆、嫉妬、恐怖。そのようになってしまっては美しいとは言えないね」

「そうだ。故にこそ老いは恐ろしい。だが、必ずしもそうはならぬのだということも、今日知った。美しく老いることもできるのだと」

「アルトゥーラン、君はかつて、美しさとは自らが美しいと誇れることだと言った。しかし君は同時に、他に最も美しいと称賛されることを求めている。アルトゥーラン、君にとって美しいとはなんだい?」

 美しさを求め続けるアルトゥーランにとっても、それは難しい問いだった。

「公主殿。他が、そのものを美しいと称賛しても、自らが誇れぬのなら、それは美しいとは言えない。あるいは他が醜いと感じるものに、自らが美しさを感じることもある。その時その美しさを誇れぬのなら、やはり美を失う。……そう考えれば美しさと正しさは似ているな。何が正しくて何が間違っているのか。何が美しくて何が醜いのか。それぞれだ」

「君は美しさと正しさは似ていると言い、誇れることこそ美しさというが、では誇れるとは正しいということかい? あらゆる時に正しい選択をするものがいれば、そのものは美しい?」

「絶対の正しさはありえない。仮定の話をしても無意味だろう、公主殿。同様に、絶対の美もまたありえないのだろうな。かつて妾が目指していたもの。だが確かに、正しくないことを誇ることは難しいであろうな」

「では、美とは正義の下位概念かな? 二つの正義がぶつかるとき、それは争いだろうが、では二つの異なる美がぶつかればどうなる?」

「美と正義はひとくくりにできはしない。自らが考える美しさと、他の考える美しさが違ったとしても、それだけならば何も起こるまいよ。ただ相手を醜いとみなすだけだ。そこに自らの美こそが正しいのだと考えるから、争いが生まれる。そこが、美と正義の最大の違いだ。正義は常に、最大多数の理解を求める。いや、最大多数の理解こそが、あらゆる行為に正しさを付すことができる。だが美は違う。美はその美を共有できるものが少しでもいれば、いやあるいは全くおらずとも自らがわかっていれば、それで良い。正義は他に訴えかけるものだが、美とは自らに訴えてくるものだからな」

「美は自らに訴えるもの、か。なるほど、面白い答えだね。ではせいぜい自らの美への共感者を増やすといい」

 夜天の公主の御使いは、闇夜の雲に吸い込まれて消えた。



 イシュファはアルトゥーランを見送った後、一人で本を読んでいた。本、とはいってもかつての巫女たちの日記である。日記から読み取れるのはアルトゥーランが随分と恐ろしい存在であることと、積極的に関わろうとしないのか、冷たい性格であるということだ。今とはまるで違う。

 もっとも、それも無理からぬ事と、イシュファは考えていた。イシュファ自身はアルトゥーランの美しさと強さに惹かれたが、普通はそうではないだろうことはわかっていた。

「……アルトゥーラン様、早くお帰りにならないでしょうか」

 読みすすめると、殆どの巫女が十年程度で生きたまま遠くの街にこっそりと解放されているようだ。もっとも、わかるのはその前日のことまでなのだが。幾人かの巫女は、突然日記がつけられなくなっていたが、他に比べるとかなり短い。

 そして何よりイシュファが気にするのは、一番古いものでも三百二十年前のものだということだ。アルトゥーランはこの国に千年近く、君臨しているはずなのに。

「はあ……」

 アルトゥーランのいない宮殿は存外に退屈だ。本はいくらでもあり暇は潰せるが、読書をしている時、いつも側にいたアルトゥーランがいないだけで、なんだか物足りないというか、寂しい気がするのだ。

 イシュファにとって、はじめ、アルトゥーランは美しく気高い、憧れのはずだった。だが、今はそれだけでは表せない。

 一刻でも早い帰りを待ち望むのは、まるで恋慕のようだとも思った。だが、恋慕などあまりに烏滸がましい。ただアルトゥーランが大切で、離れたくないのだ。あの穢れない金の美しさが、イシュファの心を惹きつけて止まぬのだった。



 アルトゥーランが宮殿に戻ったのは、真夜中だった。宮殿内の灯りは落とされ、静寂と闇が支配している。

 アルトゥーランは竪琴を取りに部屋へと向かった。

「おや」

 扉を開ける前から気配を感じていたが、アルトゥーランの部屋のベッドには、イシュファが寝ていた。

 静かに寝息を立てて、無防備に安らかな寝顔を晒していた。

「ふ、イシュファ。寂しかったとでも言うつもりか? 可愛いやつだ」

 アルトゥーランは自分にもわからないなんとも言えぬ親愛の情が湧いて、それでふと、イシュファの額に唇を落とした。

 そして竪琴を取り、静かに弾き出した。



 それからまた月日は過ぎて。

 その日は一際多くの人が城下を賑わせていた。昼と夜とが等しくなるこの日は、収穫祭なのである。国中で一年の恵みと来たる年の豊作を、神々に感謝するのだ。

 街の広場では陽気な音楽が鳴らされ、屋台が並ぶ。喧騒の音色は港町よりもずっと豊かだった。

 そんな人の溢れるところに二人の姿はあった。イシュファがアルトゥーランを城下に誘ったのだ。

「アルトゥーラン様、すごい人だかりですね」

「全くだ。こうも多いとは。わざわざ来ることがあろうか?」

 アルトゥーランはすっかり人の多さに参っているようだ。普段はあの広い宮殿に住んでいるのだから、無理もない。

「私も城下の祭に来るのは初めてですわ」

 貴族には貴族の社交がある。朝から準備をした、豪奢な装いで夜の舞踏会に臨まなければならないのだ。舞踏会は貴族が財と権勢、知識と美貌を誇る戦場である。

「アルトゥーラン様、あちらに美味しそうな物が売っていますわ」

「わかった、わかった。買ってやるから引っ張るでない」

 龍巫女に振り回されて、龍は形無しだった。イシュファに手を引かれるまま屋台の列に並び、売られている菓子を買う。

「ほら、イシュファ」

「まあ、珍しい。氷菓が売られているなんて」

 イシュファが嬉しそうに氷菓を口にした。味も悪くはないようだ。イシュファの嬉しそうな顔を見れば、この人の多い場所に来たのも悪くないかと、アルトゥーランは思うが、しかし同時に、自分が普段作っている菓子のほうが美味しいだろうに、とも思った。

 二人はしばらく屋台を回っていたが、やがて大通りで行われている国王のパレードが近づいてきた。

「帰るか?」

「いえ、見ますわ」

 アルトゥーランは自分を棚上げにして、イシュファは、自分を今の状況に追いやった国王など見たくないだろうと考えていたが、それは杞憂だったようだ。

「あれが次代の王か」

 国王の後ろの馬車には堂々とした青年が立っていた。王子である。国王はもう相当に高齢であり来年にもこの王子に王位を譲ることになっていた。

「お父様……」

 イシュファは王子の更に後ろに控える父親の姿を見て、そっと涙を流した。

「イシュファ……」

 アルトゥーランは涙を流すイシュファの顔を隠すように抱き寄せた。今は魔法がかかっているのだから、誰も気にはしないのだが、涙を流すイシュファを放っておけなかったのだ。

「家に、帰りたいか?」

 アルトゥーランは思わずイシュファに問うて、そしてすぐ自己嫌悪と後悔をした。イシュファがたとえ帰りたいと言っても、帰せるはずがない。ただ残酷なだけの問いではないか。何より許せないのは、イシュファに否定してもらいたくて、問うたのだということだ。イシュファは自分が帰れば、家にとっても迷惑になることがわかっている。だから帰るはずがない。アルトゥーランは否定されることがわかっていて、自分が安心するためだけに問うたのだ。

 アルトゥーランは何故自分がこんな問いをしたのかわからなかった。イシュファと離れたくないと思っているのか。

「いいえ……、いいえ……。すみません、アルトゥーラン様。ほんの一目、見たかっただけなのです。帰りましょう、アルトゥーラン様。私達の宮殿へ」

 イシュファが久しぶりに見た父は、少しやつれていた。


 この日は日が暮れても、城下に多くの明かりが灯され賑わっている様子が山中の宮殿からもよく見えた。あるいはここまで音楽も聞こえてきそうだ。

 アルトゥーランは腕によりをかけて料理を振る舞った。イシュファを少しでも慰めたくて。しかし同時に、自分には慰める資格もないと思っていたので、何か声をかけることはできなかった。

 イシュファはもう大丈夫だと笑っていたが、物憂げで、アルトゥーランに気を使っていることは明らかだった。だが、そう言われてしまえば追求することもできず、アルトゥーランはイシュファについての感情を整理するためにも、食事を終えて竪琴を弾くことにした。

 部屋に竪琴を取りに戻り、屋上へと向かう。山下を眺めるために作られた展望用の広場があるのだ。

 もっともアルトゥーランは滅多に行ったことがなかった。空を飛ぶアルトゥーランには高所の眺めなど珍しくもない。

「いつの間にか、随分と明るくなったものだ」

 百年前、城下は今よりも暗かった。星々はもっと輝いていた。千年前は城もなく、ほんの小さな村々が、吹雪と人に怯えているだけだった。

 アルトゥーランは屋上の端に腰掛け、静かに弦を鳴らした。

 どこか物悲しい、名月の夜を思わせる旋律だった。月ばかりが一つ夜に美しく、寄り添う雲も星もなく輝いているのだ。

「少し、悲しい曲ですのね。アルトゥーラン様。それにこんな場所があったなんて、知りませんでしたわ」

 音につられてか、イシュファが階下から上ってきた。屋上は普段生活する場所からは遠い。地下書庫からは尚更だ。

 アルトゥーランはそちらを見ずに山下を眺めながら応えた。

 街での事や、考え事のために離れたのが気まずかったのだ。

「妾も久しぶりに来た。落ち着いて山下を観るのは久しぶりだが、人はこんなにも増えたのだな」

 山下の眺めは絶景だった。収穫祭のこの日ばかりは、街は夜も眠らず火が焚かれる。そして城下の灯りに城が影となって映されていた。

「人が増えるのは、お嫌いですか?」

「であれば、妾はここに留まってはいない」

 イシュファとの問答はどこか楽しい。

「今頃城では、舞踏会でしょうか」

「出たかったか?」

「まさか。あれは準備がなかなか大変なのです。それに煌びやかなのは見た目だけ。実際は黒く錆びた黄銅ですわ」

「そうか、それなら、良いのだが……」

「アルトゥーラン様。昼間といい、もし私のことを気にしていらっしゃるなら、私と踊ってくださいませ」

 アルトゥーランは竪琴を奏でるのを止め、それでイシュファのほうを振り向いた。

 イシュファは深紅の美しいドレスを着ていた。首元には黄金と翠玉の首飾り。もともと、イシュファの部屋に入れてあった物だ。どれも地底で作られた、人の世ではお目にかかれない品である。

「そなたに似合うドレスと装飾品を仕立てねばな。そのドレスではそなたを着飾るには荷が勝ちすぎるようだ」

 イシュファの顔には先程の物憂げな様子はなく凛々しさを取り戻していた。ほんの少し目元は赤く、頬は微かに紅潮していた。青い瞳がアルトゥーランを見つめていた。

 アルトゥーランは竪琴を脇に置いた。そして魔法を使い、自らを貴公子かのように装うと、イシュファの前に跪いた。

「お嬢様、この私に貴方と踊る栄誉を頂けますか?」

 そしてそっと手を差し出す。

「まあ。喜んで、アルトゥーラン様」

 アルトゥーランの似合わない口振りに、イシュファは驚きながらその手を取った。

 音楽がどこかから空に鳴る。アルトゥーランがふと目を向ければ屋上の縁には黒い大鷲が止まっていた。

 今ばかりは公主殿に礼を言うとしよう。せっかく地底の楽師が奏でてくれるのだ。アルトゥーランは内心そう考えながらイシュファの手を引き、足をそっと踏み出した。

 月だけが、二人を見ていた。

「アルトゥーラン様。私、アルトゥーラン様をお慕いしております」

「ありがとう、イシュファ」

「私、本気なのです。貴方様のお側から離れたくないのです」

「妾も、そなたが大切だ。今までの、どの巫女よりも。そなたの思いを、嬉しく思う。だが本当は、こうして嬉しく思うことも許されぬのだ」

「そんな!」

「妾は人の美を喰む龍。罪深き龍の内の一。龍と人とは違いすぎる。老いることもない。妾は大切な者が老いて逝くのを見ていることしかできぬ」

「そんな、そんなの。全て、アルトゥーラン様の都合ではありませんか。納得できませぬ。私のことがお嫌いですか?」

「イシュファ。妾もそなたが大切だ。妾を恐れぬそなたを得難く思い、執着している。妾もそなたを失いたくない。妾はそなたといることを楽しく思っているのだ」

「では」

 アルトゥーランは踊る足を止め、イシュファの手を高く引いてお互いの顔を近づけた。そして言葉を遮って唇を奪う。

「イシュファ。――そなたが大切だ。今はこれしか言えぬ妾を許してくれ」

 近いうちに、妾の罪を話そう。妾に今少しの勇気があって、贖罪終えたなら、あるいは――。

「あるいは――そなたと、ともに……」

 アルトゥーランの口から、ふと思っていることが漏れた。

「……わかりましたわ、アルトゥーラン様。私、アルトゥーラン様をお待ちしています。その憂いが取り払われて、お気持ちが私に向く時を」

 そう言って今度はイシュファがアルトゥーランの唇を奪う。

「けれど、貴方様が私の全てを奪ったのです。ですから、今は私を拒みませぬよう」

 アルトゥーランは返事の代わりにそっと唇を重ねた。



 一夜明けて。朝食をとろうかという時に、公主の大鷲から手紙がアルトゥーランに届けられた。アルトゥーランには開くまでもなく内容がわかる。

「また手紙、ですか?」

「これは手紙というか、命令か脅迫に近いものであろうなあ」

 アルトゥーランは気乗りしないで言う。その言葉にイシュファは驚いた。アルトゥーランにそんなことができる人物がいるのだ。

「いい加減、引き伸ばすのも限界か。イシュファ、少し付き合ってはくれぬか? 会わせろとうるさいのでな」

「どこかに御出でになるのですか? もちろん、私もご一緒します」

「まあ、そうだな。……そなたのドレスも仕立てねばならぬし、ちょうどよい機会か。朝食を終えたら向かうとしよう」

 アルトゥーランはもったいぶって、どこへ向かうか言おうとしない。

「教えて下さいませ、どちらへ向かうのです?」

「不死にしてとこわかの国。真なる芸術家たちの国。――地の底の国。そなたも名前くらいは知っていよう。妾たちが会うのはその主。地の底の女王。全ての美と芸術の保護者。陽の当たらぬ全てを統べし御方。他にもある無数の名とともに、夜天の公主と呼ばれている御方だ」


 アルトゥーランはイシュファを乗せて西へと飛んだ。遥かな西、海の果てに近いところに、一つの島がある。弥終いやはての島と呼ばれる島だ。七つの火山が絶えず煙を吹き、空は常に灰に覆われた島。その七つの山の内の一つが、地底へと繋がっているのだ。

 あらゆる魔法を持ってしても見通せない、真なる暗闇に覆われた火口を抜けて、二人は地底への門を潜った。

 イシュファは地底の国を見て、言葉を失った。感動を、美を、口にしようとして、それを表す言葉が見当たらないのだ。あるいはただ、美しいとしか、言えない。真なる美が連なるこの都を前にして、その美しさを言葉に表すのはあまりに不誠実で、礼を失した行為のように思われた。

 都には無数の尖塔が立ち並び、途轍もなく大きい、地上では宮殿と言ってもいいような建物すらもいくつもある。使われている石材は大理石のような色合いだが、継ぎ目がなく、美しい彫刻以外に無駄なものがなかった。

 どこかから無数の歌と楽の音の旋律が聞こえ、遠くに鳴る職人たちが打ち付ける金槌の音すらも、調和していた。ほんのりと甘い、花の香りすらする。

 アルトゥーランは宮殿の目の前の広場に降りた。アルトゥーランだけがこの都の上空を飛ぶ許しを得ていた。

 広場にはすでに一人の女性がいた。

「お久しぶりです。アルトゥーラン様。そして、お初にお目にかかりますわ、イシュファ様。私はガラテアと申します」

「久しいな、ガラテア。そなたのその言葉遣いには、未だ慣れることができぬ」

 イシュファは片足を一歩引いてドレスの裾を摘み、頭を下げた。

「私はアルトゥーラン様が巫女。イシュファ・アルドゥイエ・アル・ハイマン。この都にお招きいただき光栄ですわ」

 そうして頭を上げて、イシュファはそこで更に驚くことに気付いた。目の前の女性、ガラテアが人間ではないのだ。瞳は水宝玉、髪は火蛋白石、肌は石膏。彼女は人形なのだ。美しい人形が、人と同じ知恵を持っているのである。

「イシュファ、彼女はガラテア。この地底の国にある芸術で唯一、地上で生み出されたもの。今は公主殿の側仕えだ」

 イシュファにとって、これほどの人形を生み出せる職人が地上にいたとは、とても信じがたいことだった。その腕を買われて公主に地底に招かれる職人たちですら、初めは地上にいた頃の自分の稚拙さを嘆き、研鑽するという。そうした優れた職人たちが永遠に切磋琢磨することによって至高の芸術品が生まれるのだ。だが地上にいた頃からこれほどとは。

「貴方を生み出した方は今も……?」

「……いえ。我が創造主は職人ではありませんでしたから。この国にはいません。さ、宮殿で彼の方がお待ちです。ここで足を止めていては、私が怒られてしまいますので」

 ガラテアはそう言って二人に背を向け、宮殿へと歩き出した。イシュファは失言を悔いたが、今はアルトゥーランとともに、ガラテアの後を追った。


 宮殿の内部もまた見事なものだった。反射するほど磨き上げられた床に、荘厳な天井画が映され、また壁一面に本物と見紛う美しい風景画が飾られている場所もあった。

 そしてやがて、一つの扉の前に辿り着いた。それは何の変哲もない、あるいはこの国にあって最も異常な扉であった。

 そしてイシュファは、扉の向こうに、この国の主がいることがわかった。溢れ出る存在感は、扉一枚で隔てられるものではない。

「彼の方は既にお待ちです。ご安心ください。彼の方は礼儀にうるさい方ではございません」

 ガラテアが扉を開いた。アルトゥーランとイシュファも続いて入った。

 イシュファには中の様子がよくわからなかった。歩みながらもその存在から目を離すことができなかったのだ。

 それは、その身に夜を纏っていた。すらりと長い髪と、吸い込まれるほどの瞳は、月光の溶かされた銀。外套から伸びる腕は、凍てつく吹雪か孤独な死を思わせる白。指先には蒼茫に妖しく輝く指輪を嵌め、金色の長い杖を持っていた。神は、数段高くなっている位置にある玉座に静かに座っていた。

「イシュファ。頭を下げよ」

 隣にいたアルトゥーランに頭を抑えられて、それでようやく、イシュファはこの神から視線をそらし跪くことができた。

 アルトゥーランもイシュファとともに頭を下げ跪く。ガラテアは、段上に上がり神の斜め後ろに侍った。

「そんなに固くならなくていいさ、アルトゥーラン。君と私の仲じゃないか。そして人の子よ。よく来てくれたね。アルトゥーランはよほど君に惚れ込んでいるようだ。私の前に連れてくるのをとても渋っていたからね」

 神は音もなく立ち上がって、杖をついて下りてくる。そしてイシュファの前で立ち止まると、その人の倍ほどもある体を折って、イシュファの顎を手に取り顔を上げさせた。

 イシュファは触れられた手に夜を感じた。この世のあらゆる者が抱く眠りと夢。その温かさと冷たさが覚めぬ眠りへと誘う。だがイシュファはその眠りを振り払った。眠ってしまえば二度とアルトゥーランに会うことはできないのだ。

「おや、振られてしまったようだ。アルトゥーラン、君は随分と愛されているようだ。人の愛はいつの世も美しい。幸福で喜ばしく、生を彩る愛。眩しさに目が眩み、妬みと不安、時には憎悪までも育む昏い愛。愛は喜劇も、悲劇をも内包する。あるいは奇跡をも」

 そこでアルトゥーランが伸ばされた神の腕を掴んだ。

「公主殿、あまり我が巫女をいじめられては困りますな」

 神はアルトゥーランに微笑んで、イシュファに伸ばした手を離した。

「全く、それに比べて君と来たら。人間、よければ我が下に来る気はないか? 永遠の夜を楽しみたくはないかい? この国にいれば死ぬことも、老いることもない」

 死も老いもない。それはイシュファにとって魅力的だった。

「アルトゥーラン様とともにでも構いませんか?」

 アルトゥーランは老いを気にしていたから。

 神はほんの少し目を細めて笑った。

「無論、だめだとも。ああ、もったいないな。イシュファ、君の愛を祝福しよう。我が友アルトゥーランは、堅物で生真面目で、あるいは愚かだが、きっと君を裏切りはしない」

「公主殿!」

 これ以上自分を評されては堪らぬと、アルトゥーランが声をあげる。

「煮え切らない君が悪いのだろう? その愚かなまでの真面目さは君の美点だとも思うが。まあいいさ。私は見たいものは見られた。あとは自由に過ごすといい。可愛い人の子らよ」

 夜天の公主は杖を床につくと、その場から消え去った。

 ――アルトゥーラン、龍退治の英雄がいるようだ。せいぜい気をつけ給え。

 アルトゥーランだけには神の忠告が耳元に聞こえた。


 その後アルトゥーランは気分を変えるためにも、イシュファを連れて、工房が多く集まる地区へと向かった。イシュファの新しいドレスや装飾品を誂えるためだ。

 工房地区に近づくにつれて金槌を打ち付ける音が大きくなった。どこかから水を汲み上げる水車の音も聞こえてくる。

 多くの工房が並ぶ中、アルトゥーランは迷うこともなく、一つの工房に入った。

「ニニシナ、いるか?」

 イシュファは工房の中に入って、今日何度目になるかわからない驚愕を覚えた。

 決して狭くはない工房の入り口近くは、所狭しと人形が並べられていた。内側には等身大の人形が。壁際の棚には小さな人形が。どれ一つとして同じ作りはなく、どれも幽玄の美を誇っていた。あるいは、今にも動き出しそうである。

 奥に進むと、右手は棚が壁まで並び、そこに質感の異なる白い布が、壁際には様々な模様のレースが掛けられていた。そして左手は、壁際の棚に拳大ほどの宝石と金属、内側の棚にそれらを加工したと思われる、指輪や首飾り、耳飾りが飾られている。どれも素晴らしい出来栄えだ。

 イシュファがそれらに魅入っていると、一番奥から年配の女性が出てきた。ふくよかで、どこにでもいそうな女性だ。

「おや、誰かと思えば龍殿じゃないかい。そちらのお嬢さんは?」

「ああ、彼女は我が巫女。彼女に似合うドレスと、宝飾品を仕立てたいと思ってな。とりあえずそうだな、ドレスを十と、飾りの類いはいくらあっても良い」

「アルトゥーラン様、そんなに……」

「いいではないか。妾が、そなたに着てもらいたいのだよ」

 イシュファは恥ずかしくなり赤面した。

「確かに、とても綺麗なお嬢さんだね。私が手掛けるに相応しいさ。とりあえず採寸をしよう。お嬢さん、こちらへ」

 イシュファは促されて、ニニシナの前に立った。

「あの」

「動かないで」

 ニニシナはじっとイシュファを見て、手元の紙に何事か書き連ねている。

「ありがとう、お嬢さん。もう動いていいよ」

「いいえ。それで、ニニシナ様は今、何を?」

「言っただろう? 採寸さ」

 イシュファは到底信じられなかった。彼女はただ見ていただけだった。だが、彼女の手元の紙には、イシュファの体型らしき数値が書かれている。

「私の場合は、そういうものだと言うしか無いね」

「ニニシナ様は、とても素晴らしい人形師なのですね」

 イシュファは褒め称えたが、ニニシナは苦笑いだ。

「イシュファ、この地の底の国に、人形師はおらぬ。彼女は、優秀な仕立屋兼彫金師だ」

「え、ですが入り口の人形は……」

「私は、人形師のつもり何だけどねえ。我らが公主様は、人形師をお迎えになるつもりはないようで、私も龍殿の言う通り、仕立屋兼彫金師さ。公主様の人形を見る目は、大層肥えていらっしゃる」

 なんとも不思議なこともあるものだ、とイシュファは思った。しかし、あのガラテアという人形を見てしまえば、あるいはそれも無理からぬ事かもしれない、とも同時に思う。

「それで、生地はどうしようかね?」

「天鵞絨は少し重いな……。繻子、薄琥珀あたりを持ってきてもらえるか?」

「あいよ」

 ニニシナは一度奥に戻ると、柔らかい光沢のあるつややかな布を二つ持ってきた。

「色はどうするんだい?」

 ニニシナは分厚い布の束を取り出した。一枚一枚色合いが異なる、色見本だ。

「こんな生地、見たことありませんわ。それに、色もこんなにあるなんて」

「ここは美と芸術の国だぞ? そうだな、十番と、百二十七番、二百番を。薄琥珀で見てみたい」

「十と、百二十七、二百ね」

 ――染まりなさい。

 ニニシナが魔法を使うと、白い薄琥珀の布が、その色合いを僅かに変えた。

「十番だよ」

「ほう、やはりと思ったが、真珠のようだ! 次は?」

 ニニシナが再び魔法を使うと、次は川面のような、淡青色にかわった。

「お嬢さんの瞳と同じ色だね」

「ああ。こうした明るい色のドレスも新鮮だな。妾自身は重い色を好むが、イシュファにはよく似合うだろう」

 アルトゥーランは満足して頷いた。それでニニシナが三度魔法を使う。布は春を思わせる薄紅色に染まった。

「あ、あのアルトゥーラン様。流石にこれは少し……」

 若すぎるのではないか、とイシュファは思った。きっと素晴らしい、可愛らしいドレスになるだろう。しかし可愛らし過ぎはしないかと、イシュファは気になった。

「そなたが着ているところを、妾が見たいのだよ、イシュファ。それにニニシナの腕は確かだ。程よく可愛らしい、そなたを引き立ててくれる、いいドレスを仕立てるだろう」

 アルトゥーランはそう言って、さらに幾つか色を選びだす。

 イシュファは見るのがアルトゥーラン様だけなら、と渋々納得したが、可愛らしい色合いのドレスを着るのはなかなか勇気がいりそうだと感じた。薄紅色のドレスなんて、子供の頃にだって、着たことがないのだ。アルトゥーラン様はどうも、ご自分が着るドレスはそうでもないが、他人のこととなると少女趣味なところがあるらしい、とイシュファは思った。

 アルトゥーランは次に、既に飾られている装飾品を手に取り、イシュファに身に着けさせ、気に入った装飾品を数点選ぶと、ニニシナに新しい装飾品について注文をつけていた。

 そのようにアルトゥーランがイシュファを着飾っていると、その日は随分と時間が遅くなってしまい、アルトゥーランたちが地上への帰途についたのは、翌朝のことであった。アルトゥーランが注文したドレスや装飾品は後日、大鷲が運ぶこととなった。



「アルトゥーラン様」

 空を東へと飛ぶ龍の背から、イシュファはアルトゥーランに話しかけた。

「なんだ、イシュファ?」

 どうしても、アルトゥーランに聞きたいことがあったのだ。それは昨日、夜天の公主と離れてからずっと、ニニシナの工房にいるときにも考えていたことだった。

「なぜ彼の方は去り際、『人の子ら』と仰ったのでしょう」

 まるでアルトゥーランも人のようではないか。

「……そうだな。そなたには話してやらねばならぬ。もう随分と昔のことだ。詩に語られるよりも以前のこと。妾がただ一人の人間だったころ」


 ――千といくらか昔。優れた六人の魔法使いがいた。皆それぞれ目的があって、ある魔法を研究していたのだ。

 いや、ある魔法というと語弊がある。無数の魔法を組み合わせてある結果を望んだのだ。

 それが不老不死。龍への転変。龍は限りなく不老不死に近い存在だ。

 もっとも、それぞれが不老不死を望んだのは、それぞれ別の目的があった。妾は永遠の若さと究極の美を求めた。そして妾には、他の五人と協力すればそれができる力があった。

 他の五人の望みは詳しくない。財や力を求めていた者もいたな。

 研究は順調だった。研究の過程で魔術を生み出しもした。魔術は決められた文字や式によって効果が生まれるが、あれはようはそういう決まりごと、約定なのだよ。妾たちがそういうふうに取り決め、世界と約束したのだ。

 魔術は魔法の発動を大幅に効率化した。妾たちの研究は大いに加速したとも。それで、肉体を龍へと変身させることはすぐにできた。

 だが肉体を変身させただけではだめだった。老いるのだ。肉体を動かす力が足りないのだ。不老不死に近い無限の力を汲み上げるには魂が必要だった。

 妾たちは魂を研究した。五人のうちの一人が、ある日、太古の魔法書から記述を発見した。龍の魂は人と形も大きさも違うという。そして魂には生物の自我や記憶が宿っているといのだ。

 ところで、イシュファ。魔法は生物には勝手にかけられないということを知っているか? 自我を持つものの同意なく、魔法は成立しないのだ。魔法は約束だからな。双方の同意が必要なのだよ。魔術にいたっては他人に干渉することは一切できない。

 それで、だ。魂には自我が宿っているという。それで妾たちは自我が弱い草木から魂を抽出できるか試した。簡単に成功したよ。多少、言葉で誘導してやればいいのだ。

 まあ、草木では小さすぎてどうにもならなかったのだが。なにせ妾たちは龍の魂を生み出さねばならなかったから。

 ああ、ここで止まっていれば、妾たちは今でも賢者と語り継がれていたかな?

 妾たちは人間の赤子を用意した。まとまった数が同時に必要なのが難点だった。各地から集めている時、必要数に達するまで置いておくと、赤子はその間も成長していく。

 だが、これは気の利いたやつが解決させた。やつは奴隷を集めて、同時期に番わせたのだ。大量にな。それで、だいたい同じ時期に生まれた赤子を手に入れることに成功した。

 これで魂も揃った。妾たち六人は龍の体と魂を手に入れ、限りない不老不死の実現に成功した。

 ――そして、狂った。

 いや、思えば龍の体を得た時から、狂っていたのかもしれぬ。

 そうだな、理性を失った、というのが正しいか。

 妾たちはそれぞれ別の場所へと飛び立ち、欲望の赴くままに行動した。力を求めた者と財を求めた者はそれぞれ都を襲い、大陸中を荒らし回っていた。それであの二人は二十年くらいで、殺されてしまった。

 妾は美を求めて北へ飛んだ。そのころこの北限山脈には白美の国という国があってな。白く妖精のように美しい人間たちの国だったが、力もなく、他国から大勢人攫いが来て酷い扱いをされて売られていた。その上、人攫いで人口が減って、ようやく生活できるほどだったのだ。もともとは迫害された民が誰も住まない極寒の地へ逃げ延びてできた国だったのだ。

 妾は、二十年に一度、最も美しい娘を妾に捧げることを条件に、国を保護した。それが今では龍国と呼ばれている国だ。

 美を究めることは甘美だった。妾は、美を喰んだ。魂が肉体にすら影響を与えることはわかっていたから、妾は巫女の血肉だけでなく、その魂までも喰む方法を編み出した。

 魂を得るには魔法が、同意が必要だ。あるいは本能が必要としているなら別だがな。眠たい人間や眠りたい人間に眠りの魔法をかけるのは簡単だ。

 殆どの場合、自我がある限り、生物は勝手に魔法にかけられない。だが、妾はこの問題を簡単に解決した。

 恐怖だ。力と言ってもいい。薬の類いも使いはしたが、知識もまた力だ。そうだろう? 

 若い巫女を、自我の壊れた、従順な廃人にすることなど造作も無いことだ。一人、また一人美しい魂を喰み、妾は美しくなった。あらゆる姿で隠しきれぬ美しさを得た。

 七百年近く、そうしてきた。

 公主殿と出会ったのは三百年と少し前のころだ。隣国をほんの少し脅かした帰りのことだった。公主殿は妾を見て、肉体も魂も龍であるのに、精神は人間とは珍しいものだ、と言った。そして妾の精神を、龍の魂に合わせて作り変えたのだ。

 それで、妾は妾の罪を自覚した。妾が今も国を守っているのは、贖罪、いや、贖罪になってほしいという自己満足なのだ。妾は許されない事をした。許されていいはずがない……。


「つまり、アルトゥーラン様が『人の子』なのは、千年前、人間だったから、ということですね」

「今の話を聞いて、それだけか?」

 アルトゥーランは自分ではかなり覚悟をして罪を告白したつもりだった。だが、それを聞いた第一声がこれでは拍子抜けだ。

「それよりもそんな自己満足に付き合わされる、私の身になってくださいませ」

「し、しかしイシュファ。妾は許されない事をした。この妾には誰かと添い遂げ幸福になる資格などない……」

 イシュファは初めて、アルトゥーランに怒りを覚えた。そして確かに、アルトゥーランも人なのだな、とも思ったのだ。もっと完璧な方だと、思っていたのに。完璧ではないことが、イシュファは嬉しかった。

「アルトゥーラン様は、今の生活が幸福ではないというのですか?」

「そうではないが……そ、それにだな。今でも、今でも妾はより美しい姿になることを諦められないのだ。理性を取り戻しても、数人……」

 それで日記が途切れていたのだ。イシュファは納得した。

「もう二百五十年は昔のことではないですか。それにもともと龍とわかっていたのです。自分の命が惜しいなら、慕ってなどおりませんわ」

「だ、だが……」

 この煮え切らない龍に、イシュファはどこか愛情というか慈しみが湧いた。そして夜天の公主が言った、あるいは愚かなほどに生真面目、という評に納得する。

「アルトゥーラン様、この命尽きるまで、お側におります。ですから私の命が尽きるその時は、私の魂も食んでくださいませ」

 アルトゥーランは何も言えず、東へと急いだ。



 収穫祭が過ぎてあっという間に新しい一年が始まる。

 年が明けてすぐ、大鷲がニニシナの仕立てたドレスを運んできた。アルトゥーランは対価として龍鱗を送り返している。

 イシュファはドレスの中でも特に自らの瞳と同じ色である、淡青色のドレスを好んだ。薄紅色のドレスはイシュファが思っていたよりは落ち着いた意匠だったが、しかしアルトゥーランに請われなければ着ようとは思わなかった。やはり可愛らしすぎるだろう、と。

 北限の冬であるから吹雪が何日も続くときもあったが、この龍の宮殿にいれば、寒さも殆ど感じることはない。イシュファは日がな一日、読書をしていた。魔術書の類いだ。

「イシュファ、ここにいたか。そなたにもこの宮殿にかかっている魔法を管理できるようにしておいたぞ」

「まあ、ありがとうございます。けれど、どうして急に?」

「新年は妾も出席しなければならない催事が多いから、留守になりがちだ。そなたが使えるほうが便利であろう」

「まあ、そうですけれど」

 特に、なんてこともないことだった。留守とは言っても一日程度でしょうにと、イシュファは思った。

 だが、思ったよりもイシュファが宮殿を管理する時間は長くなることになる。


 年が明けてしばらくして、国王の譲位が発表された。そして今日は戴冠式だ。

 アルトゥーランも龍国を守護する龍として、新たな国王に冠を授ける役割がある。龍国ではアルトゥーランに承認されて初めて、国王になるのだ。

 式は粛々と滞りなく進んでいた。そしていよいよアルトゥーランが冠を授ける時がやってくる。

 新王がアルトゥーランの前に跪いた。アルトゥーランが手の冠を、新王の頭に載せようとして、その時アルトゥーランの手を、剣が切り払った。新王が腰の剣を抜いたのである。

冠が中を舞って落ちた。だがアルトゥーランの手には傷一つない。

「やはり、無理か。フィランディル殿!」

 若き王の声に儀式に参加していた儀仗隊から、美丈夫が前へ出る。人間にはありえない力を有していることが、アルトゥーランにはわかる。この美丈夫は、何処かの神の加護を受けているのだろう。アルトゥーランは、戦えば負けるかもしれぬと思った。

「そうか。この国にもはや妾は必要ない、ということか」

「若き娘を贄にする邪龍! 貴様の悪事もこれまでだ! 我が主! 我が神よ! 我、主の威を以てここに絶対の正義を示さん! 光の王に勝利を捧げん!」

 陽神の勝利の加護。その加護がある限り、必ず相手を上回るだけの力を得られるという。龍の不死性をも上回るだけの力があるだろう。

 向かい来る英雄を、アルトゥーランは何もせず見ていた。なぜだかいつもよりも時が流れを遅く感じ、この千年の記憶がところどころ思い出される。

 ――ああ、妾は死ぬのだな。我が贖罪は成ったか。

 死。それを感じると、ふとイシュファの顔が脳裏によぎった。死を知れば悲しむであろうか。悲しむであろうなあ。

 それでいつの間にか、アルトゥーランは英雄の剣を手で止めていた。

「すまぬな、英雄殿。あと一年早ければ。あるいはもう百年後なら、そなたに殺されてやっても良かったのだが」

 ――この命、今はくれてやる訳にはいかぬ。

 アルトゥーランは人から龍に転変すると天へと昇った。地上では人間に被害が出過ぎる。

 英雄、フィランディルも人の身でありながら飛翔し、アルトゥーランを追ってきた。

「逃げるな、邪龍!」

「まともに戦ってはさしもの妾も分が悪いというものだ」

 アルトゥーランは更に西へと向かった。西の海まで出れば被害もないだろうと考えたのだ。

 アルトゥーランにとっては幸いなことにフィランディルは魔法を使う様子はなかった。どうやら武器は剣だけらしい。

「どれ、小手調べだ」

――火よ。

 アルトゥーランは後方に人間の頭ほどもある火球をいくつも放った。だが、フィランディルは回避の素振りも見せない。

 そしてそのまま、火球はフィランディルに命中するというところで、フィランディルの周囲に光輝く盾が生まれ、全ての火球を防いだ。

「守護の盾か」

 アルトゥーランはこの時点で勝利がないことを確信した。神の加護たる光の盾を穿つ術がないのだ。あとは如何にうまく負けるかだった。

 アルトゥーランは西の海に出て更に進む。弥終の島になるべく近い所が良かった。

「追いついたぞ!」

「ちっ」

 アルトゥーランはその尻尾を大きく振るった。しかしフィランディルに激突する直前にまたも光の盾に阻まれる。

 しかしその衝撃までは殺せないようで、フィランディルは光の盾ごと弾き飛ばされた。

 直後、頭上から光の柱が倒れてくる。否、フィランディルが剣を振ったのだ。

 アルトゥーランは危ういところで横へ回避したが、振り抜かれた剣は海に当たると一時とは言え海を切り開いた。海水が瞬時に蒸発し、海底までも抉ったのだ。

 ――天よ、海よ、荒れ狂い、嵐となれ!

 アルトゥーランは立ち上る蒸気を呼び水に、分厚い雨雲を生み出した。海の波は荒れ狂い、凄まじい雨と風が視界を覆う。更には巨大な幾つもの竜巻が海水を巻き上げ、雲にも達した。フィランディルを弾き飛ばした方角から雷が無数に聞こえてくる。

 その雷の音は遠くにあった、はずだった。

 突如アルトゥーランの目の前にフィランディルが現れる。手には光の剣が握られていた。

「落ちよ、邪龍!」

 剣が振り上げられ、アルトゥーランは咄嗟に避けるが、光の剣は片翼と尾を切り落とし、嵐を生み出している分厚い黒雲を払った。

 ――海よ、天より墜ちよ!

 アルトゥーランの魔法はたちまち海を隆起させ、巨大な津波はフィランディルを飲み込んだ。フィランディルは津波もろともに海へと堕ち、荒ぶる波が、海底へと引きずり込んだ。

 ――これで追ってはこられまい……。

 アルトゥーランは西へと急いだ。片翼と尾を失い、飛行は不安定で、なにより血が大量に滴っていた。

 アルトゥーランがようやく弥終の島の上空に辿り着いたころには殆ど意識を失いかけ、自分がどこにいるのかもわかっていなかった。

 ――ああ、イシュファ。すまぬ。

 アルトゥーランは意識を失って暗い穴へと墜ちた。



 イシュファは外の慌ただしさに目を覚ました。大勢の足音が聞こえる。


「まだ、扉は開かんのか」

「陛下、今しばらくお待ちを」

 新王は部下とともに騎士団を率いてこの龍の宮殿まで上ってきたのだ。部下の中にはイシュファの父もいた。

 騎士団の中でも屈強な男たちが正面の扉を開けようと必死に押すが、扉は微動だにしない。

 左右に広がる柱廊も、建物の中につながる扉は全く動かなかった。

 だが、突如として扉が開かれた。力を入れていた騎士たちは思わず倒れ込んでしまう。

 そしてその先には、白い外套を纏う美しい女がいた。

「イシュファ!」

 イシュファの父、アルダールが思わず駆け寄る。

「お父様! どうしてここに……? アルトゥーラン様はどうされたのですか?」

 アルトゥーランは戴冠式に行ったきり、戻ってこなかった。

「ああ、イシュファ。生きていてよかった。もう、龍に怯える心配はないのだ。さあ、家に帰ろう……」

 イシュファは薄々感づいていたが、確かめずにはいられなかった。

「お父様、アルトゥーラン様は死んだのですか?」

「アルトゥーラン……あの龍は戻ってこなかった。それが答えであろう……? どうした、イシュファ」

 イシュファは、アルダールの手を振り払った。アルトゥーランがもし死んだなら、この宮殿の魔法は全て解けているはずだった。だが、そうではない。

「いいえ、アルトゥーラン様は生きていらっしゃいます。私はここに残りますわ、お父様」

「イシュファ、何を言っているんだ!」

「おい、そうだ! この余を無視して話すな! この宮殿はこれから余の宮殿となるのだ。イシュファ、そなたは龍巫女だけあって美しい。余の妻となれ」

 王がイシュファの腕を掴む。それを不快に思いながら、王子はこんなにも愚かだっただろうか、とイシュファは考えたが、たしかにこのような愚かさだった。白い肌とほどほどに整った容姿だけが取り柄の男。龍国は力をつけすぎた。吹雪に震えていた王族は傲慢になり、だがそれでも問題がないだけの力が今まではあった。それが龍、アルトゥーラン。

 イシュファは王の腕を逆に掴み返すと、引き寄せて王のその顔を手のひらで打ち付けた。

「や、っやめ」

 左、右、また左。王の顔が赤く腫れたのを見て、イシュファは王を扉の外に放り捨てた。

「お父様、今日はお引取りを。ここはアルトゥーラン様の宮殿。人の立ち入って良い場所ではありません故」

 イシュファは凄みのある笑みを浮かべた。白真珠の外套が冬の寒さを放っているように、アルダールには感じた。

 イシュファは父親も追い出し、そして扉を閉じた。王が扉の外で抗議していたが、誰にもその扉を開けることはできなかった。

 宮殿には冬になる前に蓄えられた食料も多い。ただでさえ普段からアルトゥーランが狩りをして蓄えられているのだ。

 イシュファはこの宮殿に籠もっていくらでも生活を続けられた。

「アルトゥーラン様、早くお戻り下さい」



「手酷くやられたものだね、アルトゥーラン」

 アルトゥーランが目覚めると、そこは地の底の国だった。ここは夜天の公主の領域。あらゆる死も老いもない。

「すまぬな、公主殿。借りは必ず……」

「今は休み給え。傷が癒えたら楽師として働いてもらおうか」

 夜天の公主は消えた。アルトゥーランは都市部から離れた場所にいた。火口からそのまま墜ちてきたのだ。

 しばらくは動くこともできず、アルトゥーランはその場で静かにしているだけだった。


 数ヶ月かけて、ようやくアルトゥーランは動けるほどに回復した。尾が生え、翼もなんとか、というところだ。

 この数ヶ月、考えたのはイシュファのことだ。

 イシュファ。人の世に戻ったであろうか。イシュファにとっては自分のような龍ではなく人の間で暮らすほうが幸福だろう。そうなると自分は戻らぬほうがいいのではないか。そのようなことをアルトゥーランは考えていたのだ。

 龍国は龍を捨てた。アルトゥーランの取り決めた約定は終りを迎えた。贖罪も終わりだ。

 気にするのはイシュファのことだ。イシュファの下に帰らねばならなかったが、帰らぬほうがイシュファのためではないかという気もする。

 もっとも、動けるからと言ってすぐには帰れなかった。ここで死を免れた代わりとして、楽師として働かねばならない。

 アルトゥーランは夜天の公主に会うために、宮殿を訪ねた。

 夜天の公主は前回と同じ部屋、謁見の間にいた。

「やあ、アルトゥーラン。その様子だと傷は癒えたようだね」

「ああ、まだ翼は治りきらぬが、動くには問題ない」

「それはよかった。楽師が一人減ったのでな。ちょうどよい」

 アルトゥーランは耳を疑った。この死のない国で減ることがあるとは。

「その者は長年私によく仕えてくれた。だから、死を請われたならば、死なせてやるのが道理というものだ。この私が永遠の安らかな眠りを与えるのも、また定めというもの。たとえ私がどれほど愛おしく思っていてもね。まあ、そういう訳だからよろしく頼むよ。部屋と仕事場を与えよう。仕事場で適当に竪琴を弾いておけば良い。楽な仕事だろう?」

 夜天の公主は消え、ガラテアが入れ替わりに入ってきた。そしてアルトゥーランを部屋まで案内した。


 アルトゥーランの仕事場は宮殿の外庭のうち、南東部の区画だった。この場所は入り口からは遠く、人も来ない。

 アルトゥーランは本当に適当に、竪琴を鳴らすだけだった。その旋律はアルトゥーラン自身が気付いているかいないか、大体は悲しげで、おかげで付近の区画を担当する楽師から苦情がガラテアに届く始末だ。

 アルトゥーランも人がいればもう少し明るい旋律にするところだったが、誰も来ないのでそんなことは思いもしないのである。

 これはアルトゥーランは知らないことだったが、そもそもこの区画は立ち入りが厳しく制限されており、アルトゥーランの他は、夜天の公主か、その側仕えであるガラテアしかこの区画には入ることができないのだ。

 近隣区画の楽師たちは、しばらくの間このアルトゥーランの奏でる物悲しげな旋律が耳を離れなかったという。


 ある日のことだ。この日は珍しく夜天の公主が庭を訪れた。

「ああ、アルトゥーラン。君はそのまま弾いていてくれ。私はこの奥に用があってね」

 夜天の公主はアルトゥーランのいる東屋を通り過ぎて、奥の泉へと足早に進む。

 この泉こそが、立ち入りが厳しく制限されている理由だった。夜天の公主がその縁に立つと、水面がにわかに波紋を広げ、どこかの景色を映し出した。

「イシュファ!」

 アルトゥーランはその様子を遠目に見ていたが、たしかに水面に映し出されていたのはイシュファであった。宮殿に一人でいるようだ。アルトゥーランはその様子を食い入るように見つめた。あれは地上を写す泉なのだ。

 そしてすぐに水面が波打ち、今度は別の場所が映し出される。恐らく地上のどこかなのだろう。順に幾つもの場所を映し出し、やがて満足したように夜天の公主は泉を離れた。

「アルトゥーラン、君は楽師なのだから、演奏には集中してもらわねば困るよ」

「あ、す、すまぬ……」

 夜天の公主はそれだけ言って消えていった。

 アルトゥーランは興奮冷めきらぬ様子で、泉に駆け寄った。すると先ほどと同じ様に水面に波紋が広がり、そして泉にはイシュファの姿が映し出された。

 イシュファは宮殿で一人、本を読んでいた。

「ああ、イシュファ……」

 イシュファが宮殿に留まっているのにひどく安堵した自分がいることを、アルトゥーランは感じた。

「他の場所か、あるいは別の時間は見れぬのか?」

 すると、別の場所や、別の時間と思われる風景が映し出される。

 イシュファはあの日以来全く外に出ていなかった。更に今では、この国の王に留まらず、貴族までも宮殿の外に来て、イシュファに婚姻を申し入れていた。その殆どは王を振った巫女を一目見ようと来ているのだ。

 無論イシュファは扉を開かず、全て無視している。

「イシュファ……」

 イシュファの下に、帰らねばならない。アルトゥーランは決意した。


 その翌日、仕事場ではなく謁見の間へと向かった。

「思ったよりも、遅かった……いや、今までのことを考えれば早かったのかな。アルトゥーラン、君の話はわかっているとも。だが、アルトゥーラン。君に去ってもらっては困る。そういう約定だろう?」

 アルトゥーランはこの地底で傷を癒やす代わりとして、楽師として仕えることになったのだ。

「イシュファが待っているのでな。イシュファの死後は、また戻ってくることを約束する」

 夜天の公主は首を振った。

「それではダメなのだよ」

「では、押し通るのみだ!」

 アルトゥーランは人の姿から龍へと変じると天井を突き破って地上へ向かった。

 夜天の公主は下方から雷を放つが、アルトゥーランは体をひねり回避する。ひたすら上へ。

 この地底の空に空いた大穴。そこが地上へつながる唯一の出口。アルトゥーランは脇目も振らず進んだ。

「逃がさないよ、アルトゥーラン」

 夜天の公主が瞬時にすぐ後ろまで迫るのがわかる。アルトゥーランは反射的に尻尾を振って迎撃しようとするが、その瞬間体勢は大きく崩れ振り回された。夜天の公主は片手でアルトゥーランの尾を掴んだのだ。そしてそのまま力任せに下方へと叩きつける。

 アルトゥーランの巨体に街の尖塔が幾つも倒れた。叩きつけられた衝撃に、アルトゥーランも思わず呻き声を上げる。

 ――炎よ。

 苦し紛れの反撃に、アルトゥーランは七つの火球を放つが、そのどれもが夜天の公主に届く前に消えてしまった。

 神はただ悠然と、地上への大穴の前に立ちふさがっている。

「ならば、こうだ!」

――光よ! 大気よ!

 瞬間凄まじい音と光が溢れる。人間なら二度と耳も目も使えなくなるようなものだ。

 神も人を模した体をしているだけあって、流石にこれは一時的にと言えど、その視覚と聴覚を塞ぐことに成功した。

 アルトゥーランはその隙をついて再び飛ぶ。

 だが、神はまるで見えているかのように手を伸ばした。

 ――運べ。

 アルトゥーランは移動の魔法を使った。アルトゥーランの体は、その場から消え、上方に再び現れた。英雄は神の加護により長い距離を瞬時に移動したが、アルトゥーランはそれを短いとは言え魔法で再現したのだ。

 夜天の公主の手は空を切り、アルトゥーランは地上へと舞い上がった。



 その日は収穫祭だった。夜になって、イシュファは宮殿の屋上から山下を見下ろしていた。一年前アルトゥーランとともに踊った記憶が、思い出される。

「アルトゥーラン様……」

 アルトゥーランが生きているということは確かだった。それは魔法が残っていることから明らかである。

 アルトゥーランについて考えていると、遠くに翼の羽ばたく音が聞こえた気がした。気のせいかと思ったが、徐々にはっきりと聞こえてくる。月を、巨大な影が遮った。

「アルトゥーラン様!」

 空を見上げればそこには黄金の龍がいた。人の姿に変じ、屋上に直接下りてくる。

「イシュファ!」

 二人の影が重なる。抱擁し、幻でないことを確かめた。

「遅くなった、すまぬ、イシュファ……」

「お待ちしておりました。必ずお戻りになると……」

 また、影が重なり合う。

 どれだけそうしていただろうか。二つに影が離れた頃を見計らったように、第三の影が地上に現れた。

「やあ、アルトゥーラン。私との約定を破った罪は重いぞ」

 夜天の公主である。神は携えた長剣を、アルトゥーランに無慈悲に振り下ろした。

 あまりに突然のことで、アルトゥーランは動くこともできない。

 しかし、その剣がアルトゥーランを切り裂くことはなかった。イシュファがアルトゥーランと夜天の公主との間に割って入ったのだ。

「人の子よ。ね」

「いいえ、いと尊き方」

 イシュファと夜天の公主はしばし見つめ合った。イシュファはこの神から感じる圧倒的恐怖に、立つのも辛いほど震えていた。神々は人間たちの信仰の影響を受け、降臨した地によって如何様にも変化する。そして夜天の公主とは、多くの場所で恐怖の邪神として、知られていた。

 アルトゥーランは震えるイシュファの手を握り、そして前に出ようとする。

「アルトゥーラン様、ここは任せてください」

「しかし……」

 イシュファには何か策があるようだった。

「ならば二人まとめて斬ってくれよう」

「イシュファ、ここは」

「いいえ。……いいえ! 尊き方。貴方様はかつて地底でお会いした時、確かに仰いました。私の愛を祝福する、と。ならばここで私と、私が愛するアルトゥーラン様を斬ることなど、ありえません」

 イシュファは自らを奮い立たせ、毅然として言い放った。

 それは確信だった。この神がもし本当に本気なら、アルトゥーランはここにいないはずだ。あるいは初めの一太刀で二人とも死んでいたに違いない。イシュファはこの神があえて怒った振りをしているのだと、確信していた。

「くっ、ククク。ああ、愉快だなあ。アルトゥーラン。本当に、君にはもったいない」

 夜天の公主はそう言うと、怒気を収めた。放つ恐怖もいくらかは和らぎ、薄らと笑みを浮かべている。

「アルトゥーラン、この勇気ある娘に免じて、君との約定は破棄し、不問にしよう。そしてイシュファと言ったか。君にはこの私を愉しませた礼をしなくてはね。この私に叶えることができるなら、どんな願いでも叶えてあげよう」

 夜天の公主は剣の代わりに杖をつき、腰を深く曲げてイシュファの顔を覗き込んだ。イシュファはこの神の銀の瞳に、吸い込まれそうであった。しかし意志を強く持って、その瞳をじっと見つめる。

「では、一つお願いしたいことがございます。尊き方」

「聞こう」

「アルトゥーラン様を人へ戻してほしいのです」

 その願いに最も驚いたのはアルトゥーランだった。

 ――人に、戻る? ああ、そうだ。龍国は龍を捨てた。妾がもう守ってやる国はない。守る必要も。

「ふうん。もちろん、それは可能だ。アルトゥーラン、君が望むなら。龍への転変は不老不死の秘術。君は、今更人に戻れるのかね? アルトゥーラン。我が友」

 アルトゥーランは夜天の公主ではなくイシュファの方を見つめていた。

「イシュファ……」

「アルトゥーラン様。人にお戻りください。もうアルトゥーラン様が守るべき国も、約定も、ないのです」

 アルトゥーランの中では、もう答えは決まっていた。

「イシュファ、妾は老いが恐ろしい。老いは大概が醜くて、見るに堪えない酷い老い方だ。妾は美しい妾が失われることが恐ろしい」

「はい」

「だが、その、だな。妾一人では恐ろしくとも、その恐怖を分かち合える者がいれば、違うようにも思う」

「はい」

「だから、イシュファ。妾とともに生きて、ともに老いてくれるか?」

「ええ、喜んで! アルトゥーラン様!」

 イシュファが答えたのと同時に、アルトゥーランは光に包まれた。月光を思わせる儚げで柔らかい銀の光だ。

 そして光が収まった時、アルトゥーランから額の角は消えていた。

 アルトゥーランは人間になったのだ。

「アルトゥーラン。三百余年に渡ってよくぞ我が無聊を慰めてくれた。大儀である」

 夜天の公主とアルトゥーランが視線を交わす。神は寂しげに微笑んだ。

「アルトゥーラン、君も、私の下を去るのだな」

「申し訳ありませぬ。至尊なる御方。貴方様にも、いつの日か眠りがありますよう」

「神たるこの私に謝罪など不要さ、それは不遜というものだよ。ああ、人の子らよ、君たちの門出を祝福しよう。かつての友と、その愛しき者よ」

 地平線から陽光が差して、それで夜天の公主は消えた。

「行ってしまわれましたね」

「ああ……。妾たちも行こう」

「どこへ行きましょうか?」

「さあ。地底の国を訪れるのも、あるいはいいかもしれぬな」

「まあ!」

 イシュファが笑うのに釣られて、アルトゥーランも笑った。


 

 朝日に照らされて、二人の美しい女が山を下りた。二人は大陸を縦断して南へと旅をし、船で別の大陸へ渡った。その後の足取りを知る者はいないが、世界の各地で美しい二人組の女の逸話が、今でも残っている。

































「まさか、先に君が逝くとはなあ……」

 岬の花畑が、風で揺れていた。夜天の公主は在りし日と全く同じ姿で、ここに眠る彼女に花を供えていた。

「まさか、御出でになるとは思ってもみませんでしたわ。いと尊き方」

 イシュファは歳をとった。近頃は杖をつかねば歩くのも辛いほどだ。

「ああ、無理をしてはいけないよ。座るといい」

 夜天の公主はイシュファのために、彼女が眠る墓の近くに椅子を生み出した。

「ありがとう存じます」

 イシュファは椅子に腰掛けた。夜風が心地よい。

「私の友は、幸せだったかい?」

「はい。アルトゥーラン様は死のその時まで、美しく輝いておられました。いいえ、輝きは今も、私の中に。私たちは幸せでしたわ!」

 イシュファの顔を見れば、それがどんなに充実して、美しく彩られ、幸福だったか、一目でわかった。

「そうか。ありがとう、イシュファ」

 ――彼女を幸せにしたのは、君だから。

 



 その翌年。イシュファもまた同じ場所で眠りについた。

 二人の墓には毎年花が供えられた。

 二人の幸せを忘れない誰かが、供えているのだ。



 ――幾久しく、永遠に。

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龍巫女の詩 アウレア @Kein

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