夜行バスを待つ時すら一緒にいたいふたり


 その日暮らしのようなことをしているのに、意外と倹約家。高崎初音はそういう人だ。私は敬意を込めて、彼女のことを「世界一ケチなベーシスト」と呼んでいる。もっと後先なく生きて然るべきなのに、私などよりよほど真っ当に資産管理をしているし、税金の計算だって自分でやる。たしかに学歴的には高卒だが、元々頭の良い人なのだ。だがそれが時々行きすぎて、効率が悪いのでは、と思うほどの手段を採用することがあって、そういう不思議さをうまく言葉で伝えることができない。

 ギャラが安いから交通費を浮かせたらそのぶん倹約できる。そのために夜行バスで大阪へ行くらしい。これほど車を持っていない己の身を悔やんだことはなかった。何が悲しくて、30手前にもなってそんな手段を使わなければならないのか。だが本人は意外にもケロッとしており、まあ寝とったら着くし、と事もなげに言い放った。


「あんた、帰って寝ぇや。付き合わんでええけ」

「見送りくらいする」

「今そういうの厳しいけぇ、入れん気がするよ」

「どうでもええわ」

 22時をまわると広島駅は途端にひと気がなくなる。駅のテナントも、新幹線の最終もなくなって、ここから先は交通手段として車がないと話にならないと誰もが共通理解を示しているような気もする。日付が変わる前くらいに出発するバスは、福岡と大阪へ向けてわずかに便を残している。金のない学生ばかりが待合室に並んでいた。やはり入り口の自動ドアには、利用者以外は待合室に入れない旨が記載してあった。

「時間何時?」

「出るんは11時40分……あと1時間くらいあるわ」

「もうちょっとご飯ゆっくりしとったらよかったねえ」

「店が閉まるけえ、仕方ねえんよ。ちょっと歩くか」

 初音はベースのケースを重そうに背負い直した。年々これを背負うのが億劫になっているらしい。大阪のライブハウスで、わざわざ呼ばれてライブするのに、誰も彼も気が利かないと思うのは、私が初音を甘やかしすぎなのだろうか。機材入りの鞄を持とうとするとやんわり制される。私は手ぶらで、入れもしないバスの待合室の前でひらひらと手を振った。

「このへんなんかあんの?」

「何も。病院があるわ」

「一番用事ねえが」

「たしかに。その裏に放送局があったと思う」

「それも役に立たんやん。広島って案外なんもねえんじゃな」

「出た。あんた今広島に住んどる人間の中で一番タチ悪いよ。なんでも岡山基準で悪口言いよるん」

「駅前の暇つぶしは間違いなく岡山の圧勝じゃわ」

 岡山の実家に初音が来たとき、泊まりを促す家族を吹っ切って、そそくさと日帰りにしたのだ。家族と夕食をとったあと、あんまり喜ばれなかった帰省の苦々しさを笑い飛ばすように駅前のサイゼリヤに入った。でも何も胃に入らないから、割高なドリンクバーで変わった味のソーダ割りを作って遊んでいた。くだらない記憶しかない。でもあの苦味を思い出せば、もはや誰も何も言わない私と彼女の間柄に、少しでも苦い思いをしながら頑張って嚥下した気持ちが蘇る。そういう話ができるのも、何年もこうして一緒にいるからなのに。

「ローソンがある」

「……コーヒーでも買おう」

「ほん」

 やる気のない返事を聴きながら路地に入る。路地といっても街路樹で綺麗に舗装されていて、相変わらずこの街には古い通りも、なぜ崩れないのか不思議なくらいの古い建物もないのだと思い知らされる。河口の、瑞々しく新しい街。それが広島だ。夜なのに凪みたいに風がなくて静かだった。私は初音の塞がった両手の代わりに、店頭のバリスタマシンでコーヒーを2つ買った。街灯の下でストローを挿す。家で淹れるのと大差ない、何の変哲もないアイスコーヒーだった。一度家に帰ってもよかった。でもきっと、そうしたらずるずると何かに雪崩れ込むであろうことも、私は自覚していた。

「どこのコーヒーが一番好き?」

「あー……ここのんかな」

「私も」

「他も普通に飲むけど。コンビニがうめえコーヒー淹れよるけぇ、商売が儲からんのよ」

「それは企業努力を要するのでは」

「バイトが企業努力もクソもねえが」

 初音の唇がストローを求めて動く。いつからか、可愛いと思う気持ちに必ずしも性欲が乗らなくなった。抱き合わなくても愛を感じるようになった。もちろんそれは言葉にしなくても。侮っているわけではないけど、こんなに器用でない人のことくらいちゃんとわかる。

「介護じゃ」

「うるせえ」

「看取ってやるけ、安心して」

「あたしが先に死ぬんかい」

「私が先に死んだら困るじゃろ」

「確かにな。あんた葬式も挙げられる貯金無さそう」

「あるわ。自分が貯めすぎなんよ」

 八つ当たりにすぎない物言いで軽口を打ち返す。バスが出るまではまだまだ、非常に長い待ち時間があって、いくらでも1人にできるのになぜか帰る気にならなかった。初音も帰れと言わなかったし、言われないとたかを括っている。謎に履いてきたヒールのせいでいつもより目線が近い。餌付けのようにコーヒーを飲ませながら、何か奢って、とねだってみた。初音はアホくさ、という顔をした後で、小さく鼻を鳴らす。どこまでも素直じゃない女。いくつになってもかわいい。これはそっちの意味で。

「帰ってきたらな」

「何照れよんな」

「うるせえ」

「帰れって言わんのん?」

「帰れってあたしが言うたらあんたほんまに帰りよるじゃろ」

 徒歩15分。いつでも帰れるからこそ、ギリギリまで一緒にいたい。そういう気持ちがちゃんと伝わっていて嬉しかった。そういう気持ちが言葉にしなくても伝わっているうちは、きっと何があっても大丈夫だという気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

風を待つ街 juno/ミノイ ユノ @buki-fu-balla-schima

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ