the MOST incredible life
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【side Ryo Mizusawa】
夜勤の長引いた翌日はどうにも体が起き上がらず、水沢涼は薄い布団の中で何度も寝返りを打った。
帰宅時に降り出した雨は小降りだったが、昼を過ぎて些か雨足を増したらしい。寝ている時も耳のすぐそばへ濡れた音が寄ってくるので、涼は雨をあまり好かない。生来の晴れ男体質もあってか、有事の際には高確率で好天に恵まれる人生だった。だが当然、晴れ間ばかりでも作物は育たない。今日のように雨に降られることもないではない。とりわけ少ない機会ではあるが。
涼は最低5時間は睡眠時間を取らないと稼動できない性質だった。副業とはいえ、ホストにはとことん向いていない体質だったが、本業に加えて酒を飲み人と話をするのは嫌いではなかった。市役所の相談窓口に酒がくっついたようなもの。涼は自身の仕事をそう形容する。そしてその些か世間と外れた認識が、彼の家庭には浸透し定着している。
スマートフォンの表示は午後2時を指していた。そろそろ彼の一人娘が帰ってくる頃合いである。近年ランドセルを背負って学校へ通い始めた一人娘の鈴音は、自身が帰宅した頃に寝ている父を遠慮なく起こすことに長けていた。そうして絡んでくるのも今のうちであると経験者の父や身内は語るのだが、できることならすぐにでもやめてほしいものだった。ロングスリーパーの自分にとって、寝起きを急襲されるのは仮に娘であっても御免被りたいところだ。足音が近づくと億劫な気持ちになる。世の中の父親が皆、娘のすることを無条件に受け入れると思ったら大きな間違いだ。娘でも腹立たしいことはあるし、本気で怒ることだってある。それは娘を一個の人間として認めているが故だし、そうした涼自身のスタンスもまた、彼の妻から齎されたものだった。
妻はパートに出ていて昼間はいない。まだ頭が重いが、とりあえず布団を片付けることにした。程なくして階下から騒々しい足音が響く。愛娘は騒音を立てることにかけては天才的な技量の持ち主だ。
「お父さんただいま!」
「おかえり。静かに帰ってこれたらもっと良かったな」
「うん!」
ダメダコリャ。涼は苦笑しながら娘の頭を撫でる。雨の日特有の少し埃っぽくて、湿った匂いがした。娘は良くも悪くも天真爛漫で、中身という点で言うなら涼によく似ていた。妻は言う。子供を二人抱えているようなものだ、あなたたちはいい勝負だ、と。
容姿に恵まれた分家の子。物心のついた時から、水沢涼の形容にはその一言で事足りた。
瑞々しく大きな瞳は若くして遠方より嫁いで来た母に生き写しで、きりりと引き締まった口元は代々この地で大農家として知られる水沢の家の血を受け継ぐ男たちのものだった。結婚3年目の若夫婦が授かった稀代の美少年、それが彼に課せられた宿世の始まりだった。
兎にも角にも少年は美しく、美しい母の腕に抱かれている姿は凡そ日本人離れした神々しさがあった。保育所で、幼稚園で、そして小学校で、彼の周りには常に同年代の女の子がついて回った。彼自身はそれについてどうも思わなかったし、粛々と女性陣の玩具にされる我が身を受け入れていたのである。
容姿に優れると言うことは、女性の注目を集めることであり、それは望むと望まざるに関わらず彼の生活とは不可分のものとなった。やがて成長して妻を持つに至るまで、彼が女に不自由したことはないし、彼もまたならぬ恋に身を焦がしたことなど一度もない。もっと正確に言うのならば、恋をする暇などなかったのである。
「お父さん、国語の宿題、手伝って」
「また音読か」
「そう。聴いて、花マルつけて、印鑑押して」
鈴音は適当にやれば良い国語の宿題をことさら真面目にやりたがった。それは彼女が教室で最も輝ける大事な機会であるからだ。誰に似たのか音読の上手い鈴音は、得意げに国語の教科書を机に垂直に立てて必ず寝起きの涼に聞かせたがる。拙いながら整った粒揃いの発声に、明晰で淀みのない発音、そして陶器のようになめらかな滑舌は練習量でどうにかなるものをはるかに超えている。それでなくとも6歳の少女に、そこまで丁寧な読み込みは可能ではない。ただ才能に恵まれていた、それだけだ。小さなステージから数多くの女を熱狂させ、言葉をどこまでも後ろの席へ飛ばす父親の遺伝が大きかったのだろう……あるいは日常的に発生練習を行う家庭環境がそうさせたのか。
「えへへ。国語の時間は先生褒めてくれるんよ。すごい上手って」
「上手なんじゃろうな」
「わかる? 家でお父さんと一緒に発声してるって言うてやるんよ。そしたら先生、きっとお父さんも上手なんですねえて言うてくれるんよ」
「俺は別に何も言うとらんじゃろ。歌を歌うんはできても、本は読んでやらんけえ」
嘘は言っていなかった。涼は指示された記入欄に見よう見まねで評価を示す花マルを書き、確認のシャチハタ印鑑を端に押した。
娘の声が特徴的だとはあまり思ったことがない。他ならぬ彼自身もまた特徴的な声だったので、声の特徴といったものがどこから生じるのかわからないのだ。
寝起きの重い頭で娘の声を聴く。抑揚のつけ方も、声の張り方も、親子だなと思う。一度聞いたら忘れない、その単純で稚拙なまでの文章を涼は頭の中で再構築する。言葉は海だ。そして深く深く心を底から揺さぶって、新たな言葉の糧となる。湧き出す泉のように、底なしの海溝のように、新しく音を生み出してくるのだ。それは涼の心の中だけではない。追いかけるように口に出すと、娘はお父さん真似してる、と笑った。
***
出勤のついでに涼は彼らのバンドリーダーである米湊千里と落ち合った。米湊もバイトの出勤前だったのは同じだったようで、紙屋町のドトールで待ち合わせた。向かい合って座るといきなり煙草を吸い始める。大学構内は最近、嫌煙の波が押し寄せていて研究室内でも喫煙者は肩身が狭いのだと、言い訳するように紫煙を吐かれた。タバコは苦手だ。バンドマンとしては稀有な方だと思うが、ボーカリストとしては極めて健全な志向だった。
「来月のバンド練習、ちょっと日程変えてもいい?」
「いいよ」
「後輩が行き詰まっとるけん、進捗見てやりたいんよ」
今日は主に彼ら二人で活動予定を決める日だった。米湊は自由人で適当なように見えて極めて面倒見の良い性格だった。こうして後輩から進捗状況に関する相談を受けるのも初めてではないし、実際頼りにされているのだろう。研究室では数少ないドクター課程の大学院生は、その肩書きがなくても充分他者の信用を得るに事足りる、謎の人当たりの良さを秘めてもいる。幾重にも被られたペルソナではあるが、人を不快にさせないペルソナに欠点などない。涼は少なくとも、米湊がそうしてかぶるペルソナを心地よいと思う。心地よいと思うから、仕事の参考にしている。ホストという夢を売る商売で、大学院生という社交性とは程遠い界隈に身を置く男を真似るなど、邪道もいいところではあるが涼にとってはその方が理解が容易だった。
ゆったりと煙草を吸う米湊を眺めながら、涼は目を細めた。
「米湊、オーバーワークしとらん?」
「しとらんよ。むしろゆとり。あんたの方が絶対寝てない」
「俺は寝とるよ。今日も朝9時から昼の2時まで寝た」
「5時間……涼さん早死にするよ?」
「死にません。俺がおらんことなったらこのバンドも終わりじゃろ? 死んでも死なんて」
「それ言うなら殺されても死なんやろ」
米湊は笑う。とりとめもない、実りのない会話のやり取りは、二人が初めて出会った時から幾度となく繰り返して来たものだ。真っ暗な場末のライブハウスで、米湊は客として、涼はボーカリストとしてステージに立っていた。そして帰り道に酒を奢られ、今のバンドは抜けろ、と言った。若造が何を言ってるんだと、怒るべきだった涼は……あろうことか、彼の言葉を一言一句違わず諳んじられるほど、その言葉を深く心の奥に刻んだのだった。
涼にとっての米湊は信仰だ。米湊がそうしろと言ったことに口では文句を言っても逆らったことがないし、米湊の判断には全幅の信頼を置いている。4つだか5つだか下の男であってもそれは揺るぎない。一度信じると決めた水沢涼は頑固な男だった。
「涼さんが元気で歌ってくれさえしたら俺はなんも言わんけん」
「任せとけよ」
「じゃあ、とりあえずそう言うことで……あ、新しい曲、もう歌詞入れた?」
「まだ。でもきっかけは掴めた」
「どうやって?」
「娘の国語の音読を聴きながら考えてた」
「それ大丈夫なんか」
「聴いた音は覚えとるけえ、問題ない」
米湊にとっても涼の言葉は絶対だった。バンド内最年長、みんなの兄貴分、そして顔役。色々彼に担わせてしまっている部分は多いが、全ては彼が望んだことであり、彼の望む形に、全て叶えばいいと思う。
言葉は確かに強いが、音はもっと強い。それは彼らが言葉や文章ではなく音を選んだ生き物であるから、その認識だけは二人の間でも違えなかった。米湊は小走りでドトールを後にする前に、さりげなく涼の脈を測った。全くもって乱れのない脈は、その男の丈夫さを物語ると同時に、米湊の心臓をも落ち着けていくのだった。
「米湊は心配性じゃなあ」
「死なれたら困るやろ」
「死なんて。殺したいんか、俺のこと」
「真逆だよ。ここでもし不整脈なんかあったら俺は仕事サボってあんたを病院連れていく」
「おう。娘や嫁が路頭に迷う」
「俺たちもだよ。迷わせんな」
お前こそ。灰皿に無残に打ち捨てられたタバコの吸殻を指差しながら涼が笑うのを、米湊は鼻で笑った。そして手を振りながら商店街の雑踏へ消えていく。あと1時間の出勤時間まで、水沢涼がどうして時間を潰すのか、それは当人の他には米湊しか知らないことだった。
『なんで涼さんって楽譜も歌詞カードもなしに歌えるの?』
かつて我がバンドのギタリストが無垢な質問を投げかけて来たことがある。米湊は一笑に付して、「あの人は天才だから」と、なんともつまらない回答をしたのを思い出した。西大寺基水は人を疑うということを基本的にしない男だ。そっかあと純粋にそれを受け入れ、高崎初音に呆れた顔をされていた。しかし高崎もまた、事実を知らないはずだ。彼女は言葉にしないなりに、涼は天才だと思っているのだろう。
実際のところ半分は正解である。米湊は、仮にこのバンドにひとり天才がいると言われたら、間違いなく水沢涼の名を挙げる。曲を書いている自分でも、15時間ぶっ続けでギターを練習し続けた西大寺でも、ベースのイントロだけで客の女を泣かせた高崎でもない。光り輝くステージの中央で汗を流し、CD音源よりも良質な音を喉から迸らせ、寸分違わぬ音程と歌詞を体現してみせるあの男こそが天才なのだ。米湊は水沢の才能を誰より信じている。ともすれば彼の妻よりも彼の才能を知っている。
だが才能だけではなし得ない。彼は一度も……「歌詞カードを書いたことがない」。
インディーズの手売りしているCDには歌詞カードが付いているが、あれは実を言うと米湊が音源から書き起こしたものだ。そして、それは必ず再び水沢の手元にいく。このことは他の二人も知らない。隠し立てているわけではないが、聞かれないから黙っている。出勤時間の異なる2人がドトールでの待ち合わせののちに行なっている、歌詞合わせの風景はとてもじゃないが人には見せられない。
それは鬼気迫るものだった。茶化したり、ふざけたりする空気などはじめからなく、米湊は慎重に歌詞を書き起こし、それを涼に渡している。
「ここは表記どうする? 漢字にする?」
「やめておこう」
「ここは?」
「大丈夫。多分漢字の方がいい」
歌詞をバラして、解体してまた組み立てて、作り手の意見を求める。マネジメントしている気がしてとても心地いい。そして米湊は、涼に尋ねる。
「どこまで書き写した?」
「一応、2曲目までは。でもまだ無理だ」
「どんな感じ? 見せて」
「いくら米湊でもダメなものはダメだから」
歌詞を書き写す。ミミズの這ったような字はおよそ母国語とは思えない。そう、事実、母国語ではないのだ。
彼にとっての母語は音であり、音楽だった。書き言葉は彼にとっての母語ではない。英語話者が英語を話すように、愛媛県民が愛媛弁を話すように、彼は熊野の広島弁を喋り、そして……文字を読み書きすることを知らないような、子供のような字を書いた。
「ばか、やめろ。漢字ドリルをめくんな、おい米湊」
「娘に追いつかれないよう努力しろよ」
「言われなくてもそのつもりだわぼけ」
相変わらずミミズの這ったような文字で「ぼけ」と言う語彙が拾われた。そんな言葉を涼に使わせるつもりは米湊もなかったのだが、今のニュアンスを表現するのには極めて正しい。
「さっさと行け学生」
「ありがとう社会人、またコーヒー奢ってくれ」
幾度となくそんなやりとりをした。……字を書かずに生きていけるなんてラッキーだ、と思う反面、字が書けないと言うのは、そして書かれたことが読めないと言うのは、どんなにか辛いだろうかと米湊は考える。大学院生である米湊は、今の立場を手に入れるために専攻に関する公的な文章だけで最低30万字は形にしてきているし、それを人前で発表したり、雑誌に送ったりしたこともなくはない。そんな彼からしてみれば、母国語を読むのに人の3倍以上の時間を要し、漢字の書き取りが殆ど出来ないという状況は容易に想像することすらできない。ディスクレシア、という単語を、米湊は涼に教わった。涼が唯一教えてくれた言葉だ。そして、涼が米湊を信奉する最大の理由でもあった。
だから涼は、ステージの上で絶対に歌詞を間違えない。読んで覚えるのではなく、耳で聞いて覚えるから。彼にとっては音が全ての情報源であり、文の体を取らない音であればいくらでも自在に、彼の中にインプットすることができた。
彼は天才だ。そして与えられたものがある。ギフトも、チャレンジも、全部受け入れて笑う。まるで梅雨時の雨みたいな男だ。いや、梅雨時の雨をありがたがる農家と言えばいいのだろうか。
米湊は喧騒の中を必死に歩いた。音の洪水の中で、涼が溺れてしまうのではないかとまるで子供相手のような妄想をして楽しんだ。溺れるようなたまではない。わかってはいるが、せめてその真っ暗な活字の海から、音の洪水の中へ逃げ込むのは自分の手が案内人であってほしいと、米湊はそんなことを思うのだった。
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【side Motomi Saidaiji】
西大寺基水の携帯には、初期機能の天気アプリが入っている。祖母の住む新見、己の住む広島とあとひとつ、訪れたこともない街の馴染まない気候をいちばん下に登録している。8時間の時差があるその街は、冬に入ってから一向に暖かい日がなく、日がな一日霧に包まれているようなパッとしない天気が続いているようだ。風邪ひいてないかな。そう自分のことを度外視して考えつつ、いつも想起するのは従姉妹のことだった。
基水、という男らしさとはかけ離れた、しかし美しい名前をつけてくれたのは祖母だった。幼少期に親が離婚し、基水の生まれた呉を離れ、母は幼い基水を養うべく朝も夜も働いた。しかしそれが祟って彼女は過労で入院してしまい、結論として基水はしばらく隣県の山深い寒村に住む祖母の下に預けられることとなった。祖母は母のことも基水のことも咎め立てたことはない。優しく寛大で慈愛に満ちた祖母のことが基水は大好きだった。そして、祖母の下には二人の子供がいた。彼にとっての従兄妹たちである。
兄が恭輔、妹が唯子。妹の方が年が近かったこともあり、基水は唯子によく懐いた。子供たちはよく3人だけで大人の目を盗み、山へ入っては柿を盗んだり、怪しいきのこを採集したりして遊んでいた。唯子は基水のことをもとみちゃん、と呼んだ。あの頃の基水は、痩せぎすで髪も長く柔らかく、どうみても女の子にしか見えない儚げな雰囲気を纏っていたのだ。
「もとみちゃんは好きな子おるん?」
「おらんよ。唯ちゃんは」
「私もおらんの。好き、て言われることはあるけど。ようわからん」
きょうちゃんには内緒ね、と幼い唯子は基水の手を取り、か細い小指を絡めて見せた。基水の眼に映る唯子は幼いながら美しかった。きっとこの人は、周りが放っておかない。誰からも好かれるだろう、望む望まないに関わらず。基水の手に触れる柔らかな手のひらを包むように握って、いじらしく撫でて見せる可憐な少女は、幼い基水の心を奪ってめろめろに溶かしてしまった。女の子みたい、と言われていた自分が、女の子じゃないと痛切に理解したのはあの時だ。
女を愛する男であることを思い知る。女々しい外見を悔いていた己が、ひとりの美しい少女を前に、彼女を愛するひとりの男であることに目覚める。まだ愛を知らない、愛と呼ぶことさえ不確かな時に、基水は全身を絡め取られるような恋をした。
母が持ち直してからは新見には行かなかった。母が行くのを渋ったからだ。
聞けばあの従兄妹とその一家……母の実兄に当たる伯父の一家は地元でも有名なエリート一家で、学のない自分とは似ても似つかないと母はよく自嘲気味にこぼしていた。血の繋がった家族なのに悲しい話だと基水は思ったが、成長するにつれてなんとなく血のつながりを重視する社会の仕組みが馬鹿馬鹿しく思えたのも本当のことではあった。母は基水が中学に上がった年に再婚し、彼らは再び呉に移った。それまでは広島市内で、母の夜の勤め先の近所に身を寄せ合って暮らしていたが、中学からは寒さに耐えるべく母の布団に忍び込んで暖をとらなくても良くなったのが嬉しかった。
基水はかつて少女のようと形容された外見から、二次性徴を経て大きく変貌を遂げた。二人目の父となった義父は母と同じように離婚歴があり、別れた実子に注ぐが如くの愛情を基水に注いでくれた。母の帰りを待ちながら飢えることもなくなり、適切に健康に、その年頃の子としては全く過不足ない密度で体を動かせば、背は自然と伸びた。
そんな時、偶然街中で唯子に再会した。夢ではないかと思ったが、少女は昔の面影を損ねることなくその身に内包して、ただ研ぎ澄まされた美しさだけが加味された状態で基水の視界を奪った。
「唯ちゃん!」
どうして広島にいるの、どうして一人なの、元気で過ごしてたの。基水の言葉にならない問いを察したような柔らかな笑みは、唯子の昔から変わらない朗らかな人となりを体現しているようだった。基水は昔のように唯子の手を無遠慮に握ったが、唯子は目の前の人物が誰であるかを認識できず、すっかり困惑しているのが表情から読み取れた。
「ええと、どこかで会ったかな?」
「あっ。ごめん、俺だいぶ変わったよね、ごめん……基水だよ、覚えてる?」
「もとみ……もとみちゃん?」
寸分たがわぬ声音で呼ばれたのが嬉しかった。基水は首が落ちるのではないかと思うほど勢いよく頷き、満面の笑顔を浮かべる。
「うそ! 全然違う!」
「唯ちゃんは変わらんねえ」
「もとみちゃん、背伸びた! 声も低くなった! すごいね、男の子ってすごいの!」
唯子ははしゃいでそう言ったが、兄の恭輔にも類似の現象が起こったのではないかと基水は内心苦笑する。唯子の溌剌とした声音も、恐れるもののなさそうな眩しいばかりの元気も、離れている間の凝り固まった関係性を解すのには十分だった。基水は唯子の手を握ったまま、どうして広島に? と尋ねた。唯子は花のような笑顔を浮かべて見せた。
「好きな人がおるん。会いに来たんよ」
花のような笑顔は残酷に、そして鋭利に、ガラスのような基水の心を貫いていった。
「は……え、そうなん」
「うん。転校して、広島におるが。高速バスで来たんよ、ドキドキしたあ」
「おばさんやおばあちゃんらに言うて来たんか?」
「ううん。内緒よ、基水ちゃんも言わんでね」
変わらないと思った笑顔の上にそんなことを言われては基水の心は落ち着かない。全身が心臓になってしまったようにばくばくと喧しく、息さえできない不自由さに基水は困惑する。全身が溺れたような感覚はあの時の変わらないのに、酩酊感にも似た幸福な陶酔は味わえず、それどころか息苦しくて心臓がやかましくてただただ不快だ。あんなに愛しい笑顔が自分を苦しめることになるなんて、基水は思いもしなかった。考えたこともなかった。でも心のどこかで知っていたはずなのだ。彼女は誰からも愛される、きっと自分だけじゃなく……。
その日、なんとか唯子の連絡先を聞くことに成功したのは、基水の密かな頑張りの結果だった。広島、来るんじゃったら、ここのこと教えたるけえ、連絡して。唯子の恋心につけこむなんて自分は最低だと思ったが、誰の足場でもいい、好いた人に必要とされる理由が、確かな絆が、欲しいと思った。
あの日から基水は唯子への片思いを絶え間なく燻らせている。
火はか細く、煙は細長く、しかし決して消えることはない。誰と会っても何をしても、他の女に想いを告げられても一夜の勢いに身を任せても、基水の心のどこかは唯子の切れ長な奥二重の目が射抜いている。好きな男に会いに足繁く隣県まで通っていた彼女も、意外なほど早くその恋に決着をつけたらしく、基水が知る限り頻繁に、その「恋人」の立場は入れ替わっていた。唯子は同じ人間と長く付き合うと言うことを全く得意としなかった。堪え性がないと言うのか、奔放が過ぎると言うのか、なかなか安定した相手を確保できないまま、成人を目前に控えていた19の夏。
基水は、長電話を受けた。相手は朗らかな、基水の大好きな声音で歌うように告げた。
「好きな人ができた」
「そうなんだ」
基水は既に就職していた。広島市内にチェーン店をいくつか構える人気のラーメン屋で、義父の旧知の創設した会社でもあったので就職はスムーズだった。唯一の趣味と言っていいギターは高校時代の同級生の兄から譲り受けたもので、弦を爪弾いているときは様々な余計なことを考えなくて済むので、心が落ち着いた。相変わらず彼女はいない。唯子は今も定期的に連絡を寄越す。誰かのために泣き、誰かに泣かされ、もとみちゃんと泣きながら電話をかけて来る。そんな身勝手とも言える彼女の行動にきちんと振り回されてやることくらいしか基水にはできなかった。だからそれをずっと、馬鹿正直なほど丁寧にやった。
「どこのやつ?」
「岡山の。市内の人」
「ふーん……イケメン?」
「笑わない?」
「どうやって笑うん。顔も知らんのに」
「女の人なんよ」
今でもこの時のことははっきりと思い出せる。職場で先輩にしこたま怒られた水曜の夜だった。学生の唯子は忌憚なく平日の真夜中に電話をかけて来て、形だけの謝罪を述べて無意識に、ズタズタに西大寺のメンタルを削っていった。
唯子は西大寺の気持ちなど考えたことがない。だからこんなに悪意なく酷いことが言えるのだと、西大寺は電話越しに怒鳴りたい気持ちを抑えて、笑わないよ、と自分に言い聞かせるようにもう一度言った。
「色々大変じゃろうけど、ええがにいきゃええな」
「ありがとう。もとみちゃんええ子じゃねえほんまに」
基水はええこ、ではなく、好き、と言われたかった。その自由すら奪う。女が好きな唯子と、女が好きな自分が、愛し合うことなどきっとできないのだろう。
彼女との共通の趣味があるらしい。それで今度広島に行くけん、美味しい店教えてと言われ、西大寺はさすがに泣いた。つう、と頬の横を伝って枕へ流れて行く軌跡を辿りつつ、ああ本気で辛い、初めて好きな人がいると打ち明けられた時より強い、と心の中でも何度も泣いた。
いつになったら諦めきれるだろう。そう思ったが、結局諦めることのできない沼に足を取られ続けていた。彼女の視界に俺のような男は入らない。昔とは似ても似つかぬ風貌は、きっと人に誤解されるに十分だ。いつまで溺れていればいい。いつまで追い求めれば、彼女を諦めることができる。窒息して死ぬなら彼女のそばへ打ち上げて欲しい。言語化しない、定期的な会話の中にも熱を潜ませない、彼女を見ない、そんな付き合い方をしているうちにだんだん彼女が疎遠になった。
人は傷ついた時、最も甘えられる人にそれをぶつけると言う。だから、唯子が失恋して、最初に泣きながら基水の部屋を訪れたことを、基水は本気で嬉しいと思った。顔が緩まないように先手を打って微笑んだくらいだ。うまく笑えているだろうか。俺は今……唯ちゃんの前で、分かち難い無二の友として、振舞えているのだろうか。
「もとみちゃん。もとみちゃん……もとみちゃんは行かないで…‥ここにいて」
誰にも頼れない肩は少し細い。上下する肩甲骨が浮き彫りになる小綺麗な背中を抱きしめた手で撫で、震えながら慰める。ボロボロのズタズタになるまで傷ついて、自分を根底から真っ新に作り直されるような経験をして、唯子の笑顔は前と少し違う質を帯びるようになった。照れ隠しのふとした笑顔まで諦念のような何かが潜むようになった。どれほどのいい女と恋をしたのだろう。基水は唯子の腫れた目からひっきりなしに流れる涙を精一杯拭いながらそんなことを思っていた。
いってしまう。あの人が行ってしまう。譫言のように繰り返す唯子に、ベッドを提供して一人ソファに寝た。
基水はその時誓うのだった。こんなに身を切られるくらい悔しいなら、いっそ全てを見届けてやりたい、と。
一向に消えることのないか細い恋の炎が、細く細くその煙をたなびかせるように。泣き疲れて帰る場所が自分であればいいと、それ以外は何も望まないことを、神に誓った。
唯子はその後すぐドレスデンへ旅立ってしまった。前から招聘されていた研究機関だと言っていた。
涙が凍ってしまいそうなほど寒いと言うドイツ。そのドイツの気候を、基水が体感したいと思うのは至極当然のことだった。
「でね、パンに塗ったらほんと美味しいの。もうあれなしで生きていけないってくらい」
「美味そう」
「日本でも打って欲しいなあ。白ワインに合うの、すっごく」
「肝心の白ワインがそっちほどねかろ。そっちで食やええ」
「それはさ。もとみちゃんに任せるよ」
もうすぐ一度、従姉妹が帰国する。日本での用事を済ませてすぐ帰るらしいが、広島では宿をとっていない、と当然のように言われた。
ギターを壁に寄せて、布団を敷けるスペースを確保する。あの日泣いていた彼女は、そして異なる笑い方を身につけた彼女は、どのようにして基水の前で笑うのか。
あれ以来。逃げるようにこの国を飛び出してからまだ一度も、基水は唯子の話を聞いていなかった。早く聴きたい。ダメだった恋も、印象に残った駆け引きも全部教えて欲しい。いずれ落とすために、今が幸せの絶頂でもいい。
待ってる。その言葉に最大級の糖度をふっかけて、受話器の向こうに向けて基水は唸った。伝わらない甘さに辟易するのも、伝わらない気持ちを空に投げるのも、すっかり基水には慣れっこのことだった。
18年の時間が経っていた。きっと19年目も同じ思いをして生きるのだろう。不意に基水は、鼻の奥にあの裏山の、鄙びた湿った「隠し事」の匂いを感じるのだった。
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