休日出勤の話
【Side Tadami, Taki】
休日出勤だった。そして晩の予定もなくなった。渋木唯巳は急に浮いた予定を持て余し、午後の仕事のモチベーションも高まらず、喫煙スペースで項垂れていたところを同期入社の神瀬多喜と鉢合わせた。
喫煙所に出入りする若手は数が限られている。自分たちより下の世代ではもはやタバコ自体、吸うものではないのかも知れない。同期の男の子の誰もタバコを吸わない、なんなら唯巳の恋人も吸わないのだが、すっかり覚えてしまった紫煙の芳香に鼻をひくつかせる快楽は知らない人間の想像を凌駕しているため、吸わないならそれでいい、健全な住み分けができるならそれ以上は求めない、と渋木の中では一本筋が通っている。
冗談みたいに寒い日だった。彼女らの勤務する旅行代理店は賑やかなポップを立てて学生スキー旅行の販促に余念がないようだったが、実際に市内で雪が積もるような寒波の日にわざわざスキーの予約をしにくる人間は酔狂と相場が決まっている。平常時の3分の1ほどの来客を裁いてしまうとあとは本当に暇だった。同僚と一緒に喫煙所に入れるのが何よりの証拠だ。ライター貸して、と渋木がいうのはいつものことだった。多喜は先日、恋人が職場から複数持って帰ってきた店名入りのライターをひとつ渋木に譲ることにした。
「あげる。貰い物だし」
「ありがと」
渋木は可愛い顔をしてメビウスなんて吸ってる。おじさんみたい、と思いながら多喜が吸うのもマルボロで良い勝負だ。初めて吸ったタバコがマルボロだったから、そのままマルボロ以外吸う気になれなかった。社内の誰かが持っているタバコは手持ちを切らした時に重宝する。譲り、譲られる関係。おかげで何人かの上司と不可思議な接点を持つことになった。喫煙者の数少ない優越である。渋木の指先で少しずつ燻り、その身を短く焦がす筒をじっと見つめる多喜は、今晩御飯行く? という渋木の誘いを何度も心の中で噛み砕いていた。
初音はなんというだろうか。今夜は一緒に食べなきゃダメだと言われるだろうか。でもここで連絡を取ったら恋人が女ってバレるかなあ。多喜は初音と違って、恋人が同性であることを職場には極力黙っていたかった。恥じたわけではない。ただ自分の置かれた状況を理解しているだけだ。無遠慮で浅薄な、自身に群がる男たちが、女同士で付き合っている多喜を知った時、不用意にその相手である初音を貶めたり自分たちの恋愛に異を唱えたりする様相を見たくなかったのだ。そうして自分たちの愛にケチがつくことさえ嫌だった。他人の低レベルな倫理観に合わせて話をしたくなかった。こういうところがきっと、不遜だと言われる証拠なのだろうな。優等生に見えて多喜は好き嫌いの表象に言葉を惜しまない。エネルギッシュな分、よほど初音より扱いづらいとは誰が言った言葉だったか。
「恋人との先約でもあるの?」
「先約っていうか、普段食べるのが基本っていうか」
「同棲してんだっけ」
「そんな感じ」
「ふーん。何年?」
「今で2年ちょっとかな」
渋木は4年付き合っていた。布崎とは学生時代の半分を一緒に過ごしている。それでも住環境はついぞ一緒にはできていない。別々の家から通うようにして時間を持った。お互いの、パーソナルスペースを重んじた結果といえば聞こえはいいが、彼女の物分かりのいい男は一度たりとも一緒に住もうとは言ったことがなかった。
「結婚すんの?」
「しない。できない」
「えっ」
「なんてね」
嘘のつき方ばかり上手になる。多喜はいたずらに笑って見せたが、事情は本当であるがゆえに真に迫った演技だった。今の日本の法律では同性カップルの結婚は事実婚でしか達成することができない。条例レベルでパートナーとして公的に認められる自治体もあるが、なんの縁もゆかりもない土地で二人きり生きていく決断はまだできない。若いから、若いと思っているから、まだ決断を急ぎたくはない。相手以外は考えられない、それだけは紛れもない事実だったが。
やばいなあ、もしかしたら聞かない方が良かったネタかも。渋木は持ち前の勘の良さでそんなことを思った。
「同棲で満足しちゃうと結婚まで漕ぎ着けないでしょ」
「そういうもんかな」
「そういうもんだよ。だからきっと他人のまま緊張感保ってくれてんの。渋木ちゃん、愛されてる」
「どうかなあ。あたしのこと放って先輩と出雲旅行行っちゃうような男なんだけど」
「男の付き合いって女のそれより緊密でわけわかんないよね」
多喜は脳内に先日の打ち上げの模様を思い描いていた。恋人は軽く酒が入った状態で、飲めもしない酒をちびちびと傾けながら多喜の隣で無表情に、しかし落ち着いて楽しんでいた。ひどかったのはメンバーの方で、どうしてあんなに冷静な男たちが、酒が入るというそれだけであんなに楽しそうに羽目を外せるのだろう。やっぱり友達としては付き合えるけど恋人としては男とは付き合えない。初音以外を好きになったことなどないが、多喜はそう心の片隅でこっそり思ったのだった。
「デートだって自分から提案してくれないし」
「ウンウン」
「休みの日は寝てばっかりだし」
「うん」
「稼ぎだって私の方が多いし」
「そっかあ」
「社会的なアレを考えるんだったら、学生と付き合ってないでちゃんとした社会人と付き合うべきなんだろうけど、そんなこと考えたこともないし、想像できないんだよねえ」
「大好きじゃん」
「……まあそうなるのかなあ」
多喜は内心こっそり嬉しかった。なぜなら、今こうして渋木の挙げた「彼氏」とやらの不満も、それに対する渋木の感情も、自分と寸分違わなかったからである。
デートの提案は常に多喜から。車の運転も、店の予約も、だいたい多喜が担う。珍しく練習もバイトもない1日休みの日は家で引きこもって寝ているらしい。帰ってきたら出ていく前とまったく同じ部屋がそこにあるのだ。フリーターと正社員、しかも総合職の2年目は収入ももちろん格差が大きい。渋木の恋人は大学院生と言っていたから、収入面や貯金の格差もこの数年のうちに逆転することだろう。それに比べて、うちはね。ほんと、物件って意味では論外だよ、初音ちゃん。愛してるからそばにいる。生きていけるからそばに居られる。それだけだ。
「何ニヤニヤしてんの神瀬」
「微笑ましくって」
「やめてくれる? そっちはどうなの」
「大差ないよ。っていうかほとんど一緒。強いていうなら、コーヒー淹れるのが死ぬほど上手」
「羨ましいな……だいたいあたしが淹れちゃってるわ」
「ご飯作ってるんでしょ。そしたら、コーヒーくらい淹れさせないとダメだよ」
「寝汚いんだもんあいつ。朝とか起きるのに10分くらいかかってんの。往年のWindows 98でももう少し早く起きるよ」
多喜は声をあげて笑った。そう悪辣に吐き捨てる同僚の顔が会いたい、と物語るようで心が躍ったのだ。これは、とてもじゃないが喫煙所だけで足りる話ではない。ごめんね初音、今日はどっかで飲んできて。ひとしきり笑った後でそんな電話をかけると、相変わらず血圧の低い声音で承諾の返答があった。
「米湊も出雲行くとかなんとかツイッターで言うとったけど、出雲詣で流行っとるん?」
神無月はとうの昔に終わっとるのに。そう不思議そうに言う恋人の声音に、多喜はほうじゃね、と返しながらいつのまにか渋木のいない喫煙所を出た。雪が吹雪いている。ガラス張りの廊下に叩きつける大粒の雪を見ながら、初音は今夜何を食べるのだろう、と他人事のように考えて、少し声色が跳ねた。
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