センター試験の話

【side Senri, Yasuhide】


 センター試験の実施日は、近年稀に見る暴風雪に阻まれて何もできなかった。

 米湊千里のような大学院生であっても条件は同じである。年に数度、冬の決まった日に閉ざされる研究施設と、どうあっても潰さねばならない時間。たかが2連休だ。そして幸か不幸か米湊にはライフワークとも言うべき趣味があった。

 ドラムセットの前に座っていると心が落ち着く。叩くものが決まっていて、リズムに乗ってカウントを刻み、足が麻痺しそうなくらいペダルを踏んで、左右の足の太さが変わるくらい筋肉をつけて……逆光の中、ステージから客席を眺めた時の不思議な浮遊感が好きだった。何も見えない、なのにあの向こうには確実に生身の人間がいる。その実感が息を吸うことすら忘れるほどの興奮を齎し、言語化できない衝動がつま先から髪の毛まで貫く。初めてあの味を知った高校時代からずっと追い求めている。自分の前で演奏する顔ぶれが変わってもそれはかわりない。知ってしまえば戻れないステージを照らす灯りに、汗を散らしながら恍惚とした。その瞬間だけは自分が無敵であるような気がした。

 しかし現実は非情だ。しがない大学院生の一人暮らしにドラムセットなど維持できるはずもなく、それを置くスペースも設置する資金も、騒音対策の防音設備すら達成できない。雑誌を束ねて高さを変えて、スティックで叩き続ける雑な練習は嫌いだった。ただそうでもしないととてもじゃないが練習量が積めないからそうしているだけだ。音のしないドラムがあればいいのに。理系研究者にあるまじき無茶な空想を繰り広げ、米湊はゴロンとベッドに寝転がった。

 ベッドサイドのデジタル時計は早すぎる朝を告げていた。寝起きは良い、昔から。だから研究室のまとめ役や、バンドリーダー的なことまで担っている。米湊より早くには誰もこないし、米湊の裁量を誰もが信用した。楽でいい、と思う。人が面倒臭がることを喜んで引き受けていれば、誰でもみんな彼の言うことを聞いた。一目置かれ、生きるのが楽になった。タスクが増えるのはこの際目を瞑って、である。独善的に、利己的に、自分勝手に物事を回すことができた。それがいいことだと彼は信じていた。

「……旅行したい」

 米湊の趣味は音楽ともう一つ。何もないところへ旅に出るのが好きだった。


「だからってなんで俺なんですか!」

「持つべきものは地元ガイド。どうせ暇してたんだろ」

「してましたけど。彼女ブチギレですから責任とってください」

「嫌です。どうせ毎日飯作ってもらってんだろ。たまには外食しようぜ」

「外食ってレベルじゃねー!」

 無茶苦茶な「どうせ論」に渋々付き合ってくれる研究室の後輩は、突発的な米湊の弾丸旅行に付き合わされて半ば悲鳴のような苦情を並べていたが、実際車に乗り込んでいる時点で説得力は皆無だった。雪の降り頻る国道375号線を走るアクアにはスノーチェーンが巻かれ、ガタガタと耳障りなまでの騒音を立てる。車内BGMに設定したどこかのアイドルのベスト盤が霞んでいる。せっかく持ってきたのに。後輩の恨みがましい主張は悲しいかなドライバーの耳には届かなかった。

「って言うかこないだ帰省したばっかりなんですけど」

「そうでしょうね」

「こんな暴風雪の日に山陰行くとか米湊さん絶対日本海を舐めてる」

「違う。日本海が好きだから行くんだ。いわば温泉を求めてるの、俺は」

「何が嬉しくって男二人で玉造温泉? 美肌の効能に期待するんですか」

「いいじゃん。彼女に喜んでもらえよ」

「うちの彼女は俺の肌がもちもちだからって喜ぶような変態じゃありません!」

 漫才をしたかったわけではないのだが、哀れにも布崎康秀は米湊の直属の後輩であり、研究室内でも3年の付き合いがある気心の知れた仲だった。フリー、厳密には特定の相手はいるにいるのだが彼女ではないと言い張る米湊と違い、それこそ交際歴4年に及ぶ彼女がいる布崎は、必要とあらばしょっちゅう米湊に呼び出されている。迷惑な話である。元来大学での友人がそう多くもない布崎は、最近は彼女との約束を断るときに決まって米湊の名前を出しているし、実際迷惑ではあるが可愛がってくれているのなら、と彼女の方も公認に近い距離感で米湊との仲を肯定していた。当然、ブチギレているわけもない。布崎の考えすぎだった。それは米湊にも十分知れたことだった。

「ああ……バイト代が温泉に消える」

「よかったなあ。キャンセル待ちプランが出てて」

「懐石うまそうでしたね! いやそうじゃない」

「明日は出雲大社でも行くか」

「縁結びのご利益半端ないですもんね。米湊さんの分もお祈りしましょう、面倒臭い年増の女に引っかかりませんようにって」

「強大すぎる神力でお前が別れたりしたらどうしような?」

「うちの彼女こないだ行ってましたけど、職場との縁は本当に切れたらしいですよ」

 縁結びのご利益などと言う非科学的なものを頭から信じているわけではない。二人とも信心は人並みで、強くも弱くもなく。しかしながらそうした非科学的な要素に縋ってみたくなることもある。非日常がそうさせる。旅先の神社には足を向ける、たとえ普段住んでいる土地で神前に参拝することなどなくても。

 正月に帰ったとき、米湊は専ら研究が忙しいからと最低限以外は自室に引きこもっていた。そう言うと親も親戚も何も言って来ないことを知っていたからだ。親族の大半が高卒の家系で、大学院、しかも博士課程まで進むと言うのは想像を絶する異分子であるらしく、勉強を引き合いに出せば彼らは必ず口を噤む。便利なことだ。米湊はその隠れ蓑を利用して誰にも会わなかったし、何処へも行かなかった。親には顔を見せるが、叔母の顔は見たくなかった。叔母は彼の中でずっと時間を止めている。母と遜色ないほど歳をとった叔母を、叔母だと思って見るのがなんとなく嫌だったのだ。

 縁結び、丁度いい。ついでに叔母との縁も切れないものだろうか。だって、今年も彼女はお年玉を用意していた。25歳の男に。

「縁切り祈願はダメかなあ」

「いいんじゃないですか? って言うか縁切りって物騒ですねえ。またストーカーですか? それとも今付き合ってる人と別れたいとか」

「彼女おらんからよー。いい加減そう言うのもう吹っ切りたい」

「え、女いらない? あの米湊さんが」

「いや、小ぎれいなお姉さんが欲しい。賢くて、綺麗で、素敵な人。10個くらい上の」

「童貞みたいなこと言わんでくださいよ」

「るっせえよお前の方がよっぽど童貞くせえよ一人しか女知らねえだろ」

「100人とやるより1人と100回やりたいんで俺は」

「そのまま渋木さんにぜひ言ってソレ」

「言えませんて! ……そんなんどれだけ弄られるか」

「末長く爆発してくれ。骨は宍道湖に撒いてやるけん」

 米湊はうさを晴らすようにアクセルを踏み込んだ。フロントガラスに叩きつける雪の粒が大きくなり、タイヤの立てる騒音も大きくなる。ひい、と布崎は息を飲んだ。米湊さぁん雪道なんだからもう少しスピード落として、と震えた声が車内に響いたが、アイドルの歌唱同様に米湊の耳には入らなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る