あしたがこなければいい

 多喜みたいな女の子は、今まで生きてきた24年の人生で少なくともあたしの周りには殆どいない。

 本人が努力家で、自分のためと同じくらい心底、恋人に尽くす。そのくせ好感度の低い人間にはどこまでも残酷で非道だ。意外なほど正義感は希薄で、愉快犯的なところもある。自他の線引きが上手で、腹が立つほど要領が良くて、好かれる割に人のことを好きにならない。

 愛情の定量が決まっていて、その愛情を何に注ぐかも、自分で決めてしまう。人のことなんてどうでもいい、と笑いながら言い放つ。

 出会った時はまじめな子だと思った。優等生で、頭が良くて、いつもきちっとノートの端を揃えて胸の前に抱えているような。


「多喜。降りるで」

「ん」

 帰りはタクシーに押し込まれた。うちのバンドの奴らが呼んでくれたのだ。タクシーなど容易に使える身分ではないのに、酔った女をひとり抱えて帰るのは大変だろうと気を回してくれた。飲まない男とザルな男、多喜と同じようにしこたま飲む女に惚れこんでいる男としては、こうして無防備に酔っぱらう女を放っておけないのだろう。紳士的というか、お人好しと言うか。バンド活動なんてチャラい男の代名詞みたいなことに余暇を費やしながら、我々はどこまでも真面目だ。何に反骨もしていない、社会の歯車の中で楽しい事だけを追い求めているのだから当たり前と言えば当たり前かもしれないけど。

 彼女は半分閉じた目でぼうっとあたしの顔を見て、はつね、と唇だけであたしの名前を呼ぶ。酔った振りをするといつもこうだ。無防備です、何もできません、と言い訳をするように可愛い女の顔をして見せる。本当に酔い潰れたときはもっと剥き出しの本能を見せつけられるから、ああこいつ酔った振りをして甘えたいんだな、と思うと毒気を抜かれてしまった。丁寧に切り揃えられた小奇麗な髪をくしゃっと撫でて、あたしは運転手にしわしわの1万円札を渡した。

「歩いて」

「歩けない」

「ええから歩け」

 座り心地の良いタクシーから引きずり出すと川沿いの冷たい風が初音の足元を通り抜けていった。さむ、と言った声が揃って、走り去っていくエンジン音に負けて消えた。お互いの耳にしか届かない僅かなシンクロを、無邪気に喜ぶほど浅い付き合いでもない。はつね、と今度は声に出して呼ばれた。砂糖を煮詰めて更に振りかけたような糖度だった。

「おこってる?」

「それ以上したら怒る」

「なにを?」

「あんた、人前で甘えたがるんやめぇ。あたしを取られとうないんはわかるけども」

「取られたくねえんよ。うちの大事な女。うちだけのじゃもん」

「岡山弁出とる」

「ええが。誰も聴いとらんけえ、初音だけで」

 髪を撫でる手をやんわりと跳ね退けられた。そして上目遣いできっと睨んで、そしてゆらっと笑う。酔った振りが上手い。きっとこうやって前後不覚になったふりをして、いろんなトラブルを避けて来たんだろう。今日のようなことも、きっと今までの人生で沢山あった。男の受けのいい、男を対象としない女。本人が望むと望まざるに関わらず、常に想いを寄せられる気の毒さ。そういうところは、少し可哀想だと思う。こんなにあたしのことだけ見ているのに、外からはわからないものだろうか。

「初音。うちはあんたが大事よ。あんたしか見とらん」

「存じ上げておりますよ?」

「嘘じゃ。ちぃとも気づいとらん。呑気にしとれるんも、今のうちだけじゃがあ」

「……鍵開けるけえ、自分で立って」

 管を巻く酔っぱらい、を装った面倒くさい女を壁に寄りかかるように立たせ、あたしはオートロックの玄関口に鍵を差し込んだ。ゆっくりと自動ドアが開く明るいエントランスへ、腰を抱くように誘導すると覚束ない足取りで多喜はあたしに導かれた。勝手知ったる自宅のはずなのに、何もかも委ねてくるのは甘えているのだ。甘えれば何でもしてくれると思って。

「今日は輪をかけて面倒くさいな。あの男気に入らんかったんか」

「気に入るわけないでしょお。わたしはショタっ子と女装子しか受け付けないのー」

「通報されるで」

「ほんとに手ぇ出さないし。はつねー今日の服かっこいいよ」

「もう脱ぐじゃろが」

 エレベーターの中で多喜はあたしの顎をそっと摩った。きっとこのエレベーターにはセキュリティ用の監視カメラがついているはずだ。また、見せつけようとしている。さっきの飲み屋でもタクシーの中でもそうであったように、人前でいちゃつくことであたしが多喜のものであることを誇ろうとする。その過激なほどの独占欲は今に始まった話ではないけど、じっと見てやると怯んだように目を背けるので、こういうところが酔った振りなのだ、とあたしに確信させる。

 この女が正体をなくすほど飲んだらどうなるのか。それはあたししか知らない。他の男と飯に行こうが、出張で旅行をしようが構わんが、正体をなくすほど飲むことだけはしてくれるな、とそれだけは約束してある。多喜は義理堅い。それが惚れたあたしとのものなら尚更だ。

「初音……そんな目、だめ……興奮する」

 二つ目の鍵、ドアに施された箍が重い音を立てて回転する。薄暗い部屋の廊下をつけるより先に、玄関先でミュールがあたしの爪先を軽く踏む。安物のスニーカーが無残に歪んで、指先が踏みにじられて、初音、と余裕のない声に呼びかけられるともう逃げ場はない。ドアが自重で閉まれば、あとは誰も見ていない。誰も知らない。あたしたちの歪んだ欲望も、はしたなさも。

「ここで脱ぐ? それとももっと奥で脱ぐ?」

「風呂入ろうや」

「いや。入りたかったら一回相手して」

 あたしに睨まれると興奮する女は、一度灯った情欲の火を消すのがなんとも下手くそだった。ヘイトや不快感はこいつにぶつけるだけ無駄である。なんて身勝手なんだろう。そして、人を焚きつけるのが上手なんだろう。煽られて簡単に火が付く、あたしのような奴は相性が悪いのだ。いや、一周回って頗る相性が良いのかもしれない。

「ゆっくりして」

「ふふ、わかってる……あいしてるよ」

 舌なめずりをして唇に噛みつかれると、一瞬で体が火照るようにできている。そういう身体にされた。今から食べる、という合図を決められた体はどうしようもなく、虚空に縋るように延ばされた掌をがっしりと掴まれて、あたしは靴も履いたままどろどろに溶かされた。グロスの甘ったるい味も、髪の一本一本から品よく漂う何かの香水も、あたしを興奮させるのに欠かせないトリガーだ。

 何が彼女だ、とぼんやりする意識の端っこで思う。彼女はあたしに彼女として扱われたいと言いながら、あたしのことをいつもこうしてまずはぐずぐずに抱くのだ。いく、いきそう、もうだめ、まって、と女の声で散々喘がせて、死んでしまいたいくらい恥ずかしい思いをさせてから今度は自分を抱かせる。自分にも同じ声を出させて、と悪魔のような笑顔を浮かべて笑う。まるで倒錯している、と呆れながら、強請られたら応えてやりたくなる。あたしも大概なのかもしれない。

 あたしは彼女を愛している。彼女でなければこの部屋に入ってからの何もかもすべてが成り立たないくらい、彼女のいない人生を想起することが出来ない。女に抱かれるのも、女を抱くのも、彼女だったからだ。切りすぎた爪も、膨らみの足りない胸も、全ては彼女のものだった。まるで彼女は自分のもののようにあたしの全身を欲しがる。あたしが彼女の全身をはしたなく貪るように。

 ジーンズのベルトを外して、ファスナーを下ろすと満足げに指が往来した。それだけで火のついた体は従順になる。言うことを聴いて、傅いて、言いなりにされる。何にも興味がないと言っていた己を笑い飛ばしたくなるほど、多喜との行為は中毒性が高い。どこにどう触れて、どう動けばあたしが言うことを聴くのか多喜は知っているのだ。

 そのまま玄関で腰が立たなくなるくらい丹念に愛された。電気もつけずに、鍵もかけずに。声を押し殺したのは、部屋の外に聴かれるのが嫌だったからだ。誰にも知られてたまるものか。




 シャワーは一緒に浴びた。メイクを一通り落とし終えた多喜をベッドに押し倒し、すっかり出来上がった彼女の中心に触れたとき、はつね、ととびきり甘えた声があたしのこめかみにたたきつけられた。脳髄を砂糖菓子みたいにあっけなく溶かす糖度だった。心地よすぎて笑ってしまう。あたしはぷっくりと瑞々しい、しかし何の味もしない唇をしつこく舐った。口直ししなければやっていられないくらい、甘ったるくて胸がむかむかする。

「強請り方がなっとらん、て、言うたじゃろ」

「言われたね」

「なっとらんのよ。あんたがそうやって、目で訴えかけるだけで十分じゃけえ、下品な真似はせんでええ」

「初音は……わたしがはしたないと嫌い?」

「目に毒よ。そうやって甘えたあんたの姿、見とる世界中に嫉妬せな。あたしをこれ以上惨めにせんでくれる」

「わぁ、妬いてるのね。いい……思ったより幸せ」

「黙っとき」

 まだ少し湿った髪はすっかり巻いたのも取れてしまって、するすると柔らかく指先を通り抜けていく。黙っていろと言われた多喜はおとなしく舌を差し出した。丁寧に絡め取って、乾く間もないくらいしつこく愛撫すると喉の奥から漏れるようないかんともしがたい愉悦の声がする。そのたびに背筋がすうっと氷でなぞられたような、達成感のような醜い欲で頭がいっぱいになる。多喜、と呼びかける声が掠れて、勝ち誇ったような笑みを浮かべられる。そうした生意気な笑顔を浮かべていられるのも今のうちだ。

 多喜はあたしの指を従順に受け入れて、弓なりにその体を撓らせた。指の腹に吸い付くような手触りは何も偶然掘り起こしたわけではない。大事に大事に導いてきた証左だ。一朝一夕では体を番わせることが出来ても、心までは抱き合うことが出来ない。意識を手放すほどの快楽は知り得ない。あたしの指だけが知っている恋人の搦め手は、いつもどんなに口ではしたない言葉を吐き出すよりも卑猥だった。いつだってあたしを全身が欲しがっていた。餓えた蛇のようだ、このまま溶かされて彼女の中で、彼女の血肉になってしまえたらどんなにいいか。

 あたしはいつも多喜の訴えには耳を貸さない。それをいちいち真に受けるよりも、裏切って好きに抱いてやった方が喜ぶからだ。

 どこまでも面倒くさくて、直情的で、素直な女だ。彼女、として扱われることを望む女。あたしを枠には嵌めたがらないのに、自分のことはしっかり「愛される側」に置きたがる。愛する方が得意なくせに。人に愛情を与える方が性に合っているのに、屈折した真似をするものだ。

「黙って。もう黙れ。なんも言わんで。聴かんでもわかる」

 正体をなくすほど相手を求めることなんてできない。男のように理性が本能に取って代わられるような抱き方は出来ない。相手の潤んだ眼や蕩けた声音に欲情するわけではない。それが全てじゃない。次第に高まる性感を反映して、自分もまた頭の奥がふやけるほどの快楽を覚える。彼女を抱くようになってわかったことがある。体を繋げることの難しさも、心を通わせた後の身体がどれほど素直に綻ぶかも、彼女とこうならなければ知ることはなかっただろう。

 彼女の喉が振り絞る音があたしは何よりも好きだった。ベースの音よりも惚れ込んだのが、正反対に甲高い女の声だったなんて、全く笑ってしまう。

「はつね、きすして、はつねっ」

 唯一応じてやるのはキスだけだった。噛みつくように乱暴なキスを受け入れながら、彼女の体がまた撓って揺れた。




***



 夜中に目が覚めると、多喜は背中を向けて寝息を立てていた。染み一つない滑らかな背中には薄い爪の痕がある。彼女を傷つけまいと短く切り揃えている爪のお陰だが、気を付けていたのにまた引っ掻いてしまったらしい。

 意識のない女の背中はどうしてこうもそそるのだろう。背徳感や、消えない欲の炎や、色々なものが胸を衝いて堪らなくなる。女としか、多喜としか恋人として付き合ったことはないが、男の背中とは何かしら、いや何もかもが違うような気がして、ベッドのすぐ横に置かれた間接照明が照らす薄い背中を飽きもせず眺めていた。触れたら起こしてしまうだろう。また瞼が重くなるまでずっと、恋人の背中を眺めて微睡の中に居るのもそれはそれで悪くない。

 いつまで続くものだろうか、と他人事のように考える。この国ではまだまだ女と女が添い遂げるのは難しい。事実婚状態であれば式を挙げることはできるが、本当の意味での家族になどなれない。少なくともこの街ではそうだ。

 あたしも、多喜も、もしかすると初めての恋に浮かれているだけなのかもしれない。明日もしかしたら互いの地雷を踏んで別れてしまうかもしれない。逆に気持ちがどんなに寄り添っていても、事故や災害で呆気なく終わりが訪れるかもしれない。ただのネガティブだが、仮にとても低い確率で「本当にそうなって」しまったら、あたしはこれからどうやって生きていけばいいのだろう。

 多喜と別れることが上手く想像できなくなった。多喜と再会する前は、こうしてふたりで暮らしを営む前は、何を見て何を好んで生きていたのだろう。音楽があった、海を見るのも好きだった。でもその好きなもののなかにうまく溶け込んだ恋人の気配を排して、取り残されたあたしは果たして生きていけるのだろうか。あたしはもしかしたら、多喜という存在が大きすぎて、別れてしまったらもう死ぬしか道はないのではないか?

 いろんなことを考えた。そしてぐるぐると重くなった頭を枕に押し付け、深く息を吸い込んだ。暖房の効いた乾燥した部屋は朝になったら即、換気することにしよう。行き場のない淀んだ空気は居心地が良いが、いずれ身体を壊す。

 みすみす手放すような真似はしない。泣かせたくはない、傷つけても後味が悪い。何より自信がない。彼女と別れて、自分がのうのうと生きている感覚を掴むことが出来ない。

 余裕ぶっていても、これが恋だ。祝福されないかもしれなくても、社会に居場所がなくなるかもしれなくても、離れる想定が出来ない。

 ……多喜は、どうなのだろう。

 夜明け前の憂鬱が見せた後ろ向きな夢を慌てて断ち切る。あたしはいつからこんなに必死で恋をする女になってしまったのだろう。

 虚飾ばかりのステージの上ならもっと自由に呼吸できたのに。嗚咽を堪えるように枕に突っ伏すような呼吸を、自宅のベッドの上でしているなんて。


 恋が苦しいことを思い知った24歳の冬だった。明け方はまだ遠く、全身で愛し合った恋人は同じ褥に横たわる。何も欠けていない、何も失われていない、ゆえの喪失を恐れた夜明け前。我儘で、贅沢で、杞憂としか言いようのない底知れぬ不安を、うまく言語化できぬまま2度目の夢に落ちていった。

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