あなたの彼女になりたい
打ち上げの席、というものに連れてこられたのは初めてだった。昔、ドラマで見たような、本当にバンドの人ってライブハウスで演奏した後にこんな安酒屋で飲むんだ、という率直な感想を抱きながら、わたしは既に半分飲んでそのあと口をつけなくなった初音のビールを代わりに飲んでいた。初音はわたしが頼んだウーロン茶を飲み干してしまって、そのまま次のドリンクを頼んでいた。オレンジジュース。初めからソフトドリンクにすればいいのに、わたしの恋人はビールの初めの一口、細やかな泡と切れ味の鋭い喉越しを堪能するのが好きらしい。身勝手な我儘を聴いてあげる義理は何処にもないのだけど、今日は打ち上げだから、奢ってくれるらしい。飲み代が浮くのなら安いものだ。
「多喜ちゃんって彼氏いるの?」
出身地よりも先に恋人の有無を訊かれる。バンド内の人には既に知れているはずだし、見慣れない顔なので今日の対バン相手だろう。たしか、一度聴いたら忘れてしまうような薄っぺらい音だった。ギターの稚拙さをベースで誤魔化しているような。ベースは上手だったなこのバンド、と思いつつ、わたしは笑って彼氏いませんよ、と言った。
「うそ。じゃあご飯誘っていい?」
「どうしようかなあ。初音、行っていい?」
「好きにしたら」
初音はこういう時に難色を示すような真似をしない。プライドが屈折しているから、わたしに行くな、と言えないのだ。それをわたしもわかっているから、わざと初音に訊く。向かいに座る西大寺さんがうわあ、と小さく声を漏らしたのには気づかないふりをする。
「じゃあ、いいですよ。美味しいところがいいなあ」
「やった。連絡先訊いてもいい?」
「わたし忙しくて携帯あんまり見ないんで、初音に連絡してください」
そういうと男の人は大概微妙な顔をする。わたしの中性的な恋人は、にこりともしないでパエリアを貪り、興味なさそうに彼をじっと見た。凄んでいるつもりはないのだろうが、眉毛がないせいで相当怖いことになっていた。面白い。わたしは初音、と袖を引っ張ってふざける。
「ええと。高崎さんじゃなくて、多喜ちゃんのが欲しいんだけど」
「察しの悪い男は嫌われるで。あと、狙っとる女以外には失礼な男も」
高崎、と窘めたのは米湊さんだった。たしか今回の対バンは米湊さんがセッティングしたと聴いていた。ああこれはポーズだろうな。一応、自分たちは喧嘩を売る人間を止めましたよ、という。その証拠に彼の眼鏡の奥の眼が笑っている。察しが良すぎる男も、嫌われると思う。わたしは。
「え、あ……?」
「まぁわからん奴に言うてもしょうがねえ。多喜は口説いても無駄じゃけ、他当たりんさい」
「でも彼氏いないって」
「まーまー。お前もそのへんで、な?」
見かねたあっちのバンドの人がギターの人をどこかへ連れて行ってしまう。ご飯くらいなら行っても良かったけど、今回はストップがかかるのが速かった。わたしはありがと、と表面上だけの笑顔を初音に向けた。きっとすごく綺麗に笑えたはずだ。今日はそのために仕事用のメイクをしてきた。
「彼氏おるって言うわけにはいかんの? あんたは」
「だって彼氏じゃないんだもん」
「ゆうて彼女って言うたこともないじゃろうが」
「わたしが彼女役なんだもん」
「……犬も食わんわあ」
水沢さんのいい声がそんなことを言う。ステージでは誰よりも輝いているフロントマンも、ステージを降りれば良き夫にして良き父。あやすように乳飲み子の背を軽く撫でながら、そんな呆れた口調で言わないでほしい。
「ようこんな性悪女口説こう思うな」
「言ったなあ。別にわたし性悪じゃないし」
「あたしは稀代の悪女じゃ思うとるよ」
「へえ。どの口がそんなこと言うのかなあ」
初音のほっぺをふに、と掴む。意外なほど柔らかな女の子の肌は、わたしが毎晩手入れするようになってからもちもちで麗しい。また眉のない、生気の篭っていない目で見られる。やだ、人前でそんな目されたら興奮する。わたしは初音の冷たい目に気まずそうに射抜かれるのが好きだった。恋に堕ちたときからそれはずっとそうだ。
「強請る作法がなっとらんよ多喜。帰ってからにし」
「はぁい」
宥めるように初音の唇が小さくわたしの額に触れた。あ、という間抜けな声が聞こえる。なるほど、また見せるようにしたのか、そういうことを。これではどちらが性悪なのかわからない。
「はー、終わった終わった」
「これを見にきたんじゃ、今日は」
「馬鹿野郎。バンドしに来やがれ」
初音のバンドの男性陣は、なんというか、とても変わった人たちだ。同性カップルのわたしと初音に何も差別的なことは言わないし、差別的な目すら向けてこない。それは恐らく、彼らもまた何かしら疚しいことがあるからに他ならないのだけど、気楽でいいのは本当のことだ。それどころか応援してくれて、こうして打ち上げの席にも呼んでもらえて、ちゃんと「メンバーの彼女」として扱ってくれるのが嬉しかった。
わたしは、初音の「彼女」でありたい。初音をわたしの「彼氏」にも「彼女」にもしたくないけど、わたしは「彼女」でいたいのだ。その甘美な響きを10年近く前からずっと望んできた。そして、周りからも「高崎の彼女」として扱われたかった。彼女願望。恋人願望よりも限定的で図々しい、だけど譲れないわたしの拘り。
「厄介な女じゃわほんまに」
「嫌いになった?」
「なれるもんならなっとるわ。次何飲む」
「ジンビーム、ジンジャーエール割」
初音は、ツンデレだ。面倒くさい女、なんて、ただの自虐じゃないかと思う。わたしと同じくらい初音は面倒くさい。きっと初音をメンバーとして抱える西大寺さんも、水沢さんも、米湊さんも大変だろう。でも、彼らには初音を大事にしてもらわないと困る。わたしの特別だから。わたしの人生の半分、そして命の半分。面倒くさい女だけど、人が思うよりわたしは初音に惚れこんでいる。だから初音が大事にされないとわたしが黙ってない。ちょっと重いけど、要はそういうことだ。
「でも、嫌だったら食事の段で断ってあげた方がいいんじゃないかと俺は思うんだけど」
「そしたら初音が妬いてくれないじゃないですか」
「……いや、もう、隣に男が座るだけで物凄い怖い顔になっとるけ、それは心配せんでも……」
「普段からこんな顔されたらわたしどうなるんだろう」
「おーい、神瀬さん?」
遠慮がちな西大寺さんの声はわたしの耳には届かなかった。代わりにほんまにあほじゃわ、という初音の甘ったるい声がして、酔い始めてるなあと思った。特別甘い声音はもっと酔わせてから聴かなくてはならない。甘くて強いお酒を探すべく、わたしは初音に凭れながらメニュー表を繰った。煙草の匂いがする。わたしのなかにゆらり、と欲望が灯るのを見越しているようだった。本当に、いい加減にしろ、この悪い女め。
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