かごめかごめ

逢雲千生

かごめかごめ


 かーごめかーごめ、かーごのなかのとりは、いついつでやる。


 どこからか声が聞こえた。

 子供の声だ。

 不思議に思って周りを見回すと、近くの公園で子供達が遊んでいるのが見えた。


「懐かしいなあ」

 思わず目を細めて見てしまい、犬の散歩をしていた女性に白い目で見られてしまった。

 慌てて視線をそらすが、女性は厳しい目つきで俺を見ている。

 彼女はしばらくゆっくりと歩いて俺を睨みつけていたが、害は無いとわかったのか、すぐにどこかへ行ってしまった。


 久しぶりに戻った地元はずいぶん変わっていて、かつて馬鹿騒ぎした仲間達は家庭を持っていた。

 知らない民家が増えていたり、いつも行っていた駄菓子屋が無くなっていたりしていて、時間の流れを嫌でも感じたりした。

 過ぎた時間を懐かしむ年齢になったんだなとしみじみするが、残念ながら、そこまで年を取ってはいない。

 大学を卒業して三ヶ月の、まだまだ若い二十代前半だ。


 夢のために上京し、勉強だけに集中した大学を苦労なく卒業することはできた。

 しかし卒業間近の四ヶ月前に、親しくしていた教授から留学の話をいただき、家族を説得して返事をする事ができたのはつい二ヶ月前だ。


 かなり厳しいタイミングでの返答だったが、教授が話をつけてくれていたのか、九月の入学式に間に合うように来てくれとすぐに連絡を受け、しばしの別れを惜しむために帰省する事にしたのだ。


 俺が留学するのはアメリカの某大学で、そこの大学院で学ばないかと誘いを受けた。

 急な誘いで慌てたが、渡米するまで時間があり、向こうに行ってしまえばいつ帰って来られるかわからない。


 数年になるか、それとも十年になるか。

 もしかするとあちらで仕事に就けるかもしれないので、そうなればもっとかかるかもしれない。


 海外など初めてなので、どうすればいいのかわからなかったが、今は日本語ができる人も少なくないらしく、英語がある程度できれば通じる場合も多いらしい。

 特に学生であれば、日本でいう敬語にあたる言葉も少なくて済むらしく、学校の職員への態度さえ間違えなければ大丈夫だと、渡米経験のある大学の先輩に言われた。


 アメリカに行けば、最低でも一年は帰ってこられないと教授に言われ、少し不安になった。

 向こうで問題を起こしたり、一定の成績を保てなければ在学も難しくなるそうなので、なおさら心配になった。

 できれば中退はしたくないと、自分を励ます意味も込めて、出発前の大事な時期に故郷へと帰ってきたのだ。


 家族は寂しさと嬉しさの混ざった顔で迎えてくれた。

 大学に進学してからは一度も帰ってこなかったので、四年ぶりだったが、両親も弟妹達も変わらない態度で接してくれたのが嬉しかった。


 けれど、事情を知ったかつての仲間達は、しばしの別れに泣いていた。

 急な留学に驚いていたが、それ以上にまたしばらく会えなくなるのが辛いと言い、大の大人が目を潤ませていたくらいだ。

 それを複雑な目で見てしまったが、昔と変わらない情の厚さに俺も少しだけ泣いた。


 出発まで時間はある。

 向こうでは学生寮に一年間は入らなければならないため、住む場所は困らない。

 市民権は無いので、アルバイトをするための就労ビザを取り、学生用のビザも取ってしまえば一定期間は大丈夫だ。

 大学時代に貯めたアルバイトの金もあるので、向こうの生活に慣れて、卒業まで何も無ければどうにかなりそうだった。


 かつての仲間達も、馬鹿ばかりやっていた俺を見捨てなかった友人達も、今は就職してそれぞれの生活がある。

 なかには実家の仕事を継いだ奴もいて、最初は誰だかわからないほど生き生きしていたくらいだ。

 嫁さんと子供に囲まれて、幸せそうな笑顔を写真で撮りまくっている奴もいたし、職場で仲間達と仕事に励むのが楽しいと言っている奴もいた。

 みんなから何年も遅れて就職することになるだろう俺は、そんな彼らが少しだけ羨ましかった。

 

 アメリカの大学院に行ってまで続けたいのは、研究ではなく勉強の方だった。

 昔から民俗学という分野に興味があって、学びたい教授がいる東京の大学に入るため、これまでの生活を改めて必死で勉強した。

 家族には無理だと言われ、親戚達からは後ろ指をさされたけれど、晴れて合格すると態度は変わった。

 地元を離れることになるので、弟妹達は大泣きだったけれど、両親は「お前のやりたいようにやれ」と泣きながら見送ってくれて、東京行きの電車の中で少し泣いたのは俺だけの秘密だ。

 

 それからは本当に楽しかった。

 やりことをやって、ずっと師事したかった教授に目を掛けてもらって、新しい友達も出来た。

 たまに、過去を知った奴らから責められることもあったけれど、それは自業自得だと受け入れられた。

 唯一、一人暮らしで炊事洗濯に苦労したくらいだが、慣れてしまえばなんてことはなかった。

 

 そして掴んだ留学の道。

 もちろん、逃す気はさらさら無い。

 

 

 

 アメリカに行く日まで、様子の変わった故郷を思う存分見て回る。

 数年前には無かった建物が増えたり、逆に有ったものが無かったりと、時間の流れを初めて実感した。

 

 馬鹿をやっていた頃に利用していた廃墟も壊され、今はマンションが建っている。

 仲間達とバイクで飛ばした直線道路は変わらなかったが、何も無かった周囲には住宅地があった。

 何度もお世話になった駐在さんは交代していて、かつて笑顔で挨拶してくれたおじさんの代わりに、妙に熱心そうな若い人が俺を見て笑顔をくれた。

 

 変わっていないようで変わった街。

 俺の青春を受け止めた場所は、今はもう違う場所に変わっている。

 小さかった弟妹達は成長し、あれほど大きかった両親は少しだけ小さくなっている。

 家を離れた数年で、人も場所もこんなに変わるのかと、中学時代に通っていた川沿いの道を歩きながら思った。

 

 かーごめかーごめ……

 

 遠くから歌声が聞こえる。

 土手の下にある広場では、小学生くらいの子供が輪を作り、一人を囲んで歌っていた。

 

 彼らが歌っている『かごめかごめ』は、昔からある童謡だ。

 一人を囲んで、数人がその子の周りをグルグルと回り、歌が終わった時に後ろにいる子を当てるというゲームでもある。

 俺も小さい頃に遊んだことがあるし、今朝通った公園でも、幼稚園児くらいの子達が輪を作り、散歩に連れてきた先生達と一緒に歌っていた。

 

 懐かしいと思いながら口ずさむと、前から女の子が走ってきた。

 水色のワンピースを着たその子は、俺と目が合うと笑った。

 

「……あれ?」

 何かが脳裏をよぎった。 

 女の子は笑いながら俺の横を通り過ぎると、『かごめかごめ』を歌いながら走って行った。

 

 気のせいだろうか、あの子に見覚えがある。

 笑った口元が、誰かに似ていた。

 

 家に帰ると、パートに行く母親が玄関にいた。

「ああ、ちょうど良かった。お母さん、これからパートだから、のことよろしくね」

「ああ、いってらっしゃい」

 昼前から夕方までパートに行く母親を見送ると、リビングから顔を出した妹がにんまり笑った。 

「お帰り~~。ねえ、お土産は?」

「ほらよ。アイスは昼飯の後だからな」

「わかってるって~~」

 上機嫌の妹に買い物袋を渡すと、自分が頼んだお菓子をテーブルに広げ、アイスだけは冷凍庫に入れた。

 散歩がてら頼まれた買い物だったが、久しぶりに行った地元のスーパーは、思った以上に楽しかった。

 昔と違って品数も増えていたし、チェーン店がいくつも入っていて、今度ゆっくり回ってみようと思いながら通り過ぎたくらいだ。

 部屋着に着替えてリビングに行くと、ちょうどお昼を回った時間だったので、学校の記念日だか何かで休みの美結と二人、母親の作り置きを温めて昼食をとった。

 

「そういえば、お兄ちゃんはしなさんと同級生だったよね」

「信田……誰だ、そいつ」

「もう、しなきょうさんだよ。私の担任の先生で、お兄ちゃんと同い年なんだけど」

 

 教子。

 その名前を聞いて思い出した。

「……教子先生か」

「なーんだ、知ってたんじゃん」

 

 当たり前だ。

 彼女とは中学時代の三年間、一緒のクラスで学んでいたのだから。

 妹にしてみれば、俺が彼女を先生と呼んだことで教師だという事を知っていたと思っているらしいが、教師になっていた事など初耳だった。

 ただ、昔のあだ名が『教子先生』だったというだけだ。

 

 名前の通り、彼女は教師になるのが夢で、いつか中学校の先生になると言っていたのを覚えている。

 自分の祖母が学校の先生だったらしく、憧れなのだとも言っていた。

 高校に上がると疎遠になったが、地元で馬鹿をやっていた俺に何度も会いに来て、いつも更生させようと頑張っていた。

 それを突っぱねて馬鹿をやっていたのに、あいつは中学時代の友達まで連れてきて、どうにかしようとしてくれていたのだ。

 

 民俗学を学ぼうとしたのも彼女がきっかけだった。

 昔から、民話や伝説が好きだったと誰かに聞いた彼女が、自腹でそういった本を買ってきては部屋に置いていったからだ。

 

 はじめは捨てていたが、暇つぶしにと一冊に目を通してから、俺は大学に行って民俗学を学びたいとまで思うようになれた。

 高校卒業まで彼女は会いに来てくれていたのに、大学に入ってからは、また疎遠になってしまっていた恩人だったのだ。

 

「教子先生がね、お兄ちゃんのこと知ってるって言ってたから、今帰ってきてるよって教えてあげたの。そしたら、なんか嬉しそうに良かったって言ってたよ」

「……そうか」

 

 教子先生は、大学で知り合った男と結婚し、大学在学中に二児の母親になっていた。

 出産と育児で大変だが、旦那と家族の協力で教員免許を取ると、夢だった教師になったのだという。

 

 念願叶って地元の中学に配属が決まり、偶然にも俺の妹の担任になったというのだ。

 入学式に撮るクラスごとの写真には、面影を残した彼女が微笑んでいた。

 国語の先生になったという彼女は評判が良く、生徒達からとても慕われているという。

 妹も彼女が大好きで、聞いてもいないのに、学校での話を延々と聞かされた。

 

 川沿いの道であった女の子は、彼女の子供なのだろうか。

 昼食後にふと思い出したが、年齢が合わないことに気がついた。

 俺も彼女も二十代半ばで、彼女が大学在学中に子供を産んだとしても計算が合わない。

 それこそ、高校時代に産んでいなければ無理な話だ。

 

 いくら荒れていたとはいえ、女子供には手を出さない、盗みはしない、人を傷つけないを仲間達と一緒に守りつつ、毎晩バイクで走りまくっていた時期がある。

 あの頃は両親にも学校の先生達からも呆れられていたが、教子だけは俺に会いに来ては説教じみた話をしていた。

 俺のところに来ていたあの頃にできたのだろうか。

 

 しかし、あの頃は毎日俺に会いに来ていて、彼氏ができたとは聞いたことがなかった。

 もしもあの女の子が町内に住む子供ならば、彼女の親戚の子供だという可能性だってある。

 荒れていた時代に支えてくれた彼女だからこそ、忘れられなかったという事もあるだろう。

 妹に見せられた集合写真をテーブルに置くと、スマホに入っていた飲み会の連絡に「行く」と返事をし、夕方まで寝ることに決めた。

 消えてくれない不安を消すように、俺は布団をかぶって目をつぶった。

 

 

 

 起きると集合時間まで間もなかった。

 慌てて指定された飲み屋まで走ったが、どうやら仕事で遅れた奴もいるらしく、俺と同じ頃に息を切らして汗を流す奴らが何人も駆け込んできたため、店内は一時的に俺達に注目していた。

 

 たいした理由でもないのに、不思議そうな目で見られた俺はテーブルにつくなり、メニューで顔を隠してしまったが、他の奴らは慣れているのか気にしていない。

 あれほど注目していた店員も客も、何もないとわかるとすぐに視線を仲間内へと戻していた。

 都会では注目されるのは気まずかったが、ここまであっさりだと気にする気も失せる。

 全員が揃ったところで、気を取り直して注文するために店員さんを呼んだ。

 

 飲み会と言っても、男だけになると居酒屋でも充分だ。

 ビールに焼き鳥、枝豆に揚げ物だけが載ったテーブルを囲み、馬鹿をやっていた頃の仲間と楽しく飲むだけでいいのだから。

 酒が入るとみんな笑顔になり、話が盛り上がってきたところで俺は教子の話をし始めた。

 

「そういえば、教子先生が本当の先生になったんだってな」

 

 教子については仲間達もよく知っている。

 毎日俺に会いに来ていたので、仲間内ではお節介女と呼ばれていたくらいだ。

 久しぶりに彼女を思い出したことで機嫌が良くなり、酒の席で思い出話でもと話を振ったが、仲間達のノリは悪い。

 全員が顔を見合わせて気まずそうにしていて、俺を見てはすぐに視線をそらす。

「なんだよ、何かあんのか?」

 昔のノリでそう言うと、後輩が肩をびくつかせた。

 

 おいおい、なんだよこれ。

 あれほど盛り上がっていた空気が冷め、あっという間に誰もしゃべらなくなった。

 何かまずいことでも言ったのかと思うが、俺は教子のことしか話していない。

「おいおい。もしかして、この年で教子先生に怒られたのか? お前らもまだまだガキだな」

 笑いを取ろうとそう言うが、誰も返事をしない。

 

 冷たかったビールも温くなるほど沈黙が続くと、耐えられないとばかりに、後輩が「帰ります」と席を立った。

 続くように、次々とみんなが席を立ち、残されたのは俺としょうだけだ。

 正次は俺のストッパーみたいな役割で、昔から一人だけ冷静な男だ。

 なのに、その正次の顔色はひどかった。

 色が落ちたのかと言うほど白い顔で、ジョッキを握る手も肩も震えている。

 さすがに、これは何かあったと思った。

  

「正次。俺とお前はダチだ。昔からお前は俺についてきてくれたし、俺もお前を頼ってきた。何かあったなら、俺に話してくれよ」

 正次は唇を噛む。

 言いたいだろうに言えない様子がもどかしく、席を移動して隣に座ると、顔を寄せて「俺にだけ聞こえるように話してくれ」と言うと、彼は我慢できなかったのか、体を小さくして話し出した。

 

「俺らはよう、馬鹿はやるけど、犯罪は犯さねえって約束したよな。俺もそれを守ってたんだよ。母ちゃんに怒られても、父ちゃんに殴られても、お前と一緒なら怖くねえって、そう思ってやってきたんだよ。だけどなあ、俺には止められなかったんだ」

「何がだ? 盗みでもやったのか?」

「いいや、違う」

「それならガラスでも割りに行ったのか?」

「そんなんじゃねえ、もっと恐ろしい事だ」

 ますます小さくなる正次の姿を見て、俺は嫌な想像をしてしまった。

 まさか、と思いつつ、「まさか、女に手を出したのか?」と聞くと、正次はいっそう震えてうなずいた。

 

 瞬間、昼間の女の子を思い出した。

 そんなはずはない、だってあいつは、そんなわけがないじゃないか。

 

「お前んとこに教子が来てから、あいつらの目の色が変わったんだ。はじめはお前の女だと思ってたみたいで、手を出そうなんて考えてなかったみてえだが、お前が拒絶し続けていると、あいつらの目が本気になったんだ。俺は止めたよ。だけど一人じゃどうにもならなくて、もう手遅れだったんだ」

 

 高校二年の初夏だったという。

 一年の冬頃から来ていた教子に、俺は毎日ひどい言葉をかけていた。

 本気じゃないと彼女はわかっていたのだろう。

 あの日も俺に会いに来て、ひどいことを言われながらも笑って帰って行った。

 その帰り道だ。

 あいつは俺の仲間達に襲われ、必死に抵抗したけれどダメだった。

 正次は気づいて駆けつけたけれど手遅れで、俺に言えない秘密を共有することになってしまったのだと言った。

 

 しかしそれで話は終わらず、彼女は妊娠した。

 当然親に言えないまま、仲間達にだけそう伝えると、彼女は大きくなる腹を抱えて二年生を終えた。

 誤魔化し切れたのも、俺に構っていたからだと言われ、出席日数ギリギリまで学校に通った後、正次達の手を借りてどうにか出産したらしい。

 出産費用は正次達がどうにか捻出し、彼女もお小遣いを貯めて足りない分を補ったようだが、生まれた子供をどうするかまでは考えていなかったようだ。

 悩みに悩んだあげく、教子が信頼している従姉妹に相談したところ、養子に出すと良いと提案された。

 それについても悩んだようだが、一人で育てることも出来ず、彼女は泣きながら養子に出したというのだ。

 

 知らなかったこととはいえ、衝撃は大きい。

 毎日会っていたのに気づかなかった自分と、何も言わなかった彼女に腹が立った。

 しかし何より腹を立てたのは、自分達の罪を隠し続けた仲間達の態度だ。

 あいつらは教子にひどいことをしておきながら、俺に隠して罪を償おうともしなかった。

 彼女だけ泣かせて、自分達は幸せな家庭を築いて笑っているのだ。

 店で怒鳴る気にはなれず、泣き出した正次に万札を叩きつけて店を出ると、昼間通った川沿いの道へと向かった。

 

 昼間見たあの子は、もしかするとその時の子供なのかもしれない。

 養子に出したと言っていたが、国内であれば出会う可能性は充分にあるのだ。

 偶然にしても、なんてタイミングなんだと土手に腰掛けて頭を抱えた。

 

 教子は結婚し、二児の母親になっている。

 旦那は良い人らしく、時々話に出て来ると美結は言っていた。

 

 ならばなぜ、わざわざこの町に戻ってきたんだ?

 ひどい目に遭って、そいつらの子供と出会う可能性だってあるのに。

 下手すれば過去がバレる可能性だってある。

 どうして、そんな場所にわざわざ戻ってきたりしたんだ?

 

 頭を抱えて考え込むうちに、酔いはすっかり醒めた。

 頭を掻きながら教子のことを考えていると、歌が聞こえてきた。

 昼間も聞いた『かごめかごめ』だ。

 

 顔を上げて周りを見るが誰もいない。

 こんな時間に、いったい誰が歌っているんだと考えると、背筋が寒くなった。

 土手に這いつくばるように身をかがめると、声の主が遠くから現れた。

 教子だ。

 身長も体型もほとんど変わっていないように見えるが、髪は短くなり、顔には薄い化粧がしてある。

 帰る途中らしい彼女は、教師にしてはラフな格好で、歌を歌いながら上機嫌に笑っている。

 

 声を掛けようかと思った。

 けれど掛けられなかった。

 彼女を見た瞬間、背筋が凍るほどの恐怖に襲われたからだ。

 

 俺の上を通っていく彼女に気づかれぬよう、息を殺して彼女を見送る。

 低いヒールの音が遠ざかるのを聞きながら、俺は息を吐いて土手に座り直した。

 

 汗が額ににじみ、心臓が嫌な高鳴りを響かせている。

 どうして彼女が怖いと思ったのかはわからない。

 だが、あそこで会ってはいけないと、何かが危険を知らせてきたのだ。

 

 彼女が見えなくなると、会わないよう遠回りをして家に帰った。

 遅いと怒る父親に謝って風呂に入ると、緊張が一気に抜けていった。

 

 教子の妊娠と仲間達の裏切り。

 今頃になって知った事実は、思った以上に俺を悩ませた。

 風呂に潜ってもすっきりせず、そのまま上がって部屋へ戻る。

 とりあえず、もう一度正次に話を聞こうとスマホを取ると、タイミング良くあいつから着信が入っていた。

 すぐにかけ直すと、正次は震える声で俺に謝った。

 

『ごめんな、ずっと黙ってて。みんな怖かったんだよ。お前がキレるのも、周りから責められるのも。でもさ、今はみんな家庭を持ってるから、なおさら怖いんだと思う。だからお前にだけは本当のこと言うよ』

「なんだよ、本当の事って。あれ以外に何かあんのか?」

 煮え切らない態度の正次にいらついてくる。

 嫌な話を聞いたっていうのに、まだあるのかとうんざりしていたが、奴は震える声で言った。

 

『あの女、異常だよ。妊娠した時も今も、怖すぎて駄目だ』

「は? 何言ってんだよ」

『だってあいつ、俺達を』

 

 チャイムが鳴った。

 母親が返事をした声と音が重なって、正次の話が聞こえなかった。

 

「は? 何だって?」

 聞き返すと、正次は焦った声で『だから、ヤバいんだって』と言う。

 下で母親が誰かと親しげに話していて、急に父親まで出て来て騒ぎ始めた。

 美結のはしゃぐ声の後で、弟達の驚く声が聞こえ、それが聞こえたらしい正次が声を震わせた。

 

『……いいか、何があっても否定しろよ。俺もすぐに行くから、な?』

「はあ? ったく、何だってんだよ」

 一方的な電話にキレかけるが、下から両親の怒鳴るような呼び声に返事をして部屋を出る。

 下では妹と弟が大騒ぎしていて、二階を見上げていた美結の顔色が悪かった。

 

 一階に下りると、両親が俺を睨んでいる。

 他の弟妹達も信じられないといった目で俺を見ていて、玄関には人が立っていた。

 その人を見た時、俺は震え上がった。

 

「久しぶりだね」

 優しい笑みを浮かべた彼女は、子供の手を軽く引くと、俺を指さしていった。

「ほら、あなたのお父さんよ」

 昼間会った女の子は、俺を見て「お父さん」と笑う。

 両親は「どういうことか説明しなさい!」と怒るが、俺に説明できるわけがない。

 彼女と関係を持ったこともなければ、恋人になった事だってない。

 妊娠についても数時間前に聞いただけで、俺の方が説明してもらいたいくらいだ。

「お兄ちゃん最低! 先生に何してんのよ!」

 美結に叩かれて、弟妹達からも非難されたが、それに答えられるわけがなかった。

 

 呆然と立つ俺に、彼女は何か言っていたが覚えていない。

 近所に住む正次が来てくれるまで家族全員から責められた俺は、俺の子供だと言う女の子の笑顔を見ていることしか出来なかった。

 

 正次が来てくれたことで、どうにかその場は落ち着いた。

 まだ騒いでいる美結達を部屋に帰し、泊まるという正次を部屋に連れて行くと、そこで教子の異常さを知った。

 彼女は妊娠がわかった後、正次達にこう言ったというのだ。

 

『あなた達、彼にバレたくないでしょ? そりゃあそうよね。だって、私にこんなことしたなんてバレたら、殺されるかもしれないもの。世間からだって爪弾きにされるし、この町にはいられなくなるものね。だからね、協力して。この子のことは誰にも言わないわ。だってこの子は彼との子供だもの。彼が私を見てくれるように、協力してね』

 

 震える正次の口から、初めて知った教子の本性。

 彼女は俺に気が合ったらしく、俺と関係を持つために会いに来ていたらしいのだ。

 しかし俺にも倫理観はあるし、しちゃいけないことくらいはわかっていた。

 俺になら何されてもいいと言っていた彼女は、俺ではなく仲間達にひどい目に遭わされたのだ。

 それを責めるかと思いきや、俺が手を出さないと知るやいなや、正次達を脅して、子供を利用することに決めたらしい。

 しかし、味方になってくれると思っていた従姉妹はまともな人で、彼女の作戦を聞くとすぐに養子先を探した。

 教子の従姉妹は無理矢理な形で子供を養子に出すと、俺に何も言わないことを条件に、正次達のしでかした事を不問にしたらしいのだ。

 

 教子の異常さなど気づきもしなかった。

 ただのお節介な奴とだけ思っていたので、正次の話をすぐには信じられない。

 だが、他人の子供を俺の子供と偽って押しかけた姿は恐ろしかった。

 あれを狂気というのか、目が普通ではなかったのだ。

 

 何が何だかよくわからないが、このままでは駄目だと感じ、急いで大学時代の仲間に連絡を入れた。

 来週から出発まで同居させてくれと言うと、条件付きで快諾してもらえた。

 教子の件については、明日両親と話し合って、正次達にも説明してもらうことになった。

 

 散々な目にあった後、俺は正次と布団を並べた。

 いくら幼なじみでも、男同士が並んで眠るのは奇妙だ。

 教子の件で眠れず、横で寝返りを打つ正次に話しかけてみた。

「なあ、起きてるか?」

「……うん」

 正次も眠れないらしく、こちらを見て向き合った。

 疲れた顔をした正次を見て、俺は怒りより困惑した気持ちを誤魔化すように話し始めた。

 

「……教子がしつこかったのはさ、てっきり姉みたいな気持ちからだと思ってたんだよ。あいつとは小学校から一緒だったし、大人びてたから、なおさらそう思ってたんだと思う。好かれてたなんて気づかなかったし、気づいたところで、付き合えなかったんだけどな」

「……だろうな。俺となら普通に話せてたのに、お前、女とか初対面の奴にはびくついてたもんな」

「おい、今それを言うのかよ」

 

 何年も会っていなかったのに、正次は昔通りだった。

 正次だけは結婚していなくて、恋人と別れたと泣いていたくらい女に縁が無く、俺と一緒だなと笑い合ったのはつい最近の話だ。

 アメリカに行くと伝えた時、誰よりも喜んで、誰よりも別れを悲しんでくれたのは彼だった。

 家族を起こさないように小声で笑い合っていると、ふとあの歌を思い出した。

 

「なあ、正次。今この町では、『かごめかごめ』が流行ってんのか?」

 

 ずっと昔なら気にならなかったが、ゲームでもネットでも、子供の遊びは家の中でやれる。

 そんな時代に外で遊ぶ子供がたくさんいる事に驚いていて、思わず聞いてしまった。

 

 正次は笑顔のまま口を閉じた。

 何か言いたげな顔で俺をじっと見つめ、「後ろを向いてくれないか」と言ってきた。

 恥ずかしい事でもあるのかと思いながら寝返りを打つと、彼に背中を向けて話を聞くことにした。

 

「あの歌はな。お前が家を出てから流行ったんだよ。小学校で昔の遊びについてやってるらしくて、いつの間にか真似する奴が出て来て、今じゃ大人も子供も歌ってるんだ」

 衣擦れがして、彼が動いたとわかった。

「あの歌を聴いてるとさ、昔を思い出すんだ。お前と一緒に馬鹿やって、毎日が楽しかったことをな」

 体を起こす音が聞こえ、彼の声が耳元に寄ってくる。

「お前は本当に鈍いよな。教子が好きだってアピールしても、周囲で何をやっても、全然気づかねえんだもん」

 彼の声が耳元で聞こえ、息づかいと一緒に、彼の息が耳にかかる。

「特に、恋愛に関しては駄目だよな。あんなに思われてんのに、一切興味を示さなかったんだもの。笑っちゃったよ」

 正次の手が俺の腕に触れ、ゆっくりと上になで上げてきた。

 言い知れぬ恐怖が背中に走る。

 震える俺に気づいているだろう正次は、嬉しそうに笑って顔を近づけた。

 

「だからさ、“私”は嬉しかったんだ」

 

 粘つくような声が頭に響いた。

 

「やっぱり、あなたは私の物だってわかったんだもの」

 

 体が震え、歯がカタカタと音を立てる。

 大の男がみっともないと父親は怒るだろうが、今はそんな事考えている場合じゃない。

 彼の手は腕を這い、ゆっくりと肩に触れて、肩の角張った丸みを撫でると、首元へ移動した。

 

 その手はどう考えても、友達に対する触れ方ではなかった。

 震える俺の耳元で、正次であるはずの誰かはゆっくりと囁く。

 

「ねえ、『かごめかごめ』の意味には、臨月の妊婦を気に入らなかった姑が、その人を階段から突き落として胎児ごと殺したって意味と、罪人を閉じ込める柵と処刑場の柵を表していて、処刑される罪人って意味もあるんだって。他にもいろいろあるみたいだけれど、私はこう考えたの」

 

 正次の手が首元を撫でる。

 震える体を抱えるようにうずくまると、彼は、いや、“彼女”は笑った。

 

「柵の中に閉じ込めたいほど好きな人がいて、その人を捕まえるための歌なんじゃないのかな、ってね」

 

 

 

 かーごめかーごめ、かーごのなかのとりは、いついつでやる、よーあーけのばーんに、つるとかめがすべった……




 頭の中で歌が聞こえる。

 誰が歌っているんだと思ったが、今度こそ耳元で聞こえた歌声は、最後の言葉を歌う前に途切れた。

 正次ではない誰かが笑う。

 

「正次君には、私が言ってあげたのよ。あなた達みたいな不良が、あんな良い人に認めてもらえるわけないでしょってね。彼は優しいから、リーダーとしての責任感から一緒にいてくれるのよってもね。うふふ、あの人達もこの人も馬鹿よねえ。私の嘘を信じて、言い訳できない形で襲ってくれるんだもん。子供が出来たらどっちも自滅するかと思ったのに、そこだけは予定外だったんだけれどね」

 

 顔を見なくても、今の正次がどんな顔をしているのかわかった。

 きっと教子と同じ顔だ。

 自分の子供を養子先から連れてきて、帰ってきた俺をつなぎ止めるために姿を現した彼女と同じ顔のはずだ。

 

 初めて知った幼なじみの生々しい顔。

 震えたまま振り返ると、彼女は嬉しそうに笑って言った。

 

「やっと捕まえたわ。これでもう、あなたは私の物よ」

 

 ゆっくりと覆い被さるのは教子。

 隣で寝ていたはずの正次は姿を消していて、俺の胸元に愛おしそうに頬ずりする教子がそうかと思ったが、感触は女性そのものだ。

 正次はガタイがいい方だから、こんなに柔らかくは感じない。

 ゆっくりと長い髪を引きずりながら上がってくる頭は俺の首元で止まり、クスリと笑う教子の声がしたかと思ったら、腕をつかむ手に力がこもった。

 首元に感じた熱と共に聞こえたのは、子供のように笑う狂気の声。

 助けを呼べないまま見上げた天井は暗く、一度体を起こした教子によって遮られ、視界いっぱいに学生時代の彼女がいた。

 

 これは夢だ。

 教子はそんな奴じゃない。

 冗談だと言いそうな懐かしい面立ちの顔に微笑むと、教子は嬉しそうに笑って言った。

「『後ろの正面』」

 

 だあれ――?

 

 最後の一言を聞いてはいけない。

 そう思った俺は、ありったけの力で教子を突き飛ばし、家族のことなど忘れて階段を駆け下りた。

 起きていたのか美結が「うるさい!」と叫んだが、そんな声すら気にならないほど気持ちが滅茶苦茶だった。

 

 彼女は俺に何をしようとしていたんだ?

 片腕を掴んで震えを止めようとしたがうまくいかない。

 腕を掴み直してみるが、もう自分が何で震えているのかすら分からなかった。

 必死で走り、もう限界だと思っても足は動き続けた。

 

 気がつけば、あの川沿いの道に着いた。

 土手のある場所まで来ると、もうこれ以上は走れないと思い、やっとのことで足を止めることが出来たのだった。

 

 息を整えようと膝に手を置く。

 前屈みになって深呼吸すると、少しずつだが呼吸が落ち着いてきた。

 どこかに逃げ込みたいと思って土手を駆け下りると、倒れ込むように横になった。

 

『やっと捕まえたわ』

 

 教子の声が頭に響く。

 悲鳴を上げて頭を振るが消えてくれない。

 あいつの息も、首筋に感じた熱も、生々しく残っている。

 夢だと思いたいのに夢じゃない。

「……なんだってんだよ、ちくしょう」

 

 姉だと、友達だと、ただの幼なじみだと思っていた。

 なのに、あれは誰だ?

 教子の知らない一面を知って驚いたというよりも、得体の知れない何かに見えたのだ。

 

 まるで化け物のようだった。

 ……そうだ、化け物だ。

 自分の子供を連れて来た教子は、まさに化け物みたいな目をしていたのだ。

 

 ならばあいつは、なんで俺を好きだと言っていたんだ?

 正次を騙して、仲間達をけしかけて、お互いを破滅させるために仕組んだ罠が上手くいかなかったから、だから今度は俺を標的にしたのか?

 どうして?

 

 俺にとって正次は親友だ。

 仲間達だって友達であり仲間でしかない。

 けれど、教子は友人であり姉のような人だ。

 

 みんなはそれぞれ新しい生活をしていて、俺はこれからアメリカへ行く。

 何年も帰っては来ないだろう。

 俺にも夢が出来たし、やりたい事だって見つかった。

 昔の教子ならそれを応援してくれたし、正次達だって喜んでくれていたじゃないか。

 

 土手の草に顔をうずめて、土をかきむしる。

 何がどうなっているんだよ。俺が何をしたっていうんだ。

 爪に土が入ってもなお、土手をかきむしり続け、裏切られた気持ちで彼女達を罵倒した。

 誰に聞かれてもいいとヤケになりながら、ひたすら彼女達に対して怒り続けた。

 どれだけ怒っても怒り足りなかったが、ある程度叫んで気持ちが落ち着いたので、ゆっくりと仰向けになった。

 

 空には星が出ている。

 俺の気持ちとは裏腹に、澄み切った空がどこまでも続いている。

 家には帰りたくない。いや、帰れないだろう。

 俺が見たのは教子だが、もしかするとあれは正次でもあったのだろうか。

 

 幽霊だとかお化けだとかに詳しいわけではないが、もし同一人物であったのならば、正次であって正次ではなく、教子であって教子ではなかったのかもしれない。

 あの状態では彼、いや彼女が家族に何を言っているかわからないし、仲間達のしでかした事を考えるとあいつらも頼れない。

 財布もスマホも忘れて来たので、宿泊施設を利用することもできなかった。

 

 このままここで一夜を過ごすしかないか。

 諦めた気持ちで土手に寝転がると、気がつかなかった草の香りが広がった。

 土をかきむしったからか、土臭い匂いまで立ち上ってきて、慣れない香りに嫌な気持ちになる。

 それでも一晩の我慢だと目をつぶると、どこからか歌が聞こえて来た。

 

 かーごーめかーごめ、かーごのなかのとりは……。

 

 近い。すぐにそう思った。

 目を閉じているからか、声がどこから聞こえてくるのかがわかり、背筋が凍った。

 

 誰かがいる。

 俺の顔を真上から覗き込むように、俺の顔に向かって歌っている誰かがいる。

 頭の上にはその人の足があるのもわかり、くの字に体を折り曲げて歌っているのが何となくだがわかったのだ。

 

 いーついーつでーやーる……。

 

 子供の足なのに、なぜか大人がいる気がする。

 ゆっくりと声が近づいて来て、顔に髪の毛のような感触を抱いた。

「っ」

 飛び出しかけた悲鳴を飲み込んでこらえる。

 声が近づいてきて、長い髪の毛が頬を滑り降りた。

 

 よーあーけのばーんに、つーるとかーめーがすーべった……。

 

 鼻に息がかかる。

 生臭い匂いが鼻いっぱいに広がり、歌の主が笑うのがわかる。

 ニンマリと嬉しそうに、嫌らしく、その人は笑った。

 

 うしろのしょうめん……。

 

 恐怖で体が震え、もう我慢は出来なかった。

 このまま最後の言葉を言わせてはいけない。

 正次の時と同じ気持ちになり、言わせるものかと目を開ける。

 真っ暗だと思ったが、すぐに視線が合った。

 

 俺を覗き込んでいたのは、教子ではない。

 追いかけてきた正次でもない。

 昼間歌っていた子供達の誰かでもない。

 知らない女だった。

 

 女は血走った目で俺を見ている。

 ボサボサの髪が顔全体を覆い隠すように垂れていて、手入れをしていないような荒れ方ではないほど荒れていた。

 

「あ……あああ……」

 鼻の横にホクロが見えた。

 そのホクロには見覚えがある。

 昼間見たあの女の子。『かごめかごめ』を歌いながら、道ですれ違った女の子だ。

 なんでこの子がここにいるのか。教子と一緒ではなかったのかと思ったが、残念ながら違っていた。

 

 この子は教子に似ていない。

 正次にも、仲間達にも似ていないのだ。

 

 じゃあ誰だ?

 

 震える唇で誰なのかと聞こうとしたが、口を開けても声は出なかった。

 女の子は嬉しそうに、嫌らしく、ヘラヘラと笑い続ける。

 声など出さず、ただただ笑うその子は、血走った目を細めて顔を上げた。

 

「あはっ、あはははっ、あははははははははっ」

 声を上げて笑い出した女の子は、体を揺らしてケラケラと笑う。

 笑って笑って笑い続けて、一瞬のうちに顔を元の位置に戻した。

 生臭い息がかかる。

 やめてくれ、と思ったが、女の子は楽しそうに口を開けた。

 

「うしろのしょうめん、だーあれぇ……?」

 

 女の子の手が俺の首にかかる。

 ゆっくりと首を絞められ、息苦しさの中で彼女が言った。

「うふふ、これでともだち、またふえた。あははははははははっ。ふふ、ふふ、ともだち、ともだち、うふふふふ」

 その声を最後に、俺は意識を失った。

 

 

 

 だが、俺は死ななかった。

 目を覚ますと人に囲まれていて、警察と救命士が俺の顔を覗き込んでいたのだ。

 

「自分の名前はわかりますか。気分は悪くないですか」

「あ……はい」

「誠に勝手ですが、あなたの携帯からご家族に連絡を入れましたので、病院の方に向かわれていると思います。あなたもこれから向かいますので、少し体を固定させていただきますね」

 

 生まれて初めて乗った救急車は、想像していたより窮屈だった。

 パトカーが先導するという変わった搬送の仕方をされ、病院では何があったのかと大勢の人に見られて恥ずかしい思いをした。

 

 唯一良かったのは体に異常がなかったということだけで、警察と救命士が一緒に行動していたのは、俺の首についた痣が原因だとわかった。

 首には人の手形が残っていたので、事件だと思った第一発見者が救急車の後で警察を呼び、駆けつけた警官達は俺に事情を聴くためについて来たらしい。

 昨夜の事はしっかりと覚えているが、同時に教子と正次の事まで思い出してしまい、話せる事だけを話した。 

 なぜあそこにいたのか、どうして土手にいたのかという事については経緯をぼかしたが、昨晩首を絞めてきた女についてはしっかりと話した。

 警察の質問が終わる頃に家族が来て、複雑そうな顔で部屋に入ってきたが、みんなの顔を見て思わず安心してしまった。

  

 しばらく続いた家族の不和は、俺の首締め事件が解決した事によって解消する事はできた。

 それでも美結は俺を許せないようで、アメリカにアメリカにつ日までずっと無視されていた。

 

 それ以外の人達については、警察や正次達の家族から聞いた話と混ざるが、おおかた真実だと思うので少し話したい。

 

 事件直後から警察が聞き込みをしたところ、教子が怪しいと思われて詳しく取り調べたのだという。

 そこで、仲間達と教子の過去がとうとうバレてしまったのだ。

 警察に連れて行かれた仲間達は、当然の事ながら正次の事も話し、教子からも正次の話が出ると、警察の矛先が彼に向かった。

 警察に主犯だと思われたらしく、元から強気になれない正次は全てを告白した。

 

 教子の狂った考え、仲間達の罪、そして正次の黙秘。

 俺にも詳細を教えてもらえるだけ教えてもらえたが、やはり正次が言った通りの内容だった。

 

 ただし、真実は少しだけ違っていたのだけれど。

 

 正次は昔から教子のことが気になっていたのだが、告白する勇気はなく、彼女を振り向かせるだけの強気もなかった。

 俺のことは親友だと思っていたが、教子に対して冷たい態度を取っているのが気に入らず、何度も教子に諦めるよう言っていたというのだ。

 しかし教子は頷かず、じれた正次は脅しの意味で仲間達と彼女を襲う真似をしたらしい。

 そこで教子が挑発的な態度を取り、逆上した仲間の数人が彼女を本当に襲ってしまい、共犯者としてこの日のことは全員の秘密になったというのだ。 

 しかし話はそれだけで終わらず、彼女はその時その場に居た誰かの子供を身籠もり、俺に知られたくなければ会うのを邪魔するなと脅し返したらしい。

 

 正次は俺に対して「すまない」と謝っていたらしいが、仲間達は我が身かわいさに罪を押し付け合っていて、警察は俺にも事情を聞きに来たりもした。

 教子は子供の父親については本当に知らないといい、今後の事も考えた上で鑑定を受けさせたところ、俺の子供でないことだけはハッキリしたらしかった。

 

 この大騒ぎで町中が噂話で盛り上がったが、反対に俺の家族達は気まずそうに俺を見る日が増えていた。

 幼なじみを捨てた男が、一転して被害者に変わったのだ。

 あれほど冷めた目で見ていた美結も、この時ばかりは泣きそうな顔で謝ってくれた。

 両親にしてみれば、不良でどうしようもなかった俺だったから、世間に顔向けできないことくらいしていただろうと昔から決め付けていたらしいのだが、今回の件で証言が集まり、俺に対する評価が百八十度変わったらしい。

 近所の人達も同じで、真実が報道されるまでは好き勝手言っていたのに、警察が俺の無罪を証言した途端に手のひらを返してきた。

 落ち着いた頃に現れた教子の旦那は、俺に対して「疑っていてすまなかった」と頭を下げてくれたが、どうやら彼も、子供の父親は俺なのではないかと不安がっていたらしいのだ。

 

「教子は出会った頃から思い込みの激しい部分があって、何度も俺達の子供をあなたの子供だと言い、私の大好きな人の子供なんだと言い聞かせていました。彼女の両親はあなたへの恋愛感情を知っていたようで、そんな話をするたびにきつく叱っていましたが、警察から話を聞いて納得してしまったんです。教子が今でもあなたを好きだということは知っていました。彼女のアルバムには、大事そうにしまわれたあなたの写真が何枚も残っていますし、上の子には『あなたのお父さんですよ』と言って、学生時代の写真を見せているところを何度も見ています。悔しく思いましたが、血のつながりがないのだから、むやみやたらに責めても仕方がないと諦めてもいたので、今回の事件で真実を知った時、どうしても謝らなければと思い、お邪魔させていただきました」

 

 教子の旦那だという人は、見るからに真面目という人だった。

 曲がったことが大嫌いで、ルールや規則に厳しそうな印象だったが、頭は見た目以上に柔らかいらしい。

 教子の変わらない恋心を知っても、俺がいるかもしれない町に引っ越してきたのは、心を入れ替えた俺と再会させることで、昔と今は違うのだということを教えるつもりだったらしいのだ。

 荒療治ともとれるやり方ではあるが、彼は彼なりに教子を大切に思っているのだろう。

 俺への強すぎる想いも、正次達との歪んだ関係も、全てを受け入れた上で俺に会いに来てくれたのだ。 

 教子を責めるわけではなく、正次達を悪く言うわけでもなく、ただひたすら彼女を大事に思っている男だったのだ。

 

 俺にとって教子は、たとえ真実を知ったとしても変わらない幼なじみだ。

 姉であり、友人であり、これからも大切な人であることに変わりはしない。

 ただ、彼女と俺の大切の意味がズレてしまっただけなのだ。

 彼女は俺を男として好きになり、俺は彼女を家族として好きになった。

 

 ただそれだけの違いだったのだ。


 後日、仲間達は教子の家族に訴えられ、正次は警察から厳重注意を受けた。

 罪に問えるのは仲間達だけで、正次はお咎めなしとなったが、教子達にした事は消えない。

 

 

 

 あれから二ヶ月。

 入学を来月に控えた俺は、一足先にアメリカに来ていた。

 学生寮の受け入れが完了してすぐに来たため、部屋の中は引っ越しの箱で散らかったままだが、あのまま日本にいる気にはなれなかった。

 

 先日、美結から連絡が入った。

 仲間達の裁判が始まった事、あの日教子が連れて来た子供のDNA鑑定の詳しい結果が出た事、そして正次が引っ越した事。

 他にも家族の近況や、教子が学校を辞めた事なども教えられたが、どれも暗い話ばかりで読む気にはなれなかった。

 こちらでの生活が忙しくなった事もあり、スマホを見ないまま何日も経ったある日の事だ。

 珍しく美結から着信があった。

 いつもはLINEで済ませるのだが、その日は彼女から何件も不在着信が入っていたのだ。

 

「どうした?」

 彼女とはまだ気まずかったが、なるべく普通に戻ろうと、以前と同じ調子で電話に出た。

『あ、お兄ちゃん。あのさ、実はね……』

 電話を切ると、もう腕を上げられなかった。

 外は暑くなっていて、窓越しにでもわかるほど熱を感じる。

 なのに、心は冷めていた。

 

『ーー正次さんね、亡くなったんだって。なんか、遺書にお兄ちゃん宛のがあったらしいんだけど、悪いと思いながらお父さんが読んだら、中には謝る言葉ばかりが書いてあったんだって……』

 

 正次が死んだ。

 引っ越し先のアパートで首を吊ったらしい。

 遺体のそばには遺書があり、警察が内容を改めたところ、俺への謝罪と教子への好意がびっしりと書かれていたという。

 

 俺を好きな教子を好きになってしまった事。教子と俺のやりとりを見て、俺の冷めた態度が許せなかったという事。仲間達が正次を見下していて、教子にした事を盾にずっと揺すっていた事など。

 ずっと口に出来なかったらしい彼の本音が、十枚以上の便箋にびっしりと書かれていたのだそうだ。

 

 親友の最初で最後の恋。

 それは甘酸っぱいものではなく、叶わないと知りつつも諦めきれない片思いだったという事。

 そしてそれは、誰も幸せになれない結末を生んでしまったという事まで書いたところで、手紙は終わっていたらしい。

 

 あれほど仲が良かったのに、彼の死を悲しいとは思えなかった。

 それがどうしてかというと、俺の中で正次達に対する気持ちが変わってしまったからだ。

 

 あいつらとつるんでいた頃は楽しかった。

 仲間達の恋愛話を聞いて一喜一憂したり、彼女ができないことを嘆いたり、とにかく感情を好きなだけさらけ出せていた。

 留学が決まり、こちらでは昔みたいなノリで接しなければいけないのかと憂鬱になっていたが、意外にもそうではなかったのだ。

 普通に騒ぐ人もいれば、静かに一人で居ることを好む奴もいるし、学校では真面目でも放課後にはクラブで踊りまくる奴だっている。

 

 恋愛だってそうだ。

 すぐにでも告白されそうな可愛い子が、好きな奴の前で健気にアピールしているのを見たりもするし、普段は大人しい子が突然豹変して、彼氏に色目を使われたと教室に乗り込んできて暴れたりもする。

 大学生になっても嫉妬はするし、喧嘩だってしている。

 なのにすぐ仲直りして、楽しそうに笑い合っているのだ。

 

 それを見ていて思った。

 

 馬鹿ばかりやっていたあの頃、俺は全然周りが見えていなかったのだとーー。

 

 俺には普通の両親に仲の良い弟妹達がいて、俺を心配してくれる友人がいて、心許せる親友がいた。

 馬鹿をやっていた仲間達も普通の家庭で育っていて、グレるような理由はなかったはずだ。

 それでもあんな馬鹿をやっていたのは、思春期特有の不思議な気持ちからだったのだろう。

 人より特別になりたいだとか、自分は普通と違うのだとか、そんな自分になりたかったのかもしれない。

 

 あの頃、俺がもう少し周りを見ていたなら、違う関係を築けていたのだろうか。

 仲良くなった学生達と一緒にいるたびにそう思う。

 

 正次の葬式はすでに終わっていて、仲間達の裁判は始まっている。

 教子は旦那の勧めでカウンセリングに通い、あの日連れてこられた子供は教子の子供になったという。

 それぞれの生活が始まり、このままそれぞれの結末に向かって進んでいくのだろう。

 そう考えると、故郷に戻った時の暖かさとは真逆の気持ちが胸を抜けていった。

 

 俺も新しい生活が始まるのに、一つだけ分からない事があった。

 あの日、あの土手で俺の首を絞めた女だ。

 不気味な笑みを浮かべ、大人とも子供とも言えない声で『かごめかごめ』を歌い切ったあの女。

 美結に頼んで調べてもらったが、結局誰だったのかは分からず、あれ以来俺の前に現れていない。

 あの土手に住む何かなのだろうと考えていたが、これ以上考え続けるのはやめた。

 

 正次は死んだ。

 仲間達は裁判中。

 教子はカウンセリングに通っている。

 そして俺は留学だ。

 

 ほんの数日で全てが変わり、混乱しているみんなに別れを告げて俺だけが逃げて来た。

 

 窓を開けて慣れない空気を吸い込むと、涙が出てくる。

 窓のさんに手をかけて下を見ると、俺に気づいた友人達が手を振ってきた。

 少しだけ躊躇いながら手を振り返すと、彼らは「早く来いよ」と英語で急かす。

 

 彼女達の事は一生忘れられないだろうが、俺には俺の生活が待っている。

 

 数回頭を振って気持ちを切り替えると、鞄を持って部屋を出る。

 鍵を閉めて振り返った時、近くで声が聞こえた。

「うふふ……」

 

 動きを止めて目を動かす。

 ゆっくりと横を見ながら、視界に入ってきた姿に目を見開くと、彼女は俺に近づいて言った。

「みーつけたぁ。うふっ、うふふふふ、あはははははははははっ」

 狂った目の女が、俺の首に手をかけた。





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かごめかごめ 逢雲千生 @houn_itsuki

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