熱い瞳のままで

シンカー・ワン

風と少年

 

 田んぼや畑を抜ける風に乗って、笛や太鼓、人々の喧騒が耳に届く。

 夕暮れ時、家路を行く足を緩め立ち止まる。

「……あぁ、今夜だったっけか」

 神社の境内で行われる、夏のお祭り。

 毎年この時期、僕は決まって思い出すことがある。


 たった一日、いや数時間一緒に過ごしただけだったけど、僕に大切なことを教えてくれたあの人を――。


 ☆     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆     

 

 当時の僕は典型的ないじめられっ子で、ガキ大将やその取り巻きたちにいいように扱われていた。

 チビでひ弱な僕は、大柄で声や態度のでかいそいつらに歯向かうことが出来なくて、いつもいつも泣いてばかり。


 からかわれたり小突かれたり、いろんなイタズラをされたり、させられることがいっぱいあった。

 大体のことはすぐに過ぎ去るからと我慢できていたけど、ある指図だけはとても受け入れられるものではなくて、必死でお願いしたのだけれど、結局やらされる羽目に。


 連中が僕に命じたのは、山の奥にある洞窟を塞いでいる大岩、それに貼られているたくさんのお札を毎日一枚ずつ剥がすことだった。


 そんな罰当たりな真似はやりたくなかった。

 けど、逆らえばぶたれたり小突かれたりするし、何より居場所がなくなる。


 小さな田舎町、子供の集まりの中で、自分のいる場所がなくなる、仲間外れにされるのは、ひとりぼっちにされるのは、とても怖い。

 その怖さを盾に、僕は罰当たりな行為を正当化していた。


 けど、やっぱりお札を剥がすのは別の怖さがあって、完全に剥がしたりはしないで、少しだけめくったり、ちょっとだけ破いたりとかで、誤魔化していた。


 ――結局はバレて、いくつかの小さな傷と一緒に、僕はとても嫌な言葉を聞く羽目になる。

 "明日の祭りまでに全部剥がさなきゃ、一生仲間外れにする"

 僕に逃げ道はなくなってしまった。



 夏祭り当日の午後、とても重たい気持ちで山へと歩いていた時、その人に出会った。


「そこの少年、良ければわたしに道を教えてくれないかな?」


 遠くから聞こえてくる祭りの準備の雑音をすり抜けて、きれいな声が僕を呼び止める。


 声の方に目を向けると、この辺りでは見たこともない大きなバイクが道の脇に止められていた。

 もたれ掛かるようにしていたのは、長袖の上着の前を開け、内側の熱気を逃そうとしている大人の女の人。


 小学生の僕より頭ひとつ以上背が高く、ドキリとするくらいに綺麗な顔が、僕を見て笑っていた。

「み、道、ですか?」

 見知らぬ女の人にドギマギしながら、僕が答えると、

「そう。行かなきゃならないところがあるのだけれども、不案内でねぇ。教えてもらえると助かる」

 バイクにもたれ掛かせていた体を起こし、僕に近づくと屈みこんで目の高さを合わせて言う。

 苦笑い気味だったけど、やっぱり綺麗な顔が目の前にあって、僕は上ずった声で答える。

「ど、どこですか? わかるとこなら教えます」

 大きく開いた胸元が目に飛び込んでくる。

 ピッタリと張り付いたТシャツが胸の膨らみを強調していた。

 顔が熱いのは、夏の暑さだけではなくて、きっと目の前の女の人のせい。


 ドキドキする僕の熱を、微笑みながら続いた女の人の言葉が一瞬で冷めさせる。


「この山の奥にあるっていう封印の岩なんだけど……君、知っているよね?」

 確信的に告げられ、息が詰まる。

 笑っていない目というのを、生まれて初めて僕は見た。



 昼なのにうっそうと暗い山の中、細い道を歩く僕。そして女の人。

「助かるよ、地元の人に案内してもらえて。ハッキリとした場所がわからなくてねぇ」

 歌うみたいな声音でそう言う女の人。

 なだらかとは言えない山道なのに、息も切らさずに歩いている。

 毎日この道を通い詰めている僕でさえ足を取られそうになるのに、足元を気にもしないでズンズンとついてくる。

「この道を行くの、慣れているようだねぇ、君は」

 なんでもない問いかけだったけど、ドキリとして、息がさらに乱れた。

「……もしかして、いつも通っているとかかい?」

 心臓が跳ね上がり、思わず足を止め振り返る。

「――図星かい? あぁ、悪い悪い、驚かせるつもりはなかったのだけどねぇ……」

 僕の顔を見た女の人は一瞬驚いてから、申し訳なさそうな顔をしてそう言い、

「なにか、問題があるようだね? 私でよければ聞こうじゃないか」

 僕に顔を近づけて、優しい眼で微笑んだ。



「なるほどね、子供社会も難儀なものだ……」

 山道から少し離れたところに並んで腰を下ろし、促されるままこれまでのことを話した僕。

 女の人はやれやれといった口調で、

「建前だらけの大人社会よりわかり易いけれど、当事者の君にはきついものがあるよねぇ……」

 言いながら僕の肩にそっと腕を回し、優しく抱きかかえてくれた。


 暑くじめじめとした山の森の中、風もないのに涼しさが僕を撫でていく。

 掛けられた優しい言葉、触れている女の人の温かさに、

「……う、ぐ、」

 堪えていたものが吹き出しそうになる。

「――いいんだよ?」

 ポンポンと、あてがわれていた手のひらに肩を叩いて促され、

「うわあぁぁぁんっ」

 僕は声を出して泣いた。

 女の人の手のひらが頭を撫でていてくれてたのを覚えている。



 ひとしきり泣いた後、僕らはまた山道を進んでいった。 

「――悪いが、君の問題に通りすがりである私は手を貸すことはできない。君の問題は君自身が解決するべきだ」

 行進を再開してから、女の人はずっと僕に話しかけていた。

「手は貸せないが、助言はできる。もっとも、それを君がどうするかは、君の自由だけれどもね」

 僕の返事は期待していないような一方的な喋りだったけれど、不思議と耳に、頭の中に入ってくる。

「ひとりぼっちにされるのは大変だよねぇ、今はまだ子供の君にはとっても厳しいだろう。――それでも私はあえて言うよ、ひとりを恐れるなと。ひとりになるのを恐れるなって」

 厳しくて冷たいような物言いだったけれど、突き放すような感じはなくて。

「大人の私が大きくなればわかるという言い方は卑怯だと思う。けど結局人はひとりになる。ひとりになってから本当に大切な相手が見つかっていくものなんだよ」

 熱量のない淡々とした口調なのに、僕の胸の奥にはジンジンと響いてきてた。

「――私も生まれのせいで長いことひとりだった。けど少しずつだけど頼れる人たちが出来てってねぇ。今は割とハッピーだったりしてる」

 自分のことを振り返ったからなのか、女の人の声音には苦笑いが混じってた。

「君に私と同じようにしろとは言えないが、そういう心構えはあっていいんじゃないかなって、大人の私は思う訳なのだよ」

 飄々とした、吹き抜ける風のような声が耳をくすぐる。

「これは私の大好きな本に書いてあった言葉でねぇ、君に送るには最適だと思うから伝えよう。――負けることは恥ではない、戦わぬことが恥なのだ」

 僕の足が止まる。

「人生と、世の理不尽と、戦おうじゃないか、少年?」

 立ち止まった僕の背に手があてがわれ、言葉とともにそっと押し出してくれた。


 僕はまた歩き出す。自分の意志で。

 見えないはずなのに、後ろで女の人が微笑んでいるのが、なんとなくわかった。



「――ここです」

 陽が傾きだした頃に、僕らは目的の場所へとたどり着いた。

 山の奥なので、かなり暗くなっていたのに、そこはなぜか薄ぼんやりと明るかった。

「ふむふむ、なるほどねぇ。……これはひどい」

 女の人は僕の前に出て、お札の張られた大岩を見つめ、少しだけ固い声で言った。

「間に合ってよかった。君のおかげだよ、少年」

「え?」

 唐突な言葉に聞き返す僕。

「君が罰当たりだと思って剥がすのをためらったから、封印はまだ守られている」

 どういう意味なのかと尋ねようとしたが、突然女の人は僕を抱きかかえ走り出し、大岩から離れる。

 一瞬だったが見間違えてなければ、大岩が揺れだしていた。

 まるで洞窟の内側から、何かが押しているみたいに。


「あの洞窟には世に好ましくないものが閉じ込められていてねぇ、岩とお札はその封印なのだよ」

 柔らかな何かに押し付けられながら、頭の上から聞こえてくる女の人の声。

「まだ保つはずのお札の効力が切れかかっているから、調べて代わりを貼って来いって言われてやって来たのが私」

 大岩前の開けたところを抜け、山道に戻る手前で女の人は僕を放す。

「理由はわかった、君のせい。そして、大惨事になるのを防げていたも君のおかげ」

 確認作業のように指さされながら言われる。

 叱られているのか褒められているのか? 複雑な気持ち。

「君におかしな気配がまとわりついていたから、気になって声をかけたのは正解だった訳だ」

 僕を守るみたいに立つ女の人。大岩から目を離さないで語る。

「もしも君が言われたままお札を剥がしていたら、ここいらはとっくに良くないものに覆いつくされて、とんでもないことになっていただろうねぇ」

 そう言ってから僕に振り向き、頭に手を置いてくしゃくしゃって撫でながら、


「君はもう立派に戦っていた。えらいぞ、少年!」

 とっても嬉しくなるような笑顔を見せてくれた。


「さぁて、ここからは私の仕事だ」

 女の人は僕に "ちょっと預かってて" と封筒を渡して、少し下がるように指示すると右腕を一振り。

 途端、地面に浅い裂け目が出来た。

 驚いて声のない僕に、

「その線からけして前に出ないように。封筒も手放しちゃいけないよ」

 少し強い声音で言ってから、

「……あと、これから起きることは口外無用でいてくれると、ありがたい、かな?」

 なぜか照れたように言う女の人に、何のことかわからないままうなずき返す僕。

 

 大岩の揺れは強くなっていて、洞窟との間に隙間が生まれていた。

 そこから、たくさん黒い何かがうごめいて抜け出そうとしている。


「数は多そうだけど、うまく形を作れないでいるか。これなら何とかできそうかな?」

 力み無くそう言いながら、女の人は大岩の方へゆっくりと足を進めていく。

「おねえさんっ」

 とっさに声をかけてしまう。

 その時はじめて、まだ名前を聞いていなかったことを思い出す。


風子ふうこ。風の子と書いて風子さんだよ。女木島めぎしま風子ふうこ

 首を傾け、肩越しに僕を見て名乗る風子さん。それから前を向きなおし、

「もひとつ名前があってねぇ――」

 右腕をすっと前に向け、中空に文字を書くみたいに指先を動かしてから、低くつぶやいた。

「――鬼身変化きしんへんげ


 豪っと突然風が吹いて、風子さんを中心にして渦を巻く。

 巻き上げられた土埃や落ち葉なんかで、風子さんの姿が見えなくなる。

 突き出していた右腕が風の渦を切り裂くと、そこに風子さんの姿はなくて。


 ――蒼い鬼が居た。


斬風鬼ざんぷうきかえで、参る」

 

 黄昏の空に似た蒼い体色と、それに似た色合いの革鎧を着こんだ銀色の三本角を持った鬼が、黒くうごめく影の群れへと飛び込んでいく。

 鬼の腕が、脚が唸るたびに風が巻き起こり、黒い影が散っていく。


 風を巻いて鬼が疾走はしる。

 踊るような身のこなしに僕は目を奪われる。

 猛々しいはずの鬼の姿、なのにとても綺麗に見えた。


 鬼に次々と消されていた黒い影たちだったけど、生き残っていたのが混ざり合い、鬼を見下ろすくらいの大きな影が生まれた。

「ふぅん、少しは知恵があるか」

 蒼い鬼・楓こと風子さんは巨体を見上げながらも、変わらぬ飄々とした口調で、それを迎え撃つ。

 振り下ろされる剛腕、その威力は砕かれた大地でわかる。

 軽々とかわしてはいるけど、あんなものを食らったら風子さんでも――。

 

「おおっと」

 ステップを踏むみたいにかわし続けていた風子さんだったが、掘り返された大地に足を取られてしまった。

 人の姿よりも少しだけたくましく感じるけど、大きな影と比べればはるかに華奢な風子さんへと、剛腕から重い一撃が振り下ろされる。

 僕は目を閉じてしまう。


「!」

 恐る恐る開いた視界に飛び込んできたのは、想像もしていなかった光景。

 大きな影がうつぶせに倒れていて、その豪腕を脇に抱えるようにして逆関節を決めている風子さんの姿。

「残念だけど、力まかせじゃ私は倒せないん、だな」

 そう言って、器用に影の腕をへし折ってしまう。

「ゥオオッオオォーッ」

 影が言葉にならない、くぐもった悲鳴を上げ、じたばたと暴れる。

 でも、鬼と化した風子さんは容赦しなかった。

「うるさい」

 のたうち回る巨影を軽々と蹴り飛ばし、大岩へと叩きつける。

「半端な異形の分際で、手間を取らさせないで欲しいものだ」

 大岩に貼られているお札の効果もあるのか、影は岩に張り付いたまま動けなくなっていた。


「さてと、とどめと参りましょうかねぇ……。風の太刀!」

 また中空に文字を書くような動きを取ると、風子さんの右腕に風がすごい勢いでまとわりだす。

 構えを取りタメを作る風子さん。

「――疾風斬しっぷうざん・真っ向両断っ、ハァ!」

 風の刃をまとって振り下ろされる右腕。

 凄まじい風の流れが影を真っ二つに切り裂く。

 爆発するように散る黒い影の巨人。

「滅っ」

 振り返って型を決める風子さんは、とってもかっこよかった。


「うん、しょと。これでいいか。……おーい、少年、こっちこっち」

 大岩を押し込んで洞窟との隙間を塞ぐと、鬼の姿のままの風子さんが振り返って僕を呼ぶ。

 越えるなと念を押されていた亀裂を飛び越え、風子さんのところに。

「封筒持ってる? じゃ中身出して」

 言われるままに僕は預かっていた封筒から中身を取り出す。


 入っていたのは真新しいお札。

「貼りなさい、君の手で」

 僕でいいのかと伺うが、風子さんは黙ってうなずくだけ。


 促されるまま、僕はお札を大岩の真ん中に貼りつける。

 一瞬お札が輝き、光が大岩を包んて、それから消えた。

「うん、お仕事完了」

 いつの間にか人の姿に戻っていた風子さんが、僕の頭に手をのせ、優しく撫でながら言った。




 夜になる前に僕たちは山を下り、出会った道端に戻っていた。

 携帯電話でどこか――たぶん調べて来いと言った人のところだろう――への連絡を終えた風子さんは、僕の前に来ると、

「君のおかげて私の仕事は大変に捗った。感謝する」

 そう言って頭を下げる。

 少しだけ青味のかかった長い髪がふさぁって広がって綺麗だった。


「お礼を言うのは僕の方です。風子さんがいなかったら……」

 どんな大ごとになっていたかと言おうとした口を、風子さんの細い指でそっと塞がれる。

「お互い、持ちつ持たれつで良しということにしようじゃないか。な、少年?」

 腰をかがめて、僕と同じ目の高さに合わせた風子さんが、悪戯っぽく笑って言う。


 ジャケットの前を閉じ、ジェットヘルを被り、バイクにまたがる風子さん。

 エンジンがかけられ、低く重たい排気音が響く。


 もう、お別れなのだ。

 それがわかっているのに、言葉が出てこない。


 何を言えばいいのか、わからなくて下を向く僕。

「――少年、忘れるでないよ、戦うことを。君は一度勝っていることを」

 かけられた風子さんの言葉に、僕は顔を上げる。

「戦うことを知り勝利を覚えた君には、もう怖いものなんて何もない。立ち向かえ、抗え、前へ進め」

 じっと見つめる僕の頭に手を乗せて、

「私もまた前に進む。お互いに頑張ろうじゃないか、うん?」


 そう言って、ニッコリと微笑んだ風子さんの顔を、僕はきっと忘れない。


 うなづいてから一歩下がり、風子さんの手から離れる。

 ハンドルへと手を戻す風子さんに、エンジンの音に負けない大きな声で僕は告げる。

すすむですっ」

 風子さんが僕を見る。


立原たちはらすすむ。僕の名前!」

 

 一瞬キョトンとした顔をして、それからうなづき、優しく笑った瞳で僕を見つめて、

「では、な。進くんっ」

 僕の名前を呼んでから、風子さんはバイクをスタートさせた。


「ありがとう風子さんっ、ありがとーーっ」

 遠くへと去っていくバイクの後ろ姿を、手を振り声を上げながら僕は見送った。


 濡れたほほを、風が撫でたような気がした。

 それはまるで、風子さんの指が涙をぬぐってくれているみたいで……。

 

 バイクの赤いテールライトが見えなくなり、低く響いていた排気音も聞こえなくなる。

 祭りばやしが遠く聞こえる宵闇の中、僕は家路へ駆けて行った。



 ☆     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆


 あれから、もう十年が経った。

 いろんなことがあった。


 ガキ大将たちには決別宣言をしてボコボコにされたけど、やり返すことは忘れなかった。

 勝てはしなかったが、連中が僕に手を出してくることはなくなった。


 やっぱり、ひとりぼっちになったけど、挫けやしなかった。

 あいつらにへいこらしていた時よりも、気持ちはずっと自由だったから。


 風子さんの言ってた通りで、中学に上がったら自然と仲間が出来ていた。


 傷つくことも多かった、勝てないことも。

 けど、負けたなんて思ったことは一度もない。

 

 そんな気持ちになりかけたら、僕に勇気をくれる、あの優しい笑顔が浮かぶから。 


 

 ……ねぇ風子さん、あなたが教えてくれたように、僕は今も戦っていますよ。

 きっとこれからも戦い、抗い続けて生きていくと思います。

 あなたと出会ったあの頃の、少年のまなざしのまま。


 

 風子さん、僕はあなたに会えて、本当に良かった。

 

 

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