幕切れ
暗い暗い、部屋の中。饐えた臭いのするここは、濁った水で満ちた鉢の底だ。
「次郎、死んだか」
灯籠の言葉に「死んでへんよ」と答えたつもりが、乾いた唇から漏れたのは微かな息だけだった。
仕置き部屋に入れられて何日が経ったのだろう。気まぐれに運ばれてくる粥すらなくなって、空腹を忘れてからは日にちの感覚が無くなった。
締め切られた部屋はいつでも真っ暗で、昼も夜も分からない。衣都さんと勘右衛門さんは、上手く逃げられただろうか。
あれから、大慌ての二階回しが灯籠の床に駆け込んで来たのが大引け、暁八ツ。そこに居たのが羽柴家の娘ではなく私だと発覚した頃には、二人はとっくに逃げ果せた後だったろう。
どんなに痛めつけられようとも羽柴衣都の居場所を吐かない私たち――だって本当に知らない、に見切りをつけた見世は、私たちを仕置き部屋に入れた。
初めは軽口を叩いていた灯籠も静かになって、何日が過ぎた?
内側から割れそうなほどに痛む頭では何も考えられなかった。
「次郎」
灯籠が、かすれた声で私を呼ぶ。
なに、と。今度は吐息すら漏れずに、僅かに動かした唇がひび割れて痛んだ。滲む血を舐め取ろうにも、口の中は乾ききっていて叶わない。余計に唇が痺れただけだった。
「ふく。死ぬな」
……ふく。ふくだって。懐かしい。
靄がかった記憶が光を帯びて、まるで夏の蛍のように集まる。形を成した記憶。それでもやはり、母の顔と声は思い出せなかった。
頭の中に響くのは、まばゆい顔をした禿が私を呼ぶ声だけだ。
ああ、灯籠。あんたすっかり声が低うなってたんやね。飽きるほどずっと一緒におったから、気付かへんかった。
ふくと呼ばれたのはこの街に来たその日だけだったのに、灯籠はふくを忘れていない。
胸が締め付けられる。身体の奥深くから熱が溢れるように、引き絞られるように、苦しい。なのに、あまりに幸せで、うれしくて、とっくに枯れたはずの涙が滲んだ。
忘れないで、灯籠。あなただけは、ふくを忘れないで。ほんとうの私を、あなただけが知っていて。私はそれだけでいい。
「ふく」
灯籠に名前を呼ばれるたび、嘘のように身体が軽くなる。割れそうに痛んでいた頭も、ふわりふわりと夢うつつで、なぜだか目尻から涙が一筋こぼれ落ちた。
ああ、夢をみている。そう思った。
「ふく、死ぬな。しっかりしろ。おい、誰か居ねェのか! 次郎だけでも出してやれ、このままじゃ死んじまう!」
何か重いものが畳を這う音がする。
仕置き部屋の、けばだった埃臭い畳が擦り切れる音に目を開く。ぼんやりと、白い肌が光でも放つように暗闇に浮かび上がった。
「次郎、こんなとこでくたばんな。死んだらそこで終いだって言ったのは誰だ」
「……あんたの見せる極楽浄土って、これ?」
「馬鹿言ってんじゃねェよ」
死ぬな、って。後ろ手を縛られたままの灯籠が、泣きそうな顔で私の頬に自分の鼻先を擦りつける。
それがまるでじゃれつく猫みたいで、笑ったつもりが「ふ」と息が漏れた。
最後の息だ、と思った。私はここで溺れ死ぬ金魚の一匹だ。だって、嘘みたいに身体が軽いんだ。苦しくなんてない。
「ふく」
「……ん」
「ふく、死ぬな。俺を置いていくな」
ふく、ふく、ふく。一生分呼ばれてるんじゃないかってくらい、灯籠は私の名を呼ぶ。
そうして、許さねェからな、なんて地を這うような声が耳元で響いたかと思えば、乾いた唇にかさついた何かが重なった。
ぬるりと口の中に滑り込んだ熱いものが何かは分からない。それでも、その濡れたものに私は無意識に舌を押し付けていた。
甘い。渇ききった口内が潤みを帯びる。
「……もっと」
「馬鹿、俺ァ安くねェぞ」
口の中で灯籠の薄い笑い声がする。
頭の端っこが痺れるようなそれに喉を鳴らせば、唇に滲んだ血を舐め取られてちりりと痛む。今度こそ噛みつくみたいに唇を覆われて、鉄臭い唾液が口内を満たす。
喉を潤すそれを夢中で腹の底へと落としながら、私はいよいよ分からなくなった。
ここは、どこだったろうか。
頭の奥が痺れる。身体が溶けて、そのまま畳へと染み込んで行きそうだ。
「……死んだんやろか、私」
「一人でくたばらせて堪るか」
「なあ、ここ、どこ」
極楽浄土? ふわふわ漂う意識でそう尋ねる。近くで誰かが笑った気がした。
そうして、鋭く差し込んだ光に目を細める。何者かにより襖が開けられたのだ。
暗闇に慣れた目にその光はもはや暴力的で、くらりと意識が遠のいた。
そんな私の目の前で、灯籠は……私の女郎は「そうかもな」といつもの強気な笑みを浮かべるのである。
「地獄からのお迎えが来たぜ、次郎。極楽浄土はお預けだとよ」
今日もまた、乙原の大門は開くのだろう。揺れる視界はまるで水の底のようで、私はふと妙なことを思った。
はて、金魚もあぶくの夢を見るのだろうか。
END.
金魚はあぶくの夢を見ない よもぎパン @notlook4279
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