暮六ツ



 暮六ツ。門が開く。見世に明かりが入る。


 着飾った女郎たちが格子の間から、道行く客へと声を掛ける。新造たちが三味を弾いて、禿かむろがどこかで「兄さん兄さん」と泣いている。


 そんな喧噪に負けじと、桔梗屋の二階、灯籠の座敷では盛大な宴会が行われていた。


 上座には、灯籠と、鮮やかな赤の着物を纏う衣都さんが並ぶ。羽柴の御付きの者達は他の女郎や芸妓にまぎれ、水月の歌う都都逸に後押しされるように燗の酒を空けていく。


 普段は部屋で待たせている禿たちも今日は座敷へと出させた。これから起こる事は、あくまで灯籠と次郎の悪巧みだと示すために。


「参りましょうか」


 台の物が干からび、部屋の空気が酒の匂いで満ちた頃、灯籠はそう言って立ち上がる。


 時は夜四ツ前。手を取り合う灯籠と衣都さんに「どこへ」だなんて、そんな野暮なことを聞く者は居ない。


 眉を寄せ、心配そうに灯籠を見上げる衣都さんと澄まし顔の灯籠について、静かに隣の部屋へと滑り込んだ。

 既に布団の敷かれたその部屋で、私は手早く衣都さんの上質な着物の帯をほどいてゆく。


「おまえ、名前はなんていうの?」


 それまでされるがまま、着物を脱がされ、髪を解かれ、化粧を落とされていた衣都さんがふいに声を上げた。

 「次郎です」そう、自分の着物をその細い肩にかけながら私は答える。


「違う。女の名前」


 あるんでしょう。帯をきつめに締めたせいで、語尾を小さな悲鳴に変えながら、衣都さんは続ける。ここに来る前から「次郎」ってわけじゃないんでしょう、と。


 女の名。ここに来るまでの名前。それはかかの記憶のようにおぼろげで、頭の隅っこに靄のように存在する。そのくせ、掴もうとすれば指の間をすり抜けてしまうのだ。


 女の名。私が私だった頃の名。かかが私にくれた、この身体以外の、大切なはずのそれが私には思い出せなかった。


 思い出せるのは、「灯籠の次の日に来たからおまえは次郎だね」と。そう、穏やかに笑っていた灯籠の兄女郎あにじょろうの顔くらいだ。


「忘れてしまいんした」

「……そう」


 そうなのね。

 どうして衣都さんがそんなやりきれない顔をするのだろう。それが私には分からない。


 灯籠のものと同じくらいしなやかな髪を、乙原喜助のごとく高い位置で結い上げる。そうして、すっかり姿を変えた女に、用意していた包みを渡して、言い聞かせた。


「見世を出たら真っすぐ大門へ向かって、会所で切手渡して、なんか言われても「見世の使いです」て、それだけ言うて、門を抜けて下さい。足止めたらあかしまへん」

「……あなたたちは、」

「気にすんな、俺らは慣れてる」


 達者でな。そう言って、窓辺に腰掛けた灯籠はへらりと笑う。嫁入り前の客を逃がそうだなんて、そんな緊張感どこにもない。


 そんな私達に、衣都さんは膝をつき、まるで嫁入りの挨拶みたいに深々と頭を下げる。そうして、静かに部屋を出て行った。


「さて、あとはおめェだな」


 窓辺の木をきしませて、灯籠が立ち上がる。


 初めて着た女の着物は見た目と違わず酷く重かった。一歩も動けやしない私の手を引いて、灯籠は私を布団の上へと転がす。


 自分で結った髪はそこかしこが緩く、寝転んだ拍子に根が崩れた。

 髪、と。身体を起こそうとした私に灯籠がのし掛かってくる。


「テメェにしちゃ上出来だぜ、次郎」


 そう言って、はだけた真っ赤な着物から覗く私のなまっちろい足の間に、灯籠は身体をわりこませた。


 見上げた先には、頬を緩めて私を見下ろす乙原女郎。初めて出会った日、男か女かも分からなかった頃を思い出せないくらいに厚みを増した身体にどきりと心臓が跳ねる。


「……いま、跳ねた」

「なにがでィ」

「ここ」


 ここ、と。胸を指差した私に灯籠は一瞬ぽかんと口を開けて。そうしてもう一度、「上出来だぜ、次郎」と肩を震わせて笑った。


「馬子にも衣装ってな」

「私が着たら金魚みたいやない?」

「金魚なァ」


 ぽとりぽとりと灯籠が畳に簪を落としてゆく。押し広げられた腿の筋が痛くて文句を言ったら、「我慢しな」と額を撫でられた。


 灯籠のまつげが近い。伏し目がちな瞼はやっぱり美しくて、私は目を閉じた。ああ、なんだか変な感じ。ふわりふわりと意識が揺れる。まるで水の中みたいだ。


 私たちは金魚なんじゃないだろうかと思うんだ。お歯黒溝に囲まれた、濁った鉢の中で飼われる金魚。中も、外も、きっと地獄だ。


「灯籠、すまない」


 どれくらい、そうしていただろうか。突然聞こえた二階回にかいまわしの低い声。

 わずかに開けられた襖に悲鳴が漏れそうになって、慌てて両手で口をふさぐ。


「なんだよ。仕事中だ」

「次郎を使いに出したか?」


 それでいい、とでも言うように口の端を上げた灯籠が「ああ、急ぎの用でな」と最後の簪を抜いた。


 ぶち。嫌な音がして、香油の香りと共に黒い髪がはらりとほどける。暖簾のように、それは二階回しの目から私を隠してくれた。


「次郎がどうした? なんかあったのか?」

「いや、使いに出したんならいいんだ。あれは大人しそうに見えて、おめぇと組むと時々とんでもねえことしでかすだろ。確認だ」

「はは、違いねェ。賢明だな」

「まぁいいさ。お前が居るんなら、あいつは逃げねえよ。みんな知ってる」


 みんな。みんなってのは誰だ。そう思っているのは三雲さんだけだと思っていたが、どうやらそうではないらしい。


 ぱたん、と襖の閉じた音に二人、息をつく。

 そうして、額を寄せ合って肩を揺らした。


 ああ、どうしようね灯籠。私たち、また「とんでもねぇこと」をしでかしてしまった。


 

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