うるさくて、 誰もいないところ

佐々木海月/くらげ

うるさくて、誰もいないところ

 死のうと思っていた。

 高いビルの屋上は、たいてい、立ち入り禁止だった。逃れたいのに、遙か頭上でぱたりと扉が閉ざされてしまったようで、ここは世界の底なのだと不意に気づいた。

 そうして、夜通し街を歩き回った挙げ句に、とりあえず生きようと思ったのが先週の土曜のことだ。始発で帰り、そのまま夕方まで眠った。そして、翌日には普通に起きて、会社に行った。














 夜の底にいる。

 昼間投げ込まれたあらゆるものが沈殿し、汚泥のように堆積する。うまく泳げない。

「でも、一等星なら見えるね。二等星は厳しいけど」

 そう言ったのは彼だ。

 なるほど、確かに微かな小さな光がぽつぽつと見える。

 あれっぽっち見えてもなあ、という顔を、たぶん僕はしていたのだろう。彼は呆れたように、大げさにため息をついてみせた。

「高望みし過ぎなんだよ。天の川みたいなのこそが、星空だと言いたいの?」

 ごもっとも。だいたい天の川なんて、写真以外では見たことがない。

 午前三時過ぎ。公園に、僕らはいる。周囲を超高層ビルに取り囲まれた、小さな公園だった。何か目的があったわけではない。ただ、始発の電車が動くまでの時間をもてあましていただけだったし、そもそも彼とは二、三時間ほど前に出会ったばかりで名前も知らなかった。


 彼と出会ったのは、雑居ビルの地下にある、薄暗いゲームセンターだった。古いビデオゲームが並んでいるだけの、プリクラもUFOキャッチャーもないゲーセンだ。僕は暖かいところで煙草を吸いたかっただけで、別にゲームがしたかったわけではなく、だから灰皿さえあればよかった。


 灰皿は店の一番奥に置かれていて、近くのベンチには先客がいた。それが彼だった。ほっそりとした男性で、どこか気弱そうな印象を受けた。端にちょっと引っかける感じで、足を組んで座っていた。客はほかにおらず、したがってゲームの順番待ちをしているわけではないようだった。時々煙草の灰を灰皿にそっと落としながら、文庫本のページを捲っていた。

 僕は、ベンチのもう一方の端に座って、煙草に火を点けた。

 店内には、アップテンポな音楽が大音量で流れ続けていた。ゲーム機からも、絶えず何かの効果音や音声が聞こえていた。ずっといたら、耳がおかしくなりそうだった。

 少しして、飲み会帰りのようなスーツ姿の男が三人、大声で喋りながら、入り口の階段を下りてきた。一人がビデオゲームに向かい、あとの二人は後ろで見ていた。彼らは二十分くらいそうやって遊んで、出ていった。その間に、女性が二人、階段を下りてきて、店内を見渡し、すぐに上がっていった。目当てのものが無かったのか、目当てでないものがあったのかは、分からない。

 閉店だと言われたのは、たぶん五本目くらいの煙草に火を点けた頃だったと思う。

 ごく自然な流れで、僕と彼は目を合わせ、なぜか頷き合い、連れ立って店を出た。店員はうんざりした顔で、最後の客である僕らを出口まで見送ってくれた。


「電車?」

 聞くと、彼は軽く首を傾げ、それから耳を指さした。

「聞こえないんだ。耳鳴りが酷くて」

 何かを怖れているような、緊張した声だった。

「あそこなら、もともとうるさい」

 あそこ、というのは、先ほどのゲームセンターのことだろう。

「それで、ずっとゲーセンで本を読んでいたの」

 僕は、本をめくるような仕草をする。右手と左手を合わせて、こう、ぱたぱたと。

「そうだよ」

 街はちょうど、クリスマスや忘年会といった、今年最後の大騒ぎがひととおり終わったところだった。ネオンはほとんど消えていた。薄暗い外灯の下、飲み屋のチラシと、空のペットボトルと、吐瀉物と、よく分からない食べ物の包み紙や食べ残しのゴミが、怪物が通り過ぎた後みたいに散乱していた。ついでに言うなら、たまに人も転がっていた。夜の底に投げ入れられたそれらのゴミを、僕らは徹底的に無視して歩いた。

「今、何時」

 彼が問う。

「知らない」

 僕は首を横に振る。財布を出して、持ち物はこれだけだと示す。

 スマホはアパートに置いてきた。ついでに言うなら、読みかけの本も、ウォークマンも、手帳もだ。財布だけ持っていればなんとかなると思っていた。

「死にに行く人みたいだよ、それ」

「うん。僕も、そう思う」

 ほかに、まともに歩いている通行人の姿はなかった。終電を逃した人たちは、きっと、とっくに朝までの居場所を見つけている。

「どこに行く?」

 僕は彼の顔を覗き込み、どこ、と、口を開けて言う。

「うるさくて、誰もいないところ」

 彼は、そう答える。

 僕は少し考える。思いつかない。

「あるかなあ、そんなところ」

 首を傾げてみせる。

「別に、無理してどこかに行かなくてもいいよ」

 そう言って、彼は目についた自販機でコーヒーを買った。僕も缶コーヒーを買おうかと思ったけれど、大して飲みたくもないと気付いてやめた。

 病院は、と問うと、行ってるよ、と返ってきた。

「すぐ治るよ。たぶん、一週間くらい。ステロイドで。だからアルコールはダメ。ほんとうは、酒でも飲んで寝ちゃいたいけど」

 よくあることなの、と僕は問う。

「たまにね。忙しい時に限って。仕事になんないから休むんだけど」

 繁華街を抜けて、オフィスビルが並ぶ辺りまで出てくると、もう本格的に誰もいなかった。円形の小さな公園で、ベンチに腰を下ろした。周囲は高層ビルがぐるりと取り囲んでいた。ほんとうに、夜という、小さな黒い水槽の底にいるようだった。

 彼の言うとおり、星がまばらに見えていた。

「名前とか、あんの」

 なまえ、と。

「あるよ」

「あれは?」

 僕は空の一点を指で示す。

「シリウス」

「あっち」

「ベテルギウス。爆発するとかしないとか言ってるやつ。当分しないと思うけど」

「んじゃ、あっち」

「プロキオン。みごとに冬の大三角を当ててくるね」

「全然知らない」

 僕は首を横に振る。

「そう」

 彼は缶コーヒーを最後まで飲みきって、空き缶を屑籠に放り込む。それから煙草に火を点けて、最初の煙をゆっくりと吐き出した。セブンスターのメンソール。やけに現実的で、この場に不似合いだった。

「あのさ、俺のことを、少し、羨んだだろ」

 彼は、唐突に、そんなことを言った。

「外側から見てそれと分かるものを、失いたかっただけだよ」

 僕も自分の煙草に火を点けた。僕の答えは、彼には聞こえていないかもしれない。

「あなたは、死にたかった人?」

「別に。ただすっからかんになりたかっただけ」

 ああこれも、聞こえないかもな、と思う。

 ただ、与えられることに疲れただけだよ、と僕は静かに認める。色んなものが降ってくるから、重たくて身動きが取れなくなった。この夜の底で、いっぺん、すっからかんになりたかっただけだ。誰からも切り離されるのは、どんな気分だろう、と。

「今、すっからかん?」

「君がいる」

 僕は、彼を指さす。

「そう?」

 彼はかすかに笑い、その僕の手を掴んだ。彼の手は冷たく、こわばっていた。

「あなたは、とても賑やかな人だ」

 そんなことを言う。

「俺もあなたも、それぞれがちゃんとひとりきりなのに、なぜかひどく寂しくなる」

 ほんとうに、ほんとうに孤独で、すっからかんで、何もなかったら。

 今より自由だろうか、それとも、不自由だろうか。

 置いてきたスマホや、そこに繋がる人たちのことをすっかり忘れて、何かを求めたり、問いかけたりすることはできるだろうか。

 できるかもしれない。

 でも、求め続け、問い続けることは、できないかもしれない。

「四時になったら」

 彼が言う。

「ラーメンでも食べに行こうか」

「そうだなあ」

 そのくらいならいいだろう、と。

 僕は、自分の孤独に許しを求める。


 僕らはそのあと駅前まで戻り、油っぽいラーメンを食べて、始発のホームで別れた。

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うるさくて、 誰もいないところ 佐々木海月/くらげ @k_tsukudani

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