最終話/私たちは

瞼を上げる。という動作を認識した。してしまった。

「――――っ」

 目に映るものどれもが見慣れなかったが、実体の無い経験としてなら知っていた。

 宛がわれた人工呼吸器。食事の代わりとなる点滴。

 そして。

 私が生きていることを示す心電図。

殆ど決まったリズムで流れる無機質な通告。私の心を壊すにはそれで充分すぎた。死ねなかったという事実が永遠にまで引き延ばされた一瞬として、私を縛りつける。どうしてなんて考える余裕はなかった。ただ、この状況が受け入れられなかった。自殺は失敗した。それがどういう意味を持つのか。どういった意味を持ってくるのか。想像するだけで、こんなにも恐ろしいとは思わなかった。私は死のうとした。思い付きなんかじゃなく、短絡的でもない。誰の横やりも入らなければ、確実に成功するやり方のはずだった。それなのに……ああ、そうか。誰かが私の邪魔をしたのだ。また、私を知らない誰かが、独善的な正義感と自己満足で私を助けたのだ。とても許せそうにないけれど、それさえも今は些末事に思えてくる。

私の未来は、同情と憐憫に彩られることだろう。自殺をするに至った過去を想像し、悔やみ、涙を流すのだろう。だがそれも私じゃない、誰かの為すことだ。誰かが勝手に想像するのだろう。誰かが一人で悔やむのだろう。誰かが徐に涙を流すのだろう。誰もが私のためを思って、私の知らない私を、私に押し付けるのだろう。

残酷だと思った。

私はそんなこと望んでいないのに。

生きたいなんて思ってない。助けてほしいとも思わない。同情なんてまっぴらごめんだ。よってたかって私の嫌いなことばかりする。なんなら、放っておいてくれれば良かった。

本当に余計なお世話だ。

ようやく……ようやく、私を解放できると思ったのに。

私が、私の心で望んだ、たった一つの願いなのに。

「あ――」

 頬を伝う熱さを、今度は理解できる。そうして、私は確信する。やはり私は笑っていたのだと。

「失礼します」

 不意に扉が開いた。看護師さんは私を見るなり、ベッドまで駆け寄り、あたたかな笑顔を浮かべた。

「良かった…気が付いたのね。待ってて、すぐに先生を呼んでくるから」

 私はこんな顔を、これから幾つも目にすることになるはずだ。その度に私は、何を思えばいいのかな。

 看護師さんは言った通りすぐに戻ってきた。隣の男の人が、私を看てくれたお医者さんなのだろう。

「おお、良かった。大分、意識もはっきりしているみたいだ」

 お医者さんも、安心したようにそう漏らした。そして

「あ、ああ…」

「良かったですね。お母さん」

「はい…ありがとうございました……ありがとうございました」

 その隣で母が泣いていた。母は何度も何度もお礼を言って、どんどん嗚咽に近い言葉に変わっていった。

「本当に良かったです。もう少ししたら、また、娘さんの検査に参りますので、それまでは」

 立ち去る二人の姿を、深々としたお辞儀で見送った母。扉が閉まってなお、しばらく母はその姿勢のまま動かなかった。

 深い沈黙がこの部屋を覆っていた。

 聞こえてくるのは、無遠慮に生を知らせる心電図だけだ。

 どれくらいの時が流れただろうか。少なくとも5分はそうしていたと思う。母はようやく私に向き直った。母はなにも言わなかった。そっと私の髪を撫で、泣くばかりだった。声を上げまいと堪え、けれど、漏れ出る涙の雨。きっと理解しているのだ。どんな言葉も、私にとっては軽すぎると。謝ることも、安堵することも、母にとっては責め苦に過ぎない。だからこその静寂。だからこそ、瞳で以て私に訴える。

 貴女はどうしたかったの?そう問われている気がして、私は何も言えなかった。


 その後、何度か検査を繰り返した。脳の活動に異常はなし。身体活動にも特に影響は出ていない。そう。全ては元通りというわけだ。身体の状態だけで判断すれば、1週間もしない内に完治扱いになるそうだ。まあ、私の場合は身体よりも心のケアの方が重要らしく、入院生活はしばらく続きそうである。

 その中で、くどいくらいに聞かされたことがある。「君は搬送中に一度死んでいる。治療を受けてからも、生死の境をさ迷っていた。君は必死に生きようとしていたんだ」と。私は一度死んだ。けれど、またこの世界に戻ってきた。そこで唐突に分からなくなってしまった。あんなにも死を受け入れていた私は嘘だったというのか。私は、この世界に留まりたかったというのか。私は……結局、何がしたかったのだろう。これから私はどうすればいいのだろう。

 言葉は私を縛り付ける。生きたいと願っているのは、私…?また、誰かの言葉が、誰かの求める何かが、私の在り方を規定する。

 それは嫌だ。それだけは…絶対に。

 生きようとしているのか、そうでないのか。その答を決めていいのは私だけだ。私の…

 答の見えない問いのなか、気が付けば、数ヶ月の時が流れていた。


 風が吹いている。まだ、外を出歩くには肌寒い2月の風。私は入院生活の大半をこの屋上で過ごしていた。真冬の時期は流石に、室内から外を眺めるだけだったけど、私は何となく景色を眺めていた。ここからは、私の育った街がよく見える。中にいるだけでは分からないものが見えてくれば良かったのだけど、見下ろしたところで、こんなものかと思うだけだった。

 はじめの数週間は、みんな心配してくれていたけど、最近はそうでもない。ただぼんやりとどこかを見つめる私に、誰もが付き合いきれなくなったのだ。

 私は、特別、どこを見ているわけでもなかった。いいや、違う。どこを向けばいいのかが分からなかったのだ。それさえ決まれば、どうとでもなる。そう願って、私はここにいる。

あれからずっと探している。私の進むべき道。

「よっ」

 足音が近付いてくる。そういえば一人だけ、懲りずに諦めてない人がいたのだった。

 高橋義人。

 私を助け、私をこの世界に引き戻した張本人。

「また来たの」

「まるで来てほしくないみたいな言い方だな」

「嫌よ」

「辛辣だな」

「貴方に会うと、思い出してしまうもの」

 死のうとしたこと。これまでの人生。何もかも。忘れようとしているのか、そうではないのか。それさえも未だに判断できない。曖昧な意識の中で、流れていく時間に身を委ねる。そうして過ぎ去った数ヶ月。けれどこの人は、この人だけは私を明確な実感の下に連れていく。助けられたという事実が、私の命を揺さぶる。

この命は、誰のものなのか。生きることを望まなかった私。死ぬことを許さなかった貴方。

貴方は私に何を求めているの?

貴方という存在は、私をどうしようもなく浮かび上がらせる。

私は生きているんだって、訴えてくる。

「世間話をしにきただけだよ」

 そう言って私の横に並び立つ。彼も、私と同じものを眺めている。

「話すことなんてないわ」

「そうか」

 この人が何を考えているか分からない。いつもそうだ。世間話をしにきたと言う癖に、私が拒めば直ぐに退く。このやり取りだって、何回目なのか覚えていない。予定調和みたいに決まった会話を繰り返す。それなのに、この人の横顔はいつも何かを噛みしめているようだった。私と違って。同じものでも、多分、もっと素敵な景色に見えているのだろう。

「じゃあな」

 そうして、数分の沈黙の後、彼は去っていく。本当に、何がしたいのか。こちらの方が先に根負けしそうだ。あの人が何を考えているのか。私は、知りたいと思い始めている。

 

 時を知らせる鐘の音とともに、消灯時間が告げられる。部屋に戻り、寝支度を整える。誰もいない。暗闇の中。私は一人。見えるものは何もない。感じることが出来るのは秒針が時を刻む音。静かな空間に反響するカチ…カチ…という音。意識的に、私はそれを聞いていた。

曰く、秒針の音が気になって眠れないという人が多いそうだ。けれど、私にはよく分からない。

一秒一秒、確かに時を知らせてくれるということが、どれほど愛おしいのか。そのことを私は理解している。いや、理解させられた。過去に気付かせ、今を示し、そして未来を予感させるもの。ただただ、流れるように時間を処理してきた私には知り得なかったこと。けれど、今なら分かる。それはとってもありふれた奇跡なんだと。

私は過去を手にしたのだ。だから明日の方向だって本当は気付いている。

私には、分からなかった。分かったつもりに過ぎなかった。過去も今も未来もない。勝手にそう思い込んで、何もかもを閉ざしていた。ただ、ずっと、目を逸らしていただけなのに。

針の音は止まない。それは無限を思わせるようにした実体だ。故にそれは極めて有限だ。

針を支える歯車は、次第に磨り減り、錆びてしまうだろう。いつかは止まることを誰もが理解している。その終わりが訪れる瞬間は誰にも分からない。けれど、今は進んでいる。今を進んでいる。針は、回り続ける。

 進まなければいけないのだろうか。私も。

 でも、どうやって…

 

 翌日も翌翌日も、彼はやって来た。こういう言い方をするのであれば、昨日も来たし、一昨日も来た。なんならずっと前、入院生活が始まったときから殆ど毎日、彼はここに来ていたらしい。だから無意識に、彼が来てくれるのを待っていたのだと思う。だから身勝手に、彼が助けてくれるのを期待していたのだと思う。

だから私は、ずっとこのままなのだ。

見ない振りをし続ける私。何もしないという選択をし続ける彼。

私のことを助けたつもりになっているのなら、最後まで責任をとってよ。どうして私を助けたの。どうして何も言わないの。どうして、何も言ってくれないの。

私は言い訳を探している。独りで歩いた夜の中に、尚も囚われている。

けれど私は、ようやくそのことについて考えはじめていた。

何もしない理由。

私が彼の立場であったなら、母がそうだったように、そして他の人がそうだったように、気安く言葉を掛けることは出来ないと思う。死を望んだ人間に、生者の慰めはどこまでも残酷に軽すぎる。誰だってどうすればいいか分からないだろう。経験のない事象に対しては想像で以て応じるしかない。でも、それが想像の埒外であるのなら、待っているのは沈黙だけだ。それは気遣いの手段として捉えられるだろう。確かにその通り。何の間違いもない。文句のつけようがない解答だろう。その中に、自分を守ろうとする意思が混在していることに気付いているのなら。

人を傷付けて、自分が傷つくのが怖い。誰かを気遣う振りをして、自分を気遣っているだけ。その弱さを認めているのかどうか。心の内に抱えるエゴイズム。それを、受け入れているかどうか。

誰もが見たくない私たちの汚い部分。直視している人がいなくて、気持ち悪くて、投げ出したいつかの私。

そこでようやく思い至ったのだ。

意思を、弱さを、気持ち悪さを、彼が見ようとしているのなら。

彼は、私の言葉を待っているのかもしれないと。今更ながらにそう思った。

だから。

言葉を交わそうと。

漸く、思えたのだ。


次の日。彼はいつものようにやってきた。再び生まれた沈黙。このまま何もしなければ、変わらぬ昨日がやってくる。でも、私は今日を迎えよう。

聞きたいことは、それこそ山のようにあった。だけど、それを一つ一つ質問していくのは、何だかおかしい気がして、だから、私が最初に感じた疑問を打ち明けようと思う。

「貴方は私のどこが好きなの?」

「どこが…か。それは、まだ分からん」

「え」

 予想外の返事に、私は驚きを隠せなかった。それがどんなものであれ、人を好きになるには理由が必要だと思っていた。それも極めて俗物的な理由が。

「知らないからな。お前のこと。自分でも言ってただろ?」

「それはそうだけど、じゃあどうして」

「どうしてってのは?」

「どうして、好きって言ったの?」

「好きなのは好きなんだよ。ただ凄くざっくりしたことでさ。例えば見た目の話とか仕草の話とか。そういうことならいくらでも言えるけど、お前が聞きたいのはそういうことじゃないだろ?」

「…うん」

 図星を突かれて、思わず唸る。この人は本当に私を見ていたのかもしれない。

「だから、そうだな。俺はお前を好きになりたいと思ったんだ。好きになってほしいともな。それじゃあダメか?」

「駄目ではない、けど」

「納得できないか」

 理解出来ないことはない。だけど、やっぱり納得は出来ていない。全てに理由があるなんて思わないけど、好きな理由を求めた私は、好きになりたいと思う理由も求めてしまう。

 彼は、僅かに悩んだ素振りを見せて、もう一度私に向き直った。

「俺はお前が何かを秘めている人だと思ってた。いや、顔がないって方があってるのかな。俺はその先が知りたかった。俺にだけ、その奥にあるものを見せてほしかった。俺しか知り得ない存在。そして、お前しか知らない俺。そういう関係になりたかった」

「それは」

 私が感じたことを口にする前に、彼はもう言っていた。

「傲慢だろ」

「そうね」

 それは大変な自己主張だ。優しさを背景にした欺瞞だ。彼は、けれど、笑っている。卑屈でもなく、蔑むでもなく、彼は、笑っている。

「でも、俺はそれでいいと思っている」

 一つ息を吸って、彼は告げる。

「人はそんなものだと思う」

 それは。

 ―――。

 思考がまた漂白されていく。止めどなく溢れる感情が頭の中を掻き乱す。

 ああ、それはある答の形…

「貴方は自分に酔っているのね」

「お前が言うんなら、そうなんだろうな」

「ええ。でも私からすれば羨ましい」

私の気持ちは私にしか分からない。そう断じてきた私が、こんなにも簡単なことに気付かなかったなんて。私も、酷く自分に酔っていたのだろう。誰かの気持ちも、その誰かの持ち物でしかない。言葉を交わさなければ、その人の心根は分からない。決めつけていたのは私の方だった。

 今思えば、私は誰よりも人に期待して生きていたのだろう。自分の価値観が正しくて、求めるものをくれない人を拒絶して、殻に独りで閉じこもっていた。人に依存しきっていることが認められなくて、誰かを扱き下ろすことで自我を保っていた。大きな、大きな、エゴの塊。

 私はずっと待っていたのかもしれない。それでもいいと。そんなものだと。言ってくれるのを。

「お前これからどうするんだ」

「さあ、まだ分からないわ」

 どうしたいのか、何になりたいのか、はっきりしているようで曖昧な。ただぼんやりとした未来があって、どうなっているのか全くわからなくて、それはどうすることも出来るんだと、私にはそんな暴力的な自由が与えられている。

 今さら元の鞘になんて戻れない。糸はもう切れてしまった。人形も、ボロボロだ。君は一度死んだんだよ。お医者さんが告げた一言が消えずに残っている。一度死んで呼び戻された。そこに意味があるとかないとか、物語じみてて馬鹿馬鹿しい。けれど、私がここに生きている事実は変わらない。何を考えても、そこから逃れることは出来ない。

 私は考えなければならない。私の人生を。私という存在を。今まで目を逸らし続けたその意味を。

それが何なのか。私には分からない。

 ただ、なぜだろう。不安はない。どこか晴れやかですらある。

 この人のせいだろう。無責任に笑って、私の傍にいる貴方。そう、一つだけ確かなことがある。私がここにいる理由は貴方が持っている。なら、責任をとってもらわないと。

 私は、静かに宣言する。

「私を知りたいって言ったよね」

「ああ」

「なら、私を見ていて。これからの私を。ちゃんと」

「……ああ」

 重く頷く彼。何故か神妙な面持ちでこちらを見つめている。何か言いたげな感じだ。

 …なるほど。物語の経験はこういうところで活かされるのか。彼が何を思っているのか。テンプレートに当てはめると分かりやすい。私の物言いでは誤解するのも無理はない。のかもしれない。

「一応言っておくけど、付き合うとか好きになるとか、そういうこととは関係ないから」

「え、まじで…!今のってそういう流れじゃないの?」

 これもこれでテンプレートみたいに分かりやすく驚いている。

 その仕草が何故だかとても可笑しくて、私は声を上げて笑った。

「そんな訳ないでしょ」

 笑う私を見て、彼は笑った。

 それはきっと、同じ想いを抱いたからだ。そうして、私たちは笑い合った。

 空を仰ぐ。澄み渡る青の色。風は次の季節を予感させるようだった。

 最後に一つ言わないといけない。貴方になら届くと信じられる私の心。

 それに。

以前ほど、この言葉は悲しくないから。

「だって私たち、まだ何も知らないじゃない?」

 そう。これから。

 私はここから始まる。


 ―――望月美映、19歳、冬。雪解けまで、あと少し。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

深海のバレリーナ レミ @Re9mi7

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ