第9話/私はバレリーナ
少しだけ、私という存在を振り返る。
私。
私。
誰かが私を呼んでいる。
それは誰?
貴方じゃない。
誰を呼んでいるの?
それは誰?
貴方は知ってるの?
私は誰?
私は何?
呼んだのなら教えてよ。
呼んだのなら答えてよ。
私は誰?
私は何?
無意味よ。
無責任よ。
何も知らない。
誰も知り得ない。
知ろうともしない。
目に見えるものが全て。
知っていることしか知らない。
そんなこと分かってる。
分かってる。
分かってる。
分かってる。
分かってる。分かってる。
分かってる。分かってる。分かってる。分かってる。分かってる。分かってる。分かってる。分かってる分かってる分かってる分かってる分かってる分かってる分かってる分かってる分かってる分かってる。
だから嫌なんだ。
だから苦しいんだ。
伝えなくても伝わってほしい。
知らないことを知ってほしい。
子供みたいにワガママな私から逃げ出せない。
臆面もなく図々しい本心を隠しきれない。
もうすぐ二十歳だった私。大人になることを迫られた私。
でも。じゃあ、どうすればいいの?
私は大人になんてなれそうもない。かといって、自分を殺し続けることにも疲れてしまった。
気付かなければ良かった。
ずっと人形のままでいれば良かった。
私の当たり前を、当たり前のままにしておけば、こんなことにはならかったのかな。
誰かに私を打ち明けることが出来たら、こんなことにはならかったのかな。
――それはないか。
私は、私を嫌悪しなかった。疎ましかったのはいつも他人だ。
無理しなくていいとか。辛そうとか。甘えてもいいとか。
全部、嘘。嘘で塗りかためられた偽善だよ。
苦しみには誰も寄り添ってくれないのに、苦しそうな人には喜んで手を差し伸べる。
傲慢で、浅はかで、心底気持ちが悪い。
だから誰にも私を見せたくなかった。どこにも私を貶めたくなかった。私が私を肯定し続ければそれで良いと思っていた。誰に理解されなくても、永遠に孤独を感じ続けていても、それで良いと、思って、いたのに。
どうして、諦めきれなかったのだろう。
どうして、希望を抱いてしまったのだろう。
私が、私であることを。私以外の誰かが認めてくれる。
そんな、当たり前の幸せを。
私は知ってしまった。
届かぬ星を求めるような、緩やかに磨り減るだけの旅。
私には、とてもじゃないけど、耐えられそうにない。
「――――」
風が私を切り裂いている。どうしようもないくらい向かい風だ。冷たくて、とても、痛い。
何て酷い結末だろう。逃げ出すわけでもなく、立ち向かうわけでもない。ただ、無かったことにする。それだけ。ああ、でもこれで少しは物語が好きになれるかもしれない。私の人生、本にしたらいい感じになるんじゃないかと思った。大衆に受けそうなお手軽な悲劇。
「――さん」
どうせ書いてもらうのなら、ドラマチックにしてもらおう。私の嫌いな展開に忠実で。今からのシーンなんて涙なしでは見られないように。
「クロバネさん」
私を呼ぶ声がする。
現実逃避の思考も、もう止めにしないと。
「クロバネさん。聞こえてますか」
「大丈夫。聞こえてます」
声は、どこまでも穏やかに発せられた。これから先の未来など予感させない程に。
「そうですか。ここに来て怖くなったのかと」
「そんなことありませんよ」
目の前には闇を写し出す東京湾。この景色を見て、何を怖がればいいというのか。
「……凄いですね」
「どうしてです?」
「僕は正直、怖いですよ。ここで…本当に」
「止めますか?貴方は。いいですよ。私は一人でも」
「いや、余計に決意が固まりました」
「そうですか」
「死んだ方がマシな人間、いるものですね」
「沢山、いると思いますよ」
「そうですね」
不思議な感覚だった。何を気負うでもない、そこに在るという状態だった。今日ここで始めて出会って、始めて会話をした私たち。これから死を迎える私たち。そこに何の温度も感じない。死神はもっと冷たいと思っていた。そうでなければ焼き尽くすような絶望の熱がほしかった。まあ、ないものねだりをしても仕方がない。
「はじめましょう」
錠剤を渡される。聞かずとも分かる。睡眠薬だ。
「効き目が出るのがかなり早いです。飲んだら迷わないように」
「ええ」
の言葉と同時に飲んでいた。確かに効き目はありそうだ。
微睡みが私を襲う。とろけるように私は堕ちていく。その感覚は今までに味わったことのないもので、鮮烈に過ぎて、いつまでも陶酔していたいとさえ思えた。
けれど。その望みが叶わないことを知っている。それが一時の幻だと理解している。体は急速にその機能を停止させていた。熱が引いていくのを感じる。身体を舐めるように流れる水明と同化していく。
「――――」
口から漏れ出た息が、水泡となって昇っていく。水面を仰ぐ。もう、随分と遠い。
「―――――――――」
ああ。自分にもまだこんな気持ちが残っていたんだ。
怖い。
少しずつ薄れていく意識の中で、どうやら私はそんなことを思ったらしい。死への怖れではない。そんなことは怖くない。だってこれはずっとずっと、物心ついて以来感じ続けてきたもので、だからこそ、私はここにいる。
闇だった。
息が苦しかった。
水中で人は生きられない。生きるために細胞が酸素を欲する。それはごく当たり前のことで、当たり前すぎて、呼吸することさえ忘れそうな前提条件。
だから私は、必死に息を吸おうともがいていた。苦しくて苦しくて仕方がないから止まることなんて出来なかった。呼吸が出来る場所を探していた。そんな奇跡があると思い続けた。当たり前に息が吸いたかった。当たり前なんてことに気付きたくなった。どうしてみんなは当たり前なの?どうして私は普通に出来ないの?そんな疑問のほうが当たり前だった。
答えは地上では出なかった。水中のほうがマシなんじゃないかって思った。地上は息が苦しい。きっと水の中は苦しいのだろうけど、地上とは違って身体は自由だ。心がどうしたって救われないなら、せめて身体だけは解き放ちたい。息苦しさは変わらない。けれど私は、今、何にも縛られない。
手を伸ばす。足を曲げて、回ってみせる。
射し込む光に当てられて、私は私を確認している。水中のバレリーナ。此処なら自分のために踊ることが出来る。この舞台は私だけのものだ。光も音も、あらゆる感覚全てが私だけのものだ。それは端から見れば狂気だったかもしれない。だからどうした。もう誰もいない。私はとっくの昔に狂っていたんだ。これが真相。本当。事実。壊れることさえ許されなかった心。誰かのものでしかなかった身体。なら、最期くらいは自由でいたい。好きなように私は舞った。身体は思うように動き、次第に心までもが解きほぐされる。圧倒的な爽快感。自分のために動くということがこんなにも気持ちのいいものだったなんて。
それも、泡沫の夢。この言葉が、こんなにも相応しい状況はないだろう。
沈んでいく景色。舞台から光は消えた。身体は既に力を失っている。意識は断続的に途切れ、本当の終わりがすぐそこにあった。
「――――」
何かが頬を伝ったような気がした。それも、此処では分かりようがない。
それに。
――どうやって泣けばいいの?
これより先に私という現象は存在しない。
最期の瞬間。
私はきっと、笑っていたのだと思う。
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