夜明けに焼かれ灰となる

violet

夜明けに焼かれ灰となった

 気がつけば、私は全裸だった。


 不思議だ。令和元年の大晦日の日。私は終電ギリギリまで仕事をしていた。クタクタになって帰宅すると、風呂も浴びずにベッドに横になったはずだ。


 しかし此処ここは、少なくとも私の部屋ではない。


 私は周囲を見渡す。薄暗い、森の中だった。


「寒い」


 私は強烈な寒さを感じて身を抱いた。恐らく真冬の寒さだろう。全裸の私は当然、寒さに耐え切れない。まるで痙攣けいれんしているかのように、身体を震わせた。


 そんな中、私は森の奥を見つめる。雑に整備された道が続いていた。私はこの寒さを何とかしたくて、とにかく道を進んで行く。


 森はひっそりと静かだ。虫の音も、鳥の鳴き声も聞こえない。


 時に、ひゅうっと風が吹いた。草木が揺らめく音が響く。吹いた風が肌とこすれる。すると、まるでナイフで斬られたかのような鋭い痛みが走った。


 どれだけ歩いただろう。もうすっかり身体は冷えてしまった。身体か冷えれば、体温を維持するために手足の血管が収縮する。そのせいで血圧が高くなり、手足が痺れてきた。


 朦朧もうろうと歩いていると、何かに蹴躓つまづき、とうとう倒れてしまう。地面に打ち付けられ、擦られた身体。痛いはずなのに、寒さで感覚が無い。それが無気味で、何よりも心をえぐった。


 もう駄目だ。お終いだ。


 そんな考えが脳裏をよぎった。死んでいないのが不思議なくらいだ。


 私は視線だけで、私が歩むはずだった道を追っていく。すると意外な事に、その道はすぐに途切れていた。


 道の先には、小さな小屋があった。入り口は無地の暖簾のれんが掛けられていた。入り口の両端は木々が茂っており、全貌がよく分からない。ただ、入り口から灯りが煌々こうこうと漏れていた。


 私は何とか立ち上がった。なけなしの力を振り絞って、私はその小屋へ向かう。


 入り口を通る。すると床、天井、壁の全てが檜材ひのきざいで出来た空間が広がっていた。匂いもほのかにひのきの香りがする。明かりは灯っているけれど、残念なことに暖房は効いていないようだ。


 しかし私は、その光景に胸が躍った。棚とかごが陳列しているこの空間は、脱衣所に違いない。ならばその先にあるのは……。


 私はさらにドアを開ける。


 すると白い煙が私の頬を撫で、通り過ぎていった。少し暖かったと思う。


「ああ……ああ……」


 私はうめくように感嘆した。目の前に広がるのは、まさしく温泉だ。木材で出来た屋根。石で作られた広い湯船。そしてその先に広がる海。夜明け前の、赤紫色に染まった空。


 私は翡翠ひすい色の石床を踏みしめた。潮の香りと温泉の香りが混ざって、私の鼻腔を刺激した。


 湯船にたどり着くと、掛け湯もせずに片足の先をひたした。


 ジワッとした感覚が足先から全身へ駆け巡る。収縮した血液が騒ついている。冷え切った身体には熱すぎて、痛かった。だがそれが良い。痛いけど何より嬉しいこの感覚は、不慣れな恋人の愛撫あいぶのようなもの。


 ふくらはぎまで浸す。温泉で温められた血液が、心臓に運ばれて来るのを実感する。身体が興奮し、鳥肌が立った。そのまま太もも、次にもう片方の足も湯船に入れた。そしてより一層慎重に、私は胸元までかった。それでも刺激が強かったのだろう。ドクンと心臓が強く脈打った。


 ようやく救われたのだと、身体が理解したらしい。極限まで高まっていた緊張が解れ、硬直していた筋組織が解れ、縮こまっていた血管が解れた。リラックス出来たからか、鳥肌もすぐに治った。


 バシャン。私は温泉を手で掬い、顔面に掛けた。冷えた耳たぶまで温められた。


「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」


 声にならない声を、ため息と一緒に漏らした。汗と共に溶けゆく疲労。それは私に堪らぬ快楽を与えたのだ。


 身体がようやく温まると、私は湯船の先の海へ目をやった。海よりも高い場所に温泉は設営してあった。だから湯船から外を覗けば、その先にある海が一望できるようになっていた。目線を湯船の縁の高さに合わせるように深く湯船に浸かると、温泉と海の間にある浜や森など全てが隠れる。すると海と温泉が繋がっているかのような景色が出来上がって、私はまるで海に浸かっているかのような気分になった。


「なんて景色だ」


 私は呟いた。夜明け前の空と海は赤紫色に染まっている。この世のものとは思えぬ絶景だった。


 ガラガラ。ふいにドアが開いた音が響いた。誰かが入ってきたのだ。しかし私はどうでも良かった。この景色から目を離したくない。だから視線を変えて入ってきた者を確認する、ということはしなかった。


 その者は私と違って身体を丹念たんねんに洗い、かけ湯をして、丁寧に湯船に浸かった。


「どうも」

「ええ、どうも」


 そんな軽い挨拶を交わす。それでも私は、景色から目を離すことはしない。

 

「ああ、こりゃすげえ眺めだ」


 その者もやはり海の景色に感激していた。

 

「ええ、本当に」


 私は嬉しくて同調した。


「どちらから来られたのですか」


 私は尋ねてみた。何となく会話がしたくなったのだ。

 

「どちらでも」


 その者の曖昧な回答に、私は判断に困った。

 

「いえ、失礼。私は旅人なのですよ。もう何処どこから来て、何処へ向かっているのかも、忘れちまった」


 そう語る旅人の声色は普通だった。本人は気にしていないようだ。

 

「あなたはどちらから?」


 旅人が私へ聞き返した。

 

「私は東京からです」


 私は正直に答えた。

 

「では、仕事の疲れを癒しに来たのですか?」

「ええ、まあ」


 そういう訳ではなかったのだが、そういうことにした。

 

「大晦日まで仕事をする羽目になりまして、もうヘトヘトで」


 私はつい愚痴を漏らした。不思議なことに、先程の苦難については、すっかり忘れてしまっていた。

 

「でもまあ、この絶景で少しは癒せた気がしますよ」


 私は再び景色に意識を向けた。しかし仕事始めのことがすぐに脳裏を過ぎって、途端に憂鬱な気分になった。

 

「実は……仕事、納められてないんです」


 私は白状するように言った。

 

「だから仕事始めは、地獄を見る羽目になるのです」


 私はため息を一つ。

 

「旅人の私が言うのも何ですが、辛いなら辞めたら良いのでは」

「そう簡単には、辞められませんよ」

「それは何故です?」


 理由を答えようとして、私は言葉に詰まった。

 

 確かに。辞めたら良いじゃないか。どうして辞められないのだろう。

 

「さあ。ただ、この仕事に就くのに、結構苦労したから、かも知れません」


 私は弱々しく言った。

 

「なるほど。あなたも何処へ向かえば良いのか、分からなくなってしまったのですね」


 そして旅人はこう言った。

 

「私と一緒だ」


 不思議だ。その言葉は、妙な安心感を私に与えた。

 

「仲間、ですね」


 旅人は嬉しそうに言った。

 

「ええ、仲間です」


 そして私達は、ふふっと静かに笑いあった。

 

「我々は何処に向かえば良いのでしょう」


 私は何気なく言った。

 

「大丈夫ですよ」


 旅人は言った。

 

「それを確かめる為に、此処へ来たのです」

「どういうことですか?」

「まあまあ。しばらくこの景色を見ていれば、分かりますよ」


 と旅人が言うので、私はもうしばらくこの景色を眺めることにした。

 

 すると、赤紫色の空が徐々に黄金色に明るくなっていくことに気付いた。

 

「太陽はいつだって、向かうべき場所が分かっているのです」


 旅人が語っているうちに、水平線に近い空が、見る見る金色こんじきに染まっていく。揺らめく水面がより一層ギラギラと輝く。



「さあ、我々も導いてもらいましょう」



 その瞬間。水平線の先から閃光が迸った。一まとまりの光の粒子は、水面に乱反射し、拡散してゆく。そしてその一部が、私の瞳を打ち抜いた。


 私は思わず仰け反りそうになった。何せ飛び込んできたその景色は、あまりに雄大で、神々しいのだ。


 日の出によって、先ほどまで眺めていた景色は一変した。顔を出した太陽は強烈な光によって世界を照らしている。

 

 その太陽付近の空はオレンジから黄色のグラデーションが掛かっており、さらに高度が上がれば、清々しい青空となっていた。

 

 陽光を一身に受ける海面は、太い線を引くように輝いていた。まるで太陽が生み出した道だ。


 ああ、駄目だ。焼き尽くされる。蓄積した疲労が。日々の鬱憤うっぷんが。私の内に抱えるネガティブな全てが。焼き尽くされて、灰となって、湯に流されてゆく。


「あ゛あ゛、あ゛あ゛……」


 私はそう唸りを上げて、涙を零した。これは排泄行為だ。良からぬものを体外へ放出する、排泄行為なのである。しかしその良からぬものが多過ぎた。このままでは私は、空っぽになってしまいそうだった。


「良いじゃないですか」


 旅人は言った。


「全て、出してしまいましょうよ」


 声は上ずっていた。旅人も泣いているようだ。


「見てください、この景色を。何もかも、どうでも良くなってくるでしょう」


 私は涙でボロボロになった目を、再度景色に向けた。日はすっかり上昇していて、金色だった空は澄み渡るように青かった。日の出と共に海鳥が目覚めたようで、海辺を飛び交っている。耳を澄ませば、鳴き声が聞こえてくるようだ。


「私は見つけましたよ。何処に行くべきなのか」


 旅人の言葉に、私は振り向いた。旅人もこちらを向いていて、にっこりと微笑んでいた。


「そうですか」


 私も微笑んで言う。


「仲間、ですね」





 私は目覚めた。六畳の空間は、薄らと明るかった。私はぼけまなこで水色のカーテンを見る。雨戸は閉めていなかったようで、太陽の光がカーテンの隙間から漏れていた。


「そうだ。仕事だ」


 私は口にして、すぐに違和感を覚えた。いつもなら、最悪な気分が襲いかかるはずだ。なのに、何とも思わないのだ。


 ともかく、私は起き上がった。すると思いのほか、すんなりと起き上がることが出来た。いつもなら肩こりや腰痛が酷くて、起き上がるのもしんどいはず。しかし今日は、不思議と身体が軽い。背負っていたものが一切、無くなってしまったしまったかのような感覚だ。


 私はカーテンを開ける。すると日の光が私の顔面に放射された。


「うーん、気持ち良い。良い天気だ」


 私らしからぬ発言に、私自身が驚いた。鬱陶しいと思うはずの陽光に、そんな感想を抱いたのはいつぶりだろうか。

 

 私を埋め尽くしていた良からぬもの。それらは跡形もなく焼き尽くされた。残った私は空っぽだ。だからきっと、この目映まばゆい光さえ、受け入れられるのかも知れない。


 私はカラーボックスに立てかけられたカレンダーを見た。私は昨日、仕事を納めることが出来なかった。だから新年早々、出社しなければならない。


「よしっ」


 私はそう言葉にして、気合いを入れた。そして、私はもう一度カレンダーを見る。そして今日の部分を指でなぞった。


 2020年1月1日。ねずみ年。


 今年の私は、何だか頑張れそうな気がする。

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夜明けに焼かれ灰となる violet @violet_kk

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