巻之六

『どうぞ、これは森尾先輩・・・・いえ、四十二代宗家にお返しします。』


 甲斐光信氏は、原本を丁寧にしまうと、紫の袱紗で丁寧に包み、俺の前に差し出した。


『いいんですか?これは言ってみれば”継承者の証”みたいなものでしょう?』


 返ってくる答えは何となく想像がつく。


 彼は歯を見せて笑い、


『私にとっては先代の教えを守ることができただけで良いのです。それに私は免状でメシを喰っていくつもりありませんからね』


『分かりました。でも念のためにその先代の師匠が模写されたというも貸していただけませんか?依頼人にはより正確な事情を説明したいもので』


 甲斐氏はちょっと不思議そうな表情をしたが、いいでしょうと答え、二巻を俺に託してくれた。


『時に、貴方お酒は”いけるクチ”ですか?』帰り際、玄関まで見送ってくれた彼に聞いた。


『底なしです・・・・と、言いたいところですが、現在ちょっと節制中なのです。節度をわきまえれば、というところでしょうか?』


『仮に機会があったら一度呑みましょう。』


『いいですよ。但し日本酒にしてください。』


 彼はまた、白い歯を見せて笑った。




 翌日、俺は依頼人の元に出向いた。

 無論、報告書と、そしてあの秘伝書・・・・・『御流儀伝授巻おんりゅうぎでんじゅまき』を携えていたのは言うまでもない。


 その日、道場は稽古が休みで、だだ広い道場は俺と、第四十二代宗家の森尾繁忠師範の二人だけしかいなかった。


 森尾氏は道場の畳の上に正座をして、巻物を押し頂くようにしてから、畳の上にそれを広げ、這いつくばるようにして目を近づけ、細かく確認する。


『間違いありません。本物です』


 彼は答えた。


『ご苦労様でした。これは探偵料です』

 

 懐から茶色の封筒を取り出し、俺の前に差し出す。


 中を開けてみると、新品の万札で約束通りの額が入っていた。


『失礼』俺はそう断わって、わざと丹念に数えてみせ、


『既定のギャラと実費だけ頂きました。成功報酬の方はお返しします。この程度の仕事で余分に貰っては罰が当たりますからね』


 冗談めかして封筒を返す。無論中に受け取りを入れるのを忘れなかった。



『悪い人ですな。貴方も、これじゃ探偵失格でしょう』


 盃を舐めると、甲斐氏は苦笑いをして俺を見た。


 その日の夜、俺は再びあの『甲斐治療院』を訪ねた。


 治療室兼書斎の真ん中にはごつい脚のついた座卓、そして俺と甲斐氏は向いあって座り、盃を交わしている。


 いや、正確にいえば、その前に俺は紫の袱紗に包んだあの巻物を渡していたのだ。

 

 酒を吞むより、今日のメインはこの方だったといってもいい。


『いや、これでいいんですよ。探偵だって、たまには仕事よりも自分の気持ちを優先したくなることもあるもんです』


 それだけ答え、俺も盃を舐めた。


 美味い酒だ。


 部屋の中では大きな火鉢があり、その温度で十分に暖まっている。


(何をしたんだ?)


 だって?


 簡単なことさ。

 

 俺は原本を渡さずに、先代が書いたという模写の方を向こうに渡してきたんだよ。


 彼が本当に目の効く武道家なら、いち早く気がついたろうが、向こうは完全に模写を本物だと思い込んでいた。


 そう、俺は悪いやつさ。


 だがな、本当に価値のあるものは、その価値を心から尊重できる人間のところにあるべきだ。ただ、そう思っただけさ。


                               終り

*)この物語はフィクションです。登場人物その他全ては作者の想像の産物であります。

 




 


 





 

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今様武術秘伝哀話 冷門 風之助  @yamato2673nippon

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