巻之五

 そして、俺は手短に用件を話した。


 甲斐氏は茶を啜り、しばらくじっと考え込んでいたが、やがて、

『失礼』といって立ち上がり、黒漆の文箱を持って戻って来た。


 かなり古い物らしく、ところどころ色が褪せたように見える。

 彼はそれを俺の前に置き、蓋を開いて中から一巻の巻物を取り出した。


『これがあちらの言われる秘伝書です』


『拝見しても?』


 俺の言葉に、彼は黙って頷き、巻物を広げてくれた。


 かなり長いものだった。


 全部広げれば、恐らく二メートルほどにはなるだろう。


 序文のようなものがあり、その後、絵入りで技やその精神などが解説されてある。


 俺だって少しは武道をやっていた人間だが、こういう古いものについてはまるっきり分からない。


『何時頃書かれたのですか?』


『そうですね・・・・今からざっと三百年くらい前でしょうか?』


 甲斐氏はこともなげに答えた。


 彼によれば、流儀自体は江戸時代以前、つまり戦国時代の末頃に存在していたのだが、その頃には定まった名前がまだなく、また流祖の生年その他についてもつまびらかでない部分が多く、一時は滅びかかっていたのを、江戸時代初期に三代目の宗家に当たる人が口伝をまとめて流派名を付け、この秘伝書(正式には『御流儀伝授巻おんりゅうぎでんじゅまき』というんだそうだ)を現したのだという。


『これがないと、後継者としては認められない・・・・私の依頼人の森尾氏はそう仰っているんですが」


 俺の言葉に、甲斐氏はもう一度箱を開け、あと二巻の巻物を取り出し、


『どうぞ、これを』


 そう言って彼は前の巻物に並べて広げて見せた。


 思わず俺は声を挙げそうになった。


 書体も、形式も、全く同じ巻物だったからである。

 一巻はいささか古びてはいるが、それほど古いものではないことは、俺でも理解出来る。


 もう一巻は、完全に最近作られたと、誰が見ても分かる。



『こちらは私が師匠から託されたもの、師匠の手になります』

 彼は二巻目を広げて言い、

『そしてこれは、私が作ったものです』


『え?』

 

『私は師匠に命じられたのです。』


 何でも彼の師匠である、四十一代宗家は、伝授巻が一巻だけだと散逸してしまう危険がある。

 そこで自分も模写をしたが、書にも長け、古文書の研究にも優れていた甲斐氏に後を託したのだという。


『こんなことを申しては何ですが・・・・森尾先輩は、確かに技は優れていましたが、書も、古文書の研究も、お世辞にもそれほどではありませんでした。

 でも私よりも年長ですしね。跡をとらせない訳にもゆきませんから、継承者にされ、そして私には”一旦は森尾に授けるが、後でお前が手元に置いて、模写を行ってくれ”とおっしゃったのです。』


 分かったような、分からないような、珍妙な話である。


『私は先輩の元から持ち出して、間違いがないように模写をしました。原本と、そして先代が表されたものを、一言一句間違いがないか確かめながらの作業は、正直言って疲れました。でも流儀の将来を考えると、これだけは絶対に完成させなければならない。その一念でした。師匠の遺訓は絶対ですからね』


 結局、模写はつい先頃完成をみたのだという。


 こう語る彼の目には一点の曇りもなかった。




 


 





 


 


 

 


 

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