巻之四

 俺は『先生』にしたためて貰った紹介状を懐に、今度は東京にあるという、その『甲斐光信』氏の下を訪ねた。

 

 良く晴れた、木曜日の午後である。


 埼玉県との県境にあるその町は、都会と田舎の中間といったところで、まだまだ田園風景が残っていて、俺の生まれ故郷とよく似ていた。


 それほど広い町ではなかったので、道で行き合った人々に、甲斐氏の事を訊ねてみた。大抵の人は知っているようで、場所を丁寧に教えてくれたが、だが『古武道の』といっても、妙な顔をされただけで、『接骨の先生』というと、『ああ』という感じだったのが意外だった。


 確かに町民がそう答えたのもうなずけた。


 その建物は駅から徒歩で30分ほどのところにあったが、普通の家屋と何ら変わらない。

 

 青い屋根瓦の典型的な『昭和の日本家屋』という雰囲気で、ブロック塀に囲まれた、ごく普通の民家で、変わっているといえば、塀の柱の部分に、


『甲斐治療院・接骨・はり・整体』という看板が出ており、診療時間が提示してあったが、


『古武道云々』については何処にも書かれていなかった。


 しかも生憎、

『本日は休診日です』という札が出ている。


 少し迷ったが、俺は思い切って呼び鈴を押してみた。


『はい、何か?』と、若い女性が顔を覗かせた。

 

 20代前半だろうか、ショートカットに白い道着に黒の袴を着けていた。


 俺は認可証ライセンスとバッジを提示し、それから”先生”の紹介状を出して来意を告げた。


『それはわざわざ遠くからご苦労様です。今叔父・・・・いえ、先生は稽古中ですので、中に入ってお待ちください』


 彼女が出してくれたスリッパを履き、上がり込む。


 六畳ほどの広さの部屋に絨毯が敷いてあり、その上にソファが置いてあった。


 どうやら診療中はここが待合室のようになっているらしい。


 奥の方で、時折何か掛け声と、何かが倒れるような音が聞こえてくる。


 向こうへ続くドアの上には『治療室』という札が掲げてあった。


 さっきの女性が盆に載せた茶を出してくれ、しばらくお待ちくださいといって、奥へと入って行った。


十分ほど経ったろうか、音が止み、さっきの女性がまた奥へと入ってゆく。


『どうぞ、お入りください』


 彼女の案内で、俺は奥の部屋に足を踏み入れた。


 飾り気のない部屋である。


 畳敷きで、凡そ十五畳ほどはあるだろうか。


 部屋の隅には折り畳み式の治療用ベッドが置かれてある。


 もう一方には座り机と座椅子があり、片側の庭に面した部分は全部硝子窓で、日の光が良く差し込んでいた。


 俺は入り口のところで膝をついて頭を下げた。


 礼儀知らずと思われては嫌だからな。


 その部屋の中央には、白い稽古着に黒い袴姿の、凡そ五十代初めと思われる男性が、やはり同じ格好をした若い男に二人きりで稽古を付けていたようである。


 二人は畳の中央で向かい合って礼をすると、そのまま分かれた。


 甲斐光信氏(なんだろう)は、礼をしている俺の前を横切り、一旦奥に消えると、掃除機と箒、そして塵取りを持って出てきて、端の方から丁寧に、弟子であろう若者、それから取次に出てきたあの女性と三人で掃除を始めた。


 俺は板の間に膝をついて、一通りじっとその光景を眺めていた。


 掃除が終わると、道具を片付け、座椅子に座り、机の前で書類に何か書き込んでから、初めて俺の方に向き直った。


 若者二人は礼をして部屋から出て行っている。


『失礼しました。お客様をお待たせしてしまって、まあどうぞ』


 そこで初めて彼が口を開く。


 良く通る、実にいい声だった。

 偏屈で気難しいと聞いていたが、何だかとても穏やかな紳士に思え、俺は少しばかり拍子抜けした。

  間もなく、さっきの女性がお茶を淹れて戻ってくると、茶托と一緒に俺達の前に置いていった。


『一週間の内、六日間は治療院をやって、木曜日だけ休診日にして、稽古に当てています』


『しかし表には流派の名前も、看板も掲げておられないようですが?』


 彼はあらかじめそうした質問を予測していたかのように静かに微笑み、


『特に宣伝はしてないんですよ。だからこれで収入を得ているわけではないのでね。あくまでも治療院・・・・整体と柔道整復師ですがね・・・・それが私の仕事です。武道の方は、習いたいと言ってくる人間にだけ、教えているに過ぎません』


 驚くほどはっきりした物言いだった。


 さっきの二人はその、習いたいといってきた、たった二人の弟子だそうで、


『女性の方は私の遠縁の姪で、男性の方は最初は整体を習いに来たんですがね。何時の間にか武道の弟子になっていたというわけです』






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