pirouette ~ただいまを言わない女の子~
@smile_cheese
pirouette ~ただいまを言わない女の子~
あの日、『濱岸ひより』の人生は加速した。
まだ10歳にも満たないひよりは退屈そうに丸めたパンフレットを振り回していた。
周りの大人たちは始まりを告げる音を今か今かと待ち望んでいる。
ひよりにはこれから何が始まるのかも分からなかった。
ひよりがあくびをしかけたとき、会場にブザーの音が響き渡り、暗転と共に舞台の幕が上がった。
薄暗い舞台の中央には長身の少女が凛とした表情で立っていた。
15歳くらいだろうか。ひよりの目には随分と大人びて映った。
幕が上がりきると一瞬の静寂の後にスポットライトが彼女を照らした。
少女はうつむいていた顔を上げると、ゆっくりとその長い手足を伸ばし踊り始めた。
その美しさに観客は魅了されていた。
ひよりもまた例外ではなかった。
あれほど退屈そうにしていたはずなのに、気がつくと2時間という時間があっという間に過ぎていた。
幕が下りると観客は立ち上がり一斉に拍手をし始めた。
カーテンコールが鳴り響くと、舞台袖から演者たちが現れた。
中心では主役の少女が笑顔で手を振っている。
ひよりは母親に彼女の名前を尋ねた。
その日から『佐々木久美』はひよりの憧れになった。
ひよりは家に帰ると「ただいま」も言わずにパンフレットを一日中眺めていた。
そして、すぐに自分もバレエを始めたいと言い出したのだった。
こうして、ひよりは久美が所属するバレエ団に入団した。
~10年後~
17歳のひよりは高校に通いながら、バレエを続けていた。
久美の背中を追いかけながら、自分もいつかあの大きな舞台で主役を演じることを夢見ていた。
共に高みを目指す親友や自分のことを慕ってくれる後輩も出来た。
親友の『松田好花』もまた同じようにあの日の舞台を見てバレエ団に入団した仲間だった。
二人は本当に仲が良く、一緒にいると笑い声が絶えない。
後輩の『上村ひなの』は掴み所がない独特の雰囲気を持ち合わせており、バレエを始めたのもつい最近のことだった。
ひよりたちと波長が合うのか、いつも二人にぴったりとくっついていた。
木曜日の放課後、いつものバレエ教室に三人は来ていた。
ひなの「ひより先輩、私のピルエットどうですか?上手く出来てます?」
ひより「うーん、もうちょっと重心が…」
好花「うんうん」
三人はいつものようにレッスンの前に自主練をしていた。
すると、三人の元にバレエの先生と久美がやって来た。
先生「ちょっと話があるんだけどいいかな」
三人はキョトンとした表情だった。
先生「久美が今日限りでこのバレエ団を辞めることになりました」
ひより「え?」
その瞬間、まるで時間が止まったみたいだった。
教室は静まり返る。
久美「私は明日からフランスに行く。自分が世界に通用するのか試してくる。いつ帰ってくるかも分からない。だから、迷惑かけないように今日でバレエ団を辞めることにした」
好花「そんな…」
久美「あなたたちには教えたいことがまだいっぱいあったんだけどね。私のわがままを許してほしい」
ひなの「久美さんが抜けたら、このバレエ団はどうなっちゃうんですか?久美さん、主役ですよね」
先生「それは…」
久美がそう言いかけた先生の声を遮った。
久美「私から言わせてください」
先生は静かにうなずく。
久美「ひより。主役はあなたよ。あなたが明日からこのバレエ団を引っ張っていきなさい」
好花「すごいじゃん!ひよたん!」
好花は自分のことのように喜び、ひよりに飛びついた。
ひなの「おめでとうございます」
ひなのは目に涙を浮かべていた。
しかし、ひよりは二人とは全く違い浮かない表情をしている。
ひより(久美さんが辞める?私が…主役?どうして?)
久美「ひより?」
久美がひよりの肩に触れようとしたとき、ひよりは溢れそうな涙を拭いながら教室を飛び出してしまった。
ずっと追いかけてきた背中だった。
目指してきた場所だった。
だけど、こんな形は望んではいなった。
ひよりは家に帰ると一目散に自分の部屋に閉じこもった。
ひよりの母「ひより!ただいまくらい言いなさい!」
ひよりは聞く耳を持たない。
鞄を放り投げると声を押し殺すためにベットに潜り込んだ。
ひよりの母「どうしちゃったのかしら、あの子。ごめんなさいね、紗理菜ちゃん。せっかく待っててくれたのに」
紗理菜「私は全然大丈夫なんですけど。ひよたん大丈夫かしら?」
ひよりのことを待っていたのは隣に住む幼馴染みの『潮紗理菜』だった。
ひよりとは5つほど年が離れており、一人っ子のひよりにとってお姉さんのような存在だった。
時々、お互いの家を訪ねてはおしゃべりをして楽しんでいる。
しかし、今日はおしゃべりを楽しんでいる場合ではないことは紗理菜にもすぐに分かった。
紗理菜「私に任せてもらえますか?」
そういうと、紗理菜はひよりの部屋のドアをノックした。
返事はなかったが、すすり泣くような音が聞こえている。
紗理菜「ひよたん?私よ、お部屋に入れてくれない?」
ひより「紗理菜ちゃん?」
紗理菜「開けるよ?」
ひより「うん…」
紗理菜が部屋に入ると、目を真っ赤にしたひよりが布団にくるまっていた。
紗理菜は何も言わず、ぎゅっとひよりを抱きしめる。
堪らず、ひよりは大きな声を上げて泣いてしまう。
紗理菜はさらに力を込めて抱きしめる。
紗理菜「たくさん泣いていいからね」
しばらくして、ようやく少し落ち着いてきたひよりは紗理菜にさっき起きたことを全て話した。
ひよりが話し終えると、紗理菜は再びひよりのことを抱きしめる。
紗理菜「うんうん。辛いね、辛いよね。ずっと前だけ見て頑張ってたんだもんね。うんうん」
紗理菜も目を赤くしながら、ひよりの顔に手のひらを当てた。
紗理菜「ちょっとくらい休んだっていいんじゃないかな?」
ひより「でも…今日だって勝手に帰っちゃったし、これ以上はみんなに迷惑かけたくないよ」
紗理菜「迷惑なんかじゃないよ。休むことは大事よ。それに、今のまま戻ってもみんな余計に心配しちゃうんじゃない?」
紗理菜の言葉はいつも優しさと説得力があった。
ひよりが一番安心できる場所なのかもしれない。
紗理菜「私も一緒に謝りにいってあげるから、ね?」
ひよりは無言でうなずいた。
紗理菜「あ!そうだ、ひよたんに渡そうと思ってたものがあるのよ。はい、これ」
紗理菜はひよりに何かの金属で出来た球体のようなものを手渡した。
ひより「これなあに?」
紗理菜「これはね、ガムランボールっていうの。振ると音がなるでしょ?この音を聴くとね、とっても心が落ち着くのよ」
ひより「紗理菜ちゃん、やっぱり変だよ」
こうやっていつも紗理菜はひよりに不思議なお土産を買ってくる。
ひよりにとってはどれもおかしな物に見えた。
けれど、ひよりはそんなおかしなお土産をどれも大切に飾っているのだ。
ガムランボールの音色は確かにひよりの心を落ち着かせた。
気がつくとひよりにいつもの笑顔が戻っていた。
紗理菜「よかった。いつものひよたんだ」
ひより「すごいね」
紗理菜「そうでしょ?効果抜群でしょ!」
ひより「違うよ。紗理菜ちゃんがすごいってこと」
紗理菜「えー、どうして?私なんにもしてないよ?」
ひより「そういうところだよ」
今度はひよりが紗理菜をぎゅっと抱きしめた。
すっかり安心しきったひよりはそのまま眠りについてしまった。
次の日、ひよりは学校を休んで気晴らしに街を散歩していた。
ふと、空を見上げると遠くの方で飛行機が飛んでいるのが見えた。
ひより(久美さん、もう行っちゃったのかな)
ひよりはまた涙が溢れそうになったが、グッと堪える。
ひより(このちゃんもひなのも怒ってるよね…)
ひよりが寝てしまった後、好花たちがひよりの荷物を届けに来てくれていたらしい。
しかし、ひよりの携帯には好花たちからの連絡は来ていなかった。
ひよりは何度もLINEに「ごめんなさい」の文字を打ったが、送信ボタンが押す勇気が出ずに書いては消してを繰り返していた。
一体、二人にどんな顔をして会えばいいのか。
逃げ出してしまった自分を果たして許してくれるだろうか。
一度は落ち着いたひよりだったが、考えれば考えるほどそんな不安な思いが込み上げてくる。
こうして、モヤモヤした気持ちのまま週末を迎えることとなった。
土曜日、日曜日とひよりはバレエの練習を休むことにした。
どうしても踏み出す勇気が出なかった。
明日からはまた学校が始まる。
さすがにこれ以上は休んでもいられない。
でも、でも、でも、
余計な考えばかりがひよりの頭の中をぐるぐると駆け巡っている。
そのとき、一通のLINEが届いた。
"ハロー♪"
"ひよたん元気?"
"日本に帰ってきてるんだけど、今から会わない?"
ひより「みーぱん…さん?」
差出人は『佐々木美玲』からだった。
美玲は久美の双子の妹で、パンが好きなことから『みーぱん』と呼ばれている。
美玲は有名なピアニストであり、世界中からオファーが殺到しているため日本にいることがほとんどなかったが、ひよりのことが大好きで日本に帰って来たときは必ず遊びに誘うのだ。
ひよりも幼い頃から美玲のことが大好きで、美玲からの誘いを断ったことは一度もなかった。
でも、今回ばかりは会わせる顔がないと思った。
ひよりは断りの返事を書こうとした。
"もう駅前のパン屋さんに着くから早く来てね!"
それを遮るかのように美玲からさらに連絡が来る。
昔から強引なところがあったが、不思議と嫌な感じはしなかった。
ひよりは観念して駅前に向かうことにした。
駅前のパン屋に到着すると、一際美人な女性がイートインスペースに座っているのが見えた。
ひより「みーぱんさん、お久しぶりです」
美玲「あ!ひよたーん!ごめん、ちょっと待ってね。あと一口だから」
美玲は食べかけのパンを口に詰め込むと慌てて牛乳で流し込んだ。
ひより「ゆっくり食べてください」
相変わらず慌ただしい人だなと思った。
美玲「じゃあ、行こっか」
ひより「行くって、どこへ?」
美玲「学校だよ!ピアノ弾きたいんだけどさ、家に帰るより学校の方が近いじゃん」
ひより「でも、みーぱんさんとっくに卒業してるじゃないですか」
美玲「ひよたんが一緒だから平気、平気」
またしても強引に美玲はひよりを連れて歩きだした。
学校に着くまでの間、美玲は世界中のパンについて熱く語っていた。
ひよりはただ頷くだけで一言も発しなかったが、これもまたいつもの二人の時間だった。
学校に到着すると、美玲は一目散に音楽室に向かった。
鍵が掛かっていたが、窓が空いていたため美玲は躊躇なく入っていこうとした。
ひよりは慌てて止めに入ったが、タイミング良く吹奏楽部が大会でいないため、音楽室には誰もいなかった。
美玲は長い人差し指でピアノの鍵盤をゆっくりと叩いた。
しかし、ピアノからは音が出なかった。
美玲「あれ?」
美玲は隣の鍵盤を叩いた。
すると、今度は綺麗に音が出た。
ひより「そのピアノ、最近壊れちゃったみたいで『ファ』の音が出ないんですよ」
美玲は驚いた様子で目を丸くしていた。
美玲「そうなんだ…うーん、それなら」
そう言うと、美玲は『ファ』の鍵盤を使わずに弾ける曲の演奏を始めた。
それは、とても美しい曲だった。
ひより「これは何て言う曲なんですか?」
美玲は困った様子だった。
美玲「うーん、分かんない。今作った曲だから」
ひより「え?即興で!?」
美玲「そうだよ。さっき頭の中に浮かんだんだ。せっかくだから名前を付けよっか。『ひよたんのテーマ』なんてどう?」
ひよたん「それはやめてください」
ひよりは呆れた様子で答える。
美玲「じゃあさ、『踏み出す一歩』なんてどう?」
ひよりはドキッとした。
全てを見透かされているような気がした。
美玲はさっきまでのとぼけた顔ではなく、凛とした顔つきでひよりを見つめていた。
美玲「久美から聞いた。あの子も人が悪いよね。私にも相談しないで全部勝手に決めちゃったのよ?」
美玲は立ち上がると、ひよりの肩をガシッと掴んだ。
美玲「久美から頼まれたの。日本に帰るならひよたんをよろしくって」
ひより「久美さんが…」
久美は逃げ出してしまった自分にひどくがっかりしたに違いないと、そう思っていた。
美玲「久美からの伝言、伝えるね」
『いつまで私の影に隠れているの?私からスポットライトを奪ってみなさい』
彼女らしいエールだった。
ひよりは美玲の胸の中で泣き崩れた。
美玲「フランスなんてさ、案外近いものよ。世界中を旅してる私が言うんだから間違いないでしょ?」
美玲はひよりをそっと抱き寄せると、背中をポンッと叩いた。
美玲「さあ、もう泣くのはおしまい!お腹空いてない?ひよたんの分のパンも買ってあるよ?」
音楽室で食べたパンはいつもより少ししょっぱく感じた。
もう、泣いてなんかはいられない。
ひより「ありがとうございました。私、もう行かないと!」
美玲「うん、行ってきな!また誘うから遊んでね」
ひよりは美玲に深くお辞儀をすると、バレエ教室に向かって一目散に走った。
教室では好花とひなのが二人だけで残って練習していた。
ひよりは息を切らしながら教室の扉を開いた。
ひなの「ひより先輩!?」
二人が驚いた様子でひよりのことを見ている。
ひよりは足を震わせながら、二人の元に歩み寄った。
ひより「このちゃん、ひなの。ごめんなさい!」
ひよりは深く、深く頭を下げた。
ひより「許してくれなくったっていい。でも、もう一度、もう一度、ここでバレエをやらせてほしい。お願いします!」
ひよりがこんなにも大声を張り上げて叫んだところを二人は初めて見た。
好花がゆっくりとひよりに近づく。
好花「ひより。一発殴らせて」
ひなの「好花先輩!」
ひより「いいの!一人で逃げ出した私が悪いの」
好花が開いた手を振り上げる。
ひよりは覚悟を決めて歯を食い縛った。
ひより「え?」
大粒の涙を流した好花がひよりを力いっぱい抱きしめていた。
好花「おかえり、ひよたん」
好花は怒ってなんかいなかった。
先生と久美からしばらく一人で考える時間をあげるために一切の連絡を断つようにお願いされていたのだ。
ひより「ごめんなさい。本当にごめんなさい」
ひよりも大粒の涙を流した。
ひよりは「ただいま」の代わりに「ごめんなさい」をたくさん言った。
好花とひなのも同じように「ごめんなさい」を繰り返した。
ひなの「ひより先輩、また私のピルエット見てくれますか?あれから必死に練習したんですよ」
止まっていた時間がまたゆっくりと流れ始める。
??「おかえり、ひよたん」
振り返ると、扉の前には美玲と紗理菜が立っていた。
紗理菜「もう一緒に謝る必要はなさそうね」
ひよりはまた「ただいま」を言わなかった。
その代わりに、震えた声で「ありがとう」と言った。
みんなはひよりの元に駆け寄ると、嬉しそうに笑顔を浮かべながら抱き合った。
ひよりは最後まで「ただいま」を言わなかった。
~3年後~
ひよりは空港で誰かが来るのを待っていた。
??「久しぶりね」
迎えに来たのは久美だった。
久美「何しに来たの?そんなに大荷物で。ここはフランスよ?」
ひよりはにっこりと微笑むと、凛とした表情を見せこう言い放った。
ひより「スポットライト、奪いに来ました」
ひよりの言葉に久美も思わずにやりと微笑む。
久美「おかえり、ひよたん」
二人は空白の時間を埋めるかのように、強く、強く抱きしめ合った。
ひより「ただいま」
完。
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