第28話 逃走
気が付いた時には灰色だった……。
「これが……死?」
混濁する意識の中で、目に映る灰色。意識を取り戻したイーデンは徐々に記憶を手繰り始める。
「あの瞬間。クルルに言われるままに。目を瞑って、耳を塞いでいた」
彼は思う。あの時、瞼に光を感じて眩しいと思った。耳を塞いでいても鼓膜をつんざくような爆発音がして……。だから耳鳴りが今もする?!
灰色一色だと思った視界は、徐々にグラデーションを捉え、首を傾けた先に午後の太陽が薄霧の先にぼんやりと光っているのが見えた。
「気が付いたかイーデン。手を貸せ」
声の方へ振り返ると、所々服が焼け焦げて欠落し、髪もチリチリになったブランケンハイムが腰を屈めて手を差し伸べてきていた。彼の手を取って立ち上がるイーデン。周囲を見回して、自分が焼け野原の真ん中に立っている事を認識した。
「一体どうなってるんですかエドガー?」
「クルルが噴き出した水銀が火災の熱で蒸発し、エーテルが放出されたんだ。そのお陰で、爆発か起こり建物ごと吹き飛んだという訳さ」
「そっか、だから焼け死んだり煙中毒にならなくて済んだのか! 助かったぁ……って、クルルは?!」
「大丈夫、ほら……」
今にも彼女を探しに飛び出しそうな彼にブランケンハイムが顎をしゃくって居場所を示した。へたり込むゴリアテの足元でシャーロットに介抱されながら横になっているクルルの姿がそこにはあった。
「クルル!!!」
駆け寄った彼が見た彼女は、一人だけ服すら汚れも無く、スヤスヤと寝息を立てていた。そんな彼を見た煤けた花嫁衣裳のシャーロットが顔を赤くして抗議の声を上げる。
「ちょっと! レディの前なんだから、少しは隠しなさいよ!!」
「え? 何を言ってるんだ?」
訳も分からずシャーロットに近付こうとした所、逆に距離を取られ赤面する彼女が顔を両手で覆いながら必死に叫んだ。
「自分の姿が分からないの変態!!」
「うわぁわぁ!」
イーデンは言われるままに自分の体を見てみると、着ていた服がほとんど袖口だけ残し焼け落ちて、他に残るは靴とパンツくらいになっていたのだ。慌ててしゃがみ込むイーデンの横に、これまた服がかなり焼け落ちた女性がやって来た。
「まったく、ネンネちゃんはこれだから……」
頭巾が焼け落ち、ブルネットの長髪を靡かせるシスター・ジュスティーヌ。支えにする左腕からは豊満な胸がこぼれ落ちそうになっていた。まるでベネチアの裸婦像のような妖艶さに鼻の下を伸ばすイーデン。すぐに嫉妬したシャーロットが襲い掛かり彼にヘッドロックをかけるのだった……。
「お遊びはそこまでにして、早く逃げるぞ」
ブランケンハイムの言葉に、シャーロットに頭を抱えられたままイーデンは訝し気な視線を送った。
「エドガー。火事になる前、イギリスの連中は始末したって言ってたよね? それは、鉱山技師たちを殺したという事なのか?」
「我々は虐殺はしないが、戦争の相手と命の取り合いをすることを否定できない。彼らは鉱山技師に偽装したスパイだ。向うだって我々の事を知ったら殺しただろうさ」
「でも、あいつらの事を僕は知っていたんだ。クソ野郎どもだったけど、気の良い奴らで……」
「イーデン。今は争っている場合ではない。ここに残ってグズグズしていては、植民地軍がいずれはやってくる」
人殺しをしても平然とした態度で弁明するブランケンハイムを見て、本当にこの男に付いていって良いのか、決めかねるイーデン。そんな彼の考えなどどこ吹く風、シスターは面倒くさそうに口を挟んで来た。
「着替えたいから、早く決めて頂戴」
そして、シャーロットも「イーデン。あなたの考えに付いていくわ」と、間接的にではあるが決断を迫ってきた。
「ここは大人になれイーデン」
「納得は出来ないけど、今は一緒に行動しよう。だけど、完全に信用した訳じゃ無いからなエドガー!」
結局、誰かを頼らなければこの窮地を脱することは難しい。そう考えたイーデンは、薔薇十字団に従い焼け落ちた鉱山集落を後にした。
クルルを背負って歩くイーデンは、哲学者の水銀で彼女の傷が塞がったことや飲むことで力を取り戻した事に思いが及ぶ。そして、なぜそうなることブランケンハイムが知っていたのか? 彼は当事者に疑問をぶつけてみることにした。彼の質問にブランケンハイムが返答する。
「哲学者の水銀はエリクサーの働きもする。但し、これはエリクサーとしては半端だから彼女にしか効かないがね。まぁ、彼女から分け与えられたエーテルを彼女に戻したのだから、拒絶反応は起こらないと掛けに出たのさ」
「エリクサー?」
「イーデン。君はもう少し錬金術について勉強する必要がありそうだな……」
「薔薇十字団はニュートン卿すら知らない知識を持ってるという事ですか?」
「まぁ、その辺は。フフフッ、おいおい話して進ぜよう……」
久々に見るブランケンハイムの気味の悪い笑いに、気が削がれた彼はそれ以上食い下がることが出来なかった。
集落を出てしばらく進んだ森の中に、ブランケンハイムの4頭立ての幌馬車――ボストンで奴隷狩りから盗んだ――が隠されていた。全員が乗り込むと、西を目指して走り出した。
「このままアパラチア山脈を迂回して、五大湖にたどり着けば我々の領土よ」
焼け落ちた修道着の代わりに男物の衣装を着たシスター・ジュスティーヌ。ぶかぶかの服から覗く白い柔肌にドギマギしながらも、イーデンは平静さを装って言葉を紡ぐ。
「このまますんなり仲間になるなんて言ってませんよ。もちろん、王立協会に渡すつもりも無いですけど」
「でも、この先はフランスの領土よ。その子の故郷が何処にあるかは知らないけど、我々の協力なしにたどり着けるのかしら?」
一枚上手のシスターに返す言葉が見つからず口をつぐむイーデン。彼女は、あざ笑うかのように笑みを見せてその場を離れていった。
幌馬車は夜通し走り続ける。真っ暗な森の中をどのような技術で走り続けられるのか計り知れない。何某かの薔薇十字団の持つ錬金術が使われているのだろう。そんな事を考えるうちにイーデンはあることに思い当たった。
「何で、哲学者の水銀は完成してたんだ?」
横で眠り続けるクルルの顔を見た。何にも考えていないような幸福そうな顔をして眠るその姿は、いつもと何ら変わらないものだ。すぐ隣では、シャーロットが心配そうに見守り続けていた。
「こんなに眠り続けて大丈夫なのかしら?」
「心配いらないよシャーロット。クルルはいつもこんな感じで、ほとんど寝てるんだ」
「ふーん……。クルルの事、良く分かってるのね」
「そんなんじゃないよ。こいつの事を理解するなんて一生かかっても無理な事だけは確かさ」
彼女にはクルルの事を話すイーデンの表情がとても嬉しそうに見えて、複雑な気持ちになった。二人の間には自分など入り込めない深い絆で結ばれているに違いない。そして、クルルの穢れの無い無垢な精神、その純粋さに、敵うはずもないと憧憬と嫉妬の混じった思いに耽るのだった。
「ううぅん……」
「目を覚ましたわ!」
周りが騒がしかった所為か、十分な眠りを取ったからなのか、彼女が目を覚ました理由は定かではない。しかし、心配していたシャーロットのみならずイーデンも、喜びを爆発させた。
「寝すぎなんだよ! お前は!!」
「ありがとうクルル!」
いきなり二人に抱き着かれて、目を丸くするクルル。笑顔のまま涙を流すこの人たちは一体、どうしてしまったんだろうと不思議そうな顔をして彼らを見るのだった。
「ところでさ」イーデンが言った。「お前、本当はエーテル、いやクルラを哲学者の水銀に注いでくれていたのか?」
「あ、あう……」
「いきなり訳の分からない話して、クルルが困ってるじゃないの?!」
「シャーロット。これは大事な事なんだ」
いつもと違う彼の真剣な目に、彼女は返す言葉が見つからない。彼はクルルの両肩に手を置き、正面で向き合った。
「何で、嘘をついたんだ?」
「嘘はついてません! ただ言わなかっただけ……」
「ほら! やっぱりクルラを注いだんだな!」
「それは……」
「それは?」
応えの代わりに、彼女の大きく見開いた目から一筋の涙が流れ落ちた。それを見た彼は胸騒ぎせずに居られない。彼女の哀しみが心にそのまま入り込んで来たように胸が締め付けられた。
「もういいでしょ!」シャーロットが二人の間に割って入った。「理由を言いたくないならそれで良いじゃない! きっとイーデン、あなたを助けたいと思ったのよ! だけど、彼女は恥ずかしいから言えないだけかもしれないじゃないの!! 所で、その哲学者の水銀って何よ?」
「え?! 教えてなかったっけ?」
それからイーデンは、哲学者の水銀について彼女に説明を試みたが、なかなか要領を得なかった。科学知識や錬金術に興味の無いシャーロットにとってはまったく信じがたい話だったのも無理はない。最後には匙を投げそうになったところで、実物を見せれば良いじゃないかと思いつく。
「おいクルル! 哲学者の水銀は?」
「クルルは持ってませんよ」
「え?! 最後に使ったのはお前だろ? まさか無くしたんじゃ」
「火事のときに使って、眠って起きたらありませんでした。あ! でも、この近くに感じます。あっちに有りますよ!」
クルルが指さしたのは馬車の先頭部分。つまりそこに居るのは、
「エドガー……」
イーデンは、一筋縄ではいかない相手からどうやって哲学者の水銀を取り戻したらよいのか途方に暮れるのだった。そして、いつしか皆が眠りにつき、夜明け頃、シスターの怒鳴り声で目を覚ますことになる。
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