第15話 渓谷
幌馬車隊はマサチューセッツを抜けて、すでにニューヨーク植民地に入っていた。奴隷のような酷い待遇が続くのかに思われたイーデンも、日中ほとんどの時間を移動に費やす旅なので、朝夕の野営の準備ではこき使われたもののそれ以外の時間は比較的暇だった。しかし、彼にとって重要なシャーロットと会える時間は、その忙しく働く間しかなかったのだ。
「川まで水を汲みに行ってくるよ!」
「おい! まだ竈の準備が出来てねぇぞ!」
一緒に作業していた下働きの声を無視して、一目散に駆け出したイーデン。夕食の準備を進めながらも、シャーロットの幌馬車を終始気にかけていた彼は、彼女がバケツを持って歩いていくのを今か今かと待ち構えていたのだ。
「やあ! 奇遇だねぇ。君も水くみかい?」
「悪知恵だけは一人前ねイーデン。でも、レディに重いものを持たせたままなのはいただけないわね」
「おっと! これは気が付きませんでマイレディ」
イーデンは彼女のバケツをひったくるように受け取り、両手に自分の持ってきた分も含めて3つのバケツを下げることになった。
「いっしょに歩いている所、クルルに見られて良いの?」
「え?! どうして?」
「だって、あんた彼女に夢中なんでしょ? いつも、一緒にいるじゃない」
「何を言い出すんだよ。アレは利用してやろうと……」
「何を利用してやろうなんですかぁ?」
突然、クルルが後ろから首を突き出し、二人の間に割って入ってきた。
「お、お前! いつから居たんだよ!」
「イーデンの水って声が聞こえたので、水浴びしたいなぁって思って、飛び起きたのですよ!」
「イーデン。あんたも臭うから、一緒に水浴びしたらどうかしら?」
「そんなはずは……。あれだ! 鉱山技師連中のタバコの匂いがこびり付いただけだよ! なんかつれないなぁシャーロット。機嫌悪くなるようなこと僕が言ったかい?」
「あんた、そこにいるクルルにも求愛したそうじゃないの? どうか結婚してくださいって」
「あれは話の流れで冗談として言っただけで……って、あれ? なんで怒らないんだクルル? 見ず知らずの人にクルルと呼ばれてるぞ!」
「シャーロットは
「お前らいつの間に仲良くなったんだよ……」
幌馬車の旅の間、こうしてイーデンとシャーロットがまた話す機会を持つ以前に、クルルはシャーロットに介抱してくれたことのお礼を言いに行っていた。その時から、彼の知らぬところで彼女らは親しく付き合うようになっていたのだ。もちろん、イーデンの事が話題にならぬはずも無く、クルルの簡潔すぎる説明がシャーロットに多少の勘違いを招かせる結果となり……。
「クルルからあんたの悪行はよーく聞いてるんだから!」
「悪行って何?! 訳が分からない!」
「彼女を利用するために求婚したり、瀕死の彼女を川に沈めたり、水浴びする彼女の裸に鼻の下を伸ばしたり、ふたりっきりの時は抱き合って眠ったりしてたんでしょ? 彼女が優しいからって、何でもしていい訳じゃ無いのよ!」
「シャーロット! 何か大きな勘違いをしているぞ!! 君は事実を大きく捻じ曲げて理解しているんだ。彼女に西洋の常識は通用しないんだよ! 細かく説明すればきっと、僕が潔白だと分かるはずだ!」
二人の痴話喧嘩など我関せずなクルルは、全く関係ない事を口にした。
「そんなことより、シャーロットも一緒に水浴びするのです」
「な、何を言い出すのよクルル! 私は、ちゃんと毎日、濡らしたタオルで体の隅々まで拭いているわ」
「でもでも、頭は洗えてないじゃないですか! シャーロットの髪の毛から変な臭いもするし」
「はぁ? 良い匂いしか漂ってこないぞ! クルルお前、鼻がおかしいんじゃないか?」
「そ、そうなのかしら? もしかして、香水じゃ誤魔化しきれて無い?!」
シャーロットはクルルの言葉に動揺を隠せない。そんな彼女を見て、イーデンはニヤニヤしながら言葉を口にした。
「やっぱ! ここは、クルルと一緒に水浴びしてみるのも良いんじゃないかな? なんせ、ソウルメイト……。グェッ!!」
シャーロットの右フックが彼の鳩尾を無慈悲に強打し、しばらくは話すことができなくなった。
しばらく道を下って行くと、土手の下に清流が現れた。川の流れを目にした途端、クルルは服を脱ぎ捨てて川に飛び込んでいった。慣れっこのイーデンと違って、シャーロットは驚きのあまり呆然とその様子を眺めていたが、すぐに我に返ってイーデンの目を両手で塞ぐのだった。
「な? クルルの常識は僕らにとっては非常識なんだよ」
「だからって、今も鼻の下伸ばして眺めてたじゃない、変態!」
「分かった分かった! 後ろを向くから。これで良いかな?」
目を抑えられながら、ゆっくりと反転し、彼女が手を退けると、嬉しそうな笑顔を湛えた彼の顔が思いのほか近くに有ることに気付いた。間近で見つめられる恥ずかしさに頬を赤らめ、顔を反らし気味にするシャーロット。
「何よ。ニヤニヤしちゃって」
「君が婚約してようと、僕は諦めないよ。男爵家だか何だか知らないが、辺境の開拓地に飛ばされる奴なんて、大したことないに決まってるさ。絶対に化けの皮剥がして、御父上に僕の方が断然有力だと分からせてやるさ」
イーデンは移民団の間を聞き込みをして周り、おおよその情報を掴んでいた。それによると、とある男爵家が辺境の鉱山開発の権利を得て、周辺を開拓地として整備する予定なのだという。その開拓地の当主の息子に、どういう経緯かは謎だが、美しいと評判のシャーロットを嫁がせることで窮地からの一発逆転を彼女の父親が狙っているという事なのだ。
「そんなこと言ったって、あんた文無しじゃないの」
「それも、すぐに何とかするよ!」
「あんたって、口先ばっかり! 今すぐ私を連れ去って駆け落ちする度胸なんて、これっぽちも無いんでしょうよ! もう、あんたなんか期待した私がバカだったわ!! この意気地なし!!!」
散々喚き散らした挙句、シャーロットは来た道を引き返していった。その勢いに圧倒された彼は、しょうも無いことを彼女の背中に向けて口走ってしまう。
「バケツはどうすれば?!」
「私の幌馬車の前に置いときなさい!」
振り返った彼女の頬に流れる涙が、夕陽を反射して輝いて見えた。
一週間後、もはや村らしい村は見当たらなくなり、この先の渓谷を抜ければ目的地は目前という所までやって来た。いつもの様に賭博に興じているマイケルが、珍しく起きているクルルに向って声を掛けた。
「頼むぜ嬢ちゃん。生きの良いインディアンを雇えなきゃ始まんねぇぜ! これっぽっちの鉱夫じゃ話になんねぇからよー」
「クルルに任せておけば大丈夫なのです! クルルはすべての民に一目おかれてますから」
「こいつに任せておいて大丈夫なのだろうか……」
クルルを頼りにしているマイケルを見て、一抹の不安を覚えるイーデン。今までの経験から言っても、クルルの常識はこちらにとっては非常識な事が多いのだ。だが、その心配は別の形で現れることになる。それは、幌馬車が渓谷の険しい道を一列になってゆっくりと登っていく時に起きた。移民団の多くは、馬の負担を減らすために荷台から降りて後ろを歩いていて、イーデンはあれ以来、遠巻きにしか見ることが叶わなかったシャーロットと間に3人を挟むばかりの近さにいた。
「はぁ……」
「どうかしましたか? イーデン」
「黙って歩けよクルル」
気の抜けた顔をしてシャーロットの後ろ姿をため息交じりに眺めるイーデン。クルルは単に調子が悪いか食あたりにでもなったのかと思っていた。
登り道も終わりが見えてきた頃、
『ギャー!』
『敵襲だ!!』
前方がにわかに騒がしくなった。そして、
『グェッ……』
『キャー!!』
隊列の一人、中年の男が胸に矢を受けて卒倒した。横にいた夫人らしき女性の叫び声が渓谷に響き渡る。一気にパニックに陥り、てんでばらばらに逃げ惑う人々。しかし、後方に目をやると道を塞ぐように馬上のインディアンが弓矢を持って待ち構えていた。
「おー」馬上の男を眺めながらクルルが呑気に答えた。「アレはゴルキン族ですね」
「急いで、馬車の下に隠れるんだ!」
マイケルが叫び、周りの人々はそれに従って駆け出した。イーデンはボーっと立っているクルルを抱えて後に続き、目の前でオロオロするシャーロットの腕を掴んだ。
「シャーロットこっちだ!」
「こら! 汚い手で娘に触るな!」
「お父様。そんな場合じゃないでしょ! はやく!」
イーデンたちは何とか馬車の下に逃げ込んだ。しかし、銃で応戦するもこちらの戦力は劣勢のようだ。
「ちっ」マイケルが舌打ちをした。「完全に挟み撃ちじゃねぇか。計画的に狙ってやがったな」
「おいクルル! 何とかできないか?」
イーデンは、ムカつくほど普段通りにのほほんとしているクルルに聞いた。しかし、彼女の返答はツレないものだった。
「クルル、争い事は、どちらの方にも加担しません」
「僕やシャーロットが死んでも良いのかよ?! 哲学の水銀だって作れなくなるぞ!!」
「うーん、それは困りますねぇ」しばらく考え込んだ挙句、「それじゃあ、ちょっとクルルが良くしてくれるよう話してきますね」
ニッコリと笑顔で応えると、クルルは単身、人間離れした跳躍で幌馬車の上をぴょんぴょん飛び跳ね越えていき、争いの先頭に躍り出ると、何事か聞き取れない言葉で叫んだ。するとインディアンの雄叫びと弓矢による攻撃がピタリと止まった。イーデンも遅れて先頭に駆け付けた。しかし、固唾を呑んで交渉の様子を見守るしかない。身振り手振りを交えて、小柄な少女と馬上の勇猛な戦士が会話をする姿は、傍から見れば滑稽な感じがした。しばらくして話がまとまったらしく、クルルが戻ってきた。
「どうだった?」
「上手くいきましたよ」
「本当か! よかったぁ~」
「とりあえず5人程、仇として頭の皮を剥いで、残りはみんな奴隷にするそうです!」
「何処が上手くいきましただよ……」
こうして、クルルの交渉のお陰で、襲撃は止んだものの、移民団の人員は奴隷として幌馬車ごとインディアン達の居留地へと連れて行かれることになったのだ。
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