第13話 コンコード

 チャールズ川からケンブリッチに上陸し、街道沿いに西へと進む。夕方近くには、目的地のコンコードの村が見えてきた。牧草地に沈む夕日を覆い隠すように、リョコウバトの大群が西の空を埋める。

「はぁ、疲れた」

 イーデンはため息をついた。昨日の夜遅くに脱獄してから、一睡もしないで30キロの道を歩いてきたのだから無理もない。クルルの方はと言えば、全く疲れた様子が見えないばかりか――初夏の太陽を浴びた所為なのか――、より一層元気いっぱいになっていた。

「こっちです!」

「おい……、ま、待ってくれ……」

 いきなり道を左に逸れて駆け出した彼女に、掛ける声すら息絶え絶えのイーデン。こんなところで、はぐれるわけにはいかないと、息も絶え絶えに森の中へと続く小径を追いかける。通り沿いにはチラホラと粗末な掘っ立て小屋が並んでいた。そんな人工物も無くなり、先の見えない鬱蒼とした森に入って行くと、突然、目の前の視界が開けた。

「池?」

 目の前に広がる大きな池の畔で、クルルが両脚を水に漬けているのが見えた。まるで鏡のような静かな水面は、彼女の入れた両脚の辺りから緩やかな波紋が広がり、複雑に入り混じった空の照り返しを反映して、橙と紫色の彩りが夕暮れ時の池の畔に幻想的な雰囲気を醸し出していた。

「イーデン。ここの水は澄んでいて美味しいですよ」

 彼女は、後ろに寝っ転がり気持ちよさそうに目を瞑った。夕暮れ時の池に佇む一人の少女。その美しい光景に見とれて彼は足を止めた。彼は思った、その景色は、いつまでも眺めていたい静謐で神々しい風景画のようだと。


「どうかしましたか?」

 クルルは目を開けて、ボーっと自分の事を見下ろすイーデンを不思議そうに見つめ返した。彼は、池に佇む彼女に吸い寄せられるように池の畔にやってきていた。そして、その表情は何処か心ここにあらずといった感じだ。

「あ、いや! 何でもない!! ちょっと、疲れてるだけ……」

 我に返った彼は、頬を紅くしてそっぽを向いた。

 日がすっかり暮れる前に、彼らは池の畔で休む準備をした。月明かりが水面に反射して比較的明るい事もあり、火も熾さずにそのまま池の近くの砂地に横になる。食事は、歩いて来る途中にクルルの見つけた木の実と池の水を手ですくって飲んだ。

「おやすみなさい」

 クルルは横になった途端に深い眠りについて寝息を立て始めた。イーデンは彼女の隣で横になりながらも、背を向けて目を瞑った。そして、彼は彼女に見とれてしまった事を考える。いつからこんな気持ちになったのだろうか。単なる粗野な未開人の娘だと思っていたのに、どんなときも陽気で楽しそうだからだろうか、いつも前向きで諦めない所だろうか、そんな彼女が落ち込んだ時に、どうしようもなく助けてあげたいと思った。いや違う、利用しようと考えたんだ。情が移ってはダメだ! 立身出世のためには、彼女を騙し通して、最後には裏切らなければならない。でも、それが本当に正しい事なのだろうか? 

 彼は感情が高ぶり身震いした。すると、背中に柔らかく温かな感触が襲ってきた。

「震えてましたけど、寒いですか?」クルルが耳元に囁いてきた。「クルル、寒い夜は、こうやってくっついて温めるんですよ」

「うっ……」彼は一瞬、息が詰まった。「そうなのか……」

「イーデンの背中、暖かくて気持ちいいです……、むにゃむにゃ……」

 彼の体温は急激に上昇していた。虫への恐怖があるものの、彼女を突き放すことができない。そのまま二人は疲れていたこともあり深い眠りに落ちていった。 


 翌朝、イーデンは聞き慣れない野太い声に起こされた。

「おい! 起きろ!」

「あれ? クルル?!」

 上体を起こして、あたりを見回すと、そこには上から見下ろしている黒く長い髭をはやした若い男のみ。

「見かけない顔だな。脱走した奉公人か?」

「ち、違いますよ! 奉公人がこんな上等の服を着ていますか?!」

「はぁ?! そんな薄汚ない恰好で良く言えんなぁ、おまえさん」

「失礼な! これは、地面で寝そべってたから汚れただけで、生地はヨークシャー産の上等なウールですよ!」

「ハッハッハ!」彼の素っ頓狂な弁明に男は声を出して笑った。

「なんだよ」

「どうやら助けは要らないようだね。逃亡奴隷や奉公人なら助けてやろうかと思ったんだけれども」

 見た目と違って、良い人そうだと思ったイーデンは、立ち上がり服についた砂を払うと、物欲しそうな上目遣いで男を見上げた。

「もちろん奴隷でも逃亡者でもない。けれど、僅かばかりで良いので食べ物を分けてもらえたらありがたいんだけども……」

「面白いやつだな。ベーコンと卵で良いなら食わせてやるよ」

「よっしゃ!」

 ようやくまともな食事にありつけると、近くにある男の小屋へ歩いていくイーデン。しかし、ほっと胸をなでおろす間もなく、姿の見えなかったクルルがいきなり上下逆さまの姿で目の前に現れた。

「うわっ!」尻もちをつくイーデン。「いきなり現れるなよ!」

「君の知り合いかね?」

 木の枝から逆さまにぶら下がるクルルを興味深げに見ながら男が聞いてきた。

「え、まぁ、これには深いわけが……」

「なるほど、インディアンの奴隷と恋に落ちて一緒に駆け落ちしたってヤツか! やはり逃亡者じゃないか」

「違う違う! そういうんじゃないですよ」

 イーデンは慌てて否定した。クルルは枝からくるっと一回転して地面に着地してた。

「そうですよ。イーデンがクルルの奴隷ですよ! そこを間違えるのはダメですよ!!」

「違うだろー! いつから僕がお前の奴隷になったんだよ!」

「だって、クルルがクルルの住むレッドウッドの森へ一緒に連れて行くのだから、イーデンはクルルの奴隷じゃないですか!」

「なんだよ! その謎理論は……、お前、本当に頭おかしい奴だな」

「ひどいこと言うと、お仕置きなのですよ!」

 クルルは彼に掴みかかると、彼女の頭から虫が一斉に湧いて出てきた。

「わ! やめろ! やめて! ここは落ち着こうじゃないかクルルさん!!」

 イーデンは無下もなく彼女に地面へ抑え込まれるのであった。

「そのくらいにして、君も朝食に付き合わないか?」二人の喧嘩を微笑ましく見ていた髭面の男の仲裁し、3人して近くの小屋へと入って行った。


 奥行き6メートル程しかない小さな小屋で、ベーコンと目玉焼きの粗末な朝食を出してもらう。クルルはイーデンが起きる前に集めた木の実をテーブルの上に広げた。

「クルルはクルルの分は取って来たので要りません」

「なんだ? 菜食主義者なのか?」

「こいつの分は僕が貰いますよ!」

 イーデンは、彼女の前に出された皿をひったくった。長い船旅の末にボストンについて、すぐにコットン・マザーに会いに行き、その後は騒動に巻き込まれたので、新鮮な食事――木の実は除く――にありついたのは久しぶりなのだ。その横では、クルルがドングリをそのまま口の中に放り込み、ボリボリ噛み砕いて飲み込んでいた。

「これはまた対照的な二人だね」

 カップに入った水を飲みながら、男は二人の様子を興味深げに見つめいていた。その眼差しは年の割には老成したところがあった。

 朝食も終わり、お互い、しばし簡単な自己紹介などを語らった。男の名前はヘンリーと言い、定職を持っているわけでもなく、ほぼ自給自足の生活を一人で営んでいた。イーデンたちの方も――逃走中な事は隠し――科学研究のためにレッドウッドの森を目指していると説明した。その後、幌馬車隊は夕方にならないと着かないのだから確認しに行くのは後で良いだろうということになり、時間つぶしに、ヘンリーに誘われて釣りに行くことにした。ちなみに菜食主義のクルルはする事がないので食べ終えたらすぐに寝てしまった。

 透明度の高い池を覗き込むと、フナに似た魚の群れが近くを泳いでいた。

「もうちょっと、大物を狙いたいね」

 ヘンリーはそう言うと、ボートが係留されているところまで移動し、二人して池の真ん中へと繰り出した。ボートの上から釣り糸を垂らし、退屈な時間が流れる。釣果が無く、しびれを切らしたイーデンは、ヘンリーに話しかけた。

「毎日、こんな風に暮らしてるんですか?」

「そうだね。たまには畑の面倒も見るけど、雨が降ったら家で本を読んで過ごすかな」

「退屈じゃありませんか? もっと畑を拡げれば収入だって増えるでしょ?」

「あくせく働いて疲弊することが良いとは私は思わない。今あるもので十分生きていけるからね」

「それじゃつまらなくないですか? お金があれば、大きな家だって買えるし、美味しいモノだって食べられる。なんだって手に入れられるじゃないですか。それに科学の進歩には、お金が必要ですよ。人類というものは、日々努力と研鑽を重ねて、この世界と万物の謎を解明し進歩を続けてきた。そして、今の時代は科学の名の下に於いて日々、以前では考えられないような発明が人類の生活を豊かなものに変えていってるじゃないですか!」

「科学の探求自体は素晴らしいことだと私も思うよ。しかし、そのことが人を幸せにしているかは疑問が残るね。進歩しているはずなのに富める者と貧する者の差は開く一方だ。君も見ただろうが、このウォールデン池に続く道沿いの粗末な掘っ立て小屋。そこに住むアイルランド移民たちは、豊かな生活を求めてアメリカにやって来たものの、僅かな賃金しか貰えず苦しい生活を送っている。以前は豊かな生活を送っていたインディアンたちだって、騙されて酒や銃と広大な土地を交換し、困窮生活を余儀なくされている。これを進歩がもたらした悲劇と言わずして何といえよう」

「だからって、何もしないことが良い事とは思えない」

「何もしないわけではないさ。日々自然から教えを受けているんだ」

「僕には良く分からないや」

「おっと! カワカマスが掛ったぞ」

 釣れた魚は、もちろんその後の夕食で出さた。その後二晩、ヘンリーの小屋に泊めてもらい。自然の中で退屈な時間を過ごしながら色々なことを語り合った。イーデンは、ヘンリーと話すうちに、彼に学があることに気がついた。聞いてみれば、ハーバード大学で学び、教師をしていたこともあるという。それなのに、こんな非生産的な暮らしを送っていることが、ますます理解不能に思えてきた。ただ、理解不能で有るがゆえに、理解したいという科学的探究心も沸々と湧いてきたのは事実だ。「足るを知る」とかいう知らない中国人の言葉を彼は言っていたけれども、人間の欲望は際限がないモノじゃないかとイーデンは思うのだった。

 ひと時の休息を過ごした後、3日目の夕方、街道で待ち構えていたところに、ようやくシャーロットの幌馬車隊がやって来た。

「旅の成功を祈るよ」ヘンリーが握手するために手を差し出した。イーデンはガッチリと彼の手を握った。

「色々ありがとうございました。戻ったら、何かお礼をします」

「大丈夫。私はすべて持っている。もし、戻る事が有ったら、旅の土産話を期待しているよ」

「さようなら! またいつか!」

 二人はヘンリーを残し、幌馬車隊の方へ駆けていった。

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