第11話 チャールズ川

 ボートは対岸を越えてチャールズ川の河口に入って行った。空が明るくなり始めた頃、ようやく汽水域を抜けたところでベンジャミンがボートを岸に寄せた。

「ここまでくれば、大丈夫だろ」

「おいクルル! 真水だぞ!」イーデンは、うつ伏せで寝込んでいたクルルに声を掛けた。彼女は、少し首を回し苦しそうな顔を見せた。

「ふぎゅー、く、クルルを川に……、落としてください」

「何だって?」

「早く、おねがいしますです」

「大丈夫なのか?」

「こいつに人間の常識は通用しないよ。言う通りにしてやるのが一番の解決法さ」

 心配そうに見つめるベンジャミンをよそに、イーデンは、そっとクルルを抱き上げて川に沈めた。彼女の頭だけは手を添えて、息が出来るように川面の上に来るようにした。

「頭も……、沈めてください」

「苦しくなったら言えよ」

 水の沈めてどうやって喋れるのか? というところだが、冷静な口ぶりとは裏腹にイーデンはクルルの事が心配で気が動転していた。更に悪いことに、彼女の頭を水の中に沈めると、なんと、髪の中から数十匹の多様な昆虫や芋虫などが逃げ出してきた。

「うわっ!!」驚き慄いたイーデンは、支えていた手を離してしまう。「しまった!」

 クルルは川の底へと沈み、すぐに姿が見えなくなる。

「は、早く助けなくては!」ベンジャミンが叫んだ。

 慌てて、飛び込もうかとボートの上の二人が縁に乗り出したところで、ザッパーン!! と、イルカのように彼女が飛び出してきた。というより、川底まで90センチほどの深さなので、ただ立ち上がっただけだった。

「ふっかーつ!!」

「ふっかーつ! じゃねぇよ! む、虫をなんとかしろ!!」

 クルルが飛び上がった所為で、かなり散らばってはいたが、未だ多数の虫たちが水面に浮かんでいた。

「ああー! ごめんなさいー! 虫さんたち」

 彼女はいきなり着ていた服を脱ぎ去ると、両手で抱えて虫を掬って救出することに取り掛かった。クルルの服は粗末で目が粗い。そのことが幸いし、水がすぐ下に抜けて網の様に難なく虫たちを集めることが出来た。

 しかし、男たちはそんな事よりも、日が昇る前の薄暗がりに照らされた――ふたりとも初めて目の当たりにする――うら若き乙女の無駄なく引き締まった、剥き出しの肢体から目が離せないでいた。

「なんと、興味深い眺め」

「こら! 見るんじゃないフランクリン」

 イーデンは、となりの男がスケベそうな表情で彼女を見つめているのに、何でか自分でも良く分からない嫉妬心のような感情がむくむくと沸き上がり、彼に飛び掛かって羽交い絞めにし、ボートに倒れ込んだ。

「なんだよ! 君の彼女って訳でもなかろう? 向うは恥ずかしがってないから良いではないか?」

「屁理屈言うな! このスケベ野郎!!」

「何遊んでるんですか?」

「あっ、クルル……」

 裸の彼女がボートの縁から身を乗り出してきた。細い体の割に豊かな胸が目に飛び込んでくるかと思いきや、その前で遮るように両手で抱えられ彼女の服。そして、その上には大量の蠢く虫たち。

「虫さんたち、先にお願いします」

「ギャー!!」

 

 上陸した3人は、火を熾し、暖をとる。但し、クルルはたき火から離れた所で、イーデンの脱いだブラウスを着て眠り込んでいた。虫たちは、彼女の髪の中へ戻り、粗末な服は火に当てて乾かしている。

 男たちの会話は、事件を巡ることから、やがて、お互いの身の上話に移行していった。イーデンの話を聞いて、ベンジャミンはため息交じりに口を開いた。

「はぁ……。印刷工から実験助手なんて、ロンドンはチャンスがいっぱいあるなぁ」

「おいおい! まるで運だけで出世したみたいな言い方じゃないか?」

 イーデンは、ベンジャミンの肩を拳で軽く小突いた。

「そうは言ってないさ、ウッドハウス。それなりに独学をしていることは認めるよ。だから、大人相手に要求を吹っ掛けられたんだし。だけど、大人の方も偉いよ。何処の馬の骨ともわからないガキの言う事を公平に聞き入れてくれるんだもの。俺の兄貴なんて、こっちが正しいことを言っても、生意気だと殴りつけるだけ。丁稚奉公だから給金も無いに等しいし、ほとんど奴隷同然だよ」

「そんなら、逃げちまえば良いじゃん」

「君なぁ、無茶な事言うなよ。ボストンは狭い町だぜ。すぐに捕まっちゃうよ」

「だったら、ロンドンに行けば良い」

「は?」

 ベンジャミンは、ニヤつくイーデンの顔をマジマジと見つめた。もちろん、ロンドンへ行きたいと思ったことが無かったわけではないが、こうもあっさりとした口調で、簡単な事のように言う彼に苛立ちと共に嫉妬心とも羨望ともいえない複雑な思いが湧いてきた。

「船員にでもなって、渡れば良いじゃん。科学にも興味があるんだろ? 科学の本場はロンドンさ。ジョージ・スターキーだって、ロンドンに渡ってロバート・ボイルの師匠になったんだし。まぁ、最後は見捨てられたみたいだけど」

「出来るかな、僕に」

 ベンジャミンは、首を回し、ゆったりとした大河の流れを見据えて呟いた。

「それは、お前次第さ」イーデンはいたずらっぽい笑みを浮かべて言った。「俺は、必ずエーテルの謎を見いだして、ロンドンに凱旋してやる。そして、王立協会やフリーメイソンでも重要な役職を得るんだ」


 熱心に話しあう二人の所へ、いつの間にか起きていたクルルが大きな葉っぱに木の実を集めたものを抱えてやってきた。

「白い人、朝ごはんですよ!」

「おい! 僕のブラウスがドロドロじゃないか!」

 彼女の姿を見るなり、イーデンは叫んだ。クルルの着る彼の白いブラウスは、木の実や土の下の根菜を探し回った為に、かなり汚れてしまっていたのだ。

「そんなことより、朝飯だ!」イーデンの頭に手を着いて立ち上がったベンジャミンは、一足先に彼女の元へ。「森の民のお嬢さん。ご相伴に預からせていただきます。うん! 甘酸っぱい」

「この辺りはベリーや木の芽がいっぱい成ってます。ホドイモもどうですか?」

「これは、炙って食べるとするかな」

「なんだい! 木の実ばっかで、お前ら鳥か昆虫か? 肉は無いのか肉は!」

「クルルはお肉は食べません。でも、ちょっと待っててくださいです」

 そう言い残すと、彼女は近くの木の下まで走っていき、素手で土を掘り返し出した。

「あー! また汚れる……」

「あったー!」

 すぐに引き返してきた彼女は握られていた手を開いて中身を見せた。

「どうです? 丸々太ってて美味しそうですか?」

「おい! ウッドハウス大丈夫か?!」

 イーデンが卒倒するのも無理はない。クルルの手の中に握られていたものは、うねうねと蠢く丸々と太った大きな白い幼虫……。


「さてと、僕はもうお暇させてもらうよ。コンコードまでは日が暮れる前にはたどり着けるだろう」

 イーデンたちは、東に30キロ程離れたコンコードをこれから目指す。そこはボストンを出発するシャーロットの移民団が通りかかる予定地なのだ。イーデンは、捜索隊がいそうなボストンではなくコンコードに先回りして彼女と合流し、移民団に紛れて西への旅を続ける腹積もりなのだ。

「達者でなー!」

 チャールズ川を下って行くボートに向けて、イーデンは大きく手を振り続けた。

 一方、ベンジャミン・フランクリンは、その一年後、兄の元を出奔しフィラデルフィアへ。そして2年後、ロンドンに渡る。またフィラデルフィアに帰ってきて、やがて王立協会員やフリーメイソン会員になり、アメリカ独立戦争や数々の発明で活躍するのはまた別の話……。


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