第9話 逃走と奪還

 夕暮れの通りをひた走り、クルルを追いかけるイーデン。北外れの所為か、人通りが全くない。足の速い彼女の姿は既に見失ったが、何処へ向かったか見当はついた。

 イーデンが第二教会にたどり着くと、果たして、脇にある別館の方からクルルの声が聞こえてきた。

「返して下さい!」

「近寄るな! この悪魔め!!」

 実験器具の並ぶ部屋の奥にある暖炉近く、マザーは煌々と燃え盛る暖炉の火を背にして立ち、二つの袋を両手に握りしめている。クルルは暖炉から少し距離を置いて立っていた。

「なんで、僕の時みたいに飛び掛からないんだよ?」イーデンは彼女の隣まで来て問いただした。

「ううぅ……。クルルは火が苦手なのですよ」

「ほほう……」イーデンはニヤリとすると、「なら、お先に!」

 暖炉の前に居るマザーとの距離を詰めた。

「マザー牧師。袋を渡してください。この件がニュートン卿にバレたら、大問題になりますよ」

「それ以上近付いたら、火に投げ込むぞ! ウッドハウス君」マザーは袋を暖炉に投げ込むそぶりを見せて、イーデンを牽制した。

「だめー!!」離れた所からクルルが叫んだ。

「お、落ち着いてくださいよ! マザー牧師。どうか早まったことをせずに! 哲学者の水銀、その謎を解明することがどれだけ科学の発展に寄与するか分かっているんですか!?」

「君はアメリカを知らないからそんな事が言えるのだ。我々の一世紀を超える未知なるものとの戦い。どれだけの犠牲を払って、この地に留まる努力を重ねて来たか。アメリカはまだまだ未開なのだ」

「未開だからこそ、科学の力で解明していくのが自然哲学者の矜持なのでは? マザー牧師、一緒に、哲学者の水銀の謎を解明しましょう。そうすれば、ニュートン卿も、王立協会の名誉ある職を用意してくれるはずです。僕だって成功すればケンブリッチのルーカス教授職に推挙するって言ってましたし」

「何だって?!」マザーは、大きく目を見開き驚愕の表情を見せた。「ルーカス教授職だと?」

「そうですよ。あのニュートン卿も若き日に功績を認められ就任した、あのルーカス教授職です。まぁ、断りましたけどね……」

 鼻高々に話すイーデン。そんな彼を眺めながら、マザーは諦観したような表情になった。

「やはり、あの噂は本当だったか……」

「噂って……?」

「ニュートンは狂ってる。完全に常軌を逸しているってことだよ」

 マザーは額に手を当て、天を仰いだ。

「なんで、そうなるんですか……」

「当たり前だ! こんな青二才をルーカス教授職だと? 狂ってなかったら、何だというのかね?」

「まぁ、確かに……」一瞬同意しそうになったイーデンだったが、かぶりを振って説得を試みる。「いやいやいやいや……。しかしですねマザー牧師! ニュートン卿は……、たとえ狂っていたとしても、その仕事ぶりは目を見張るものが有りますよ。僕が知るかぎりでも、造幣局局長として、先頭に立って偽札犯を探し出して捕まえたりしてますし」

「うるさい! つべこべ屁理屈を並べるな! どうも君は信用ならん」

 イーデンは、血走るマザーの目を見て、同じような目に過去にも出くわした事を思い出した。そう、ロンドンは王立造幣局で見た、ニュートンの狂気の目と全く同じ……。

「私自身で研究しようかとも考えたが、やはり危険すぎる。ええーい! すべて燃やし尽くしてやるわ!」

「止めろー!!」

「ダメですぅー!」

 マザーが両手の袋を同時に暖炉に投げ入れると、強烈な刺激臭とともに黒い煙が舞い上がった。

「ゲホゲホッ、こりゃたまらん!」

 マザーは、煙が充満する部屋から逃げ出した。

「くっそっ……、アチッ! アチチチッ!」

 イーデンは、すぐさま暖炉に手を突っ込み袋を回収した。しかし、哲学者の水銀はすでに、燃え盛る火にすべて流れ出てしまい革袋の中には残っていなかった。クルルの種が入った布袋は外側は焦げ付いていたが、中身は無事のようだ。

「大切な銀の水が……」

 クルルは呆然と立ち尽くし――煙の所為なのか哀しみの所為なのか――目から涙が溢れ出した。

「ゲホ、ゲホゲホッ! 逃げるぞ!」

 気の抜けたクルルの手を取り、イーデンは建物の外へ脱出した。第二教会から逃走し、数百メートル離れた所で息を整えるために立ちどまった。

「はぁはぁ、追っては来ないな。てか、あんなに煙あがってたか?」

 来た道を振り返ったイーデンが見た煙は、第二教会からのものではなく、ブランケンハイムやゴリアテたちが監獄に火を点けた事によるものだったが、その時の彼が知るはずも無い。

 イーデンが追手の事を気にしている横で、下を向いたクルルが呟いた。

「離してください」

「ん?」

「手……、離して」

「ああ、ごめん」イーデンは暗いままのクルルが心配になり声を掛ける。「どうした? 種はほら、取り返してやったぞ」

「ありがとうございます」下を向いたまま種の袋を受けとクルルは、そのまま歩き出した。

「おいおい! どこ行くつもりだよ?」

「レッドウッドの森へ帰るんです」

「もう遅いんだし、急ぐことないだろ?」

「白い人の持つ銀の水は無くなりました。残り少ない貴重な銀の水が無くなっちゃったのは残念ですけど、仕方がありません」

 そう言いつつも、クルルの目から涙が溢れ出した。

「おいおい、泣くことは無いだろ? 無くなったんなら、また作れば良いじゃないか」

「銀の水は、もう作れません。作り方はずっと前に失われました」

「へぇ、そうなのか。でも、僕は作れるよ」

「え?」

 クルルはイーデンの顔をぽかんと見上げた。

「君らの言う銀の水。哲学者の水銀を僕は作ることが出来ると言ったんだ」

「面白くない嘘は嫌いです。白い人が知ってるはずないです。知っていたら、欲深い白い人は、いっぱい金を作ってるはずですよ」

「いや、知ってるんだ。あの哲学者の水銀だってニュートン卿が作ったものだし、こっちに来る前に、僕は作り方を教わったもの。ただし、エーテルが少ないらしくて、金の錬成が出来ないんだ」

「エーテル?」

「万物に備わる生命の源の事だよ」

「何言ってるか分かりません」

「そうだな、ほら! クルルが奴隷商人に襲われた時に、種から木をものすごい勢いで成長させただろ? たぶん、あの不思議な力の事だよ」

「ああ、クルラですか。確かに、クルラを移せるのはクルルだけです」

「それだ! だから、僕が銀の水を作ってやるから、それにエーテル、君らの言うところのクルラを注入すればいい」

「なるほど! 白い人が作った銀の水をレッドウッドの森に持ち帰ってクルラを移せば良いんですね」

「いやいや、作った時にクルラを入れれば良いだろ?」

「それじゃ、クルラを移した途端にまた白い人は盗むんでしょ? 騙されませんですよ」

 イーデンは、自分の思惑通りに事が進まないことに、心の中で舌打ちした。しかし、このまま引き下がるわけにはいかない。彼は新たな解決策を提案する。

「じゃあ、こうしないか? 銀の水を作ってやるから、レッドウッドの森まで僕を連れて行ってくれ。これなら、君たちの村なんだし、僕一人だけなら盗まれる心配も無いだろ? 僕の望みは、クルラが、エーテルが注入された完璧な哲学者の水銀をこの目で見たいってことなんだ」

「うーん」クルルはしばらく考え込んでから返事をした。「分かりました。連れて行ってあげます」

 クルルとしても、残り僅かな銀の水を手に入れたかったので、とてもいい提案に思えた。しかし、イーデンの言葉の裏には、隠された策略があった。

「クックックック……(計画通り!!)」

「どうかしましたか、白い人?」

「な、何でもない! というか、その白い人という呼び名止めてくれないか? 僕にはイーデン・ウッドハウスというちゃんとした名前が有るのだから。イーデンと呼んでくれよ」

「ありがとうイーデン」

 クルルは、彼に抱き着いた。しかし、抱き着かれた当人は、顔を引き攣らせて彼女を引き剥がそうとした。

「わっ、離れろ! 僕は毛虫や芋虫が大嫌いなんだよ!!」

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