第3話 フリート・ストリートのコーヒーハウス
「アメリカですよ!?」イーデンはテーブルに身を乗り出した。
ニュートンの依頼を受けた翌日、イーデンは相談という名の愚痴を聞いてもらいに、スティーブン・グレイをフリート・ストリートにあるコーヒーハウスに誘ったのだ。本当は、タヴァンなりエールハウスが良かったのだがグレイは酒が飲めないのだ。
「ワシも若ければ行ってみたいもんだな」グレイは目を細めつつ向かい合うイーデンの頭の先へ遥か彼方を眺めるように眼差しを向けた。
「良く言えますね! 行くだけで2か月近くの船旅ですよ。すぐに見つけられなきゃ何年も広大な新大陸で探索を続けなきゃなんないし。しかも、探す相手は良く分からないインディアン」
「ワシもインディアンは一度しか見たことが無いが、赤土色の肌に無駄のない鍛え抜かれた体。野蛮人という割には物静かで大人しかったが、あの険しい黒い目はとても鋭くて、大自然をたくましく生き抜いてきた不屈の精神が宿っておった」
「それは、プロテスタントへ改宗したインディアンでしょ? 聞いた話だと、誰彼構わず襲いかかり、襲撃された村は女子供も皆殺し、悪趣味にも頭の皮を剥いで記念品に持ち帰る残忍な連中なんですよ!」
軽い気持ちという訳ではなかったが、哲学者の水銀に魅せられるまま引き受けてしまったことにイーデンは後悔し始めていた。
「だが、自然哲学者としての将来を約束されたようなもんじゃないかイーデン!」
「成功すればね。はぁ、確かに奇跡を間近に見せられたけど、本当にアレが金を生成したりできるなんて話は、にわかに信じられないですよ。しかも、ニュートンの水銀は光らないけど、インディアンの水銀はエーテルの力で青く光るって」
ニュートンは30年ほど前に、スターキーがエイレナエウス・フィラレテスの名で記した書を手に入れ、哲学者の水銀自体は完成させていた。そしてそれを、永遠の命や超越者になるために自から服用していたらしい。しかしその結果、何かを得るどころが体を壊してしまうだけに終わっていた。
それどころか、争いを好まない隠遁生活者だったニュートンが、現在の猜疑心の強い権力志向へと変化していった時期と一致するのだ。結局は、それ以上哲学者の水銀を研究するのを断念し、現在に至る。
しかし、最近になってジョージ・スターキーの若き日の日記がアメリカより送られてきたことで、状況が一変した。彼自体は永遠の命を得ることも無く若くしてペストで死んだらしい。しかし、日記にはアメリカ時代に金の錬成とその触媒たる哲学者の水銀を手に入れた経緯が記されていたのだ。
日記によると、彼がフィラデルフィアで若き開業医として働いていた時、病院に担ぎ込まれたインディアンがなんと10オンス程の重さがある金塊を所持していたのだ。スターキーはインディアンを手厚く看病してやり、彼の死ぬ間際、お礼に部族に伝わる銅を金に変える奇跡を起こす水の話を聞きだしたのだ。錬金術師でもあったスターキーは、それがヘルメス・トリスメギストスが伝えるところの哲学者の水銀だと理解した。探索の末、その部族を探し当て、マスケット銃10丁と弾薬を哲学者の水銀と交換したそうだ。
折しも財政的危機に瀕していたニュートンは、哲学者の水銀を完成させることでそれを乗り越えようと目論んでいるのだ。
グレイはにこやかに言った。「科学というものは、信じる信じないではなく、にわかに信じがたい現象でも、ありのままに受け入れる事じゃないかね。今は、どうしてそうなるか考えるんじゃなくて、どうすれば再現性があるか探究すべきだと思うよ」
イーデンは腑に落ちなかったが、それがニュートン哲学――ひいては科学的思考――だと言われ、それ以上考えても無駄だと諦めるしかなかった。
その後、アメリカについてのアレコレなど無駄話を店の営業終了時間までたっぷりした後、二人は外に出た。
「ああ、もう暗くなっちゃいましたね」イーデンは人通りの途切れた辺りを見回した。
「いずれ馬車が通りかかるじゃろ」
「帰る方向、反対じゃないですか。一人で乗って帰って下さい」
「なんだ、歩いて帰るつもりか? 危ないから馬車を待ちなさい」
「いいですよ、そのまま乗って帰って下さい。僕はすばしっこいんで大丈夫ですよ」
「モホーク団に襲われても知らんぞ」
「あいつら女と老人しか襲わないフニャチン野郎どもですから平気平気。見つけたら逆に脅かしてやるってなもんで」
しばらく店の外でおしゃべりしていると、乗合馬車がやってきた。
「気をつけろよイーデン!」
「はいはい。じゃあ、また明日!」
グレイを載せた馬車はシティ方面へと東に走り去った。イーデンは、馬車が見えなくなると踵を返し西にあるデザグリエ邸目指してフリート・ストリートを歩き出した。
他のコーヒーハウスやタヴァンも営業終了間際と見えて、通りは閑散としていた。時おり若い女と紳士のカップルがコソコソと裏道に入って行くくらい。酒が飲める店に寄り道しようかと彼は考えていたが、終わりかけの辛気臭い中で飲むのは趣味じゃないと思い、帰り道を急いだ。
しかし、ある人けのない分かれ道まで来たところで、「キャー!」という、女の叫び声が路地裏から聞こえてきた。イーデンが急いで駆け付けると、一人の娼婦が倒れ込み、その前に黒ずくめの小柄な男が立ちはだかっていた。
「何やってんだ!」イーデンは大きな声で怒鳴った。
振り返った男の顔は上半分にマスクが着けられ、右手に握られていたナイフが月明かりを反射していた。
「ちっ、めんどくせえなー。殺されたくなかったら、あっち行ってろ。しっしっ!」
「なんだと、変態野郎!」
イーデンは背中に隠していた護身用の棍棒を取り出した。体格差からみても、多少は喧嘩慣れしているこっちに分があると考えたのだ。そして、目の前にいるような、ただ趣味のために弱い者を痛めつけるモホーク団みたいな卑怯者が大嫌いなのだ。
モホーク団――残忍さで有名なインディアン部族・モホーク族の名を借りるこの集団。貴族や金持ちのドラ息子たちで構成され、警察組織が未だ未発達のロンドンはフリート・ストリート界隈で、夜な夜な娼婦の鼻を削いだり、針山を袋小路に仕掛けて獲物を追い詰め、串刺しにしたりと、ただ猟奇的な暴力や殺しを行う愚連隊として当時は恐れられていた。
「何だとこの野郎……」仮面の男が言った。「おい! こいつも殺っちまおうぜ!」
すると、奥に潜んでいた同じく仮面を被った新手が2人出てきた。
『なんだよ。もっと楽しませろよ』
『ひっひっひ、2匹の腹わた取り出して結び付けてやろうぜ』
「げげ!」
イーデンは迷っていた。このまま走って逃げるか、しかしそれでは見殺しにしてしまう。だったら、どこか一人しか通れない狭い道でなら何とかなるか。そんなことを考えている間にも、3人は徐々に距離を詰めてきた。
「クソッたれ!」
イーデンは、叫び声を上げて3人の方へ駆け出し、棍棒を投げつけた。一人の頭に命中し卒倒。その隙を突いて、反対方向に逃げようとした。
――ドンッ!
しかし、何故か突然できた壁にぶつかり転倒。後頭部を強か地面に打ち付けた。
『ギャー!!』
「いてててててて……」
後頭部を両手で押さえてのた打ち回るイーデン。壁に手をついて立ち上がり、ぼんやりする目をこすって、焦点を合わせると……。
「なんじゃこりゃ!」
そこは一面大きな水たまりになっていた。どうやら道端に倒れている2人から流れ出たものらしかった。水たまりを挟んだ向こう側にはイーデンの棍棒で転倒した男がようやく立ち上がろうとしていて、その後ろでは襲われていた女が恐怖に取り付かれた目と見たことも無いような形に口を歪ませていた。
「う、うわぁぁぁぁぁぁぁ!!」
立ち上がった男は叫び声を上げて通りの反対側に逃げて行った。すると、目の前が少し明るくなったような気がした。まるで、それまで雲に隠れていた月明かりが照らし出したように。
「あれ、頭打ったからか?!」
そういえば、ぶつかった壁も無い。イーデンは辺りを見回したが、伸びている二人の男と娼婦以外に何も変わりはなかった。
「大丈夫ですか?」
「キャアアアアア!!」
彼は娼婦の方へ歩み寄ろうとしたが、彼女の方は急いで立ち上がり反対方向へ駆けていった。
「なんでぇ。助けてやったのにさ」
何か腑に落ちない気持ちを抱えながら、彼は表通りに戻り、帰り道をトボトボ歩いていった。
『まったく、なんて向こう見ずなガキだ!』
『ンダ』
イーデンが帰る様子を、建物の影から見送りながら男と巨人が話していた。
『はぁ』片目に眼帯を付けた背の高い男がため息をついた。『尾行してなかったら、死んでたかもしれない。まったくバレるんじゃないかと冷や汗もんだ』
『ンダ』
『あんなガキに賢者の石を探させるなんて、ニュートンの精神異常も最早、ヤバい域に……』
『にゅーとん?』巨人は首を傾げた。
『お前には難しいか、簡単に言うとなイカレ爺なんだよ。タダのボケ爺なら良いんだが、精力的なイカレ爺ほど厄介な奴ぁいないんだなぁ』
『ドゥフフ。にゅーとん、いかれじじい!』
『そうだ! イカレ爺だ。面白いかゴリアテ?』
『ドゥフフ。にゅーとん、いかれじじい! ドゥフフ。にゅーとん、いかれじじい! ドゥフフ。にゅーとん、いかれじじい!』
『もういい! 黙れ』男は手に持ったステッキで巨人のスネを叩いた。『浮かれすぎるんじゃないゴリアテ』
『ゴメンヨ、パパ……』
ゴリアテと呼ばれた巨人はビクッと体をわずかに震わせ下を向いた。
彼らは、ゴリアテが頭を握りつぶした死体を建物の隙間にぞんざいに隠した後、血だまりはそのままに、闇夜に消えさった。
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