第2話 南海泡沫事件

 王立造幣局はロンドン塔を馬蹄形に囲むように木造で立てられていた。しかし、造幣局をロンドン塔内部から移管して20年近くになる。所々鉄の楔で補修したその外観はとても金貨や銀貨を作っているとは思えないほど見ずぼらしく朽ちていた。

 ウォルナット製の重厚な家具が並ぶ局長室に通されたが、呼んだ当人は外出中だった。空っぽの局長デスクを前にいたずらに時間が過ぎる。

「何で呼ばれたかわかるか?」デザグリエが聞いてきた。「たぶん……、いや、確実に金の問題だ」

「そんなことありえるんですかね? 造幣局長といえば、役人の中では一番の高級取りだって、有名じゃないですか」イーデンは金勘定にうるさい師匠の性格がそう導き出してると心の内では思っていた。

「確かにそうだが、あの方も、南海会社株で数万ポンドの損害を被ったという噂だ。王立協会の実験機材代もまだ立て替えたままだというのに、今度は一体何を押しつけれられるやら」デザグリエは頭を下げ両手で抱え込んだ。

 彼が言っているのは南海泡沫事件のことだ。遡ること2年前、政府公認で奴隷売買をしていた南海会社の株価が10倍に跳ね上がる株バブルが起きていた。金儲けに目がない連中は挙って投資をしていた。これから会うあのお方もご多分に漏れず当初は投資で大儲けをしていた。しかし、南海会社の儲けはイカサマまがいの株式交換で得た見せかけの利益だった。実態を伴わない好況はいずれシャボン玉のように弾けるしかない。政府の規制発令と同時に南海会社株の価値は一瞬で10分の1以下に暴落。結局、彼も大半の投資家と同じように儲けるどころか資産の大部分を溶かしてしまったのだ。


 3時間ほど待たされた挙句、突然、夕方ごろに前触れもなく扉が勢いよく開け放たれた。

「そこを退け!」

 赤いジャケットを着た老人が入って来るなり言い放った。慌てて椅子から飛び退く二人。老人は黒い鬘を揺らし局長の椅子にドカッと座り、すぐ後に続く衛兵がロープで縛り上げた罪人と思しき男を引っ立てて入ってきた。そして先ほどまでイーデンたちが座っていた椅子に強引に押し込めた。

「あれが、ニュートン卿……」

 イーデンが思わず漏らしたその名の通り、目の前に居るのは王立協会会長並びに王立造幣局局長、イギリス科学会にもはや敵無し、その圧倒的支配力で君臨するアイザック・ニュートンその人だった。

「見かけぬ顔だな?」

 ニュートンの老いても鋭い眼光に射抜かれて、イーデンはカチコチに固まってしまった。

「失礼しましたニュートン卿!」慌ててデザグリエが取り繕った。「この者は私のところの新入りでして。こちらに出向くと申したら、どうか崇拝するニュートン卿にひと目だけでも相まみえたいと言って聞かぬものですから。さっさと挨拶せぬか、君!」

「イ、イーデン・ウッドハウスと申します。生きる伝説たるニュートン卿にお会いできて……」

「さてと、エドワード・スターリング。君一人で罪をかぶるつもりかね?」

「あ、あの……」

「もう黙ってろ、ウッドハウス」

 デザグリエが小声で耳打ちした。

 すでにニュートンの注意は目の前の縛りあげられた男に移っていたのだ。

「何を言ってるんだ!」スターリングと呼ばれた男は声を荒げた。「私は嵌められたんだよ。その荷物だって知らない男にタヴァン(居酒屋)に持って行けって頼まれただけなんだ。それをいきなり縛り上げて! 何様のつもりだ!?」

 警察組織が無く、犯罪がほとんど野放しだった当時、造幣局局長だったニュートンは贋金作りの犯人検挙に精力的に取り組んでいた。今までも、局長自ら現場に出向き、精力的に聞き込みをしたり、怪しいと思った容疑者の家を何日も張り込みをしたりして数多くの贋金作りたちを捕らえていた。この日も、追っていた容疑者がタヴァンに現れたという情報を掴み、自ら捕まえに急行していたのだ。

「良いのかね。ウイリアムは君のことを洗いざらい話したよ」

「知らねぇよ。ウイリアムなんて」

 容疑者の男は、不遜な態度で椅子にふんぞり返った。

「そうか、ならジェームズはどうかな?」

 その名が出た途端、男の口元が震えたのをニュートンは見逃さなかった。

「ジェームズは言っていたよ。君が何もかも仕組んだことだと。どうかな、このままだとジェームズは正直に話したことで助かって、エドワード、君だけが縛り首だな」

「なんでそうなるってんだよ? そいつが嘘をついてんだ! 俺は関係ねぇよ」

「嘘かどうかは関係ない」

「なんだと?」

「エドワード・スターリングが首謀者だという証言と、君の持っていた証拠。裁判官は信頼に足ると判断するだろう。ジェームズは無罪放免、君は縛り首だ」

「ちょっと! ま、待ってくれ! あいつが、あいつが計画したんだよ! 俺はただ頼まれて型枠を……」

 その後は、堰を切ったようにベラベラと男は喋りだした。ニュートンの鮮やかな尋問を眺めていたイーデンは、天才は何事においても完璧にこなすのだなと驚嘆していた。

「ところで」部屋から連れ出される間際、男が尋ねた。「ウイリアムって誰だよ?」

「知らない」ニュートンは言った。

「は?」

「確率論からタヴァンの客の名をランダムに上げていただけだ。色々わからなかったことを教えてくれてありがとうエドワード君。私に感謝されることを光栄に思うが良い」

「良くも騙しやがったな! この卑怯者!」

 部屋から連れ出されながら、断末魔の叫びのように男は喚き散らした。ニュートンはといえば、怒るわけでも笑うわけでもなく無表情で見送った。

「気になるかねイーデン・ウッドハウス?」

「は、はい!」

 いきなりニュートンに名前を呼ばれイーデンは戸惑った。

「スターリングはしがない彫金師だ。彼が贋金の型枠を制作しているらしいという情報は掴んでいた。だが彼の仲間を掴みかねていたのだ。しかし、つい先程、密偵が知らせてきた。怪しい荷物を持ってタヴァンに入ったと。

 そこで急遽、タヴァンにいる客と従業員全員を捕らえ、名前を聞き出した。彼らの中に必ず仲間がいると踏んでね。だが、下っ端だけだったようだ。その代わり、早とちりしたスターリングがその場にいなかった大物ジェームズ・グリーニーの名前を出してくれたがね。科学的捜査というものは……」

「あの! ニュートン卿」このままニュートンの自慢話が長々と続くことを恐れ、デザグリエが口を挟んだ。「私をお呼びになった用件は……」

 ニュートンはギロッとデザグリエを一瞥した後、無表情で口を開いた。

「まぁ、掛けたまえ」

 二人は先ほどの贋金犯のように、ニュートンと対面で座った。

「単刀直入に言おう。デザグリエ君、君にボストンへ行ってもらいたい」

「ちょっと待ってください。ボストンなどに何があるというのです? それに、私には実験主任としての職務もありますし、教室や教会、フリーメイソンの仕事も抱えています。他に適任者がいるのではないでしょうか?」

「エイレナエウス・フィラレテス」

「ニュートン卿! うかつにその名前を出すのは」

「何を慌てることがある? そこの小僧がその名を知っているとでも?」

「ですが、同士の集会の場以外で、その名を出すのは危険かと思います」

「錬金術師のおとぎ話ですよね」イーデンはが質問されたと勘違いして答えた。「書斎にある本では、珍しく自然哲学と全く違う種類の本だったんで面白く読ませていただきましたよ」

「なんだって?!」デザグリエは驚きのあまり顎が外れそうなほど口を大きく開けた。

 住み込みで掃除やあらゆる雑用もこなしていたイーデンは、勝手にデザグリエの書棚を漁って色々な本を読んでいた。ただしラテン語やフランス語、その他、英語で書かれていても彼には難しい本がほとんどだったので、膨大な書籍の中で読める本は限られていた。その中でも、エイレナエウス・フィラレテスの著作は実践的な錬金術のレシピと幻惑的な思索がごった煮になったような幻想文学であり、彼を空想の世界にいざなってくれていたのである。

「哲学者の水銀で、永遠の命や金を生成するなんて、聖杯伝説と違って、ある意味、科学主義的ですよね。なんせ、神頼みじゃなくて自分で材料を加工して作り上げるんですからねぇ。おとぎ話に科学的要素を入れるなんてまさに新時代って感じがしますよ」

「なるほどな」ニュートンは初めて笑みらしき表情を僅かに見せた。「この時この運命に導かれるように、エイレナエウス・フィラレテスの真実の書が、イーデン、お前を我が元へ導いたのだな」

「またまた。自然哲学者がそんな運命だなんて」

「失礼だぞ、ウッドハウス!」デザグリエは彼を小突いた。

 しかし、ニュートンの方はそんなことなどどうでも良いというように話を続ける。

「エイレナエウス・フィラレテス。またの名をジョージ・スターキー、彼が記した哲学者の水銀。その製法通りに完成させたのがこれだ」

 ニュートンはデスクの下から水銀の入ったガラス瓶を取り出した。

「いけません、ニュートン卿! 錬金術師で無い者に見せるなんて」

「黙れ!」

 ニュートンの覇気にデザグリエは縮み上がった。

「見ておれ」

 ニュートンは中の水銀をゆっくりとデスクの上に垂らしていった。すると、中心から植物が根を貼るように水銀は枝分かれし、更に反対側にも木が育つように伸びていった。流れが止まると、まるで落葉した広葉樹を土から掘り返したような模様がデスクの上に広がっていた。

「ここまではかなり昔に出来ていた。だが完成ではないのだ。長い間、私はこれの完成に必要な情報を探していた。そのカギがボストンにある。やっとの手掛かりを見つけたのだ。を探し出し、この哲学者の水銀を完成させよ。ボストンへ行くのだイーデン・ウッドハウス。おい! 聞いているのか?」

 目の前で起こった奇跡のような現象にイーデンは驚愕し、何も口から出て来る言葉が見つからない。

「あ、あの」デザグリエが恐る恐る口を挟んだ。「私じゃなくて宜しいのですか?」

「これは、星に導かれし運命だ。無垢なる若き魂がエーテルを呼び起こす。新たに発見したスターキーの手記にはそう書いてあった。どうやら小僧で間違いあるまい。錬金術の書がこの者を引き寄せたのだ」

「なるほど、それは神のお導きですね!」

 デザグリエは内心穏やかではなかったが、明らかに狂気に取り憑かれているニュートンからの難題を――イーデンが代わりに引き受けさせられる事によって――自分がやらなくていい事にホッと胸をなでおろしていた。

「どこでも、行くのは構いませんが」水銀の樹脈に目を奪われたままイーデンが言った。

「なんだ?」血走る目でイーデンを見るニュートン。

「報酬の方は弾んでくれるんでしょう?」イーデンは真っすぐニュートンの目を見据えた。

「見事成功したら、ケンブリッチのルーカス教授職にでも就けてやろう」

「ニュートン卿! こ奴は、タダの下働きで大学はおろか小学校にもまともに行ってませんよ!」

「うるさい! 口答えするのか貴様!」

 ニュートンがデザグリエに掴みかかった。

「まぁまぁ、落ち着いてくださいよニュートン卿」イーデンは間に入って事を治めた。「デザグリエさんの言う通りですよ。学が無いまま教授になるのは、なった後が面倒くさいですよ。教える内容を一から学ばなきゃなんないし。それよかオックスフォード大学に給付生で入れてもらった方が良いなぁ。そうすりゃあ、デザグリエさんの助手をしながら大学にも通えるし」

「よろしい」冷静さを取り戻したニュートンが答えた。

「あ!」イーデンは大きく目と口を開いた。

「まだ何かあるのか?」

「ところで、ボストンってどこですか?」

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