第一章 ロンドンからボストンへ

第1話 科学実験講座・ロンドン

 アイザック・ニュートンの『自然哲学の数学的諸原理プリンキピア』によって近代科学の時代が幕を開け、現実と神の意思がたもとを分けた時代。森の中から魔女が消え去り、呪術的思考は理性に取って代わられ、錬金術師は科学者となった。万物の中から神や精霊の息吹いぶきが消え去り、キリスト教徒は自然をただの自然のまま見るようになった。

 イーデン・ウッドハウスも、そんな魔法の消え去った世界に何も疑問を持つことなく生きていた。――彼に会うまでは……。

 

 時は1722年、16歳になったばかりのイーデン・ウッドハウスは王立協会ロイヤル・ソサエティ実験主任ジョン・デザグリエに見いだされ、彼がロンドン市中で行っている科学実験講座の助手をしていた。

 デザグリエは、ニュートンの著した『光学』や『自然哲学の数学的諸原理』にかかれている内容をプリズムや真空ポンプ、その他様々な実験装置を使い、研究者ではない一般の人々にも分かりやすく教示していた。講座は人気を集め、一人3ギニーという高額の受講料にもかかわらず貴族や裕福な企業家たちは近代科学の息吹を感じ取ろうとこぞって参加していたのだ。

 イーデンは元々、印刷所で一番下っ端の職人として働いていた。その頃の職人たちの常として、朝にビール一杯を引っ掛けてから仕事に取り掛かり、昼休憩に入る前に一杯、昼飯と共に一杯、午後に一杯、帰り際に一杯、帰ってからの一杯と、半ば酔っ払いながら仕事をしていた。一番の下っ端だった彼は、忙しいときなどは他の植字工が酔っ払っている間も休みも取れずに仕事をさせらされていた。そんな中、ある時デザグリエから彼の講座で使う教本を出版する仕事が舞い込んできた。

 普段でさえ酔っ払いっているような連中が込み入った内容の教本を間違わずに写植できるはずがなかった。結局、下っ端のイーデンが何回も原稿を読み返しながら同僚のミスを修正したり、元の書き間違いや、更には、分かりやすいように文章の修正まで依頼人に確認せず勝手に書き直したりしていたのだ。

 そして、デザグリエの助手が完成本を受け取りに来たとき事件が起こった。

「どうなっているんだ!」助手は叫んだ。「原本と違うじゃないか。こんな簡単なこともできないのかね君の印刷所は!」

 印刷所の主は、顔を青くし平身低頭である。

「申し訳ございません! すぐに作り直しますのでご勘弁を」

「いや、同じ者がやったら、同じ間違いを繰り返さんとも限らん。まずは間違った部分を担当した奴を首にしろ!」

 という訳で、間違いを正したイーデン・ウッドハウスは哀れ、店の主に袋叩きにされ印刷所をクビになった。自分は何も間違ってないと怒り心頭の彼は、後日、無謀にもデザグリエ邸に文句を言いに訪れた。もちろん御目通り叶うはずもなく、玄関前から叫ぶイーデン。

「ちくしょうめ! ローリー卿だって打首前に弁明くらいは聞いてもらえたぞ!」

「面白い例えをするボウズだのう」

 通りからデザグリエ邸に喚き散らしていた彼に、初老のどちらかといえばみずぼらしい身なりの紳士が声をかけた。

「聞いてくれよ爺さん」イーデンはすでに誰でも良いから自分が正しいという主張を聞いて欲しかった。彼は、廃棄になった教本を手に説明しだした。「このページは真空と大気圧の部分なのに、元々はプリズムと真空ポンプの図版をまとめて次のページに載せているたんだ。それを、プリズムは光学の章に持っていってやったんだ。それのどこがいけないって言うんだ!」

 印刷所に原稿を持ち込んだ助手は優秀な大学生であったが、少々柔軟性に欠けていた。デザグリエが確認もせず渡した原稿をそのまま印刷所に持ち込んでいた。図版の順番には疑問は持ったが、師匠のデザグリエがこうしたんだから、自分の考えの及ばない配慮があるのだろうと勝手に解釈していた。

「なるほど、確かにそうだな」老人は、感心したように教本を見ながら何度も肯いた。「それにしても、お前さんは、内容を理解してるのか?」

「そりゃそうさ。内容が分からなきゃ修正できないだろ。ここんところなんか原本より分かりやすくなってるぜ」

「ほっほっほ。随分な自信だな。ところでこの本はまだ残ってるか?」

「さあね。明日になったら分解して作り直すだろうけど」

「そりゃ大変だ。早く本をそのままにしろと言ってきなさい君」

「首になった俺の言う事なんて聞いてくれないよ」

「では、家に入って、もう一度説明してくれんか?」

「え?」イーデンは、タダの通りすがりの老人だと思っていた相手が救いの手を差し伸べてくれたことに早合点した。「もしかして、あなたがデザグリエ?」

「ワシは、ただの助手だよ」

 結局は、デザグリエの助手だという老人と一緒に目の前の邸宅に入り、助手よりずっと若い39歳のデザグリエに説明を繰り返した。すぐさま使いを走らせ、教本は保全された。印刷所に持ち込んだ大学生は首になり、代わりにイーデンが採用された。少なくとも大学生よりは科学実験について理解しているとデザグリエが判断したのだ。

 

 こうして、一介の印刷工だった彼が、当世流行の最先端を行く実験講座の助手として有意義な日々を過ごしていたのだが、助手になって3か月が過ぎた4月のある日、またもや予想だにしない人に取り立てられることになるのだった――。 

 その日も、ウエストミンスターはチャネルローにあるデザグリエの自宅には、15名の紳士淑女が自然哲学の実践を学ぼうと集まっていた。

 観衆は皆、椅子から立ち上がり、これから助手のイーデンが作動させようとしている奇妙な器具を囲んでいた。その器具はロココ調の丸みを帯びた支柱で出来た台座の上に2本の金属筒が立ち、更にその上にガラスケースが置かれ、ケースの内には半球を2つ合わせにした金属球がぶら下がり、更にその下に伸びた紐がおもりを載せた盆に繋がっていた。器具を挟んで反対側に立つデザグリエが説明する。

「先ほどはこの空気ポンプを使い、半球を貼り合わせて中を真空にすることにより、強力に吸着することがわかったかと思います。これより、貼り合わせた球体の周りの空気も真空にする実験を執り行いたいと思います」

 説明が終わると同時にデザグリエのアイコンタクトを見て取ったイーデンは、空気ポンプに付属する小さなハンドルを回し始めた。観衆が固唾を呑んで見守る中、シューシューと音を立ててガラス内の気圧が下がっていく。遂には錘に耐えられなくなった金属球の下半分が落下した。取り囲む紳士淑女が一様に驚きの声を上げた。イーデンはといえば、自分のプレゼンテーションで貴族や金持ち紳士たちが驚いたり感心している姿を見て悦に入っていた。彼は自分もデザグリエの様な大人物になった気分で鼻高々なのだ。

「さて、これで半球を密着されていたモノが何であったかお判りいただけたかと思います」

 デザグリエは周りに目を配りながら話しかけた。しかし、ほとんどの者は目が泳いだり視線を反らす者がほとんどだった。学生相手であれば、勉強不足を叱責するかもしれないが、相手は大事なお客様である。

「周りの大気圧。すなわち我々の周囲にある空気が押さえつけていたのですね。だから、球の周りを真空にすることで離れたのです」

 説明を聞いて取りあえずは大いに頷く者もいれば、素直に首を傾げる者もいた。今日の受講者には少し難しかったようだ。そう考えたデザグリエはイーデンに素早く指示を出した。

「空気ポンプを片付けて、グレイを呼んでくるように」

 イーデンは、目を見開いて師匠の顔を見た。

「あの……。鉛玉の実験がまだ……」

 彼は、これからがこの実験の見せ場なのにと心の中で抗議した。しかも、鉛玉の凝縮力実験を行わないのであれば、彼の出番はもう終わりなのだ。しかし、彼の捨て犬のような目で送られてくる懇願など我関せずなデザグリエ。

「自然哲学者というものは、臨機応変に物事に対応する必要があるのだよ。ムッシュ」

 愛想のいい笑顔を振りまきつつも、その目は有無を言わせぬ強固な意志が宿っていた。

 イーデンはうなだれて、空気ポンプを脇に退けて前室に下がった。イーデンが前室で声を掛けた相手はよろよろと杖を突いて立ち上がった後、彼の肩に手を置いた。

「まぁ、こういう日もあるさ。気を落とさんと」

 56歳という年齢の割には老け込んでいる紳士、彼こそはデザグリエの第一助手――イーデンが文句を言いに来た時に親切にも話を聞いてデザグリエに採用されるきっかけを作った親切な老人――スティーブン・グレイその人であった。


 元々グレイは染物屋を生業とするかたわら独学で天体観察や顕微鏡の研究をするアマチュア科学者だった。前世紀の終わり頃、グリニッジ天文台所長ジョン・フラムスティードに研究を認められ知遇を得るが、研究成果の割には王立協会でその功績を認められることが無かった。

 当時のフラムスティードとニュートンの敵対関係が影響していたともっぱらの噂だ。後年ニュートンが王立協会を完全支配してフラムスティードを追い出してからは表舞台で認められることはことさら不可能だったと言えるだろう。

 染物屋や天文台助手を続けた後、1709年頃からは若きデザグリエの助手となった。それからはずっと、デザグリエの海外講演などにも付いていったのだが、海外講演でも宿を与えられるだけマシだというくらいで、これまでずっと無給でこき使われてきた。

 元々裕福ではなかった彼は仕事をする時間も減り困窮生活を余儀なくされた。更に病も患い仕事も出来なくなった彼を、2年前に助けたのはデザグリエではなく良き友フラムスティードだった。友の助けで救貧院に入所し恩給生活者として安定した生活を送れるようになったのはつい最近の事だ。

 もちろん、助手の中には独立して成功している者も数多くいるし、後年科学者として名声を得た人物も複数輩出している。イーデンも、いつか独立して自分の教室を持つのを夢見るようになっていた。しかし、グレイは科学界に認められることも無く名声も裕福な暮らしとも無縁なままだった。


 ある時、イーデンはグレイに何故ずっとデザグリエの助手を続けているのか聞いてみた事がある。グレイの返事は、こうだ。

「ワシは富も名声もいらん。それを求めるには退屈な政治に付き合わされねばならん。そんなのワシはごめんだよ。政治的なことはデザグリエに任せておけばいい。ここに居れば、最先端の実験器具を使えるし、最新の情報を知ることも出来る。煩わしいことを考えずに己の研究に集中できるだけで十分だよ」

 助手を務めるうちに、科学者としてはグレイの方がデザグリエなんかより優秀だとイーデンも気付き始めていた。しかし、人として尊敬できるが、彼のように認められることも無く困窮生活を続ける気は更々なかった。だからと言ってデザグリエの表向きは人当たりがよい好人物でありながら裏ではケチで金にガメツイところ――自分が雇われたのも賃金が安く済むからではと疑い始めていた――は尊敬できないと思いつつも、彼の政治的成果――若くしてニュートンの知遇を得て彼の懐刀として活躍し、イギリスのフリーメイソンをまとめ上げロンドン・グランドロッジを設立し、第3代グランドマスターとして政財界と科学界を繋げ、更にはロイヤルファミリーまで引き入れようとしている才覚と実績――のお零れに預かろうとしている自分自身を、グレイと比べて卑しい人間だと感じずにはいられないという青年らしい悩みも抱いていた。


 講義も終わり、後片付けをしていると、デザグリエの元に伝令を持った使者が訪れた。

「クソッたれ!」

 使いの者が帰った後、吐き捨てるようにデザグリエは叫んだ。

 イーデンは、こっそりと隣で一緒に後片付けをしていたグレイに話しかけた。

「一体どうしたんですか、デザグリエさんは?」

「彼を困らせるのは、この世界に一人しかおらんよ」

「え? 誰の事を言ってるのですか」

「ムッシュ・グレイ!」デザグリエが忍び笑いをするグレイに向き直り叫んだ。「一緒に来てくれないか?」

 後半の言葉づかいは、どうにか落ち着きをとりもどそうと努力した跡がうかがえたが顔色は灰色に彩られていた。

「ジョン。ワシが付いていって何になる?」

「二人っきりにされたら、また思い付きで、どんな難問を吹っ掛けられるか分からないじゃないか! ブラウンも居ないし、ス・グラーフェザンデは国に帰っちまったし。頼れるのは君だけだムッシュ」

「しかしのう、肺の調子が最近とみに悪くてなぁ。ゴホゴホ……」

「君だって知ってるだろ。最近の傲慢ぶりを、あれは猜疑心に囚われた狂人だ! まさにマクベスだ!」

「残念ながら、ワシは帝王切開で生まれて無いのでな。そうだ! ウッドハウスくんを連れて行ったらどうかね? あの方を相手にしても物おじせずに反論してくれるだろうよ」

「ちょっと待ってグレイさん。あの方って……」

 デザグリエは値踏みをするように、話に付いていけず戸惑うイーデンをじっと見つめた。

「そうだな。あの方も小僧の前では、金にガメツイところを見せたりする無様な真似をしないかも」

 あんたよりガメツイってどんな人だよ。と、イーデンは心の内で思った。

 結局、誰もいないよりはマシかという判断で、デザグリエはイーデンを連れ立って王立造幣局ロイヤル・ミントへ向かった。この後、イーデンは自身の世界への認識が180度変わる出来事に遭遇するとは夢にも思っていなかったのだ。

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