高麗国の淵蓋蘇文

 小治田宮おはりだノみやで、宝王女たからノみこ臣連おみむらじどもを前に、崗本天王おかもとノてんのうには息長足日広額天王おきながたらしひひろぬかノてんのうおくりなしたことを告げる。そしてきみくらいのことについては、いずれおのずと決まることであり、今は云々うんぬんするに及ばず、当面の間はわれがこのまま朝庭にのぞむとみことのりする。

 人々は、宝王女たからノみこ炊屋姫尊かしきやひめノみことの再現を見た。そして、宝王女たからノみここそ事実上の天王てんのうとなったのだと理解した。しかし軽王子かるノみこ古人大兄王子ふるひとノおおえノみこがあるのに、王女ひめみこに王位を相続する権利があるのかは、問題とされてしかるべきことであった。

 宝王女たからノみこは、自身が正式に即位するつもりがあるのか、それとも跡取りが決まるまでの臨朝称制かりニみことのりすることとなるのかは、曖昧あいまいなままにした。もし即位するのなら、やはり正統性が問題になるべきであるのに、この曖昧あいまいさが人々の口を迷わせて、王位について論じようという機運は封じられた。それで今度もまた、王位をめぐって国が乱れることは防がれた。

 この一連の動きは、宝王女たからノみこ蘇我蝦夷大臣そがノえみしノおおおみはかってしたことであろうとは、誰もがそう推測する所であった。入鹿いるかは、またしても国の大事から疎外されたことをじた。そして腹の底にいきどおりを蓄える。父を恨めしく思いもする。

(さりとて)

 と思い直す。時は流れ世はかわる。そう遠くない内に、わが腕を振るう機会もあるはずだ。

(さりとて)

 と思う。今は動きにくい状況でもある。たのみとする古人大兄ふるひとノおおえは、板蓋宮いたぶきノみやの造営に駆り出されていとまが無いし、海外の政情も気にかかるのだ。

西部大人にしツベノうしいり蓋蘇文かすみ高麗王こまおうしいせり」

 との、高麗国こまノくにに起きた政変の詳報がもたらされたのは、あくる年の春二月のことである。

 高麗国こまノくにからは、黄金くがねが運ばれて来る。黄金くがねは、昔は倭国やまとノくにでは大した価値を認められなかった。今は仏像や伽藍がらんを飾るのに使うので、高い値を払って買い込むし、外交上の贈り物としても重みを増している。こうした交渉には、蘇我そがが海外に張った人脈が、大きい役割をになっている。

 黄金くがねと共に、去る年の九月にあった事の詳しきが伝えられて来たのである。

 高麗国こまノくには、そもそも七百年になんなんとする歴史を持つ。人の気質は精悍せいかんにして頑強、古くからかん五胡ごこずいと争うことあり、しかもその圧力に耐えて来た。しかしその創業の地は地味ちみが貧しく、常に食糧に事欠いていた。それで南に接する勢力薄弱な地域の併合をはかったが、そこでさらに南におこった新羅国しらきノくにと衝突し、互いに恨みをすこととなった。

 ずい氏が高麗国こまノくにの討伐に固執して衰弱しほろぶと、新羅国しらきノくにから天朝みかどと結んで、高麗国こまノくにを挟み撃ちにすることをくわだて、長安ちょうあんの宮廷はその方向に引き込まれつつある。

 そこで高麗国こまノくにでは、一方はこの上の争いは避けようと言い、他方はくまで闘おうとするという具合に、国論が二分されてしまった。事態はまだ急迫しているのでないとはいえ、いつそうなるかも知れないのである。結論を出すのに最も簡単な方法は、一方がもう一方を力尽くで制圧してしまうことだ。

 高麗王こまおうは、穏健派に傾いた。王のおいである宝臧ほうぞうは、主戦派であった。時にいり蓋蘇文かすみなる者あり、容貌かおかたちかいとしてひいで、美しくひげを垂らし、五尺の刀をくとう。蓋蘇文かすみは、宝臧ほうぞうに心をけていた。穏健派は王とはかって蓋蘇文かすみを殺そうとしたものの、密議を繰り返すばかりで策を決められなかった。蓋蘇文かすみはそれを知って、先手を打つ。

 去る年の秋九月、からりと晴れた日に、蓋蘇文かすみは閲兵を行うとして、王都平壌びょうにょう城の南に、部兵を集めた。酒や肉を盛りつらねて、共に臨観りんかんしようと、諸々もろもろおみどもに誘いをかける。穏健派の方では、暗殺のくわだてがさとられたとは気付かないので、むしろ怪しまれぬようにしようと、何食わぬ顔で参席をする。そこで蓋蘇文かすみは、部兵に命じて穏健派を尽々ことごとく殺す。その数は百人余りに及んだ。

 蓋蘇文かすみはそれから、宝臧ほうぞうを奉じて王宮を占拠し、王に退位を迫った。王は死んで、遺骸は断ち刻まれて溝に棄てられ、流れる血は穏健派の敗北を知らしめた。宝臧ほうぞうは代わって高麗王こまおうとして立ち、蓋蘇文かすみは王の信任を受け、ただ一人諸々もろもろおみどもの上に立ち、政治を補佐することとなった。国論は闘うことで一つになり、物々しく鋭気をみなぎらせているとう。

(かようなことが有りうるとや)

 入鹿いるかはこの詳報に接して、心を震わせる。かつて祖父が炊屋姫尊かしきやひめノみことはかって、泊瀬部王はつせべノおおきみを暗殺したことも思い合わせてみる。しかしそれは、生まれる前に過ぎたことである。蓋蘇文かすみの事件は、海外だとはいえ、今のことである。それだけに、生々しい戦慄を呼ぶのだ。

 これによって、高麗国こまノくにの体制は変わった。これまでは王が決裁するまでに、多くのおみどもが参加する合議があった。今は王と蓋蘇文かすみが全てをはかり決定しているようだ。権力を分担する者が、こう少なくなったということは、それだけ政治上の決断が速くなり、急な事に対応しやすくなったのであろう。

(もしわがくににても同じ事が有りうるとせば)

 入鹿いるかは考える。これは現実的なことだ。もし新羅国しらきノくにから天朝みかどと結んで、高麗国こまノくにを攻めるということが実際にあれば、高麗国こまノくに百済国くだらノくに合従がっしょうして抗戦するであろう。遠交近攻えんこうきんこう角逐かくちくになる。百済国くだらノくには、伝統的に倭国やまとノくにと深い関係にある。倭国やまとノくに百済国くだらノくにを助けるとすれば、あらかじめ今よりもっと強く速く動ける体制を作っておくべきなのだ。

 ならば、

(手をくだすのはわれにてこそあるべし)

 そう考える。そうだ、由緒の古さなどを誇りとして、口をさえずらせるだけの連中は、切って捨てなくてはならない。その血に洗われてこそ、倭国やまとノくにも面目を一新する。その新たにした国を、古人大兄王子ふるひとノおおえノみこ山背大兄王子やましろノおおえノみこたてまつりたいものだ。

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