後崗本天王

 入鹿いるか宝王女たからノみことは、新奇な工夫のある建物を好むという点では、一致していた。これに限っては、二人は同好の士と言っても良かった。

 入鹿いるかには、ここ数年の間、温めている案があった。屋根をくのに、かやなどではなくて、板を使うというものである。あの法興寺ほうこうじの天井に使われているような、美しく平らに整えた板を、表に出して見せようという考えである。

飛鳥板蓋宮あすかノいたぶきノみや

 宝王女たからノみこは、早速その構想に、そう名付けをする。こうと決めると、手を動かさせるのも早い人である。

「この九月ながつきより起こして十二月しわすを限りとし、新宮にいみやを造らんが為に、国々より殿材とのきを取れ。また東は遠江国とおツあうみノくにから、西は安芸国あきノくにまでの間より、宮を造る役丁よほろせ」

 崗本宮おかもとノみやで、そう大臣おおおみみことのりする。また、

新宮にいみやを造るつかさには、古人王子ふるひとノみこす」

 と命じる。では中大兄王子なかノおおえノみこにも、何か役目を言い付けるのかと、入鹿いるかも耳を立てる。そろそろ名目だけとしても、何かを任されて可笑おかしくない年頃である。

葛城王子かづらきノみこには」

 宝王女たからノみこはここで、中大兄なかノおおえを本名で呼んだ。

いまきもわかくして、口賢くちさかしくあるのみにて」

 意外な言葉が響く。

政事まつりごとあずからせることはならぬので、これより三年みつとせほどの間、飛鳥寺あすかでら蟄居すごもりして、学問が成るように努めるべしと、すでにおおせてある」

 これは、驚くべきことである。前妻うわなりの子である古人ふるひとを疎外して、おのが腹の子を優遇して来た宝王女たからノみこではないか。

 入鹿いるかは、どうしたことかと、近習きんじゅどもに問いただす。するとどうやら、中大兄王子なかノおおえノみこはこの母親に対して、ひどく気に障るようなことを言ったらしい。それは初耳であった。これはしめたものではなかろうか。この隙を利用すれば、古人大兄ふるひとノおおえを立ててきみとすることが、思ったより容易に出来るかも知れない。

 しかし、宝王女たからノみこの腹の底も、読み切れない。ひょっとすると、いずれの王子みこにも、跡取りになどさせぬ気かも知れない。権力をることに味を占めているのだ。このまま自ら立って、女帝として小墾田天皇おはりだノてんのうの再現をするつもりではあるまいか。

 これより少しのちに、もう一つの気になる話が、入鹿いるかの耳に入った。それは蘇我そがの手から百済国くだらノくにに、学問僧という名目で放った間者かんじゃからの報告であった。それによると、高麗国こまノくにで政変が起こって、王が横死おうしするほどのことがあり、百済くだらの王宮もただならぬ気配に包まれているというのである。詳しい事は、追ってしらせるとのことであったが、もしこんなことの影響が筑紫国つくしノくににでも及べば、倭国やまとノくにでも王位争奪などという内輪揉めは、していられもしなくなりかねない。

 入鹿いるかは、

(しばしは様子を探ることこそして、動くことは慎まねばなるまい)

 と考え込むのみで、冬の月を過ごした。

 

 冬十二月になって、十三日から二十一日までの日程が、崗本天王おかもとノてんのう葬喪そうそうの礼に当てられることとなった。

 板蓋宮いたぶきノみやの造営や、百済宮くだらノみやを改築する作事さくじは、国々から人夫を集めてまで、盛んに興している割りに、陵墓みささぎはまだ何処どこと決められてもいない。それで滑谷岡なめはさまノおかという所に、仮に埋葬をして、式典だけは正式に行われるという、何とも奇妙な状況であった。

 巨勢徳太臣こせノとこだノおみは、王室の長老大派王子おおまたノみこに代わってしのびごとを述べた。粟田細目臣あわたノほそめノおみは、軽王子かるノみこに代わってしのびごとを述べた。入鹿いるかには、父に代わってしのびごとを述べる役割は与えられなかった。蝦夷えみしは、それを大伴馬養連おおともノうまかいノむらじゆだねた。

 入鹿いるかには、面白くないことである。

(あの徳太とこだですら、ああしてしのびごとを申しておるのに)

 と腹を立てる。徳太とこだというやつが、憎いのではない。蘇我臣そがノおみと縁が深い巨勢臣こせノおみの跡取りで、昔から友達である。しかしこの俺よりずっと軽薄なやつだのに、と思うのだ。

 この冬はいつになく暖かくて、雷の轟くことが多い十二月であった。

後崗本天王のちノおかもとノてんのう

 という言葉が、唐突に、入鹿いるかの耳に入る。参列した人々の、私語ひそかごとの中から、漏れ聞こえた。何かの聞き違いかと思ってみても、また別の所でもそう言うのを見る。、というのはいぶかしいことだ。

 こういう時に頼りになるのが、徳太とこだというやつである。やつめは軽薄であるだけに、世の噂話などにはさとい。

「何のことをか崗本天王おかもとノてんのうとは呼びあるぞ」

 とたずねると、

林大郎はやしノたいろうにても聞き及ばずありけるや」

 と問いが返る。

 徳太とこだが言うことには、こうである。

 この夏六月、ひでりが続くことがあった。ひでりは秋七月に入っても続いた。九日に、客星まろうとほしが月に入った。星が月に入るというのは、凶事まがごときざしとされる。それでたみどもは、る所では牛や馬を殺して、土地の神に祭った。またる所では、市場を閉じて雨乞いをした。またる所では、河伯かわノかみ祈祷きとうをした。ことごとく効験こうげんは無かった。

 七月二十七日、蘇我蝦夷大臣そがノえみしノおおおみは、百済寺くだらでらの南の庭にて、如来にょらい菩薩ぼさちの像、四天王してんのうの像をおごそかに飾り、おおくのほうしを請い招いて、大雲経だいうんきょうなどを転読させた。転読というのは、経文きょうもんの一部のみをんで、あとは紙をめくるだけで読んだことにするのである。この時に、大臣おおおみは手に香炉をって、香を焚いてちかいおこした。翌日、小雨こさめこぼれたのみで、二十九日にはまたよく晴れたので、この行事は中止された。

 そこで八月一日、宝王女たからノみこ南淵みなぶちの川上にいでまし、みずかひざまづいて、北に多聞天たもんてん、南に増長天ぞうじょうてん、西に広目天こうもくてん、東に持国天じこくてんを拝み、天を仰いでは仏に雨を乞うた。するといかづちが鳴って、大雨ひさめが降った。ついに雨ふること五日、あまねく野山や田を潤した。

 それでたみどもは喜んで、

いきおいまします天王てんのうにてあらせられる」

 と言い、誰からともなく宝王女たからノみことうとんで、

後崗本天王のちノおかもとノてんのう

 と呼ぶようになった。

「……と世の噂あり、ようよう広まりけり、近頃は臣連おみむらじどもの口にものぼるようなる」

 そう徳太とこだは云う。

 入鹿いるかには、初めて聞くことである。

 そもそも噂というのは、途中までは真実であったりするので、たちが悪い。ひでりはあった。父の発議で、百済寺くだらでらで雨乞いはしている。だが父がその場で発願ほつがんしたことはないし、宝王女たからノみこ南淵みなぶち行幸みゆきして祈祷きとうしたこともない。あれば、この入鹿いるかが知らないはずがない。雨は確かに降ったが、あれだけひでりが続いたのだから、雲行きが変わるのは自然のなりゆきであろう。

 さらに徳太とこだの言う所を聞くと、宝王女たからノみこは実際に即位したという噂もあるとまで云う。それは十一月の中のの日のことで、新嘗にいなえの礼典にいて、祖先の霊に即位することを告げ、陵威みいつを継承する儀式を行ったということになっている、と云う。

 そんなことは聞いてもいないし、無かったと思う。しかし、王室で行う新嘗にいなえまつりは、もとより宮中の秘事であるので、誰にいても確かなことは分からない。その日は、天王てんのう忌中きちゅうであるとの理由により、臣連おみむらじどもは各々おのおのの家にて慎んでまつりをするようにとの沙汰さたで、皆々崗本宮おかもとノみやに出仕して相伴しょうばんあずかることはしなかったので、なおさらその様子を知る者とて無かった。

 二十一日に、天王てんのうひつぎを埋めてしまうと、宝王女たからノみこ崗本宮おかもとノみやにさえ未練なく、さっぱりと引き払って、小治田宮おはりだノみやうつってしまい、板蓋宮いたぶきノみやが落成するまでの行宮かりみやと定めた。

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