天王の楽と苦

 崗本天王おかもとノてんのうの治世は、なべて平穏を保って、初めの数年間が過ぎて行った。無事であるということは、反面で積極性を欠いた結果でもある。天王てんのうには、先帝の成した所は守ろうとこそすれ、そこから先に進もうという意欲は無い。面倒なこと、決断しにくいことは、宝王女たからノみこの意見を聴いて、蘇我蝦夷大臣そがノえみしノおおおみに任せれば、良いようにしてくれて、悪いことにはならないのであった。

 政治は、好きではない。毎年の楽しみは、気候の良い時期に暇を作って、近江国ちかツあうみノくにへ旅することである。そこには、父祖のゆかりの地がある。

 その昔、彦太王ひこふとノおおきみは、越国こしノくに近江国ちかツあうみノくにの王となり、さらにほろびた倭王やまとノきみ氏の王女みこめとって、倭国やまとノくにをも征服した。その子、広庭王ひろにわノおおきみ倭王やまとおうと称して、倭国やまとノくにに根を下ろした。広庭王ひろにわノおおきみの子の世代は、他田王おさだノおおきみ橘王たちばなノおおきみ泊瀬部王はつせべノおおきみ倭王やまとおうくらいを継ぎ、最後に炊屋姫尊かしきやひめノみことが自ら立って天王てんのうと称した。崗本天王おかもとノてんのう他田王おさだノおおきみの孫なので、彦太王ひこふとノおおきみからは五世の孫に当たる。

 倭国やまとノくにの北に山背国やましろノくにがあり、近江国ちかツあうみノくにはその東に在る。この国には、淡海あうみと呼ぶ大きい湖がある。南北に長い水域である。いつもその南端、大津おおつという所から船を出し、ゆるゆると北へ漕がせて、彦太王ひこふとノおおきみの膝元であった高嶋たかしまへと浮かぶ。

 雲に乗って、天上を心地ここちがする。あおあおくどこまでも湖面は広がる。

 波は寄せても海に処するより静かで、風は吹いても陸に居るより清い。船の上には、近習きんじゅや水夫の他は、美しく賢いきさき宝王女たからノみこと、中大兄なかノおおえ間人はしひと大海人おおしあまの三人の子だけが供をする。政治の悩ましさも、儀式の煩わしさも、ここでは忘れられる。

 俗世ぞくせをおきさかり、精霊しょうりょうささやきに打たれ、仏の大乗にあずかることを想う。


 こうして天王てんのうが行楽をしている間にも、山背大兄王子やましろノおおえノみこは、斑鳩宮いかるがノみや逼塞ひっそくし続けている。王位を争う立場にあって、闘わずとも敗れたからには、いつどうして死をたまわらぬとも限らない。権力とはそういうものだというくらいは知っている。どんな小さい疑いでも持たれぬようにせねばならない。

 その為に、父の時に天皇からたまわった領地なども、少しずつ切り分けて、寺院に寄進したり、王室に奉還もする。それで、家産は次第に細って、郎党や奴婢に食わせるにも事欠く有様となって来る。

 五男二女の、舂米王女つきしねノみことの間に生まれた子どもも、外には余り出さず、法興寺ほうこうじ僧旻そうみんの所へ通わせることもしない。これは一つには、斑鳩いかるがから通うにはやや遠いということもある。ここは、やまとの内から難波なにわの方へと抜ける道には近いけれども、行き交う人々も今は隣の法隆寺ほうりゅうじばかり拝んで過ぎる。飛鳥あすかの賑わいは遙かにある。

 舂米王女つきしねノみこにしても、こんな暮らしは情けないものである。そして不安がいつもある。こうしてただ息を潜めているだけでは、まだ王位をねらっているのかと疑われぬでもない。それは危険なのだ。権力を持つと持たぬと、どちらが強いかは知れている。出家をしてはどうかとは、蝦夷えみしなどからも幾度いくたびか勧めを受けている。そうしてくれれば、よほど安心できるというものなのに、大兄おおえにその気があるのかどうか、よく判らない。

 山背やましろとしては、在家のままで仏の道に励むことは、わが身を父になぞらえることでもある。今でも支えてくれる者があるのは、父の遺徳によるものに違いない。人々が上宮太子かむツみやノみこの影を、この身に重ねているからこそなのだ。

(出家などしては)

 どうだろうと考える。聖徳法主しょうとくほうしゅとも呼ばれた父の子でなければ、何の価値も認められないおのれではないか。剃髪ていはつ袈裟けさまとおうとは、決断がしにくい。

(出家などしては)

 どうだろうと考える。僧形そうぎょうになって、死から逃れたとしても、それで生きていられるのか、何がどうなるものか、先を想い描けずにいる。


 天王てんのうは、旅からもどみちに入ると、憂鬱になる。崗本宮おかもとノみやに還れば、政治向きの話を次々と聞かされる。特にいやなのは、山背大兄やましろノおおえの処遇についての話が出ることだ。放っておいても良かろうと思うのに、宝王女たからノみこはそうではないといつもう。

「殺させたまえ」

 などと、そうあからさまには言わない。しかしそう思っていることは判る。

山背大兄やましろノおおえには、みことのりして出家させたまわせ」

 それが至当であり、山背やましろにとっても良いことだ、もし従わざることあれば、とその先を示唆する。それはいやなのだ。この口から、そうせよ、と発しただけで、嫌いでもない親戚が、むごたらしく死ぬことになるとは、想像するだけで寒気がする。

 それで天王てんのうは、倭国やまとノくにに在る時でさえ、崗本宮おかもとノみやに居ることを避けて、どこかの屋敷にでも行幸みゆきすることが多くなる。

 

 宝王女たからノみこには、天王てんのうの態度が解らない。

 権力を持っているからには、誰の命をも奪えないことはない。国に乱れあることを防ぐには、人を消さねばならない時がある。殺すべくあれば、罪なくとも殺す。それが権力というものだ。それは、かつて小墾田天皇おはりだノてんのうに仕えた歳に、しかと教わったことであった。

(なぜこの人には、それだにもあたわぬのか)

 淡海あうみに浮かぶ間は、それは話さずにいても、微笑ほほえみの下にめた瞳を隠して、こう案じている。早く山背やましろを消しておかねば、いずれ何か事が有る際には、のちのことが危うくもなろうに。苛立いらだちは、年々つのる。

 さて治世第八年の春三月、天王てんのうに一人の王子みこが生まれた。産んだのは、宝王女たからノみこでも法堤郎媛ほほてノいらつめでもなかった。母親は、吉備国きびノくに賀陽臣かやノおみから献上された采女うねめの某であった。

 宝王女たからノみこは、天王てんのうに対して怒りをあらわにはしない。だが怒りを腹に収めもしない。

近習きんじゅどもの中に、わがきみそそのかしまつりて、采女うねめなんどにおん手付きさせ参らせた者でもあれば、捜し出してつみせよ」

 入鹿いるかはそう命じられた。声の冷たさが、耳に残る。

 さあ、そうは言われても、誰かが主上に教唆きょうさしてさせたものかどうか、明らかでない。そもそも、とうとい身分の男でこそあれば、たまたま女に手を付けることくらい、何処どこにでもある話である。賀陽采女かやノうねめねやに手引きをした者があったとて、別に悪いことをしたのでもない。世の習わしにあることではないか。

 どうにも仕様がなく、一応のことで天王てんのうの側仕えの者の述べる所を聞くなどするのみで、数日を過ごす。すると父は、

「何をぐずぐずとするぞ。く致さば」

 ととがめる。よく事情を知っているはずの父である。

「されば、罪に当たらぬ者をも斬るべしと言われますや」

 と返すと、宝王女たからノみこの覚えが悪くならぬようにすれば良いのだ、と更に叱られた。

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