入鹿と鎌子

 高表仁こうひょうには翌年春一月末に、帰国の途に就いた。この際の交渉は、倭王わおうと礼を争って調ととのわず、天子の命をらずして還る、と史官によって記録された。長安チャンアンの宮廷では、表仁ピェウジン綏遠すいえんの才なし、と評される結果となった。詳しいことは、どの史書によっても後世に伝えられていない。


 蝦夷えみし僧旻そうみんの申し出について、天王てんのうの裁可を受けて、飛鳥寺あすかでらこと法興寺ほうこうじの施設を、その為の場所として使わせることとした。やるからには盛大にせよとの、宝王女たからノみこの内意を受けて、王族をはじめとして、多くの氏族から、学生として人が駆り出される。

 宝王女たからノみこの一子、葛城王子かづらきノみこまたの名は中大兄王子なかノおおえノみこが、第一の生徒として入学することがおおやけにされる。中大兄王子なかノおおえノみこは、まだ八歳である。次に、宝王女たからノみこ同母弟いろど軽王子かるノみこは、自ら志願してここに入る。もう二十歳は過ぎて、弱冠とはわれない年頃である。崗本天王おかもとノてんのう蘇我法堤郎媛そがノほほてノいらつめの子、古人大兄王子ふるひとノおおえノみこもここに加わる。古人ふるひとは、中大兄なかノおおえより十歳ばかり年上である。

 阿倍臣あへノおみ大伴連おおともノむらじ巨勢臣こせノおみ春日臣かすがノおみなどといった、名だたる貴族の子弟も、ここに顔を揃える。

 身分のずっとひく氏々うじうじの者たちも、入門を許されるという沙汰さたを受けて、ここに集まって来る。ここで成果を上げれば、序列を越えた待遇を得られるのではないかという、淡い期待が漠然とながら広まっていることに、とうとい人々はまだ気付いていない。

 僧旻そうみんにとっては、自分で言い出したものだとはいえ、想ったよりも急に事が大きくなり、難しさを感じる始まり方とはなった。

 何しろ学生どもは、とうとしといやしと、身分の幅が大きい。年齢もまだいとけない者から白髪の交じる者まである。すでに家である程度の学問を積んだ者もあれば、読み書きから教えねばならない者まである。ただ行けと言われたから来たというだけの者と、学問に出世への一縷いちるの望みを託そうというほどの者が、机を並べることになる。それに加えて、ここには女性は入れられないので、宝王女たからノみこの二子、間人王女はしひとノみこには、別にみやのぼって教えるという約束もさせられている。

 何としても、教える側の手が足りない。玄理げんり請安しょうあんには、早く還れとの伝言を、からの僧侶に頼んで来ている。早く早くと願うが、現に無いものは仕方がない。からに渡った経験のある者や、くにに在りながら学問を習った者には、各々の達する所に応じて、教える方に加わってもらわねばならない。

 入鹿いるかも父に命じられて、后宮きさきノみやに仕えるかたわらで、法興寺ほうこうじに通うことにされた。より高い学問を教わるのは、まあ楽しみではある。初学者に教える役目を負うのは、億劫おっくうだがまあ良かろう。しかし様々な身分の者が同じ場でひとしく学ぶというのは、どうであろう。

 まだ春の半ばに至らず、陽はほがらかながらも、風は冷たく吹く朝に、授業が実際に始まった。如来の像に照らされて、個々別々の出身を持つ者たちが、一続きの床の上に坐る。

 入鹿いるかは、

(これはやはり氏々うじうじ序階つぎてを乱すことにやあらんか)

 と危ぶむ。この事を推した父の判断を疑う。不快なことが、現にある。

 仏の前では平等であるという、建前たてまえ建前たてまえとして、多くの人は身分なりに、とうときは前に、いやしきは後ろにと、席取りを遠慮する中に、独り僭越せんえつをする者がある。どう見ても入鹿いるかと並ぶべきとも思えぬ、小身しょうしんらしい若者が、隣に席を取ろうとした。

「どこにか坐るぞや。氏名うじなを申せ」

 入鹿いるかが叱り付けると、

中臣連なかとみノむらじ鎌子かまこ

 そう名乗る。

 中臣連なかとみノむらじというと、かつては物部連もののべノむらじ指図さしずを受けて、王室の祭祀に関わる雑事をしていただけの、小さいうじであった。物部ものべ氏は、物部守屋大連もののべノもりやノおおむらじの代に、仏教をこばんで、炊屋姫尊かしきやひめノみこと蘇我馬子大臣そがノうまこノおおおみに討たれ、領地や領民も多くが削り取られた。それで中臣なかとみ氏は、王室に隷属れいぞくして、神事の執行などに使役されることとなっていた。中臣連なかとみノむらじの当主は弥気子みけこといい、その跡取りとされるのが、確かこの鎌子かまこという者であろう。

 さあ、わが蘇我臣そがノおみと比べては、こんなうじの者などは、横に居らせるべくもない。建前たてまえは、学問普及の為の方便に過ぎないのだ。年格好としても、入鹿いるかが三十を過ぎているのに、鎌子かまこは十歳ばかりは下らしく見える。

「これはしたり、お叱りあるとは思わざりしに」

 と言いつつ鎌子かまこは、いやな笑みを浮かべて、

「はは、机のいずこにか名前でも書きてありますや」

 そんな軽口を叩きつつ、今は引き下がる。しかしまた別の日、また別の時ごとに、入鹿いるかがここに来ると、その隣か、あるいは同じ列かに、空いてさえいれば、坐ろうとする。その度ごとに追い払わねばならなくなる。

 豊浦とゆらの屋敷で、父からわが国子監こくしかんの様子はどうかと問われた際に、たまらず、

中臣連なかとみノむらじめが、いやなきことを致します」

 どうか向こうへ注意をしてください、と鎌子かまこのことを訴える。

 蝦夷えみしは、その話を聞きながら、むしろわがむすこの出来について、しみじみと案じずにはいられない。

 蘇我臣そがノおみは、今は唯一の大貴族だといっても、もとは葛城公かづらきノきみ指図さしずを受けて、海へ島へ走り使いするだけの、小さいうじに過ぎなかった。葛城かづらき氏がおとろえると、その退しりぞいた跡を埋めようと、平群臣へぐりノおみ巨勢臣こせノおみ和迩臣わにノおみなどが競ったものであった。この争いを制して、今の蘇我そがを立てたのは、稲目いなめ馬子うまこの二代の努力が成したことなのである。

 蝦夷えみしとしては、祖父と父の苦労を看て育ったので、大臣おおおみといっても安住の出来ぬものだと知っている。盛者必衰じょうしゃひっすい諸行無常しょぎょうむじょうなることは、仏の教えによらずとも、身にひしひしと感じている。だが入鹿いるかは、生まれた時にはうじが安泰であったので、ただ待っていても大臣おおおみを継げると信じているのに違いあるまい。これではいずれ葛城公かづらきノきみの後を追うことにならぬとも限るまい。

なんじ中臣連なかとみノむらじなんどに、学問で負けぬようにこそせよ」

 蝦夷えみしはそれだけの言葉を返して、わが子を叱咤しったした。入鹿いるかには、それが不満であった。

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