唐帰りの僧旻

 崗本天王おかもとノてんのうの治世第四年秋八月、から皇帝みかどの使い高表仁こうひょうには、犬上君いぬかみノきみ三田耜みたすきらを送って、対馬国つしまノくにに入った。壱岐国いきノくに筑紫国つくしノくに、また諸々もろもろの国を経て、難波津なにわノつまで着いたのは、冬十月四日のことである。天王てんのうは、大伴連おおともノむらじ馬養うまかいを遣わして、飾り船三十二艘に旗、笛、つづみを備えて、難波なにわ江口えぐちに出迎えをさせる。

 高表仁こうひょうにからの一行は、ひとまず難波なにわ客館まろうとノむろつみに留め置かれる。三田耜みたすきは、僧旻そうみんを連れて、倭国やまとノくにへ急ぐ。

 河内かうち志紀しきからのぼって、竜田たつたの峠道を歩いて行き、やがてやまとの野が眼下に開ける。

吁嗟ああ、かほどに小さけくありけるかな」

 僧旻そうみんは嘆息して、見晴らしの良い道端にしばし足を止める。

 三田耜みたすきにも、僧旻そうみんほど長くくにを離れたのでないとはいえ、その気持ちは分かるような気がする。湿り気の多い原に、あぜで限られた稲田は、とっくに刈り取りの済んだ後で、寒い空をくろく映しているらしく、遥かに見受けられる。

 坂をくだりつつ、

「この小さきことをば如何いかにせんか」

 と叫ぶ。どういうことであろうか。わが地面が小さいのは、から土々くにぐにと比べては残念なようではあるとしても、どうともしようがあるまい。三田耜みたすきはそう思ったが、僧旻そうみんが言うのはそういうことではないのであった。

「この小さきことをば如何いかにせんか」

 僧旻そうみんはそう繰り返してとなえる。やまとの人というのは、どうも心構えが小さい。それはこの山だらけの島の中で、わずかに開けた野の中に生きているせいかも知れない。もっとも地面が小さいのは、天のしたことだからうらむではないが、人の気が小さいのは、どうにかしようが無くはなかろう。学問することをより多くの人に教えるくらいはせずばなるまい、とうのである。

 三田耜みたすきは、僧旻そうみんの頭の中に、にいしき考えが膨らみつつあると感じ取る。そしてそれは自分には大きすぎる相談なのであろう。

「されば豊浦大臣とゆらノおおおみにこそ申し上げてみられよ」

 とこたえる。僧旻そうみんの耳には、とゆらノ大臣おおおみというのは、聞き慣れない音であった。蘇我そがの当主であられる方だと教えられて、そうかと合点がてんをする。

 峠を下りて、原を歩く。出迎えの一団が見えて来る。僧旻そうみんはその中に、蘇我馬子大臣そがノうまこノおおおみと、その若い跡取りの姿を見た想いがした。それは豊浦大臣とゆらノおおおみこと蝦夷えみしと、そのむすこ入鹿いるかであった。からを旅する間に、世代が一つうつっていたのであった。

 はるかに法隆寺ほうりゅうじ舎利塔しゃりとうる。文明の、希望の光。

嘻々ああわがくに釈尊しゃくそんの大いなるてのひらの上にやりけるよ)

 僧旻そうみんはその伽藍がらんの威容に心を励まされる。蝦夷えみし斑鳩いかるがを通り過ぎさせ、南へ折れて、やがて飛鳥あすかに入り、豊浦とゆらの屋敷に旅の草鞋わらじを脱がせた。

から京都みやこには、国子監こくしかんなるものさえありましてな」

 蝦夷えみしが長旅をねぎらうのに対して、僧旻そうみん挨拶あいさつもそこそこに、想う所を切り出す。

 国子監こくしかんというのは、から朝廷みかどが設けたもので、貴族の子弟や全国の俊才を集めて、優秀な官僚とすべく、学問を授ける機関である。そこでは三十人足らずの教師が、その十倍以上の生徒に教えている。人を一カ所に集めるから、次々と有能な士大夫が育つ。だから政治の能率も上がるので、宏大こうだい版図はんとを一つの制度で統治することが出来る。わがくにもそんな国にならんと考えるならば、やはりこんな場所を作らねばならない。

「誰と言わず一つ所に集めるにあらずば、とても追いつきゃしませぬぞよ」

 もしかような事業を興されるならば、手伝いをさせて欲しい、と願い出る。

 蝦夷えみしには、この提案は大いに興味を感じるものである。一体わが島々の上には、海外との交渉に携わる者であってさえ、考えがこぢんまりとして、行いもせせこましい人が多くある。このままであっては、これから先に困ることになろう。かねてそう思っている。学校、というものを作るのは良い。

 しかし、ここには一つの抵抗がある。人は誰であれ、生まれつきに決められた、身分の序列に従って生きるのが、この世の定めである。それが破られても仕方ないというのは、盛者必衰じょうしゃひっすいことわりにより、むを得ざるという時に限られている。とうとき者とたみどもの間に差別があるのは当然である。とうとき者どもの中にも、またとうとしといやしとの品級しながある。きみたるのうがらともなれば、そのほかとは越えられぬ一線を引いた上に在る。

 王子みこなりとも氏々うじうじの者とも、一つ所で学問をされるようにありたい。僧旻そうみんはそうう。まあたみどもにまで教える必要は無いにもしろ、それだけでもこの国の秩序を揺るがすことになりかねないのである。

みほとけの前ということにてあればと」

 そこで僧旻そうみんは、なお斬新な提案をする。寺の境内けいだいであれば、俗世ぞくせの身分に拘泥こうでいすべくもあらずとの建前たてまえが立つ、とう。

 なるほど伽藍がらんでは、かみ天王てんのうからしも舎人とねりなどまでが集まって、法会ほうえをするということは、すでに行われていた。仏の前ではみな平等だという建前たてまえはある。もっと昔でも、まつりの際ならば、普段は交わらない身分の者が、場を共にして良いということは、伝統的にあった。神仏の前ではそうだということは、建前たてまえ以上の何物でもないが、建前たてまえがあるから出来るということはある。ともかくもそれは新たな試みを受け入れられやすくするであろう。

「それは天王てんのうみあしもとに申し上げてみねばなるまい」

 蝦夷えみしけ合う。もっとも崗本天王おかもとノてんのう宝王女たからノみこはからねば決めかねるであろう。宝王女たからノみこは、ただおのはらの子のためのみに、僧旻そうみんを召し還したのである。蝦夷えみしは案じる。聴き容れられるであろうか。他人の教育の心配などはされるまい。むしろ王子みこためだけにならぬことなど嫌われるかも知れない。

 日を選んで、后宮きさきノみやに、蝦夷えみし僧旻そうみんを連れて行く。

 案の定で、長安ちょうあんける学問の盛んなる様子や、それをわがくににも興そうという話などは、僧旻そうみんがしても別に宝王女たからノみこの心を動かさない。ただ蝦夷えみしから、

百済くだら新羅しらきなどのこきしも、国子監こくしかんに送り込んで、学問をさせておるとか」

 と言い添えた時に、その顔に色を見せた。すると百済国くだらノくににもまだかようなものは作らずにあるか、と問いが返る。

 さあ宝王女たからノみこには、近頃なるものについて、いたく気にけていることがある。それは二年ほど前から、百済王くだらおうの頼みを受けて、その孫を天王てんのうもとに預かっていることから起きている。というのは、百済くだら新羅しらきことばで、王子のことをいうのである。

 百済国くだらノくには、六十年ほど前、王都を新羅国しらきノくにに奪われて、勢いのおとろえるめぐりにうこととなった。しかし今の百済王くだらおうは、風儀英偉ふうぎえいい志気豪傑しきごうけつたたえられ、即位するや武威を輝かして、隣国の圧力に耐え、国を立て直してきた。しかしくらいること長くして、身の老いを感じるに至り、国の行く末を憂いて、万一の時のためとして、孫の豊璋ふしょう塞城さいじょう忠勝ちゅうしょうの三人を、倭国やまとノくにに住まわせることとしたのであった。

 それで宝王女たからノみこは、百済くだら王子せしむたちが、倭国やまとノくにの実際を見れば、おくれた国だと思って、あなどり軽んじる心を起こすまいかと考えて、気に病む所があったのである。さてこそ、僧旻そうみんの言う国子監こくしかんなるものの如きを、こちらで先に作ることになれば愉快だと思われたものらしい。

「そのこと、近く天王てんのうに勧めたてまつるであろう」

 という宝王女たからノみこことばを、蝦夷えみしは引き出すことが出来た。

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