今と昔

 から州々くにぐにを南北に縦断するのは、東西を横断するのに比べると、道の険しい所が多い。三田耜みたすき恵日えにちは、日文にちもんらの跡を追い、関中クァンチュンって、山南道サンダンダウを下る。土気臭い黄河クァンガ沿いを離れて、長江チャンガンの線に近付くと、風はぬるみ、湿り気を帯びて、郊外には稲田が多く、倭国やまとノくにの野を思わせる。

 ただ、その土地の広いことは、やはりわがくにとは比べようもない。山並みは何処どこまで続くとも知れず、道程みちのりは果てしなく遠く感じられ、目的を早く果たすことは出来ないという諦めの中を、ゆるゆるとくより他にしようがない。

 この宏大な天下を、各地の寺々に日文にちもんらの足跡そくせきを尋ねながら、旅をして歩く。仏の導きというものがあった。なお南して、江南道カンダンダウを過ぎ、嶺南道リェンダンダウに入ると、懐かしい潮のが嗅がれる。

 嶺南道リェンダンダウ新州スィンシウで、その刺史ししである高表仁カウピェウジンという人の協力もあって、ようやく日文にちもんとは繋ぎを付け、落ち合うことが出来た。日文にちもんはその二文字をつづめて、ビン、という渾名あだなからの人に呼ばれ、またみずか僧旻ソンビンと名乗ってもいた。請安しょうあん玄理げんりとは、会うことがかなわず、日文にちもんのみを連れ帰ることとなった。


 倭国やまとノくにでは、崗本天王おかもとノてんのうの治世第二年、三年が、特に事も無く過ぎていた。四年目の秋の気が立つ頃に、三田耜みたすきらはもうすぐ僧旻そうみんこと日文にちもんを連れて還るであろうとの先触れが、蘇我そが氏の海外に張った人脈を通じて、崗本宮おかもとノみやまで知らされた。

 このしらせには、想定外のことも含まれていた。三田耜みたすきらは、嶺南道りょうなんどう新州しんすかみである高表仁こうひょうになる人に送られて来る。高表仁こうひょうには、からみかどに遣わされて、勅使として倭王わおうう、と云う。

 からより勅使を迎えるとなれば、これにどう応接するのかを、定めておかねばならない。天王てんのうという称号が、ここでも問題になる。海外では、伝統的な倭王わおうという称号が、なお正式なものとして認知されている。だから倭王わおうとして迎えるのか、それとも天王てんのうで通すのか、ということである。

「名にこだわることなく、穏やかに話し合いをして、過ちなく済ませるようにありたい」

 という望みを、天王てんのう蘇我蝦夷大臣そがノえみしノおおおみに伝える。天王てんのうなどというのは、からの方で認めがたかろう、という見通しがある。

 倭王わおうといえば、昔なら倭王やまとおうたる者は、くれ天子みかどより倭王わおうとして冊封さくほうを受けていたものである。その証しとして授けられた金印は、先々代の泊瀬部王はつせべノおおきみみよまでは、確かに受け継がれていた。その金印は、今は在処ありかが知れなくなっているけれども、改めてから皇帝みかどより得ることが出来れば、いにしえの礼に合致もし、海外に対しても通りが良かろう、というのが天王てんのうの意見である。

 宝王女たからノみこには、こういう天王てんのうの態度が気に入らない。

「わがきみには天皇てんのうの道を継がせたまえるよう、よくいさめ申すこそ臣連おみむらじどもの役目なるぞ」

 と、宝王女たからノみこはよく蝦夷えみし后宮きさきノみやに呼び付けて、天王てんのうへの反対を伝えさせる。蝦夷えみしは慎重に言葉を選んで、天王てんのう翻意ほんいされるようにと導くのである。

 時には入鹿いるかもこの使いをさせられる。后宮きさきノみやに仕えよと父から命じられたからであった。斑鳩いかるがへは、用も無く足を向けるなと、きつく言い付けられていた。

 いつも宝王女たからノみこの意向は、二代天王てんのうとして恥じる所の無い態度をられるように、とのことである。

 蝦夷えみしは、かつて天皇てんのうずい氏の使いを迎えた際の記録を、豊浦とゆらの屋敷にある書庫から持ち出す。要点を整理して、さきみよにはかくなされし、ということを天王てんのうに聞こえさせ、今の場合に対する判断を引き出そうとする。


 小墾田天皇おはりだノてんのうが、はるか長安ちょうあんまで使いを遣わしたことは、その治世の第八年、ずいでは文帝もんたい開皇かいおう二十年に始まった。この年は、ずい氏がくれ天朝みかどを滅ぼしてより、およそ十年の後に当たっていた。この時は、まだ詳しく記録を残すことは始まらなかったので、文書によって振り返ることが出来ない。

 次には、わが天皇てんのうの第十五年、ずい煬帝ようだい大業だいごう三年、正使は小野臣おのノおみ妹子いもこで、鞍作福利くらつくりノふくり通詞つうじとし、長安ちょうあんへ遣わした。ずい朝では妹子いもこの名を因高いんこうと書いた。帰国後の報告によると、妹子いもこは遣使の目的を先方にこう伝えていた。

「わがきみは、わたの西に菩薩ぼさち天王てんのうありけり、再び仏ののりおこすことありと聞こしめし、かれ我らをば朝拝みかどまいりに遣わし、またほうし十人ほどをば仏ののりを学びに至らせたまいましき」

 この際に差し出した国書の控えは、蝦夷えみしの書庫に保存されてある。父の馬子うまこが起草したものである。

「日のいずる処の天王てんのうより、日のしずむ処の天王てんのうふみを致す。つつがなくおわされますや」

 云々うんぬん、という書き出しで始まっている。これは上表の決まった書式を敢えて外したので、その所が煬帝ようだいには気に入らなかったらしく、

蠻夷えびすふみいや無きものあらば、ふたたび聞かすことなかれ」

 と有司に命じたと云う。

 あくる年に、煬帝ようだい鴻臚寺ぐうろじ典蕃署てんぼんじょ掌客しょうきゃくという官吏である、裴世清べせしょうなる人を使いとして、妹子いもこらが還るのに付けて、倭国わこくへと遣わした。のち裴世清べせしょうが提出した復命の文を、馬子うまこ高麗国こまノくにを通して手に入れていた。

しん世清シェイシェン恐惶かしこみ皇帝こうていきざはしみもともうたてまつる」

 という書き出しで始まる。

 曰く、裴世清バイシェイシェンらの船は、百済パクセイ国に渡って、その西南に浮かぶチュク島に至り、南に聃羅タムラ国を望んだ。東して都斯麻トシバ国を経て、陸を離れて、大海の中を南して一支イチ国に至り、また行って竹斯チュクシ国に至った。また東して十余りの国々を経て、国の岸に達し然々しかじか、とある。また、

竹斯チュクシ国より東は、みな国の附庸ふようなり」

 と記されてある。

 難波津なにわノつでは、飾り船を備え、笛やつづみを鳴らして、来る船を出迎えたものである。蝦夷えみしもその時のことを思い出す。六月十五日で、よく晴れた蒸し暑い日のことであった。

 後十日して、裴世清べせしょうらは倭国やまとノくにの内に入り、海石榴市つばきちちまたに、飾り馬によって迎えられた。この時、天皇てんのう海石榴市宮つばきちノみやに在った。天皇てんのう世清せしょうらを朝庭に召すと、大殿おおとのの奥に控えて、悠然自得とした容子ようすで、表から聞こえる声に耳を澄ませていた。蝦夷えみしはその側に仕えていた。

 表では、上宮太子かむつみやノみこが、倭王わおうであるという名目で、世清せしょうに接見していた。

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