大いなること

 君主の称号は、飾りではない。統治の制度や理念を象徴するものなのである。炊屋姫尊かしきやひめノみことが、天王てんのうと号したことは、仏教立国の決意を闡明せんめいし、旧弊との訣別けつべつを宣言するものでもあった。

 宝王女たからノみこは、亡き炊屋姫尊かしきやひめノみことに関する限り、天の字を換えて、天と書くようにせよと、蝦夷えみしに言い付けた。おうという字には、鼻祖びそたる王という意味があり、始めて天王てんのうとなられた先帝に相応ふさわしい、そこで尊んで天皇てんのうとしてのおくりなたてまつれ、との内命である。

小墾田宮治天下豊御食炊屋姫天皇おはりだノみやニあめノしたしらしめししとよみけかしきやひめノてんのう

 という字が、先帝の正式なおくりなとして定められた。

 田村王子たむらノみこは、二代天王てんのうになる。先代がおくりなでは天と書き換えられることで、文字の上のみのこととはいえ、偉大なる先帝より格下という扱いとも取れる。それで、少しは気が安まるのを感じる。

 年が明けて、まだ冬の気が漂いながら、春の気がいささか生じつつある、一月四日の、寒い朝が明ける。

 田村たむらはこの日に、法堤郎媛ほほてノいらつめ古人大兄王子ふるひとノおおえノみこの顔を、久しぶりに視た。いつ以来だったか、よく憶えない。古人ふるひとは、父の目を外すように、おもを伏せがちにしている。無理のないことだと思う。血筋の良さが愚かしさを直しはしないとは、己のことだから分かっている。

 蘇我蝦夷大臣そがノえみしノおおおみが、おみむらじともみやつこどもを代表して、伝国の宝器を田村王子たむらノみこの前に進める。田村たむらは、作法としていなびる。

きみくらいは重きことにてある。寡人おのれ不賢おさなくあるに、いかでか敢えて当たらんや」

 と述べたのは、礼儀の上のことであるにしても、本音でないことはない。おのれは愚かである。山背大兄やましろノおおえくべきくらいを奪ったという後ろめたさもある。さてさて、もはや逃げることは許されない。推されてやむにやまれず、天王てんのうくらいんだ。

 崗本宮おかもとノみやの改装は、どうせ即位の日には間に合わないことになったので、予定よりも大きく建て替えることとされた。しばらくは、豊浦宮とゆらノみやが王宮となる。それでも崗本宮おかもとノみやが本拠ではあるので、人々は新帝を、

崗本天王おかもとノてんのう

 と呼び習わすこととなった。

 やまと天王てんのうになったといっても、田村たむらには政治の経験が無い。宝王女たからノみこは、幾歳いくとせ小治田宮おはりだノみや天皇てんのうに仕え、その薫陶くんとうを受けていた。それで田村たむらは決裁をするのに、事毎ことごときさきに相談の上でなければ出来ない。その治世第二年の春一月十二日、宝王女たからノみこ正妃むかいめに立てられて、名実ともに法堤郎媛ほほてノいらつめを押しのけてしまった。

 宝王女たからノみこがこの立場を得て望む第一のことは、三人の子に最高の教育を与えたいということである。その願いの為には、からに渡ったことがある人という所で、まず犬上君いぬかみノきみ三田耜みたすき薬師恵日くすしえにちえらび出された。

 犬上君いぬかみノきみ三田耜みたすきは、小墾田天皇おはりだノてんのうの治世第二十二年に、からへ遣わされた経験があった。しかしこれは外交上の使節として行ったので、学問をしたわけでもなく、滞在も数ヶ月程度と短かった。薬師恵日くすしえにちはもっと長く行ったが、医術を習うのが目的であったので、学問一般にはさほど通じてはいない。

 二人は、宝王女たからノみこの望みが大きく、こたえられないことを恐れた。千字文せんじもん文選もんぜんくらいは教えられても、周易しゅうえき論語ろんごから大蔵経だいぞうきょうに及ぶようなことは手に余ろう。もしきさきの失望を買うことにでもなれば身が危うい。一つの代案をひねる。

天皇てんのうからへ遣わされて、まだ還らぬ者には、学問僧の新漢人日文いまきノあやひとにちもん南淵漢人請安みなぶちノあやひとしょうあん学生がくしょう高向漢人玄理たかむくノあやひとげんりなどがあります。海を渡り学ぶこと二十年はたとせに及び、さとること多きは疑いあるまじく思われます。今こそ召し還されて王子みこの師となされたく申し上げたてまつる」

 ついてはやっこどもをば、迎えとしてからへ遣わされたい、と建言をした。

 宝王女たからノみこは、この提案をよろこんだ。蝦夷たびじは、旅路たびじの安全を図る為に、高麗王こまおう百済王くだらおうの使いを招く手配りをする。天王てんのうは、

ゆるす」

 と言ったきり、物事がどんどん進められるのを、ただていた。


 秋八月、三田耜みたすき恵日えにち倭国やまとノくにち、難波津なにわノつから海へ出て、からを指した旅路たびじを、まずは西して、国々を経て、筑紫国つくしノくにへ向かう。筑紫国つくしノくにからは、北の海を越えて、対馬国つしまノくにを渡り、百済国くだらノくにに至る。対馬国つしまノくにまでは、倭国やまとノくにと同盟する国々である。そこからは、西へ海を横切るか、または岸伝いに高麗国こまノくにを経るかして、やがてからの土をむはずである。

 この時、からは二世皇帝の貞観じょうがん四年に当たり、北に蟠踞ばんきょした強敵の突厥トゥルクをうち破り、その威名を四海に轟かしていた。海外の国々からも、君長がみずか京都みやこ長安チャンアンいたる者さえ多く、その来貢らいこうは皇帝の徳を証明するものとして歓迎される。三田耜みたすきらも黄河をさかのぼり、陪都ばいと洛陽ラクヤンに入り、招かれて長安チャンアンへ、また西する。辺境の役所に受け付けられてから、長安チャンアンまでの旅費は、全てからの帝室持ちである。

 三田耜みたすきは、およそ十五年ぶりの歩みを踏みつつ、から天朝みかどが領有する版図はんとの大きさに、改めていたく驚きを感じる。行っても行っても、どこまでも平野が尽きない。海を離れること遠く、潮のは絶えてぐこと無く、土の匂いにだけおおわれている。われとわがくにの小ささを覚える。

 しかしこんなのはまだ序の口で、長安チャンアンを過ぎてもっと西へ進めば、吐蕃チベット天竺インド波斯ペルシャ大食タジクなどの大国があり、その全ての広さを合わせると、から版図はんとの何倍にもなるとか聞く。

 長安チャンアンには、この広大な天下の栄華が集まっている。市場に入ると、鮮やかな彩りに包まれた壺、獅子狩りを織り出した錦、生き写しかと思われる仏の像など、西の国々から運ばれた商品が、所狭しと並べられている。人はと観れば、瞳が青い者あり、鼻は高く眼は窪んだ者あり、肌は白い者もあれば黒い者もありと、あらゆる種族が行き交っている。

 ここをく人々からすれば、倭国やまとノくになどというのは、四方よもの海の東の片隅、日の本に近いという辺鄙へんぴな処の小島、取るに足らない存在に過ぎないのであろう。

 ここにる全てを持って帰りたくもなるが、そんなことはどうしても出来ない。いや、この中で特に優れたものだけ学び取れさえすれば、それで結構十分であろう。猥雑わいざつなものまで入れることはないのだ。仏教が、その媒介になってくれる。わが王子みこが大きくなりきみとまします頃には、もっと立派な国にしてたてまつりたいものだ。王子みこにもそれだけの学問が必要でもあろう。

 その為にたのみとする、日文にちもん請安しょうあんらには、長安チャンアンでは会えなかった。仏寺の関係を当たってみると、修行で南へ旅をしていると判った。その行方を捜さなくてはならない。必ず連れて帰るのが、今度の使命なのである。

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